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HANNAのファンタジー気分

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ちょっとなつかしのファンタジー

July 3, 2019
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テーマ:本日の1冊(3224)
 三部作の最初の『タイタス・グローン』しか読んでいないのですが、それというのも文庫本ながら超分厚く、表紙もおどろおどろしいうえに、ファンタジー的感動要素があまりないと思われた(3冊読めばあるのかもしれないけど)からなのでした(画像は現在の表紙とは違います。が、現在の表紙も負けず劣らずです)

 舞台となるゴシック調のゴーメンガースト城とその周囲地域は、架空ですが異世界というほどではなく、中世ヨーロッパのどこかにありそうな感じ。城は何世代にもわたって増築されて石造りの迷宮のようになり、それだけで一つの閉じた世界をかたちづくっています。
 物質的に閉鎖世界であるだけでなく、住人たちの営みも、古来不変の伝統的ルーティンにがんじがらめにされています。
 城内では、個性のキツすぎる人々が、決まったエリアでそれぞれのキャラにふさわしい不変の日々を送っています。彼らには意味深な名前がついていて、城の当主はグローン(「うめく」)伯爵セパルクレイヴ(「墓の墓」)、料理長はスウェルター(「汗だく」)、書庫長はサワダスト(饐えた埃)などなど。そもそも城の名ゴーメンガーストも「大食で陰惨」で、ゴシックすぎて滑稽ささえ感じられます。

 巻頭の序文その他で、このような登場人物は、ディケンズ(19世紀)の小説に出てくる、特徴的な性格を強調した典型的なキャラクターと比されています。つまり今風に言うと、"キャラが立ってる"ということ。ほんとに、本の厚みのほとんどが、キャラの描写(描写のしかたまで個性的!)にあてられている感じがします。
 どこまで読んでも、人々は徹頭徹尾おのれのキャラ全開でーーセパルクレイヴは内省的で鬱屈し、スウェルターは醜悪な肥満体で弟子をいじめ、90歳のサワダストは古文書通り一分の狂いも許さず儀式を執行します。強烈な個性ゆえにほぼ全員が自己完結しており、他人が何を考えているかなど興味がない。対立することはあっても心の交流はほとんどありません。

 世継ぎの男子(タイタス)が誕生してさえ、キャラクターたちの日常は揺るぎません。母である奥方はすぐにも床上げして、ペットの無数の猫や鳥相手の生活に戻ってしまいます。老乳母はきりなく愚痴りながらタイタスの姉フューシャ(もう15歳)を甘やかして世話をやいていたのが、今度はタイタスの世話をやくことになるだけです。

 とはいえ、赤ん坊のタイタスのために、若い乳母が城外の村から連れてこられます。初めて出てきた外の世界の住人(しかも若い女)が、城の雰囲気を変えたりするのだろうか?と淡い期待をしても、…さっぱりです。
 城内のキャラとは対照的に、城の周囲の村人たちは一様に泥小屋に住み、誰も彼も同じようで、

  肉体が成熟しきると美しさが崩れ去って、わずかな時間生き生きと栄華を誇った花の如く萎びてしまうのだ。
     ーーマーヴィン・ピーク『タイタス・グローン』浅羽莢子訳

 という具合。新しい乳母のケダも若さの最後の一瞬を生きているだけで、数ヶ月タイタスに乳をやったあとは村に帰り、若い村の男2人と生命を燃やし、あっという間に燃えつきていきます。
 城の内も外も、もはや変化しないという意味で、老人ばかりが目立ちます。

 ・・・異世界のはずなのに、何だか、思い当たりますね。日々不変の狭い日常。閉塞し老いた社会。形式的で心のふれあいのない人々。我々の世界も案外似ているかも、なのです。

 ただ、奇妙な救いになっているのは、ゴーメンガスト世界を取り巻く山や空や気象などの荒々しい自然です。ぶきみな「ねじれの森」でさえ、鮮烈で息がつける気がします。

 主人公タイタスはこの巻ではまだ赤ん坊で、閉鎖社会を打ち破るのは続巻以降なのですが、この巻にも変化をもたらす登場人物がいないわけではありません。
 一人は、料理人見習いから下剋上していく若者スティアパイク(「矛を操る」)。彼は脱走し屋根にのぼり(開放感のある眺望の描写があります)、陰謀をたくらんで結果的に城主セパルクレイヴを狂死においやります。しかし、終始一貫そういうキャラであり、彼自身は不変といえるでしょう。

