970419 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

HANNAのファンタジー気分

全90件 (90件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 ... 9 >

これぞ名作!

April 15, 2018
XML
カテゴリ:これぞ名作!

 このブログでもご紹介したファンタジー『最後のユニコーン』の研究をなさっている、黒田誠さん(和洋女子大准教授)から、先日(といっても2ヶ月ほど前)、コメントをいただきました(!)。
 黒田先生によりますと、『最後のユニコーン』は今年、出版から50周年きらきら
 これを記念して、アニメ『The Last Unicorn』関連の展示会や講演会が行われたそうです(残念ながら関西の私は行けなかったのですが…)。
 さらに、ビーグル、トップクラフト研究推進委員会」が設立され、今後もシンポジウムの開催などが計画されているそうです。

 (トップクラフトというのはジブリの前身とされるアニメ制作会社で、『最後のユニコーン』のほかにも、バクシ監督のアニメ『指輪物語』の続き(私は観ていませんが)を作ったりしています。)

 講演会の資料をいただいて読んでみますと、『最後のユニコーン』に出てくる悪役「赤い牡牛」(レッド・ブル)に関する考察や、アニメ版にのみ登場するカラスの意味するもの、など、興味深い話題がいっぱいです。

 それで、久しぶりに原作を読み返してみました。

 主人公ユニコーンに対する敵役「赤い牡牛」は、何度読んでもすごく強烈な印象で、そのくせ最初から最後までつかみどころのないキャラクターです。
 これは黒田先生のブログへコメントさせていただいた中にも書いたのですが、ユニコーンが存在感があり、登場当初から細かに描写されて、シュメンドリックたちや読者の愛・憧れを受けていくのと対照的に、 赤い牡牛Red Bull は名のみ明かされ、なかなか登場せず、やっと登場したと思ったら幻像のように不気味に実在感がなく、動作も不可解。あとの城の場面でも長らく気配のみで詳細は不明。それなのに、いや、不明だからこそよけいに読者をふくむみんなの恐怖感をあおるのです。

 訳者あとがき(by鏡明)を見ると、作者に物語のインスピレーションを与えたのは、一角獣と牡牛が戦っている絵だそうで、だとすると牡牛にはもっと具体的な描写(存在感)があってもいいのに、と思うのです。
 でも、詳細があいまいだったり実在が疑われたりする方が、よりミステリアスで怖い、ということもあります。決まった形のお化けが必ず出てくるつくりもののお化け屋敷より、お化けの噂だけがある荒れ果てた廃屋の何もない空間のほうがよほど怖いということです。
 大きさも実在性も出自もあやふやな「赤い牡牛」は、矛盾するいくつかの噂だけだからこそ、いっそう皆の想像力をかきたて、怖いのでしょうね。

 ユニコーンの白と、牡牛の赤。そんな対比も、強烈です。しかも、白は白でもユニコーンの白は月夜の雪の白。牡牛の赤は、古い血(静脈血)の赤。どちらも年を経て古く、不変/普遍な感じがします。

 もう一つ、いま前半を読んでいて印象的なのが、「黒」を意味する名を持つハーピイ(人面鳥)のセラエノ(ケラエノ)です。ギリシャ神話に出てくる怪物で、牡牛とは別の形で、ユニコーンの対極として登場します。
 私の感じるところでは、ユニコーンが月のよう(彼女の描写には月がよく使われています)だとすれば、ハーピイは蝕(日食とか月食とかの「蝕」)の魔物です。日食や月食は、太陽や月を魔物が食べてしまう/覆い隠してしまうから起こる、という神話伝説がよくあります;

  日輪を喰い銀輪を屠るもの  ーーあしべゆうほ『クリスタル・ドラゴン』

  日蝕(エクリプス)が栖(す)から跳びだし、黄金の鞠〔=太陽?〕に躍りかかると前足でそれを捉えた。  ーーロード・ダンセイニ『ペガーナの神々』荒俣宏訳

 空を飛ぶもの(鳥)であり、「翼で空を暗くさせ」たり月を隠したりまた出したりしているところからも、また不気味に髪の毛や翼が光っているところ、ユニコーンと対になって「連星」のようにぐるぐる回るところからも、セラエノは天空の闇の精エクリプス(蝕)で、月の精であるユニコーンのライバルだなと思うのです。






