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HANNAのファンタジー気分

全14件 (14件中 1-10件目)

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ファンタジックなSF

December 20, 2017
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 前作「フォースの覚醒」の最後で、老けこんだルークが隠遁している絶海の孤島的な場所に、なにやら見たことがある気がしていたら…特にあの石積みの丸い家は…! 今回(「最後のジェダイ」)では、たっぷり見ることができました。そうです、アイルランドです。あの小屋は、ケルト色豊かな初期キリスト教修道士たちの修行した石の庵にそっくり。
 ロケ地はスケリッグ島だそうです。ここでクラナドの「SKELLIG」の歌詞を少し;

  It's a strange place/…/Where shipwrecks lie/
  …/Where the king of the world rested for a while/
  And a place for the pilgrim/A sanctuary of time/…

 ルークの宇宙艇が海に沈んでおり(shipwreck)、レイが導きを求めて訪れる(pilgrim)場所。そして(ネタバレ)ジェダイの聖地(sanctuary)、ここでルークは終焉を迎えます。
 もちろんCGなどでオリジナルな舞台に仕上げてあるのですが、かなりそのまんまアイルランドでした。アザラシ(乳は高栄養だとか)に似た大きな乳を出す生き物が居て、パフィン(ツノメドリ)のかわりにあの愛くるしいポーグ(今回、いちばんのお気に入り! しぐさがキュート! くちばしが無いのに鳥?)が居て、とても私好みでした。

 ところで、スターウォーズ世界の光と闇の描き方--たとえば、光が強ければ対抗して闇も強い、みたいな--その両方に翻弄される人間の心、などは、先日書いた中山星香のファンタジー世界も思い出され、興味深かったです。






Last updated  December 20, 2017 08:40:27 PM
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March 30, 2017
テーマ:本日の1冊(3224)
 「サイバーパンク」という言葉が、新しくて刺激的だった80年代--当時「仮想」されていた身の回りの新技術が当たり前になった今、その頃の作品を読み返すと、奇妙にデジャ・ヴュななつかしさがあります。
 難解でカッコイイ訳を苦労して読んだウイリアム・ギブソン『ニューロマンサー』には、ソニーや(今は亡き)サンヨーといった企業名が電子機器の代名詞として使われているほか、「高解像」(ハイ・レズ=現在のハイレゾ?)や、「小型遠隔機」(ドローン)も登場。
 音楽ではレゲエの世界--ダブとか、レゲエの根底にある宗教(?よく知らないのですが)予言者ガーヴィ、ザイオン、ジャー(神様)などが出てきて、今となってはノスタルジックな感じ。

 なぜなら、それらの最先端技術や景色や音楽は、現在ではごく当たり前になっていて、それなのに(それだから)、それらの持っていた反体制的なつまり「パンク」調の気配は、消え失せているからです。

 たとえば、幕開けの千葉シティの空は灰色で、それは

  空気はいつもより悪く、今夜は猛威をふるっているらしくて、通行人の半数は濾過マスクをつけている。  --ウイリアム・ギブソン『ニューロマンサー』黒丸尚訳

ほら、まるで最近のPM2.5に汚染された都市のようです。物語の中の千葉シティには近未来ディストピアの悪夢的色合いがあったのに、今や現実になってしまった汚染都市の空には幻想を抱く余地がありません。

 ちなみに、サイバーパンクを彩るテクノロジックだけど猥雑な街は、外国の人からみると東京なんかもそうらしいですが、日本人にとっては、香港とか上海、北京(佐藤史生『天界の城』に出てくる)も魅惑的。
 そういえば、日本語の広告板がいっぱいある近未来ロサンゼルスだった映画「ブレードランナー」(サイバーパンクの元祖的作品)は、時代設定が2019年でしたが、現実にあと2年後です。続編映画もできるということで、もしかするとこのジャンルは再びブームになるかもしれませんね。今度はどんな近未来(2049年らしいですが)の悪夢を描くのでしょう。

 初読のとき、近未来千葉シティのどぎつさや、スペースコロニー「フリーサイド」の作り物めいたシンプルさ、最終ステージ「ストレイライト」のパラノイアぶりよりも、いちばん印象的だったのは、寂しい海辺の夢の場面でした。
 難しいハードSFな部分を忘れてしまっても、波のつくる模様の残る砂浜、遠くに見える幻の街(なぜだか光瀬龍『百億の夜と千億の昼』の序章を思い出す)、少年が「ニューロマンサー」と名乗る波打ち際(これは飛浩隆『グラン・ヴァカンス』につながる)・・・これらのシーンはいつまでも覚えていました。

 私のファンタジーな趣味から、そうなったのでしょうが、ハードボイルド・ワンダーランドな現実を生きる主人公ケイスが、唯一「世界の終り」的な郷愁にひたって自分を見つめるのがこの場面ではないでしょうか。もちろん、海辺は架空世界の一角で、見える景色も、対話をかわす恋人(故人)リンダ・リーも、ホンモノではありません。
 その幻想性が、かえって心象世界を素直に映し出しているようで、それにしてもなぜ海辺なんだろう、人間が進化と生命の原点にたちかえる場所なのかなあ、などと思います。