 私が注目したのは、唯一変化を遂げる登場人物、タイタスの姉フューシャです。見晴らしのある屋根裏部屋を子どもらしい秘密基地にして自己充足していた彼女は、最初、弟の誕生を嫌がって、

  …だめよ! 許さない! 許さない! そんなこと、あっちゃいけない、…
                         ーー『タイタス・グローン』

と泣きじゃくっていました。他の人々同様、不変を望んでいたのです。
 ところが、屋根裏部屋には窓からスティアパイクが乱入し、それから彼女の生活が変わり始めます。スティアパイクを自分なりに観察することから始まって、眺めるだけだった外へ実際に出かけ、森を探索します。次に火事と父の狂気に直面すると、それまで交流のなかった父への愛と気遣いに目ざめ、彼を救おうと心を痛めます。

 ところで、父グローン伯爵は唯一の生きがいである蔵書が焼けたのがきっかけでメンタルのバランスを失い、フクロウになってしまいます。体にせよ心にせよ本当に変身すればファンタジー(センス・オブ・ワンダー(驚異)をともなう)ですが、グローン伯爵セパルクレイヴの場合は、フクロウになってしまう自分を意識し続ける心の病のようです。
 細かく描かれる彼の心情を読んでいくと、何だかセパルクレイヴは最初からフクロウだったと思えてきます。つまり、読書によって正常な精神をつなぎとめていただけで、物語の最初から、廃墟のような城のあるじとしてのフクロウ性こそが彼の本質だったのでしょう。

 いずれにせよ、粛々と城のしきたりをこなしていた父が、フクロウのようなポーズで炉棚にあがりこんで大真面目にホーホー言うのを見て、フューシャはショックを受けます;

  …この長い数秒のうちに少女は多くの男女の理解を越えた年齢までいっぺんに年を取ってしまう。
               ーー『タイタス・グローン』

 気の毒なフューシャではありますが、このあと彼女は医者を呼び、乳母を気遣ったり弟タイタスの世話をするようになります。硬直化しとりつく島もないキャラクターたちの中で、生き生きとしているのは、彼女だけという気がします。

 こうして長大な第1巻は、2歳のタイタスが父の死後当主となり、冒頭に出てくる、城で最も孤立不変な最上階広間の管理人ロットコッド(「腐ったタラ」)でさえ「変化」を感じる、という記述で終わります。
 こんなにも個性派揃いのキャラを紹介することで、主人公登場前の「不変」さと、いよいよ始まった「変化」の重要性がきわだっています。






Last updated  July 8, 2019 12:23:25 AM
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March 6, 2019
 今年の謝肉祭(カーニバル)はきのうで終わって、今日は聖灰水曜日だそうです。以前このブログでもとりあげたホフマンの『ブランビラ王女』を再読しました。これは、ローマの謝肉祭を舞台にした幻想物語です。

 あとがきによると、作者ホフマンは実はローマどころかイタリアに行ったことなどなかったのに、イタリア喜劇の仮装が描かれた版画に着想を得て、この物語を書いたそうです。また、謝肉祭の様子はゲーテを参考にしたとのこと。
 なるほど、ホフマンもドイツの人ですから、明るい古代文明の地イタリアに憧れをいだいていたのですね。
 そして、ローマの謝肉祭最終日(マルディグラ)の夜に叫ばれるという、

  <蝋燭ヲ持ッテナイ奴ハ殺シチマエ!>  --E・T・A・ホフマン『ブランビラ王女』種村季弘訳

 も、ゲーテの引用だそうです。若いとき読んだ岩波文庫のゲーテ『イタリア紀行』(相良守峯訳)をさがしてみると、ありました、「蝋燭の燃えさし(モッコリ)を持っていないものは、殺されてしまえ!」と言いながらろうそくを消し合う大騒ぎをして楽しむと。

 そして、何だかこれに似たセリフに覚えがあると思ったら。
 そう、エンデ『鏡の中の鏡』の第7話に、

  「明かりをかかげている者どもを、殺せ!」  ーーミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡』丘沢静也訳

というのがありました。おお、エンデもドイツ人でしたっけ。こういうふうに発見がつながってくると、面白いですねえ、ブック・サーフィン。

 もっともエンデのは文の意味が逆になっていて、このあと本当に虐殺が起こるという血なまぐさい場面。羽目を外して楽しむ祭のかけ声とは正反対の裏返しですね。

 謝肉祭の無礼講は、聖/俗、男/女、貧/富、生/死など既存の価値観をひっくり返すカタルシスだそうですが、エンデはそれをさらに逆手に取っているというわけです。
 さらに連想すると、明かりをかかげるというのは、ユング心理学で言うところの、理性の象徴です。明かりをかかげて暗闇を照らし、真実を見極めるという行為は、たとえば「美女と野獣」などのおとぎ話で、男の正体を見極めようとする女性なんかに表されているそうです。