Last updated  April 16, 2018 09:02:05 PM
コメント(0) | コメントを書く


June 30, 2017
カテゴリ:これぞ名作!
いよいよラストです。30番目(最終話)は、第1話およびこれまでの短編の連なりを説明しているようです。
 扉があり、その向こうは「迷宮」で「だれでもない者」=「牛の頭の怪物」がいます。こちらから扉をくぐっていったん迷宮に入った「英雄」は、迷宮の唯一の住人(怪物)と一体化してしまう。そして二度と戻って来ない、という設定です。
 この怪物こそ、第1話の孤独な主人公「ホル」ですね。ドイツ語でも「英雄」と「主人公」は同じ言葉(Held)。しかし迷宮では主人公=“個人”は融解しだれでもない、しかしすべてをふくむ人格となるようです。そして、第1話から29話は、迷宮内で主人公が次々と転生した物語だ、と。

 心理学用語で言うならば、迷宮世界は、人類の意識の根底にある集合的無意識の世界でしょうか。
 たとえば、文化英雄と呼ばれるキャラクターが、そこでかたちづくられるように思います。いろんな人物の物語や業績が、一人の英雄の為したこととして伝説がふくらんでいくわけです。
 話がそれていきますが、『ウォーターシップダウンのうさぎたち』では、主人公のウサギたちの冒険は、後の世代に語り継がれるとき、ウサギの文化英雄エル=アライラーの冒険譚に加えられ、伝説として永遠化されます。普遍的な英雄の冒険譚となることで、時空を超えてまたよみがえり、他のウサギたちの知恵や勇気のもとになっていく。
 これは、ファンタジーの本質として、トールキンが論じている「物語の大鍋(スープ)」とか「伝説は歴史と出会う」(「妖精物語について」より)ということと共通しています。
 つまり、迷宮の中ですべての英雄(主人公)たちはスープのように融合し、伝説の一人となり、さまざまな物語をふくんだ豊かな文化土壌となって、必要なときには現世にフィードバックされるべき、なのです。

 ところが、第30話の現実では、だれも迷宮から戻ってこないし、

  私たちにはだれの記憶もありません。
  われわれの記憶は、この敷居までしかとどかない。
                  ミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡』丘沢静也訳

 実際に、目の前で英雄が扉の中に消えたのに、番兵たちは次の瞬間には彼の存在を忘れてしまいます。これはどうしたことでしょう。

 第1話で、すでに「迷宮」という副題や「牡牛と葡萄」というとびら絵から、異世界の孤独な主人公「ホル」は、ギリシア神話のミノタウルスではないかと予想できますし、第30話では、彼を「腹違いの弟」だと言う王女が登場します。ギリシア神話によると彼女はクレタ島のミノス王の娘アリアドネ。英雄テセウスに恋して一巻きの糸を渡し、彼がミノタウルスを退治したあと無事に戻れるようにしたとされています。そう、テセウスは怪物退治という物語をひっさげて、戻ってきたのです。

 しかし、エンデの物語の舞台では、王女はすでに三千歳で、迷宮は廃墟となり、扉のある城壁の一部が残るのみです。ぐるっと回って扉の反対側に行ってみても、何もありません。番兵は、何のためか分からずに儀式的に扉を守り続けています。辺りは、クレタ島にはあるまじきことに、雪が積もっています。

 (ところで、このような、くぐらない限りただ忽然と在るだけという異界への扉や門は、ファンタジーではおなじみのアイテムです。『はてしない物語』の「鍵なしの門」がそうですし、C.S.ルイスもナルニア国シリーズでアスランの作った門(『カスピアン王子のつのぶえ』)などを描いています。)