Last updated  March 30, 2017 11:14:01 PM
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December 16, 2016
 娘に促されて公開数日前に予告編を見たら、ダース・ベイダーの勇姿がちらりとあったので、急いで席を予約、封切り1番に観に行ってみました「ローグ・ワン」。映画館はガラガラで、大丈夫か?と思いましたが、なんと大当たり。SWファンは必見ですよ!
 初日だったので?配っていたミニポスターも、よく見るといろいろ凝っていて、なかなか良かったです。画像は、ミニポスターとほぼ同じ柄のCDです。
 以下ネタバレ注意。

 これは、SWファンがSWファンのために作った、上質の公認二次創作ですね。ツボの押さえ方がすばらしい。アクション良し、スペクタクルな迫力良し、キャラクター良し、原作へのオマージュもあちこちにちりばめられていて退屈しません。
 とくに、せんだっての「フォースの覚醒」であんまりだったチビ・ベイダー(カイロ・レン。勝手にこんなあだ名をつけてしまった)に比べて、やはりダース・ベイダー(最近はヴェイダーと書いてあるかしら)の悪のオーラは格違いにすばらしく、うっとり。
 さらに、東洋の神秘というか、黒澤明へのリスペクトというか、盲目の僧兵チアルートさんの鬼気迫るストイックな格好良さはすごいインパクト。忘れられないキャラクターですね。

 それから。SWのただの二番煎じでない独自の良さがあったように思います。古き良きアメリカ・ハリウッド調の明るく分かりやすい勧善懲悪・ハッピーエンドではなく、「ローグ・ワン」はやさぐれ気味な登場人物たちが、命を賭して戦い抜き、達成感とともに散っていくという壮絶な全滅を描いています。玉砕を賛美する気はまったくありませんが、SW本編のハッピーエンドな勝利のウラには、こうした犠牲があるのだという重みを感じました。

 そして、きっと彼だけは生き残ると思っていたドロイド(ロボット)のK2くんが死んじゃったとき、うるっときてしまいました。






Last updated  December 29, 2016 12:42:45 AM
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May 2, 2014
 今日は文の里商店街入り口で開かれている、古本市へ行ってきました。五月初めの7日間、日替わりでテーマを決めて行われる「手摘みの七色市」(主催・居留守文庫)なんだそうです。

 今日のテーマはずばり「読む」。物語好きたる者、やはりこの日に行くべき・・・出かける都合がうまくついたのは偶然なんですが。
虚航船団 それで、目指す場所についたとたん、外に向けて出してあった展示スペースに、遠目からでもすぐわかる、むかし何度も見た赤い本が・・・筒井康隆『虚航船団』、ハードカバー。その血塗られたような赤いハコから取り出せば、布張りの表紙に雲形定規のしるしがあるはず。

 この本の出版された1984年、高校生だった私はそれまで真っ当に読んでいた世界の名作や夏目漱石などから、しだいに自分の好みに忠実な限定された読書世界に入りこみつつありました。
 その好みの世界に入れるべきかどうか無意識に迷っていたSFというジャンルでは、当時、“冷戦・核戦争後の環境破壊と文明の行方”を夢想するのが流行していたように思います。流行、というより一種の強迫観念みたいなものだったかもしれません。
 『風の谷のナウシカ』(映画)が話題になったこの年、新聞の書評欄で私の目を惹いたのは、新潮社から出た『方舟さくら丸』(安部公房)とこの『虚航船団』でした(私的な終末の物語の系譜はこのあと、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(村上春樹)、『アド・バード』(椎名誠)へと続いてゆきます)。

 図書館は家から遠かったし、本を買うお金も置く場所も少なく、いきなりハードカバーに手が出なかったあのころ、私は本屋さんでちょこちょこと立ち読みをしました。しかし、ハコから出す必要があるうえ、あの長さと複雑さ、到底そんなことで読み続けられるはずもなく。筒井康隆の軽い本は友人たちの間でも出回っていましたが、あの奇書を持っていて貸してくれる人もなく。
 おまけに、興味深かったイタチ族の長大な歴史が真(の世界史)に次第に迫りすぎていき何だかうすら寒く、夢見が悪くなりそうでした。赤いハコと、描かれたイタチのまなざしに、呪いがこもっていそうで。
 (ところで画像にあるオビの文句が、私にはいまだに解せません。とても「爆笑」する気にはなれない話だと思うのですが・・・)
 実は、もともとグロい描写が苦手なので、筒井康隆は好きではなかったのですよね。おまけに文庫で買った『方舟さくら丸』も便器の出てきたあたりでもう堪えられなくなってしまい(ユープケッチャ虫は好きだったのですが)、ちょっと自信をなくしました。

 結局、きちんと読めずに今日まで来ました。文庫も出ていますが、赤いハコとイタチの目と定規の刻印とがないと、それはそれで違う本のようで、買う気がそがれます。(インターネットには最近、女性キャラ化された萌えバージョンの虚航船団もあるようですがまさかそれで精読するわけにもいかないし。)