 すると、ろうそくを持つ者を殺せというエンデの恐ろしいセリフは、理性が圧殺され狂気が支配する感じがしますね。そしてどうしても、前世紀のあの大戦中のドイツ(そしてイタリアや日本などでも)の悪夢ーー全体主義によって個人の理性が圧殺された悲劇を思い起こさずにはいられません。

 お祭の狂騒とほんとうの狂気とは紙一重。そんな気のする、聖灰水曜日でした。
 木曜日からは、四旬節(レント)の断食です。中山星香の古~い短編「魔法使いたちの休日」を思い出しました。






Last updated  March 7, 2019 12:44:19 AM
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October 11, 2018
 ジョイ・チャント『赤い月と黒の山』は、異世界ファンタジーのある種の典型でして、①主人公が異世界に投げ込まれる、②そこでの大事件に重要な役割を果たし、③また現実世界に帰ってくる、というもの。
 有名どころでは、「ナルニア国ものがたり」『ライオンと魔女』(C・S・ルイス)や『はてしない物語』(ミヒャエル・エンデ)なんかがそうですね。
 読者の興味をそそるのは、①まず異世界の様相への驚きと好奇心。それから、②主人公が果たす、異邦人ならではの役割とは? さらに、③どのように現実に帰還するか。
 (お恥ずかしながら拙作『海鳴りの石』でもその辺を一生懸命追求しております。)

 『赤い月と黒の山』では、そのどれもが緻密ですばらしいのです。
 まず、異世界に転移した主人公の驚きととまどい、どのようになじんでいったかが、細やかに描かれます。ああ異世界に来たんだなあ、で終わったりしません! しかも、主人公が3きょうだいなので、それぞれが年齢と性格に応じた反応を見せますが、はっきり言って「ナルニア」の4きょうだいよりずっと深くて真に迫っています。
 異邦人ならではの役割についても、3人3様の役割があるのですが、最初から分かっていてそれ目指して進むのではなく、あとになって判明するように仕組まれています。
 それから現実への帰還も、予想どおりの帰り方をする弟妹と、予想外のなかなかたいへんな帰り方をする兄とが描かれ、迫力・魅力満点です。

 さきに挙げたルイスやエンデを初め、精巧に創り上げた異世界を披露する作家は多くいますが、ジョイ・チャントの異世界は精巧というよりリアルです。これは私がルイスよりエンデより、トールキンが好きである理由でもあるのですが、異世界の手触りがリアルなのです。

  道は突然、生きもののように見え、ただの固く踏み固められた土とずんぐりした草の帯ではなく、精神と意志を備えたもののように感じられた。自分を見限った人間どもの浮気さなどおかまいなしで、無視されようが気にもとめず、どこまでいっても終わりのない忍耐強い蛇のように、道標の脇を走り、昔ながらの終点へと続く。  --ジョイ・チャント『赤い月と黒の山』浅羽莢子訳

 これは主人公の一人ニコラスが古い街道あとに来た場面の一部です。ニコラスは兄や妹よりも客観的に異世界を観察し、考え深く味わいます。物語の本筋とは無関係な古い道の、このような描写を読むと、まるで作者が本当に異世界に旅して得た感慨をニコラスに語らせているかのようです。

 この本のまえがきによると、実際その通りなのです。作者は子供のころ自分が異世界の女王であると空想し、以来ずっと自分の世界を持ち続け探検しつづけてきたというのです。作者の成長につれ異世界は住民を増やし変貌し、歴史を持ち、豊かになっていき、大人になってその一端を、物語の形で他の人に紹介した・・・それがこの本というわけです。

 様々な異世界を次々と量産する作家も多いなかで、ほんとうに自分の心の拠り所である一つの世界にこだわりつづけたこの作者のやり方は、素人っぽいと言えるでしょう。しかし、その世界は濃密で細部までリアルで、空気の味や石ころの手触りまで、作者が愛でた通りに伝わってくるのです。
 トールキンも生涯、同じ「中つ国」の言語と歴史とを追求した人で、実在の世界の歴史や文化を研究するかのように、ああでもないこうでもないと、自分の創った異世界を探求しつづけました。

 だからこそ、年長の主人公オリヴァは最後に、異世界を忘れる飲み物を辞退して、現実に戻ってきます。

 「兄さん--あれ、みんな本当にあったの?」
  ・・・
 「そうとも」・・・「そうだとも、ペニー。全部本当に起きたんだよ」
                             --『赤い月と黒の山』

