革命は悲劇へ、そして物語へ――「レ・ミゼラブル」
前回、『レーエンデ物語 月と太陽』で、「古今東西の革命や反乱に共通する怒濤の盛りあがり、それが二転三転してころがるように悲劇になってゆく、そのエッセンス」などと書きましたが、その後、録画してあったミュージカル映画「レ・ミゼラブル」(2012年)を観ましたら、「そう、これだこれ!」と思いましたので、書き留めておきます。 私にとっては、原作は未読だし、映画では敵役ジャベールがロビン・フッド(ラッセル・クロウ)、前半のヒロイン・ファンティーヌが白の女王(アン・ハサウェイ)、後半の重要人物マリウスがニュート(エディ・レッドメイン)なもんで、なかなか物語に入り込めませんでした。 しかしクライマックスの「六月暴動」のバリケード戦になると俄然面白くなりました。ここでは青年革命家たちが夢や理想を描いて暴動を起こし、最初は市民たちも協力するのです。が、ジャベールの潜入と密告により政府軍に追い詰められたとき、市民たちは見て見ぬふりをして彼らを助けませんでした。革命歌で絶望を払いのけ、青年たちは最後まで抵抗して斃れてゆきます。 史実でもこの暴動は鎮圧されますが、その精神は数年後の二月革命、六月蜂起、そしてパリ・コミューンなど市民や労働者たちの闘争へと受け継がれていく感じです。 その、革命家たちの勢いが峠を越えると市民たちが背を向け、あっという間に悲劇へまっしぐらというところが、『レーエンデ物語 月と太陽』と共通しているのです。また、暴動鎮圧の後、市民たちは戻ってきた日常生活の中でひっそりと革命家たちを悼む、そこも同じだと感じました。市民たちは彼らに共感していたのですが、自分たちの生活を守るために彼らを見捨てた…それは仕方ないのです。そして生き延びた市民たちこそが、彼らの夢、活躍、そして悲劇を語り継ぐことになり、そこに希望が生じます。 歴史をひもとくと、たとえばイタリアのカルボナリの革命運動とか、江戸後期の大塩平八郎の乱とか、さきがけとなる運動は弾圧されても何度も息を吹き返し、ついには革命に至るということがよくあります。物語にすれば、未来に希望をつなぐ悲劇、となり、感動を呼ぶのでしょう。