ロシア民話のいわば総集編『せむしの小馬』
小学2年生の頃からの愛読書、エルショーフの『せむしの小馬』をご紹介。岩波文庫では現在、新訳『イワンとふしぎなこうま』となっていますが、中身の挿絵は旧版と同じです。この挿絵が、古めかしいけれど趣があって、私は大好きです。 そのころ友達もこの本を持っていて、いわく、「おもしろいけど、なんか損な本じゃない? 下半分は真っ白けだから」。当時の私はうまく反論できませんでしたが、そうです、このお話は韻文つまり叙事詩形式なので、一行一行は短くて、どのページも下半分は確かに真っ白。ページ数の割にお話が短いから買って読むには損だ、というわけです。 日本語の訳文もリズミカルで民話らしい語り口調になっているし、語り手の口上や解説もあり、枠物語というか、実際に語り部がお話を語るのを聞いているような臨場感があります。(以下ネタバレ) たとえば、第一章冒頭は「さあさあ、お話はじめよう」とあり、主人公イワンがせむしの小馬と出会って王様に仕えることになるまでをどんどん話し進めます。一章の終わりには、第二章以降のストーリーの概要を示し、まるで次回予告のようです; [前略] ねぼうして羽をなくしたこと、 うまく火の鳥をつかまえたこと、 [中略] 一口で言うならば、 イワンが王さまになった話。 ――エルショーフ『せむしの小馬』網野菊訳 それなのに第二章冒頭には「話だと早くすすむけれど/じっさいは、早くはすすまない。」と、人を食ったような口上があります。しかも、さあイワンの物語の続きだよ、と見せかけて、何ら関係のない「前おき」のお話(別のおとぎ話の最初の部分みたいな)が二つも挿入されています。 中世ロシアの叙事詩(ブイリーナ)の形式に、本筋とは無関係な導入部があるそうですが、おそらく『せむしの小馬』第二章(そして第三章にもある)冒頭の挿話は、ブイリーナの伝統を踏まえているのでしょう。 ちなみに、第二章二つ目の挿話に出てくる「ブヤーンの島」とはそうしたロシアの叙事詩や神話に出てくる伝説の島だそうです。 さて主人公は「イワンのばか」と作中でも呼ばれ、自分でも名乗っている通り、陽気でテンネンな末息子です。けれど、穀物泥棒の夜番をしに行く最初の場面を見ますと、二人の兄は熊手や斧を持っていく割に怖がったり怠けたりしているのに対し、イワンは毛皮の帽子をかぶり、パンをかじりながら夜番をして、見事に雌馬を捕まえます。ばかに見えてもイワンの方が実際的ですね。 イワンはこの後でも、よく寝るし食べるし、せむしの小馬の忠告は聞かないし、子供っぽくて憎めません。小馬もそう思うらしく、窮地に立たされたイワンに、 「なぜ、イワーヌシカ、元気ないの?/どうして、うなだれているのです?」 ――エルショーフ『せむしの小馬』と声をかければ、 イワンは小馬の首にしがみつき、/だいて、せっぷんして言った。 「おお、こまったことになっちゃった! [後略]」 ――エルショーフ『せむしの小馬』と決まり文句で泣きついて、一から十まで助けてもらいます。 けれどいつも困りごとをふっかける王様は、ひがみ屋の家来の中傷をすぐ信じるし、イワンに対しても罵詈雑言で命じたかと思えば、「勇士とよんだ上、「道中ぶじで!」と」言ったり、態度がころころ変わり、まるでわがまま放題の子供のようです。読者には、イワンの受け答えの方がまだまともに思えてきます。 イワンは王様の無理難題にこたえて、月の娘で太陽の妹という海の王女を、王様のもとへ連れて行きます。そして最後にはこのお姫様と結婚して王になるのですが、おとぎ話はふつう、主人公が王女に恋をしてそれで頑張る、そういう話が典型でしょう。なのにイワンはテンネンで子供ですから、 「このひとは、ちっともうつくしくない。 顔色わるいし、やせている。 [中略] ぼくはただでももらいたくない」 ――エルショーフ『せむしの小馬』 王女の母に向かってさえ、王女は「マッチ棒みたいなやせっぽち」、「およめにいくようになれば、ふとるかもしれませんね」などと、遠慮も何もありません。王女の方がイワンを選んで結婚し、王女の頼みで人民がイワンを王と認めるのです。最後までイワンの主体性のなさを貫くところ、作者のひねりがきいているのでしょうか。 そしてまた、物語の最後の語りが、昔から私が好きなところです。イワンと王女の婚礼に、語り手も招かれてお酒をいただいた、と言い、枠物語のしめくくりになっていますが、 だが、ひげつたってながれちゃって、 口には、ちっともはいらなかった。 ――エルショーフ『せむしの小馬』これでおしまいです。聴衆がさいごにどっと笑うのが聞こえるよう、落語みたいな終わり方です。