 このリアルが、すばらしいです。
 作者は続編、というか、自分の異世界の他の物語をさらにいくつか出版していますが、未訳のようで残念です。






Last updated  October 11, 2018 11:48:23 PM
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August 12, 2018
テーマ:本日の1冊(3224)
 タイトルの「五月の鷹」とはグワルヒメイ、つまりガウェインのことです。アーサー王の甥で、円卓の騎士の中でもかなりメジャーな人物。

 伝説ではアーサー王自身の探索(クエスト)が、この物語ではガウェインの探索として描かれていますが、よくある怪物や悪漢を退治するとか姫君の救出ではなく、「すべての女が最も望んでいることとはなにか?」という問いの答えを探すこと。なんとも地味なクエストです(結局は姫君の救出につながるのですが)。
 ガウェインの性格もこの物語では生真面目で控えめなため、それほど魅力的ではありません。

 けれど、私がこの物語で気に入っているところは、地味なガウェインが地味な探索で、ごく自然に何の呪文も仕掛けもなく、ふっと不思議な世界へ入りこむところなのです。
 たとえば、

  わだちがあるところを見ると、ふだん人々が使っている道なのだろうが、いったん、まだ淡い色の若葉の下に入ると、人間のたてる物音は一切きこえなかった。
     --アン・ローレンス『五月の鷹』斎藤倫子訳

と、普通の道をたどっているはずが、いつの間にか果樹園の廃墟になり、わだちには昨年の落ち葉が積もっている。静けさの中に花の香りが充満し、そよとの風もなく、ガウェインは現実感が薄れ、空腹も感じず、…やがてかそけき声に気づくと、それは魔術師マーリンが自分を呼ぶ声だった…

 現実世界とつながっている幻想世界。そこへ至るのに、特別な儀式は要らない。人里のすぐ隣にある大自然という異界。五月祭の前日には乙女たちが草地で輪になって踊ります。さすらうガウェインにとって、その音楽や歌は、まるで呪文のよう、すばやく消え去る姿はまるで幻のよう。

 こういう感覚は、一昔前の日本人には結構おなじみだったりして、たとえば『となりのトトロ』はタイトルのとおり、自宅の庭から行けてしまうところにトトロが住んでいます。異界との境界はあいまい、というより、異界は現実世界に自然に混じりあっている。

 急に話がとびますが、先ごろ『英国幻視の少年たち』の2巻目(ミッドサマー・イヴ)を読んでみたのですが、やっぱり私には英国っぽさも幻視っぽさもあまり感じられなかったです。妖精の輪が出てきたり、夏至に妖精界との通路が開いたりするのに、そこにとってつけたように--まるでゲームの画面にあらかじめ設定してあるアイコンのように--出てくるキノコの輪や坑道が、なんとなくわざとらしく感じられたりして。

 ロウソクに反時計回りに火をつける、とか、いろいろ手順を踏むこと自体は面白いのですが、呪文をとなえるとスイッチを切り替えたように異界が現れるのでは、どうも雰囲気が・・・、「幻想」性がなさすぎる気がするのです。
 トトロやネコバスが、一定の呪文や儀式で必ず現れたら、なんだかがっかりしませんか。

 イギリスや日本の異界は地続きであってほしい、という私の理想は、『五月の鷹』に出てくるような、実際に隣にある異界のかもしだすかそけき気配を描いた作品を多く読んだり観たりしてきたせいだと思うのです。

 もってまわった言い方になりましたが、つまりそういう異界を感じたい時に、おすすめの一冊『五月の鷹』なのでした。






Last updated  August 14, 2018 12:30:22 AM
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September 22, 2017

 ロンドンの紳士の集うクラブで、常連ジョーキンズ氏が語る“トラベラーズ・テイル(ほら話)”。ちょっと前に『ウイスキー&ジョーキンズ』という本が出ましたが(未読!そのうち買わねば)、これも同じシリーズ。ただし私が持っているのは30年以上前の早川FT文庫です。このころ、荒俣宏訳のダンセイニ作品が次々出版されたのでした。

 英国の伝統的文化“クラブ”の雰囲気を味わえるほか、文学的だけどあくまで軽い語り口や、20世紀前半の古風なSF、英国やアイルランドらしい幻想趣味、自然描写の精妙さ、などが、情報過多で多忙すぎる現代にはレトロで心地よい感じ。
 大好きな「ドリトル先生」シリーズの“ネズミ・クラブ”についてでも書いたことがありますが、この種の読み物はクラブという一つの枠の中にさまざまなジャンルの物語が詰まっていて、そのバラエティを味わったり、気分によって好きな物語をチョイスして再読したり、そんな楽しみ方ができます。
 でもダンセイニですから、すべてに幻想四次元的な奥深さが漂っているのも嬉しい!