 そんな『虚航船団』が今日、歳月にグロさも色あせ、古文書のように風格が出て、目の前にあったのです。あの世紀末的恐怖も、若かったころの堆積物としてなつかしく感じられます。
 今が、読むべきときなんだな、と感じました。プレミア価格かも、と思っておそるおそるハコから引き出してみると、あの忘れがたい雲形定規のしるしが、まるでオカリナか勾玉のように優しげに見えます。背表紙の文字はかすれて、なまなましさが消え、熟成されたようです。

 中はとてもきれいでしたが、価格は安く、それに何と! 今日の特集テーマの対象であるために、値札の半額なのでした。こんな値段で、この長年の因縁の本を手に入れてしまっていいのかしら、と戸惑ってしまいました。
 やはり、今日はこのために来たように思います。

 ちなみに、古本市の会場内には、ほかにもなつかしい本や気になる本がいくつかありました。ピンクのキッチュな表紙は、夢の遊眠社「贋作・桜の森の満開の下」のパンフレットです。友人に連れられて、舞台を見に行きましたっけ。アイルランドの妖精に関する本は立ち読みすると、ブラム・ストーカーの「蛇峠」について書かれていて、かなり惹かれました。ドラキュラの作者はアイルランド人だったのですねえ。







Last updated  May 2, 2014 11:41:57 PM
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November 17, 2010
 天才物理学者ホーキング博士&娘のルーシー・ホーキングの共著、子供から大人まで楽しめる宇宙入門の児童書! というので、発売当時から気にはなっていたのですが、図書館で借りて読んでみました。

COSMOS 私は宇宙についての入門書というと、数十年前のカール・セーガンの名著『COSMOS』を信奉してきましたが、ホーキング父娘の『宇宙への秘密の鍵』はその進化形、現代版といえます。なにしろ科学は日進月歩で、私なんぞ知らなかった最新情報がぎっしり。ブラックホールってただ吸い込むだけの穴じゃなかったんだ~なんて、感動しました。
 とはいっても、やはり若かりしころ出会った『COSMOS』の感動と比べると、全体的にはイマイチ(私にとっては)かしら。

 科学や宇宙について知り始める少年ジョージと、科学者エリック、彼の娘で少々破天荒なアニーが中心となる「物語」の中に、時々、宇宙のあれこれをイラストや図でわかりやすく解説するコラムのページが出てきます。さらに、フルカラーの美しい天体写真もはさまっています。
 最近の子供(いや大人も)は長いストーリーを読み通す気力がなかなかないようですが、こういうふうに違う形式のモノが間にはさまっていると、飽きが来ないのかもしれません。
 いろんな角度から宇宙を知る、ということにもなるかも。

 ・・・でも、旧式な私としては、物語がコラムでぶち切られるのがちょっと不快。コラムは飛ばしておいて一気にストーリーをどこまで追いかけたいです。コラムはあとでゆっくり勉強することにして。
 もちろん、そういう読み方をしてもちっとも構わない本なのでしょうけれど、1冊の本としては何だかつぎはぎバラバラな感じがして、なぜここにこの情報が出てこなくちゃいけないのかとつい思ってしまいます。
 一言で言うと、小説なのに、何だか雑誌みたいなんです。

 しかし、こういう編集法は今や当たり前なのかもしれません。
 なぜって、子供の教科書を見ると、同じような気分を味わうのです。
 イマドキの小学校の教科書は、すごく盛りだくさんでカラフル。国語の教科書はさすがに一定の流れが分かりますが、算数、理科、社会、図工など、もうページいっぱいに写真やイラストや漫画や囲んだコラムがちりばめられていて、いったいどこからどう読んで(見て)いったらいいのか分かりません。いっぺんにいろんな情報がワッと目にとびこんできます。
 どこからでも好きなところから始められるし、いろんな子の興味をひくよう苦心された結果なんでしょうけど、あまりにもごちゃごちゃ。

 子供に買ってやった『ファーブル昆虫記』も、ページの上と下は、注釈やコラムの欄になっていて、本文と平行して関連情報が載っています。本文を楽しみつつ、そこには書いていない現代の学説とか日本ではこの虫はどうこうとか、いろんなコトも頭に入るようになっているのでしょう。
 が、何というか、本文をずーっとつなげて読んでいくには、気が散る情報ですよね。
 私が子供のころ愛読していたファーブル昆虫記は、写真ページが巻頭にあったほかは本文だけだったと思うんですが・・・

 昔の岩波文庫なんかでは、短い言葉の説明は本文中に割りこんで註釈があったけれど、長くてコラムみたいになった註釈は、巻末や章末にまとめてあって、本文の邪魔にならないようになっていました。
 もちろん、いちいちページを繰らないと註が読めないのは不便ではあります。

 まあどちらも一長一短なんでしょうけど。

 ところで、気になるストーリーですが、とてもオーソドックスで言いたいことをきちんと言っていましたね。安心して読めるけどびっくりはしません。科学は日進月歩でも、その根底にある人間の理性はそう変わらないんだなあと思いました。
 それに、主人公たちを瞬時にして宇宙に連れて行ってくれるスーパーコンピュータの名前は「コスモス」(COSMOS)だし、このコンピュータの手法が、主人公の目の前にドアを映写して、それを開けてまたぎ超えると遠く離れた宇宙空間に行けちゃうというもの。そう、まるっきり「どこでもドア」なんですよ!