 クノッソス迷宮は三千年前にはこの世界にあり、扉も正しく機能していました。ところが今、迷宮は異次元にしか存在しなくなってしまいました。そして、ほんとうは何人も送りこまれているのかもしれないけれど、誰かが入っていくところなど番兵たちは見た記憶がない。もちろん、戻る者もいない。
 ここにまた、世界と世界の絆が断ち切られた状態があると思われます。

 『はてしない物語』を思い出してみると、扉の向こうの迷宮は集合的無意識=物語の大鍋という意味で「ファンタージエン」と等しいとも言えるでしょう。
 現世とファンタージエンとの絆が切れて世界が滅びの危機に瀕していたように、第1話のホルは文化英雄とはほど遠いありさまで永遠に迷宮をさまよい、豊かな記憶/体験のストックのあるじとなるかわりに「体験は…彼の心におそいかかる」。
 そして、現世は冬枯れてわびしく、王女は切り離された「血をわけた兄弟」を不憫だと言いながら立ち去ります。扉の上で輪をかいているワタリガラス(滅びの象徴?)が不気味です。

 以上、長きにわたって、おもに「断ち切られた世界の絆」という観点から、感想を書きつづってみました。
 読めば読むほど、書けば書くほど、奥深い迷宮世界でした!






Last updated  June 30, 2017 12:50:42 AM
コメント(0) | コメントを書く
June 11, 2017
カテゴリ:これぞ名作!
「サーカスが燃えている」という危険なニオイの文で始まる第29話。幕間だった第27話で、老俳優は次の舞台(未来)の衣装を待っていましたが、どうやらその舞台は暴力と不信とに満ち、焼け落ちようとしています。

 1つ前の話が独裁者サイドから語られたのに対し、今度は一般人のサイドから、破壊と混乱が描かれます。主人公は道化(クラウン=ピエロ)の老人ですが、彼の素顔は乳児のよう、つまり無知で無垢。この現状を悪い夢だ、早く目覚めたいと思いながら、なすすべもなく年老いてしまったのです。
 先走りして言いますと、最後に彼は死にますが、その直前にすべてを理解した、というのは、夢から覚めるとはこの世界で死ぬことだったのです。乳児/老人、目覚め/死などが、頬に涙/口は笑っているピエロの顔のように表裏一体なイメージです。
 それにしてもこの世が、死ななければ醒めない悪夢だ、とは、恐ろしいですね。

 その悪夢の物語には「殺戮軍事警察」「監視人」という言葉が出てきて、第17話と同じく、前世紀の一時期のドイツを彷彿とさせます。第17話の「肉屋」は羊(特定の民族)というだけで虐殺しましたが、今度はゲシュタポとか「夜と霧」とか、思想狩りのたぐいが登場です。
 サーカスの団長や団員は、それに対抗する地下組織に加わるらしいのですが、道化にはよく理解できていません。至る所にスパイや密告者がいるようだし、もしかすると地下組織じたいが思想狩りのための罠かもしれません。誰も信じられず、自分の今いる状況もつかめない。

 興味深いのはあちこちで皆が、警官ですら「目をあけたまま眠っているような表情」だったり、実際に眠りほうけていたりすることです(第4話の遺産相続人たちと眠る大学生が再登場!)。真の悪者(独裁者とか)は見あたりません。
 どうやら、眠るという言葉は、この物語では、現状の恐ろしさに気づかず精神的に麻痺した状態を指すのに使われているようです。
 それを見るうちに、最初、自分が「目覚めること」が重要だと自分に言い聞かせていた道化は、しだいに、

  夢見る者は--(中略)--彼がおれたち全員の夢を見ている--(中略)--彼の夢であるおれは、もういいかげんで彼が起きるようにと、そう彼にわからせることができないのか?--(中略)--あるいは、おれたち全員、おたがいに夢を見あいっこしているのか? 夢の織物? 境界のない、底なしの夢の茂み?
                           --エンデ『鏡の中の鏡』丘沢静也訳