 以下、いくつかご紹介と感想。
 ジョーキンズが人魚に恋をした思い出、「ジョーキンズの奥方」。ホテルで見せ物にされていた人魚は、神秘的な海の瞳をしているけれど、ホテルの噂話が好き。かみ合わない二人がおもしろい。人魚姫の野性の美に恋をしたジョーキンズは野性のゆえに失恋する。

 「妖精の黄金」は、アイルランドの有名な妖精レプラホーンの民話どおり。予想できる結末だけど、ちょっとだけSFのタイムトラベル的な味付けが最後に。

 ツングース大爆発にまつわるほら話「大きなダイヤモンド」。トラベラーズ・テイルの真骨頂!

 「最後の野牛」は期待しているとジョーキンズに煙に巻かれ、「クラヴリッツ」は「時と神々」調の小話で、ジョーキンズ氏はしばし不在。と思ったら「ラメセスの姫君」で古代エジプトの恋物語を紹介してくれる。ところでこの話、井辻朱美の「ファラオの娘」とイメージが重なってしまいました(ストーリーは全然違いますが、クレオパトラを始めエジプト美女というのは独特のイメージがありますね)。

 「ジャートン病」もちょっとごまかされた感じがするけれど、次の「電気王」は読み応え十分、語りはくどいけれど大変おもしろかった。この話の主人公がジョーキング氏(ミスター冗談)ではなくメイキング氏(ミスター発明家、実業家)という名前なのが、まんまで人を食っている。エジソンなんかがモデルかしら。
 メイキング氏は自分のあふれるアイデアやその実用化の思考に終われまくってノイローゼになり、救済を求めてインドへ行く。インドの魅力たっぷり。特に、最後に救済を得るヒマラヤのラマ教寺院は、ペガーナの世界をどこか彷彿とさせる。この話や、神坂智子のシルクロードなコミックス、さらにいつぞや読んだ藤枝静男『田紳有楽』なんかによると、やはりラダックとかあの辺は悟りを開くには最適な所みたいですね。そして、オチが最高!

 「われらが遠いいとこたち」「ビリヤード・クラブの戦略討議」はちょっとひねくれたSFです。前者はいかにもどこかで読んだような展開(語り尽くされた感あり)ですがレトロな宇宙旅行を楽しめます。後者は、ちょっと笑えないオチですね、核兵器の存在が当たり前になってしまっている現代、しかもわが国では…






Last updated  September 23, 2017 09:46:23 PM
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January 13, 2017
テーマ:本日の1冊(3224)
 お正月も過ぎましたが、酉年ということでニワトリの出てくるお話を紹介。
 今はなきサンリオ文庫の『ダン・カウの書』(ウォルター・ワンジェリンJr.)です。
 主人公がションティクリア(=高らかに歌う、つまりコケコッコー)という名の雄鶏で、彼と配下の動物たちが、悪の化身と戦う勧善懲悪なストーリーが、もったいぶったコミカルな調子で進んでいきます。

 中世ヨーロッパ文学に狐のルナール(ライネッケ狐)の物語群がありますが、ちくま文庫の「狐物語」を見ると、荘重な叙事詩をまねてユーモラスに語られており、そこに雄鶏シャントクレールやその妻パントが、動物たちの一員として出てきます。
 どうも『ダン・カウの書』の主人公ションティクリアと妻パーティロット(または他の雌鶏たち、登場する田園の小動物たち)は、この中世パロディ叙事詩を念頭に描き出されたのではないかと思うのです。

 ちなみに「ダン・カウの書」というのもアイルランドの古い神話伝説を集めた書物の名でして、私はむかしこの本と勘違いして雄鶏の物語を買ってしまったのでした。中味がアイルランドとは全然ちがう動物寓話で最初がっかりしましたが、読んでみるとそれなりに面白いものでした。
 それなりに、というのは、寓話とは作者が伝えたいことを細部まで意図して物語に仕立てたもので、イソップ寓話とか、ジョージ・オーウェルの『動物農場』のように、表面の物語よりも、それにくるまれた教訓などの方が存在を主張しがちなのです。作者の意図抜きには読めないお話、とでもいいましょうか。
 けれど私は物語自体が主体的に展開していくファンタジー(分類の基準に曖昧なところはありますが)が好みなのです。作者が何より物語を好きで語っていくうちに、おのずと主張がにじみ出たり、普遍的な何かが現れ出てきたりする、そういうのが好きです。