 「ホーキング博士のスペースアドベンチャー」はすでに2巻『宇宙に秘められた謎』が出ていて、近々3巻も出るらしいです。2巻にはコラムと写真の他に、エッセイも挿入されているんですって。ますます盛りだくさんなわけね。機会があったらまた読んでみるつもりです。






Last updated  November 17, 2010 11:15:12 PM
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May 11, 2010
テーマ:本日の1冊(3224)

 1990年のSF大賞受賞作。ですが、私は当時、種村季弘(ファンタジーの原点みたいなのに詳しい学者さん)の書評を読んで感動し、感動しすぎて小説そのものを読むのを忘れて?いました。
 先日、本屋さんで文庫を発見し、やっと読みました。そして、まるで、整理をしていたら若い頃の思い出の品が出てきた時のような、なつかしい感動を味わったのです。

  二人の兄弟が誘拐された父をさがして未来都市に旅立つ。消費が自己目的化して、いわば消費が消費者を消費しつくした世界が行く手にひろがる。遺伝子工学から生まれた細菌や下等動植物が異常肥大して怪物化した驚異空間。・・・(中略)
  未来風景のなかの怪物たちは・・・だれでも知っていることばのコラージュから生まれてくる。一例が「アド・バード」。アドバータイジング(広告)とバード(鳥)を、それぞれハサミとノリで切りきざみくっつけた、いわゆるカバン語である。・・・
 ・・・人間の脳髄を埋めこまれたアド・バードは、美女の顔をして歌う迦陵頻伽(かりょうびんが)という極楽浄土の鳥に似ている。           ――種村季弘の書評「椎名誠アド・バード 消費社会の滅んだ後」、1990年4月の朝日新聞より

 最後に出てくる「かりょうびんが」は、ちょうどその頃はまっていた神坂智子の『風の輪 時の和 砂の環』に出てくる「妙音鳥(カラビンカ)」(仏教美術の飛天、つまり天を舞う天女のもとになった架空の鳥)そのものでした。さらに、聖書の「ヨハネの黙示録」に出てくる災いを叫んで飛び回る鷲とも、イメージが重なるような気がします。(「ヨハネの黙示録」については詳しく知りませんが、ルイスの「ナルニア国ものがたり」『さいごの戦い』の原点の一つです)

 また中ほどに出てくる「カバン語」というのは、ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』のハンプティ・ダンプティがやたら造語をするときに使っている言葉です。
 私としては、わざわざアドバータイジング、と言われなくても、アドバルーンと同じ発想だなと思う方が納得できます。そういえば最近はめっきり見かけなくなったけれど、子供の頃は大きなお店のてっぺんなんかにゆらりと上がっていて、思い出すと、昭和の高度成長期のほんのりしたなつかしさが感じられます。

 ともあれ、上記のような書評を読んで私は「シーナさん、このイメージの原点はオールディズの『地球の長い午後』じゃないか?」と思ったのですが、文庫版の解説を読んで、それが当たり!だったことが(20年も経ったあとで)分かって、何だか嬉しい気分です。

 さて、物語そのものは、「ヒゾムシ」「ワナナキ」「赤舌」「酸出し」などといった気味悪い生物が廃墟となった都市を食い荒らしていく近未来世界が舞台です。虫も植物も小動物や魚も、80年代に流行始めた「バイテク」によって奇妙キテレツなものに変えられてしまっているのに、彼らは彼らなりに環境に適応して“進化”の一人歩きをして、生存競争を日々戦っている。そこでは人間はもう主役ではなくなっています。
 そんな終末的世界は、宮崎駿『風の谷のナウシカ』にも似ていて、そういえばこれも80年代だなあとなつかしく思い返します。

 そのような舞台を旅していく主人公たちは、古典的な「父親さがし」つまりは自分のルーツを求め、アイデンティティを確立しようとする青年の探索(クエスト)を行っているのです。
 結局は父親はもうもとの父親の姿ではなく、知覚神経だけにされてボックス(機械)にはめこまれ、海を探査するレーダーのような仕事をさせられています。だから直接話しかけることも会うこともできない。それでも、父親は「海ばしり」という生き物を遠隔操作して助けてくれたり、探査のスクリーンになつかしい故郷の景色を映してくれたりします。
 ファンタジー的に言うと、お父さんの体は死んじゃったけれど魂はそこここに宿って、主人公たちを見守ってくれているということでしょう。

 魂とか霊というものを登場させないSFの手法だと、こんなふうに最後に心を機械に託すことがよくある気がします。
 たとえば松本零士の一連のシリーズで、トチローの体は病んで死にますが、精神や記憶はアルカディア号のコンピューターの一部となる。『銀河鉄道999』では肉体を機械にする機械人間は「悪い」とされているのに、精神を機械にすることは「良い」のかなあ、と考えさせられます。
 それからやはり80年代の『ノーライフ・キング』で、コンピュータ・ゲーム世界を生きる子供たちは、自分自身の成分分析表を「キカイブモン」だけで割り切ろうとし、「なりたいもの コンピュータ」などと自己表現するのでした。
 そういえば、電脳空間や近未来都市の退廃などを描くサイバーパンクという言葉が出来たのも、この頃でしたっけ。