つまり目覚めるべきは他人である、と思い始め、主体性を失っていきます。
 (「夢」を「鏡」と置き換えると、この本のタイトル・主題である「鏡の中の鏡、迷宮」にぴったりマッチします。)

 自分が誰かの夢で、誰かが自分の夢で、というのは、ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』や荘子の「胡蝶の夢」に出てくる有名な設定ですが、裏を返すと、自分や世界の現実感や存在感がなくなり麻痺してしまう危険な状態(この物語のように)とも言えるのですね。
 これこそ、ファンタジー(想像力を働かせること)の暗黒面ではないでしょうか。

 とは言うものの、道化は、実は物語の最初で、燃えるサーカスの舞台に立って辞世の曲をトランペットで終わりまで吹いてしまっています。そして、堂々巡りの迷いに満ちてはいますが、自分の思いを吐露しつつ、最期にきちんとお辞儀をして、殺され=目覚めて行きます。誰に知られることもなく、しかし、立派に一生を終えたと言えるかもしれません。

 ここで一連の舞台ネタは終わり、次は、最初へとつながる最終章です。






Last updated  June 11, 2017 10:44:36 PM
コメント(0) | コメントを書く
May 21, 2017
カテゴリ:これぞ名作!
第27話は「俳優たちの廊下」が舞台で、出番(の衣裳)を待つ王様役の老俳優が主人公。前話の最後で登場人物たちが飛びこんだのが異次元の「廊下」でしたから、次の話(主人公は末路に至った独裁者=王様の一種ですね)とのつなぎという意味でも、幕間的な物語です。

 これまでにもそういう話はあって、たとえば第5話も、幕が開き出番が来るのを(永遠に)待ち続けるダンサーの話。「待つ」に注目するなら、第3話の大学生も遺産相続人たちの永遠の話し合いを待ち続けていましたっけ。

 人生の「途中駅」(第4話)で茫然と待たされてしまう体験。
 このお話の老優も今はただ「私の衣裳」を待っており、それが用意されたら出番だ、というわけです。しかし、彼が劇のあらすじを語るのを聞いて(読んで)いくと、前半はすでに演じられた、というより、芝居ではなく現実のできごとだったのではないかと思われてきます。
 なぜなら、クライマックスまで語ったあと、彼は、その次の展開はまだ演じていないので分からないと言うのです。つまりこれは劇というより、いま作られつつある歴史なのではないでしょうか。
 「すべて世界はひとつの舞台。そしてすべての人間は男女とも役者に過ぎない」というシェイクスピアの名言を、思い出します。
 そして、思い起こせば第6話の旅芸人一座は、「途切れることのない芝居」をやっていたが、かなめとなる言葉が欠けたので芝居を中断して、(人生を)旅することで「その言葉を書いている」のでした。
 老優の演じてきた芝居も、途切れてしまっているのでしょうか。彼はちょうど中断した場面の姿(やつれて、馬衣を体に巻きつけただけ)でずっと待っているようです。

 それにしても、彼の語るあらすじに合わせて、王衣やボロ服が運ばれたり持ち去られたりしますが、サイズが違ったり劇の時代に合わない服だったり。ふさわしい物は一つもないのです。
 ユング心理学に「ペルソナ」という言葉がありますが、対外的な役割に合わせたキャラとか仮面とかいう意味合いです。この物語では合わない衣裳(ペルソナ)ばかり去来し、合うのは今まとっているごわごわの馬衣だけということから、彼の現状が中断した場面--絶望して天を呪ったあと奇蹟?が起こったがその意味は?! というところ--で停まっていることが推察できます。

 たぶん、待っているだけでは奇蹟の意味は分からず、彼は好運を逃しそうな気がします。第2話から時々出てくる片脚の男(乞食、御者、負傷した消防士、そして玉座を負われた王)のイメージから連想すれば・・・。けれど最後には彼もふさわしい場所に行き着くかもしれません。