 この本の作者はルーテル教会の牧師さんだそうで、上から目線で物語る語り口といい、宗教性が強く感じられるストーリーといい、やはり「キリスト教の寓話」なのだと思います。が、私としては物語そのものを楽しく味わうことにしています。

 で、半ば滑稽でドン・キホーテ的に描かれる領主ションティクリア氏ですが、オンドリというのはその姿や仕草から、どうもこんなふうに自意識過剰な権威のカタマリに描かれることが多いようです。でも、笑い者にしてばかりでは済みません。彼には悪の番人、そして目覚めた悪との戦いの司令官としての神に与えられた使命があるのです。

 物語の後半は悪との決死の戦いが生々しく繰り広げられ、ションティクリアや動物たちの心の中の葛藤なども織り込まれて、目が離せません。ひねくれ者のイタチ、自己憐憫のカタマリの犬など個性豊かなキャラクターたちのそれぞれの心情の変化も、真に迫っています。
 そして、滑稽に思えたションティクリアの時を告げる鳴き声(彼の「聖務日課」だそうです)が、皆の心を結びつけ、秩序を保ち、悪をおしかえします。
 ちょうど先日、NHKの動物番組「ダーウィンが来た」お正月特集で、「原始時代、野生のニワトリは、闇の終わりと朝の到来を告げる鳴き声ゆえに、人間に価値を見いだされ家畜化された」と解説していましたが、まさにその通り。コケコッコーは闇をはらい光をもたらす呪術的な声なのです。

 舟崎克彦『ぽっぺん先生と泥の王子』でぽっぺん先生こと鳥飼の埴輪が抱えていたニワトリは、ときをつくって闇の世界に夜明けをもたらし埴輪たちを目覚めさせます。また、ホープ・マーリーズ『霧のラッド』(主人公はチャンティクリア判事/市長)にも、

     Before the cry of Chanticleer, (チャンティクリアの叫びの前に)
     Gibbers away Endymion Leer (エンディミオン・リアはぶつくさ逃げる)

などとあり、訳者は「妖精はオンドリの鳴き声を聞くと逃げ出す」という伝説を紹介しています。

 夜明けを告げ、闇や悪や迷妄をはらうコケコッコー。ニワトリって実はファンタジックな生き物だったのです!






Last updated  January 14, 2017 11:18:06 PM
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August 14, 2015
 この夏は、各地で猛暑日も多いですが、豪雨もほんとうに多いですね。
 災害が心配なほどめちゃくちゃに降る夕立を見ていると、ほんとに天の神さまか誰かが癇癪を起こしたかと思ってしまいます。

 ということで、O.R.メリングのアイルランド・ファンタジーの中で、まだこのブログにとりあげていなかった『光をはこぶ娘』を思い出したのですが、お話の中に、妖精王のひとりルーフが妃の失踪を嘆くあまり、荒れ狂って天を裂き嵐を起こすというくだりがあるのです。

 メリングの描く妖精はシチュエーションによって体の大きさが変わり、ルーフも人間並みの大きさのときもありますが、主人公の少女ダーナが初めて見たときは、山中の湿原に横たわる巨人でした。

  手足を広げ、背に大石をのせて横たわる王の姿が見えたと思ったつぎの瞬間には、石のケルンのそばに浸食された泥炭の堆積が広がっているようにしか見えなくなる。  --O.R.メリング『光をはこぶ娘』井辻朱美訳

 王の民である小さな妖精たちは何とか王をなだめて眠らせようと子守歌を歌い、大きな石で押さえつけて動かないようにしていました。しかし怪力の王は悲しみに狂って暴れつづけ、それに呼応して嵐はひどくなり、とうとう湿原は「爆発」し、泥流が洪水のようにあたりを破壊します。
 荒ぶる自然神をなだめるのに、よくある生け贄とかでなく、子守歌を歌うというのが印象に残ります。

 日本やほかの多神教の神話伝説に似たような例があったかしら、とずいぶん頭をひねりましたが、ありそうで実は無いのか、単に私が知らないだけなのか、どうも思い当たりません。
 悪さをする神を、他の神がこらしめたり追放したりする例(日本のスサノオとか)はあるのですが。役小角の使い魔にされた一言主とか、弱くなってしまった神さまとも、ちょっと違うし。