 何だか話が別の作品にそれてばかりいますが、それというのも『アド・バード』にそれら色々なSFファンタジーの根源的要素がずっしりと詰まっているからなのでしょう。

 最後に、この物語には80年代よりもっと古くなつかしいものもたくさん出てきます。
 まず人名ですね。主人公がマサルというのはカタカナだし良いとしても、弟が「菊丸」、機械にされてしまったお父さんは「安東咲次郎」というのです。もう時代劇的に古い。
 それから、主人公が子供のころみんなで楽しみにして見たという、夕方、大空に映し出されるヒーローもののショー。これってTV以前、むかしの町角の紙芝居を思い起こさせるんですね。今の子供たちは屋内でそれぞれゲームに興じていて、開放的な空間でみんなで共通のヒーローを見る、みたいな雰囲気はもはやありません。
 きわめつけは、主人公と父親との心をつなぐ曲、お父さんが海辺で口笛を吹いた、「夕空晴れて秋風吹き・・・」の歌(「故郷の空」)です。これは私の年代よりもっと前の世代の小学校唱歌です。シーナさんはこの歌がお好きなのだと思いますが、どうしてもこのメロディーは、私にはドリフの「誰かさんと誰かさんが麦畑・・・」です。
 この曲を、長い物語のいわばテーマソングとしているあたり、昭和的なレトロ趣味が近未来的廃墟と奇妙にマッチング(いや、ミスマッチングというべきか)していて、何とも切ない味がします。

 いや、久々にはまれる大作を読んで、長々と書いてしまいました。 






Last updated  May 12, 2010 12:24:48 AM
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February 17, 2009
テーマ:本日の1冊(3224)
 先日『星の綿毛』の感想を書いた折りに思い出して、書棚の奥から引っ張り出してみました、『地球の長い午後』(原題Hothouse)。

 遠い未来の、自転が止まってしまった地球が舞台。その永遠の昼の世界では進化した植物たちが王者となっています。自在に動き回ったり獲物を狩ったりする多様で恐ろしい植物でいっぱいの「森」や「海」。生き残った「動物」は、わずかに数種類の昆虫と、人間のみ。
 奇怪な植物や昆虫の世界の鮮烈さは、まるで異世界ファンタジー。文明を失い、原始に戻ったかのような生活を営むちっぽけな人間たちには、不思議な懐かしさを覚えます。
 彼らは、老いた太陽が膨脹して地球を飲みこむまで、「地球の長い午後」を生きているのです。

 羽根を持つ「鳥人」や、人間や虫の脳に寄生する高知能キノコ、魚のような知恵者、その他常人の想像力を超えたキテレツな登場人物たちに目もくらむ思いがしながらも、この物語がファンタジーでなくてSFであるのは、その終わり方なんだろうなと私は感じます。
 ファンタジーの終わりはホッとため息をつく大団円。“行きて帰りし物語”は、おさまるところにおさまって自己完結。
 対して、SF(スペースオペラなどを除く)は、問題提起で終わることが多いような。だから読後感がホッとしない。特に、人類の未来を考えさせられるSFは、作者に突き放されるように感じたりします。その突き放され方が、一種の快感だったりもするけれど。

  すでに還る道もなく、あらたな百億の、千億の日月があしゅらおうの前にあるだけだった。  ――光瀬龍『百億の夜と千億の昼』

 そんな分類でゆくと、『地球の長い午後』も、めくるめく異世界の描写は結局、終末へと向かう地球の黙示録だったことがわかり、主人公は(人類の一人として)滅亡か、地球を捨てるかの選択を迫られます。ただ、彼は人間らしく、

  ・・・あと何十世紀かはだいじょうぶだって。
  ・・・行こう。・・・ここ〔=地球〕が家だ。危険は揺りかごさ。
                  ――ブライアン・W・オールディス『地球の長い午後』伊藤典夫訳

と、元通り巨大植物の森へ帰ってゆくので、ちょっとだけファンタジー的に救われる気がします。

 ただ、読者に対しては、太陽が熱くなり、自転の止まった地球で、生命が退化して溶け合わされていくという最期が、突きつけられたまま終わります。この物語が書かれたのは1962年ですが、温暖化が進み、種の多様性が失われていく現在の地球に生きている我々には、全くの絵空事とは思えないところもあります。
 そのあたりが、何とも不安でいたたまれない(それだけに印象的な)読後感を残すのでしょう。

 ところで、私がこの物語に出会ったのは80年代、ZELDAというロックグループの歌詞からです。私自身はZELDAの音楽を知らないのですが、当時の友人が魅力的なその歌詞を「詩」として教えてくれました。