 その「最後」の話が、おそらく第28話の結末です。
 この話は、独裁者が革命によって追われ、最後に「父」(キリスト教の神でしょうか?)あるいは「母」(太母神でしょうか?)によって大地の子宮に戻される結末が語られています。
 彼は正義を実現するために不正を為して権力を手に入れ、暴力を廃するために暴力を用いてきました。

  戦争を不可能にするためには、戦争をするほかない。世界を救うためには、世界を破滅させるしかない。それが権力の真理だ!
          --ミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡』丘沢静也訳

 おやおや、これは先日書いたセカオワの歌詞のようですね;

  戦争を無くすため何回だって行う戦争
  平和を守るため戦争を無くすためあなた方を処刑します
  僕らの平和を守るため僕らの世代が戦争を起こします
                      --SEKAI NO OWARI「Love the warz」

 矛盾と自己撞着に満ちた「権力」や「正義」は、そうやって葬るしかないのでしょうか? 本当に葬ることができたと言えるのでしょうか?

  「それは昔からある話。千回も繰りかえされてきた。だがだれもそれを信じない。そのためにそれはまた千回繰りかえされるのじゃ」    --『鏡の中の鏡』

 悪い予感のエンディング。それは悪夢のような第29話に続きます。






Last updated  May 21, 2017 10:38:34 PM
コメント(0) | コメントを書く
April 14, 2017
カテゴリ:これぞ名作!
第26話--閉塞した雨降りの教室から、みんなが夢へ脱出するお話。
 すでにおなじみの登場人物たち(天使、少女、医者、役人、太ったおばさん、花嫁、そして綱渡り)の会話が状況を説明してくれるため、わかりやすい話だと思います。
 黒板にも、何度目かの特殊相対性理論の公式があり、この物理法則を応用するとSFでは時空を超えることも可能らしいので、そういう意味でも黒板は未知への扉です。

 第24話の「肉体化」と呼ばれる想像力の方法で出てきた綱渡りは、今度は「夢変化(ゆめへんげ)」と呼ばれる方法で、黒板に描いた架空世界(別世界)へ率先してとびこんでゆきます。現実にしがみついていた堅物の役人も、最後の瞬間に自分で結界を超えて、雨降りの教室という閉塞した現実世界からめでたく脱出していくので、希望につながる結末ですね。ただし、
 黒板に描いた「ドアがいっぱいある長い廊下」、

  「このドアのうちどれかひとつのむこうに、きっとぼくらの気にいるものが、見つかるだろう」      --ミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡』丘沢静也訳

というくだりは、『はてしない物語』の「千の扉のある寺院」の迷宮を思わせ、だとすると彼らはこれからどの扉(の向こうの世界)を選ぶのか、自分の真の望みに従って大事な選択をしていかねばならないと思います。






Last updated  April 15, 2017 09:17:49 PM
コメント(0) | コメントを書く
February 28, 2017
カテゴリ:これぞ名作!
第25話は、珍しく、直前の第24話の続きのように読むことができます。
 前段の最後で、手をつないで新しい世界を捜しに出かけた少年とパガド(手品師)が、冒頭「手に手をとって、ふたりが道を…」と登場。少年は生意気な坊ちゃんに、連れはジン(魔神)になっていますが、もともと少年というのは今からいろいろな人格を持つ可能性があるし、手品師は変身が得意と考えれば、それほど違和感はありません。

 二人の探索行は試練を迎えているらしく、第21話の娼婦女王の統べる町のような、さびれた下町の通りにさしかかって、少年はその場所をいやがります。
 楽園を捜すことに疲れた宇宙服の男を、通りの「慰安婦」が引き留めて、安らぎとひきかえに夢をあきらめさせようとし、道路掃除夫がそのことについて解説してくれます。

  「あんたの知っている物語は…(中略)謎を解くことができる百番目の王子の物語だけなんだ。だがその王子のまえの九十九人の物語は知らんのじゃ。連中は謎が解けないので破滅する。で…(中略)この通りで終わるんじゃ」  --ミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡』丘沢静也訳