 一方また、メリングのこのシリーズの別の巻『夏の王』では、タイトルにもなっている荒ぶる妖精王は、鳥族の女王である牝ワシを殺すなどの乱暴をしたため、他の妖精たちによって捕らえられ、岩山の中に幽閉されています。

  「・・・じつを言えば、<王>の眷属のなかにも、その捕縛に手を貸したものがあるとやら。(中略)彼を二、三世紀幽閉しとくべきだっていう意見が、大勢を占めていた。」
                             --O.R.メリング『夏の王』井辻朱美訳

 こんどはなだめられるのではなく、力づくで閉じこめられている神性を持つ王。それもやはり臣下の手で。
 こういう存在って、もしかしてアイルランドやケルト特有なのでしょうか。

 それにしても、メリングは妖精王の狂気もそれを救う力も、すべての原動力を「愛」であるというところに持っていくのですが、各所にちりばめられた聖書の引用とあいまって、ああキリスト教文化だなあ、とニッポン人読者である私は感じるのでした。

 (豪雨から、ずいぶん話がズレてしまいました)

 






Last updated  August 15, 2015 12:29:11 AM
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March 5, 2015
 「闇の戦い」シリーズのスーザン・クーパーの最も初期の作品の一つ、『コーンウォールの聖杯』は、今では「闇の戦い」シリーズの第1作とされていますが、雰囲気は『闇の戦い』以降の4作とだいぶ違います。

 4作の主人公、11歳にして「古老」に選ばれたウィルがまだ登場せず、シリーズを貫く善悪の歴史的戦いもまだ表に現れてきません。物語のメインは3人兄弟の夏休みのお宝探しで、「悪」はお宝を狙う悪者にすぎないため、いろいろ背景に疑問は残りますが、とりあえず子供たちの冒険を楽しむことができます。
 泊まった別荘の屋根裏探検、古地図と古文書の発見。なぞめいた立石、月光が示すお宝の隠し場所。村のお祭。子供たちだけで海辺の洞窟探検。ついにお宝「コーンウォールの聖杯」発見。

 並行して悪者がせまってきます。悪者の正体も、味方となるメリー大伯父さんの持つ不思議な雰囲気も、子供たちにはなぞめいたまま。読者としては少し気になりますが、神秘的な雰囲気を残しておくのも、活劇的な宝探しの奥行きとしては、成功していると思います。

 というのも、子供の目線から語られているので、背景が重すぎるとどうしても全体がむずかしくなってしまいます。あとの4作がまさにそんな感じで、子供でありながら歴史的戦いの善の側の重要人物「古老」となったウィルは、重い使命に、ともすれば子供らしさを失いがち。

 歴史ファンタジーとしての世界の構築は、4作のほうがしっかり説明されていて、完成度は高い。しかし、それゆえのハードさが全編を覆っていて、読む方にもかなり「覚悟」が要ると思います。

 それはちょうど、子供向けのお話として書かれた『ホビットの冒険』が、背景の善悪の争いを追求した結果、重厚でときには悲壮感すらただよう続編『指輪物語』三部作へと続いていったのと、同じような経緯ではないでしょうか。

 ともあれ、1作目の『コーンウォールの聖杯』は、重厚長大な「闇の戦い」以降4作の前座として、より親しみやすく楽しめる作品だと思います。
 全体に、さほどファンタジーじみてはいなくて、日常の範囲内でのマジカルな体験がいくつかあるばかりです。が、その中でも、イギリス人にはきっと魔法のようなオーラを放つ「アーサー王」が、子供たち、とくに年少のバーニーに与える影響力が、わたし的にはすばらしいと思いました。

 






Last updated  March 6, 2015 12:52:14 AM
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February 23, 2015
 『みどりの妖婆』は、冬至からクリスマス(一年の変わりめ)にかけての雪の恐怖や魔法の対決を描いた『光の六つのしるし』の続編で、「闇の戦い」シリーズの第2巻。こんどは、海辺に舞台を移し、復活祭(冬から春への変わりめ)に起こる百鬼夜行が出てきます。

 ヨーロッパに「緑の男Greenman」と呼ばれる精霊のモチーフがあり、ウェールズではこの精霊が冬の精霊に勝利して春を招くというグリーンマン・フェスティバルが開催されるそうです。日本でも節分で鬼を追い払ったりするのと、似ていますね。
 この物語では男manではなく、緑の魔女(原題Greenwitch)の像なのですが、復活祭のころ、セイヨウサンザシ、ナナカマド、ハシバミなど魔法と関係の深い植物でつくられ、村の女性たちが願掛けをした後、海へ投げこまれ(奉納され)ます。捧げものを受け取るのは太古の海の女神ティーシス(ギリシャ神話のテテュス)。