  廃墟の街を徨う/うつろな心の天使/地球の長い午後は終わる
  愛をさがして徨う/明日をさがしてさすらう/地球の長い午後は終わる
  
                        ――菅原庸介「エスケイプ」

この文句が頭に残っていた時に、書店のハヤカワ文庫コーナー(当時はまだ少ないファンタジー小説をたくさん出していた文庫)で『地球の長い午後』が目に留まり、ピンと来て衝動買いしたことを、今でも覚えています。
 さらに、思い出したこと。椎名誠の『アド・バード』世界は、どうも『地球の長い午後』と、そこに出てくる選挙カーならぬ選挙宣伝用の鳥形ロボット(前時代の遺物)を思い起こさせます。
 いろんな人に影響を与えたSFの古典なんでしょうね。






Last updated  February 18, 2009 12:16:40 AM
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January 25, 2009

 砂漠が舞台というのと、メルヘン調の表紙に惹かれて、CRALAさんが紹介してらした『星の綿毛』を読みました。なるほど、メカメカしいものがあまり出てこないソフトタッチでレトロな物語。レイ・ブラッドベリや、光瀬龍『百億の夜と千億の昼』、そして作者が後書きに名前を出していましたが、ブライアン・オールディズの『地球の長い午後』が思い出されました。

 前半はイメージ豊かな別世界と、故郷を出たい少年が描かれ、異世界ファンタジーみたいな感じ。でも、どこか懐かしいような親しみを覚えるのは、出てくる動植物の名まえが完全な造語ではなく、現実の名前をもとにつくられているからかしら。ムラ人が育てる「イナ」は稲だし、水をとるのは「ジャグチの木」、ほかにも「天樹」とか「翼魚」とか、こういう名付け方は、「風の谷のナウシカ」のようでもあります。

 私はファンタジー専門なので、気持ちよく、砂漠とオアシスのような「流れ」との世界に浸っていました。すると、ムラの少年が「交易人」ツキカゲに連れられて「トシ」に行き、その都市がもう滅びていて、ただ砂漠の植物イシコログサの群体の内部にある仮想空間に存在した・・・というところが出てきて、「ああ、SFでしたね、この話」と思いました。

 砂漠、文明の終末、異星への移住の希望・・・とくると、佐藤史生の「星の丘より」『夢見る惑星』の前史)です。これは滅びゆく火星人たちが、一部の人々を地球へ移住させようとする話で、だから私は『星の綿毛』も、舞台はもしかして太古の火星なのかなと思いました。
 ゴライアなる巨大な農業生産機械が、砂漠に動くグリーンベルトを創ってゆく壮大な美しい光景は、砂漠化した火星とその伝説の「運河」(筋模様)に思えたのです。
 しかも、佐藤史生は「星の丘より」~『夢見る惑星』の連作の背景に、宇宙から来たであろう人類の「太陽系播種説」という言葉を使っているので、これがまた、タンポポの種子のように宇宙へ放たれていく「星の綿毛」のイメージととても近いのでした。

 とにかく、物語は次第に「SF」になってきて、サイバー空間である植物内部の仮想都市と砂漠とを行き来したり、いろいろと幻影?が見えたり、私には訳がわかんなくなってきます。
 やがて、砂漠化した惑星は地球であり、環境悪化のため宇宙への脱出が計画されたが挫折して・・・という舞台設定の種明かしがなされてゆきます。
 最後の方でアフリカや喜望峰など実在の固有名詞が出てくると、『百億の夜・・・』みたいだな、と思いました。あの話も訳がわかんないけど、廃墟と化した未来都市が「トーキョー」だと分かるところで、何だか冷え冷えとした終末感と、彼方の異世界だと思っていたものがキュッと縮まって自分の足もとになったような、夢の中で現実をつきつけられたような違和感を味わいました。
 『星の綿毛』も、ファンタジックな異世界の雰囲気と、砂漠化した地球というもはや仮定ではすまされない現実の危機感とが共存していて、私の中でうまく混ざり合ってくれず、その違和感こそがSFだなあ、と感じるのでした。

 違和感といえば、登場人物がみな淡々とサックリ描かれているのに、彼らが「いつか一緒に宇宙へ旅立とう」という「約束」にだけはひどくこだわっているのが不思議です。「宇宙へ」という思いは、ブラッドベリの「初期の終わり」にあるように、生き物に共通する進化の指向性だと思うのですが、「一緒に」という「約束」は、濃くて熱い人間性の象徴みたいで、この登場人物たちにはそぐわない気がしたのです。環境や社会構造の変化(というより文明自体の一種の終焉)をずっと見てきているはずの彼らが、「約束」にそこまで固執するのはなぜなんでしょうね。
 ともあれ、人類の宇宙への思いを乗せて、仮想都市=イシコログサは綿毛を飛ばします。それこそがたぶん、ちらっちらっと描かれる宇宙船なんでしょうね。こちらの作者インタビューから、ホンモノのイシコログサの画像が見られました!