 ここで『はてしない物語』の読者なら、「元帝王たちの都」というおそろしい一章を思い出すのではないでしょうか。空想の国ファンタージエンに来て望みのままに振る舞ううち、現実世界の記憶を無くして帰還できなくなった廃人たち。彼らこそ、「破滅した九十九人の王子」ですね。

 話はそれますが、私は「夢は必ずかなう」的、安易な激励があまり好きではありません。スポーツでも何でも、成功した人がインタビューでよく、自分に続こうとする若者や子供たちなんかに、「あきらめないで、がんばって。そうすれば夢は必ずかないます(私のように)」と言っている、あれです。
 あれは、成功者だけの真理であって、他の人の夢が実現する保証はどこにもないのですから。彼らは挫折者の存在を気にすることがないのでしょうか?・・・なんて、ひねくれたことを思います。

 で、この話でエンデが言おうとしているのは、まさに、九十九人の挫折者について知るべきだ、ということです。少年がそれを知らされ、「あなたも?」と道路掃除夫にたずねたとき、私は改めて気づきます--彼は、第21話の娼婦女王の売春宮殿にいた灰色の老人ですね。あるいは、もう少し読むと、女王は「わしの女房なんじゃ」と言っていますから、乞食の王かもしれません(二人とも女王の過去/現在のつれあいで、同類です)。乞食の王は女王との恋に絶望し放浪の末、また戻ってきたのでした。また、灰色の小男は最後に女王の灯を消す役目でした。
 二人とも成功者には見えません。しかし、挫折者であっても、自分自身のアイデンティティを失ってしまうであろう宇宙服の男とは、ちがいます。彼らは挫折体験の末、視野を広く持ち深く考えられるようになった人、コールリジの言う「a sadder and wiser man」(悲しみを体験してより賢くなった人)です。
 斎藤淳夫『ガンバとカワウソの冒険』にも「悲しみを知れ、希望を捨てるな」という珠玉のメッセージがありますが、エンデがここで言いたいことも同じだと思います。そういう人こそが、よりよい未来をつくっていくことができるのでしょう:「苦しみは、あすの世界をいちばんあざやかな色でいろどるのだよ」--シーラ・ムーン『ふしぎな虫たちの国』






Last updated  February 28, 2017 12:49:11 AM
コメント(2) | コメントを書く
February 14, 2017
カテゴリ:これぞ名作!
第24話。廃墟の町の芝居小屋で、男の子が魔術師を呼び出す話。

 廃墟には「爆弾の炸裂した」穴や「自動車の墓場」もあるので、現代の光景。同時に、レトロな「歳の市」の芝居小屋もあり、少年はそこへ入っていきます。
 魔術師を呼び出すといっても、呪文を唱えるのは男の子ではなく、芝居小屋の幕の向こうで、

  私どもの魔術師はすでに何時間もまえから額に汗して、アグリッパからアインシュタインにいたるきわめて強力な呪文の数々をとなえて、この幕のうしろで人間の姿を凝縮して可視的なものにするよう、作業をつづけております。       --ミヒャエル・エンデ『鏡の中の鏡』丘沢静也訳

 この声によると、綱渡り(どうも第23話の綱渡りらしい)の姿や存在理由を想像すると、「肉体化」が成功する、というのです。

 引用部分に出てくる「アグリッパ」はルネッサンス時代の大物魔術師なのでいいとして、彼に対する最新の「魔術師」がアインシュタインであるのがおもしろいですね。そういえば、第3話の大学生が覚えようとしていたのはアインシュタインによる「特殊相対性理論」(時間と空間のゆがみ関連)の公式でした。

 で、心の純粋な少年のおかげで幕が上がり、一人の男が登場するのですが、彼は綱渡りではなく、魔術師(タロットカードに描かれた魔術師パガドだそうです。帽子や、両手のポーズがカードの絵と同じ)です。
 ならば、さっき強力な呪文をとなえていたという魔術師が彼で、最初から幕の後ろにいたのでは? という疑問がわきます。彼は「これで芝居は終わり」と言っていますから、実は聞こえていた声も彼で、幕が上がるまでの口上と彼の登場こそが芝居だったことになります。

