HANNAのファンタジー気分

2009/07/02(木)23:34

『ツバメ号とアマゾン号』――リアルな船乗り遊び

これぞ名作!(92)

 7月です。夏休みが近づいてくると、海!冒険!という気分になりますが、この季節に読みたい児童書としては外せないのが、アーサー・ランサムのシリーズなんでしょうね。時代を超えた不朽の名作!・・・でも、さっき調べたらネット書店では1冊め『ツバメ号とアマゾン号』は在庫無しのところがいくつもありました。  岩波書店って、名作でもなかなか重版してくれないんですよ。この夏読もうという読者は図書館に行くしかないのでしょうか?  ところで、私は手もとに『ツバメ号とアマゾン号』しか持っていないのです。子供の頃、何冊か図書室で読んだけれど、欲しいとまでは思わなくて、大人になってから読み直そうと1冊買ったのですが、やはり続けて買いそろえたいとは思わなかったんです。  同じように、人気の高い名作だけれど私の愛読書にはならなかったシリーズに、『大草原の小さな家』なんかがあります。  決してこれらの物語にケチをつけたいわけではなくて、単にリアリズムな物語は私の好みでないというだけなんですが。  そんな私にアーサー・ランサムの物語のすばらしさを語る資格はないので、今日は、なぜ好みでないかという私的な弁解を少し。  『ツバメ号とアマゾン号』は、4人兄弟が初めて子供だけでヨットを操って湖の無人島でキャンプをするお話です。そして、同じようにヨットを操る「海賊」姉妹と出会って「同盟」したり「戦争」したりします。  実際はレモネードやタフィなのが、彼らの高度なごっこ遊びのなかで「ジャマイカ・ラム」や「糖蜜」になります。時々様子を見に来るお母さんを始め、大人はみんな「土人」です。湖の地名は、彼らの世界では「リオ」とか「北極」とか「アマゾン川」と呼ばれます。  きわめつきは「アマゾン海賊」姉妹のおじで屋形船にいるジム・ターナーを「フリント船長」と呼んで宣戦布告することです。ムおじさんと子供たちの間にはいろいろ事件や誤解がありますが、最後には彼はツバメ号とアマゾン号の連合軍にやぶれて、ほんとうに板から海へ落とされたりします。  このように、子供たちは独自の世界で自分たちをほんものの船乗りに空想していますが、いわゆる“ファンタジー”と違うのは、彼らが現実に自力でヨットを操縦し、自炊生活をし、あるいはジムおじさんの船にほんとうに花火で穴をあけて本気で彼を怒らたりするところです。  これはおもちゃの船をたらいに浮かべて(あるいはおもちゃやたらいさえなしで、頭の中で空想して)海賊ごっこをしているのとは、全然ちがいます。彼らの世界はどこまでもリアルで、すべては本当に起こったことなのです。「宝」は(ジムおじさんの原稿のトランクですが)本当に盗まれ、本当に島に埋めて隠され、本当にティティによって発見されます。  そのリアリティが、たぶんこの物語の最大の魅力なのだと思います。  ただ、ファタンジー至上主義の私にとっては、こういうリアルな物語には「ふしぎ」や「神秘」の入り込む隙がないぶん、かえって自分のモノにしにくいのです。自分なりの想像や空想をさしはさむ余地があまりないし、現実とはひと味ちがった不思議さに感動する場面もありません。  もうひとつ、私には気になってしまうのが、「リオ」「アマゾン」「フリント船長」などの固有名詞です。以前、『黄金の羅針盤』(ライラの冒険シリーズ)を読んだ時にも感じたのですが、すでにある固有名詞には、その名を見聞きする読者に、固有のイメージを必ず持たせます。固有ではありますが、人によって微妙に違うさまざまなイメージです。だから、特定のイメージを読者が持っていることを前提にして物語中に有名な固有名詞をポンポン借用されると、時々作者の期待しているイメージと自分のイメージの間にズレがあるのを感じてしまうことがあるのです。  もちろん、子供たちにとっては、ジムおじさんが海賊みたいで、ほんとにフリント船長を思い起こさせるのでしょう。でも固有名詞としては独自の名まえ(たとえば、フリント船長に負けず劣らず伝説に名高い海賊ジム船長、とか)がついていた方が、私には、ジムおじさんの海賊くささをより自由にイメージすることができるのです。  まあ、そんなわけで、『ツバメ号とアマゾン号』はただ1冊だけ、私の本棚に鎮座しているのでした。

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