 いろいろな神話や物語で、海あるいは水は、一般の魔術が効かない領域、それらより古い原初的・野性的な力を持つ領域とされるようですが、このお話でも海の力は「荒魔術」と呼ばれます。有史以前、善悪という観念もまだないころの人類が大自然に感じていた畏怖そのもの。それは主人公の現代の子供たちにも、根源的な恐怖となって伝わってきます。

  その憑かれた一夜のもろもろの幻影や物の怪や亡霊が、小さな海村が経てきたもろもろの世紀から抜け出して来たトリウィシックの過去の民が、時間の中の暗黒の一点に集中したのだった。   --スーザン・クーパー『みどりの妖婆』浅羽莢子訳

 もともと「闇の戦い」シリーズは、アーサー王周辺を中心に歴史の中の善悪の戦いを軸に展開していくのですが、その中にこのような、「世の始まりより前からのもっと古い魔法」(C・S・ルイス「ナルニア」シリーズの言葉)が出てくるのは、興味深いです。

 ストーリー的には、子供たちの視点からの善悪の対立や謎解きなども魅力的ですが、作者の描く本能的・根源的な恐怖感は、1作めにもおとらず真に迫ってすごいです。
 ついでに、新装版でない古い方の表紙絵も、なかなかすごい迫力です。
 


 






Last updated  February 25, 2015 12:22:53 AM
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January 12, 2015
 このところずっと、手持ちの古いファンタジーを読み返しています。
 すでにこのブログで取り上げたことのある本もありますが、それでもまた読み返すと忘れていたあれこれ、新たに気づくあれこれがあって、おもしろいものです。

 まずロイド・アリグザンダー「プリデイン物語」シリーズ。アメリカ人作ですが、ウェールズ伝説ほか古いファンタジーの要素がいっぱいつまっています
 「忘れていたあれこれ」の一つは、以前ジョージ・マクドナルド「巨人の心臓」について書いた時、巨人が自分の心臓を取り出して鳥の巣に隠しておくというモチーフ。「どこかで聞いたような話」と表現したのですが、見つかりました。プリデイン物語第4巻『旅人タラン』に出てくる悪い魔法使いモルダのエピソードです。
 モルダは自分の命そのものを、安全なように、小指の骨に宿らせて、木のうろに隠しました。主人公タランは、仲間のいたずらカラスやけだものガーギとともに、偶然その骨を見つけます。そして後に、それを使って悪い魔法使いをほろぼすことができました。

 大切な指の骨。このモチーフからは、また別に、タニス・リー「冬物語」に出てくる聖遺物である巫女の人差し指の骨のことも思い起こされます。
 それはそれとして、命をよそに隠す原型がもしかしたらあるかしらと、ウェールズ伝説『マビノギオン』を読み返してみましたが、残念ながら見つかりませんでした。

 その代わりに、プリデイン物語にもよく出てくる「マソイヌイの息子マース王」という名を、スーザン・クーパー「闇の戦い」シリーズ第1巻『光の六つのしるし』で見かけたぞ!と、不意に思い出しました。ちょうど今冬は寒くて雪がたくさん降ったりするので、冬至からクリスマスの十二夜にかけて大雪が降るこの物語のことが気になっていたのです。
 そこで、この本も読み返して改めてその重厚さを味わいました。
 そうしたら、クリスマス翌日にミソサザイを集める場面が出てきたではありませんか。以前はすっかり読み飛ばしていましたが、今回は、一昨年入手した『マン島の妖精物語』鳥の王様ミソサザイを狩る風習が紹介されていたのを思い出しました。『光の六つのしるし』では、ひつぎに載せられたこの鳥たちが、不思議な力を持つ仙女に変身したように描かれ、印象的でした。

 ところで、いまこれを書くために検索していて、この物語が映画化されていたのを発見しました。2008年「ザ・シーカー」というタイトルで、DVDも発売されています。レビューを少し読むと、イギリスの田園など舞台背景は美しいが、どうも原作とかなり違うしあまり評価がよくないようです。私は、映画化されるとき原作がどのように変えられるかには、興味があるのですが、うーん、ここまで酷評されると、観るのをためらいます。
 一定の評価のある原作を映像化するのって、むずかしいのですね。

 などと、興味があちこちへ飛びながらも、そういうブックサーフィンが楽しいHANNAでした。







Last updated  January 13, 2015 12:12:19 AM
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