 しかし、リクツをいろいろ考えても、あまり意味はないようです。
 大事なのは、魔術師(終わり=エンデと名乗る)と少年(ミヒャエルと名付けられる)が出会ったと言うこと。それぞれの名は作者の名前と苗字なので、二人揃うと作者の誕生、作者だから物語世界を創ることができる。パガドは断言しています:

  「…(新しい世界が)もしも見つからないなら、私たちが魔法で世界を呼びだすんだ」

 また、終わり(エンデ)と始まり(名付けられたばかりの少年)の出会いと見ると、ぐるぐると円環になってまわるウロボロスの輪(『はてしない物語』でお馴染みのモチーフ)であり、やはり時間と空間をあやつって「世界」を表す・・・みたいなイメージですね。






Last updated  February 14, 2017 11:59:35 PM
コメント(0) | コメントを書く
January 22, 2017
カテゴリ:これぞ名作!
第23話。帆柱を下りてゆく老船乗りと、帆桁を進んでくる綱渡りが出会う話。
 第17話からわりと長くてこみ入った話が続いていましたが、ここで一段落というつもりでしょうか、短い話です。テーマはたぶん「クロイツ(十字)」でしょうね。

 鉛直に帆柱を下りる船乗り。彼は「世界を百四十四回まわった」といいますから、船と彼とはずっと水平に移動し続けています。タテとヨコの移動。ここに十字形ができます。
 いっぽう、綱渡りはもともと船の帆桁には居るはずがないので、どうやら忽然と出現したようです(というのも、次の第24話に「ひとりの綱渡りを全力で想像する」と「肉体化」つまり現実に出現するという記述があるのです)。彼は水平に歩いてくる。綱渡りの身体のタテと帆桁(それに彼が持っているバランス棒)のヨコ。ここにまた十字形。
 二人が出会う場所は、帆柱と帆桁の交差した十字形の所。さらに、船乗りが空に探し求めて見いだせないという「十字」、綱渡りの「腰骨(クロイツ)」、あるいは重力に「対抗する力」と「平衡する力」の対比なども十字形ととらえられるでしょう。

 十字(クロイツ)というと、第7話で男(キリスト?)が吊されていた「十字架」を思い出します。そもそもこの本の表紙は「窓の十字架」というエンデの父の絵なので、作者はここで短い話にたくさんの十字形のしるしをちりばめて、宗教的な暗示をしているようです。
 昨年から書いてきたこの感想の一貫したテーマである「絆」にこじつければ、キリスト教で神と人との絆のしるしである十字形がどこにでも見つけられることを暗示しているのでしょう。
 しかし、具体的な「絆」はあまり見えてこないように思います。老船乗りと綱渡りは対立から和解し、役割を替えて別れますから、友情を結んだとも取れますが、老船乗りは結局天に十字を見つけることができませんでした(その代わりに、綱渡りとなることで自ら十字形を体現するのですが)。綱渡りは船乗りとなりますが、果たして彼には十字形を見つけることができるのでしょうか? 帆柱を降りていってしまいましたが・・・






Last updated  January 22, 2017 12:20:17 AM
コメント(0) | コメントを書く
December 6, 2016
カテゴリ:これぞ名作!
 第22話は、前の21話のハッピーエンド・バージョンではないでしょうか。
 「世界旅行者」が旅に倦んで、「中国風の女郎屋」と見える建物に入り、娘に導かれて神秘体験をする話です。外界でいろいろ活動し、自己実現しようと奮闘してきた男が、求めるもの(=全き自己)を得られず、最後に行き着くのが「売春宮殿」だったり「女郎屋」だったりするのですね。これが女性だったら、全然ちがう場所へ行き着くと思いますが・・・、まあエンデは男性ですから、こういうイメージになるのでしょう。
 今度の主人公「世界旅行者」は21話の乞食の王様よりも、失望の自覚ははっきりし、女性に会う自覚はあいまいなようですが、結局、疲れ果てて女性の元へ行くところは共通しています。そして乞食の王様は女王との対話のなかで自分自身を明らかにしていった(読者に対しても、たぶん彼自身に対しても)のに対し、世界旅行者は建物の中で、内界の探索を行います。