 ところで。
 人々が現実を捨て、仮想都市という一種の夢に移り住み、そこから宇宙へ飛び立つという設定を、実はむかし私もつくってみたことがあります。私にはSF的知識とセンスがなくて物語という形にはできませんでしたが、連作詩「火星海賊」がそれです。地上が一大クラッシュに襲われた時、一部の人々が「深層心界」に逃避して「夢の火星」へ移り住み、やがてそこもまたクラッシュに襲われると、さらに「夢の宇宙」へ船を駆って「夢の地球」へ帰還する・・・、みたいな、夢のまた夢をぐるぐる放浪する設定でした。
 『星の綿毛』のラストを読んで、そんな自分の夢想を思い出しました。






Last updated  January 25, 2009 11:22:28 PM
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September 11, 2008
テーマ:本日の1冊(3224)

 なつかしいSFが再版されているのを見かけました(画像左)。私はこの物語をファンタジーっぽく読みましたが、1984年「日本SF大賞」受賞ですから、やっぱりSFなんでしょう。
 当時は20世紀末が近づいていて、大学で「シュールレアリズム(超現実主義)宣言」のレポートを書かされたり、クリムトの絵だとかに惹かれたりしていました。シュールレアリズムの時代とのタイムスリップの出てくる話、ということで読んでみたのがこの本『幻詩狩り』(画像右)です。

 SFはあまり読まないので、川又千秋の他の作品をまったく知らないんですが、第一印象は、内容の割にすごく読みやすい(軽い)話!でした。自分でも偏見だとは思うんですが、どうも日本のSFの中には時々、とても俗っぽいミステリー風な始まり方あって、物語全体の格を下げているような気がするんです。この物語もまず、取締官が「ブツ」の受け渡しをする男女を追ってラブホテルに踏み込む場面があって、いやそれはそれでいいんですけど、その書き方がホントに俗っぽい。
 ところが、麻薬以上に厳しく取り締まり、撲滅しようとしている「ブツ」とは、1948年に無名の天才美青年が書き、シュールレアリストたちをひそかにとりこにした「幻の詩」だというのです。そして、次の場面では、その当時の物語が展開します。ここでの主人公は「シュールレアリズム宣言」を書いたアンドレ・ブルトン。
 詩の作者も、それを読んだ人々も、魂がその場から失われ、「眼をかっと見開いたまま」死んでしまいます。詩の題は「時の黄金」、復刊された文庫版の表紙にあるL'OR DU TEMPS。詩人は、その前にも「異界」「鏡」という2つの詩を書き、言語で世界を創り上げる――描写するのではなく、文字通り創る――という魔術のようなことをやってのけます。そして3作目に言語で時間そのものを創り、創り上げたとたん、現在という「時」から吸い出されて四次元的時空に行ってしまったのです。

 私がまず惹かれたのは、1作目の「異界」。魚だの水晶体だの月夢だのというシュールな言葉の合間に「ドゥバド」という呪文が繰り返し織り込まれ、その「ドゥバド」が、「世界」を創るのに本来言葉では足りない部分を埋める接着剤として使われ、そうして完全なる「異界」ができあがった、というのです。
 すぐに、トールキンのファンタジー論における「準創造」を思い出しました。トールキンはまさに、言語で世界を創った人だからです。単なる造語ではなく、いくつもの言語の誕生、発達、分岐、などを体系的に創り上げ、一つ一つに歴史を持たせ、そうして重厚な時空を持つ別世界を丸ごと創り上げた人。その世界を“読む”時、読者は単なる物語を超えて、世界そのものが本当に目の前にたちあらわれてくるような錯覚にひたることができます。錯覚、と書きましたが、『幻詩狩り』の天才詩人の「異界」では、錯覚というより、幻視という感じです。

 そして、この本の三つめの場面で、3作目「時の黄金」が1984年に偶然再発見され、ある出版社に持ち込まれます。それを訳した人や読んだ人が次々と「眼をかっと見開いて」死んでゆく。肉体は死ぬけれど、それは魂が詩の作り出した「時」にとらわれて漂い出てしまうから。
 驚いた当局が、この詩と詩を読んだ人の「撲滅」に乗り出す、それが冒頭の俗っぽい場面だったのでした。

 で、「時の黄金」です。言語で時を創る、というのも、私にはやっぱりトールキン的だと思えます。彼は創った言語体系に歴史を与えていったからです。造語とそれにまつわるエピソードの練り直しは、『指輪物語』の出版後も果てしなく途方もない範囲で続けられ、そのまま彼は死を迎えました。けれど、「ニグルの木の葉」という彼の短編を読んだ人は知っていますが、トールキンはおそらく死後、彼岸ですべての完成品を得たのです。雑事に追われながら死ぬまで未完の木に葉っぱを一枚一枚描きつづけた画家ニグルが、天国?ですばらしい彼の“木”を得たように。
 ただ『幻詩狩り』では、完成品「時の黄金」が現世に存在してしまいました。作者は書き上げた原稿を握ったまま四次元の彼方へ行っちゃえば良かったのに、原稿を残して行ったのです。それが、悲劇のもとになりました。

 さて、物語の結末は、タイム・トラベルものの常道です。つまり、原稿を消し去ればいい。すべては、なかったことに・・・
 しかし、言語で時空を創り操るという魅惑的な発想は、原稿が抹消されても、残ります。いつかどこかで、誰かがまた、究極の言語法を発見して、世界を創るかもしれない。それは原子力や放射線のように、遺伝子複製のように、手の届きうる禁断の領域であるように、思えます。






Last updated  September 11, 2008 11:54:59 PM
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April 23, 2008

