宇宙への夢を乗せて飛びゆく・・・『星の綿毛』
砂漠が舞台というのと、メルヘン調の表紙に惹かれて、CRALAさんが紹介してらした『星の綿毛』を読みました。なるほど、メカメカしいものがあまり出てこないソフトタッチでレトロな物語。レイ・ブラッドベリや、光瀬龍『百億の夜と千億の昼』、そして作者が後書きに名前を出していましたが、ブライアン・オールディズの『地球の長い午後』が思い出されました。 前半はイメージ豊かな別世界と、故郷を出たい少年が描かれ、異世界ファンタジーみたいな感じ。でも、どこか懐かしいような親しみを覚えるのは、出てくる動植物の名まえが完全な造語ではなく、現実の名前をもとにつくられているからかしら。ムラ人が育てる「イナ」は稲だし、水をとるのは「ジャグチの木」、ほかにも「天樹」とか「翼魚」とか、こういう名付け方は、「風の谷のナウシカ」のようでもあります。 私はファンタジー専門なので、気持ちよく、砂漠とオアシスのような「流れ」との世界に浸っていました。すると、ムラの少年が「交易人」ツキカゲに連れられて「トシ」に行き、その都市がもう滅びていて、ただ砂漠の植物イシコログサの群体の内部にある仮想空間に存在した・・・というところが出てきて、「ああ、SFでしたね、この話」と思いました。 砂漠、文明の終末、異星への移住の希望・・・とくると、佐藤史生の「星の丘より」(『夢見る惑星』の前史)です。これは滅びゆく火星人たちが、一部の人々を地球へ移住させようとする話で、だから私は『星の綿毛』も、舞台はもしかして太古の火星なのかなと思いました。 ゴライアなる巨大な農業生産機械が、砂漠に動くグリーンベルトを創ってゆく壮大な美しい光景は、砂漠化した火星とその伝説の「運河」(筋模様)に思えたのです。 しかも、佐藤史生は「星の丘より」~『夢見る惑星』の連作の背景に、宇宙から来たであろう人類の「太陽系播種説」という言葉を使っているので、これがまた、タンポポの種子のように宇宙へ放たれていく「星の綿毛」のイメージととても近いのでした。 とにかく、物語は次第に「SF」になってきて、サイバー空間である植物内部の仮想都市と砂漠とを行き来したり、いろいろと幻影?が見えたり、私には訳がわかんなくなってきます。 やがて、砂漠化した惑星は地球であり、環境悪化のため宇宙への脱出が計画されたが挫折して・・・という舞台設定の種明かしがなされてゆきます。 最後の方でアフリカや喜望峰など実在の固有名詞が出てくると、『百億の夜・・・』みたいだな、と思いました。あの話も訳がわかんないけど、廃墟と化した未来都市が「トーキョー」だと分かるところで、何だか冷え冷えとした終末感と、彼方の異世界だと思っていたものがキュッと縮まって自分の足もとになったような、夢の中で現実をつきつけられたような違和感を味わいました。 『星の綿毛』も、ファンタジックな異世界の雰囲気と、砂漠化した地球というもはや仮定ではすまされない現実の危機感とが共存していて、私の中でうまく混ざり合ってくれず、その違和感こそがSFだなあ、と感じるのでした。 違和感といえば、登場人物がみな淡々とサックリ描かれているのに、彼らが「いつか一緒に宇宙へ旅立とう」という「約束」にだけはひどくこだわっているのが不思議です。「宇宙へ」という思いは、ブラッドベリの「初期の終わり」にあるように、生き物に共通する進化の指向性だと思うのですが、「一緒に」という「約束」は、濃くて熱い人間性の象徴みたいで、この登場人物たちにはそぐわない気がしたのです。環境や社会構造の変化(というより文明自体の一種の終焉)をずっと見てきているはずの彼らが、「約束」にそこまで固執するのはなぜなんでしょうね。 ともあれ、人類の宇宙への思いを乗せて、仮想都市=イシコログサは綿毛を飛ばします。それこそがたぶん、ちらっちらっと描かれる宇宙船なんでしょうね。こちらの作者インタビューから、ホンモノのイシコログサの画像が見られました! ところで。 人々が現実を捨て、仮想都市という一種の夢に移り住み、そこから宇宙へ飛び立つという設定を、実はむかし私もつくってみたことがあります。私にはSF的知識とセンスがなくて物語という形にはできませんでしたが、連作詩「火星海賊」がそれです。地上が一大クラッシュに襲われた時、一部の人々が「深層心界」に逃避して「夢の火星」へ移り住み、やがてそこもまたクラッシュに襲われると、さらに「夢の宇宙」へ船を駆って「夢の地球」へ帰還する・・・、みたいな、夢のまた夢をぐるぐる放浪する設定でした。 『星の綿毛』のラストを読んで、そんな自分の夢想を思い出しました。