 ・・・なんですが、この話に限って文章が解説的で、そのわりに(そのせいで?)説得力に欠けるように感じられます。主人公が見聞きするのは暗示的で印象的なモノばかりなのに、そこにストーリー性がなく、主人公との関係性もはっきりしません。主人公もそれらを受け止めているけれど、積極的にかかわったり感想を述べたりしないので、なぜそれらのモノが主人公に自己実現や充足感をもたらすのか、実感がわきません。
 第18話の展覧会見物の夫妻も、直接関係のないオブジェを見ていますが、彼らの方が親近感を覚えるのは、オブジェに対して生き生きとしたリアクションをしているからだと思います。
 世界との絆を得、男女間の絆も得て、主人公は案内役の娘とともに幸せに人生の再出発をするところで終わっていますが、読者である私はハッピーエンドな二人を見送って後に取り残されたような気分になります。もしかして男性の読者なら、もっと主人公に寄り添えるのでしょうか?






Last updated  December 6, 2016 11:14:02 PM
コメント(0) | コメントを書く
November 27, 2016
カテゴリ:これぞ名作!
 大好きな第20話を語り終えて脱力気味ですが、第21話行ってみます;

 「売春宮殿」の「娼婦の女王」を「片脚の乞食」が訪ねる話。情景描写も会話もくわしく語られているけれど、むずかしいお話でした。
 宮殿の内部は明らかに女性の体内を模したつくりで、女王も卵(卵子)のようでもある(頭も体も象牙のようにつるつる)一方、熱い金属の匂いや鋼鉄のマスクなど、人工的で工場のようなイメージも持っています。自然でやわらかいはずの女性の体が、金属や工場のように非人間的・破壊的なのは、女性性みたいなものが病んでいるのでしょうね。
 一方、乞食の方も、片脚だし衣服はズタズタ、顔もボロボロですが、王冠(ただし紙の)をかぶっているので、彼はじつは王様で、誓いをたてて女王の王国をつくり敵から彼女を守った、つまり女王を愛した伴侶だったのです。
 この男女の会話が続きますが、どうにもかみ合わない。昔は少しは良い関係だったらしいのに、女王はずっと何もかも奪い恐れられてきたし、乞食は皆から喜捨や愛を受けてきたというから、正反対の状況・性格。共通しているのはどちらもほとんど絶望していること。そして、わずかな希望を相手に求めていること。乞食だって呼ばれて自分の(不自由な)足で女王のもとへ来たわけですから、何か彼女に期待することがあるのだと思われます。

 第13話のすれ違う花婿・花嫁と同様、この男女の間にも不毛の断絶があるのです。しかし、それでも二人は出会い会話し、しまいに「生み出す力」を奪う1滴の薬品?を受け渡しします。子供のころ女王が悪魔からもらい、厄介払いしたと思っていたが、最後に乞食からもらって手元に戻ってきた物。それは、最も重大な女性性、つまり「生み出す力」でした。
 こうしてみると、女王は女性自身の最大の力を取り戻したともとれます。しかし愛のない女王にとって、それは世界を滅ぼす最終兵器としてしか働かせることができません。生み出す力は、滅ぼす力でもあるわけで、ここに女性性の両面性--ユングによれば生み出すとともに呑み込む、つまり滅ぼす力も持っている、それが現れているのかなと思います。

 とにかく、女王は娼婦の国の灯りを消し、暗がりの中で、女性性の力をふるう時を待ちます。
 






Last updated  November 28, 2016 12:10:09 AM
コメント(0) | コメントを書く

全90件 (90件中 1-10件目)

1 2 3 4 5 6 ... 9 >


Copyright (c) 1997-2020 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.