HANNAのファンタジー気分

2016/10/05(水)01:10

戯言シリーズの「いーちゃん」て実は作者だと思う

近ごろのファンタジー(82)

 この夏『零崎曲識の人間人間』につづき、娘が借りてきた「人間シリーズ」をおおかた読んで、とくに『零崎人識の人間関係(戯言遣いとの関係)』読後に思ったんですが、とかくナゾの多い主人公「いーたん(いーちゃんと言うより私はこちらが好き)=戯言遣い」は、物語世界での作者西尾維新さん本人ですね、きっと。本名も、NISIOISINに1~2文字加えたものじゃないかしら。ほら、一般人の俊希(としき)が殺人鬼になると人識(ひとしき)という名になったように・・・  って、「戯言シリーズ」本編未読で、西尾維新の他の作品群もまるで知らないのに、断言的な書き方をしてしまいました。でも、読んでいて直感的にそう感じましたから、そう感じさせる要素があるということですよね。  いや、ここまで書いて、まるでハズレだったら笑って終わりますけど。  ていうか、私が知らないだけで、いーたん=作者説なんてのは、この作家の愛読者の人たちには定説?の一つなのかもしれませんが。以下ネタバレ少々。  この物語はタイトルに「戯言遣いとの関係」とあるのに、ストーリー本筋には二人の関係がまったく出てきません。殺人鬼人識が起こした「京都連続殺人事件」のあらましが語られるだけです。いーたんは、警察の事情聴取でちらりと登場しますが、死人のように無反応・無感動で、その無のオーラが常識人の刑事をびっくりさせます。つまり、彼は常識外ってこと。  住んでいる骨董アパートも、一種空間がゆがんだエアポケット的場所に思えます。  このシリーズ世界は、前にも書いたように、すべてを仕組み操ろうとする立場の人物が居て、その代表が西東天(どうもこの姓は私に、俳人の西東三鬼を思い起こさせます)ですが、この人は因果の外にあって物語世界を壊そうとして壊せず、世界終焉のキーパーソンをいーたんである、としています。  人外魔境な登場人物が次々出てくる中で、いーたんは一見ごく地味な一般常識人(自分の興味が向かない世界への無反応も無感動も、世の若者の常とも言えるでしょう)なのに、なぜ物語世界構造のキーパーソンなのか・・・なぜ彼の存在や言動が周囲の調子を狂わせるのか・・・それはやっぱり実は彼が作者だからなんじゃない?  いーたんの本名がわざと明かされないのも、◎のついた服を着ているのも、作者の「実は私ですよ」というマーキングじゃないかと私は思ったりします。  ところで、この本に戻りますと、各章のとびら部分に、一見無関係に見える友人の日常的対話があります。何も書いていないけどどうやらこれは人識といーたんの会話。別のところで鏡像関係と言われているように、二人の対照的?な性格が出ているセリフが続きます。でも見方によっては、いーたんとの対話形式を借りた、人識のキャラ設定メモともいえそう。なぜって、他の本や本文で時々作者がキャラにツッコミを入れている、そのスタンスと、いーたんのセリフのスタンスが、私には同じに思えるのです。  ついでに、誰でも気づくことを念のため書いておきますと、作者の名前は維新さんで、いがつくからいーたんとも言える。いーたんは関西人で鹿鳴館大学に在籍(のちに中退)、作者はたぶん関西人で立命館大学在学中にデビュー(のちに中退)。  シリーズ本編では語り手の「ぼく」(一人称)だから、ふつうに考えて作家の分身。  この話では、殺人事件に接点がないのに、犯人から聞いた形で事件の動機解明のカギを哀川潤に話した。結果、彼女はウラワザ的に--まるで推理小説の作者に謎解きしてもらったみたいに--事件を解決することができた。  物語末尾にはタイトル「戯言遣いとの関係」の答えとして「無関係」と記されています。鏡像であり友人なのに「無関係」なのは、作者がこのシリーズでかなり中心的に描き込んでいるため作者自身の分身とも言える零崎人識の、鏡像は、つまり作者だから。  創造者と被創造者という近いのに触れあわない関係(無関係)。それを作中に持ち込んでできあがったのが、いーたんという特殊なキャラクターなのかな、などと。    

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