 先日、本屋さんに入ったら、CRALAさんお薦めの『やがてヒトに与えられた時が満ちて…』があったので、思わず買ってしまいました。
 春まっさかりの日々に、SFを読む気分ではなかったのですが、初めのエッセイ「一九七七年に旅立った二人への手紙」を読んであまりの懐かしさに、じーんと来てしまいました。

 1977年、ボイジャー1号と2号が打ち上げられ、続く数年の間、地球に送られてくる木星や土星の美しい映像に、星空大好き少女だった私はうっとりしたものです。理数系の頭脳がトホホだったにもかかわらず、カール・セーガンの『COSMOS』(この後書きに、ボイジャーに積まれた宇宙人への手紙の詳細が載っていました)を読み、雑誌「NEWTON」の付録についていたボイジャー撮影の、青く光る土星のポスターを部屋に貼っておりました。
 その後、小松左京の映画「さよならジュピター」の主題歌「ヴォイジャー」(松任谷由実)とか、つくば科学博とか、ガンダム・ブームとか、私はかなりどっぷりSFに浸かっていたように思います。

 私も若かったし、SFや科学技術にまだバラ色の未来像がいっぱいだった頃。
 この本の前半におさめられた「星空とメランコリア」と題された4つの短編は、そんななつかしい時代をよみがえらせてくれます。

 はるか時空を超えたところにいるであろう未知の相手に向かって、

 こんばんは。  ――「そっちにいるあなたとぼくは話したい」

と、語りかける、その素朴でひたむきで根元的な欲求が、文明の、人間の、いやすべての生き物のサガというか、原点なのだなあ、と感じるのは、地球が孤独で、人類が孤独で、人間ひとりひとりが孤独だからなのでしょう。認知しうる限り知的生命体が住む唯一の星である地球、その地上の生物の中で唯一の高度知性体である人類。そして、それぞれ別の体と意識を持ち、テレパシーなんかもあんまりない、ひとりひとりの人間。

 生態学者コンラート・ローレンツの『ソロモンの指環』に出てくるのですが、ローレンツが卵から育てたガンのひなどりは、いつもヴィヴィヴィ?と問いかけるように鳴いて母鳥(この場合ローレンツ)を求めるのだそうです。それを彼は『ニルスの不思議な旅』に出てきたように、

 わたしはここよ。あなたはどこ?

と解釈しました。

 ボイジャーに積まれた手紙も、それからもっと前の1960年に行われた“オズマ計画”も、卵から外界に出てきて心細く鳴いているひなどりと同じように、未知の宇宙人に向かって、

 わたしはここよ。あなたはどこ?

と呼びかけているのだと私は思いました。
(話がそれますが、オズマ計画という名の由来は、「オズの魔法使い」の続編に出てくるオズの国の王女オズマ姫の名前。地球から近いくじら座の星から宇宙人の特殊な電波が来ないかと探ったのだそうです)

 さらに思い出したのはカート・ヴォネガット・ジュニアのシニカルな作品『タイタンの妖女』で、ロボットが50万年もかかって届けた宇宙人からの大事なメッセージはただ一言、

 よろしく

でした。

 生き物という孤独な個体たちは、近くの仲間、遠くの仲間に「よろしく」のメッセージを投げかけ、また受けとりたいがために、一生懸命いろんな努力と情熱を燃やしてきたのでしょう・・・

 けれど。
 本の後半を占めるSF中編では、その努力や情熱をなくしてしまう時が来て、生命というものがカラに閉じこもり、静かに燃え尽きていくさまを、たんたんと語っています。
 作者が後書きで公言しているように、お話としては『2001年宇宙の旅』を意識していて、特に結末の方はちょっとそのまんまなんじゃない?という気もしました。でも、2001年をすでに過ぎてしまった今、作者の姿勢というか、ものの見方が、ひどくさめた終末ぽい感じで、星の彼方へ飛び立った主人公は、まるではてしなく拡散して無に向かっていく宇宙そのものみたいです。

 文明が進めば進むほど、人間の「意」が薄まり、さらに進化したコンピューターによって管理されるおとなしい「家畜」のようになってしまう傾向については、佐藤史生『ワン・ゼロ』をはじめ、じつはいろんなSFに出てくるテーマです。
 でも、だいたいは(私が読み得た数少ないSFの中で、ですが)そんな希薄な終わり方に対する抵抗、みたいなものが描かれて、希望が残されていると思うのです。しかし、『やがてヒトに与えられた時が満ちて…』には、そういう熱い情熱が最後まで欠如しているように思えます。
 主人公は星々の彼方へ行く最後の場面で「涅槃」とか新たな「覚醒」と言っているのですが、そこに生への熱い情熱は、感じられないのです。

  街にも 人間にも生命がある
  滅びの運命にさからえはしない  ――森川久美『ヴェネチア風琴』

という言葉を、また思い出してしまいました。

 ヒトという種の「滅びの運命」、抵抗するでもなく絶望するでもなく、さめた眼でそれを語る作者。彼こそ、時をとびこえて現在にふらりとやってきた未来人類なのかもしれません!






Last updated  April 24, 2008 01:06:48 AM
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