テーマ:ずばり「政治」(21)
カテゴリ:ぼくの疑問符
中央政府の教育再生会議の座長をやっている野依良治氏の「塾を禁止に」発言には、激しい憎しみを感じた。
頭が悪い人だ。座長ははやく辞めさせたほうがいい。 公権力が、いかなる形であれ塾を禁止するのは、明らかに日本国憲法違反である。 思想の自由、集会の自由、学問の自由を保障する条項に違反する。 そして、教育がけっして国家の独占物ではないことをうたった教育基本法にも違反する。 だから、塾を禁止にする法令や通達を作成することは法的に不可能だ。 そういう意味ではこの座長氏がいくら「塾の禁止」を吠えても詮ないこと。 しかし、こういう憲法違反に通ずる発言をして平気でいられる人を座長のままにしておいてはいけない。 塾のあり方をいかに激烈に批判しようが、それは結構なのである。 営業妨害の一歩手前まで激しい批判をしても、それが誹謗でないかぎり、わたしは耳を傾けるつもりである。 しかし、そういう十分な議論を展開することを脇において、いきなり権力者気取りで「塾を禁止に」とは、何の料簡であろうか。 『日本経済新聞』12月24日号の記事によれば、 ≪野依座長は公立小学校で放課後に児童を指導する「放課後子どもプラン」に関する議論のなかで、 「塾はできない子が行くためには必要だが、普通以上の子どもは禁止にすべきだ」 「我々は塾に行かずにやってきた。塾の商業政策に乗っているのではないか」 と再三にわたって塾の禁止を提案した。 委員の葛西敬之・JR東海会長は 「日本の数学のレベルは塾によって維持されているという面もある」 と反論したが、 小野元之・日本学術振興会理事長は 「テクニックばかり教えたから学力が落ちた」 と指摘。 中嶋嶺雄・国際教養大学長も 「塾禁止ぐらいの大きな提言をやらないと」 と主張を後押しした。≫ ほんとうはそれぞれにかなり長い発言をしておられるだろうから、それを読まないと批判もできないけれど、 あくまでこの記事だけをもとに言えば、野依・小野・中嶋のお三方は、自分たちがこの瞬間、公権力を体現した存在なのだという一点を見失っているようだ。 お三方は、教育再生会議を学者仲間の茶飲み会議と勘違いしておられないだろうか。 教育再生会議は、つきつめれば公権力者の権力行使術議論の場所なのだという粛然とした意識をもち、憲法および教育基本法の線から外れぬ議論をすすめてほしい。 わたしだって、塾のあり方が決して及第点だとは思わないし、『日本の本領』でも四谷大塚の社会科教材のことを批判している。 しかし、そのわたしだって、公権力が四谷大塚の営業を禁止すると言い出したら、決然として四谷大塚のために立ち上がるであろう。 野依氏の言う「普通以上の子どもは塾に行くことを禁止する」というのは、不当で恣意的な差別行為である。 “普通”の基準をどこに置くのか? もしそれが学校のテストの平均点ということなら、 賢い父兄は学校のテストでは子どもにわざと手を抜かせて普通以下の点を取らせ、子どもを堂々と塾へ行かせるという戦術をとるだろう。 普通以上の成績の子どもが塾に行ったら、いかなる処罰なり処分を想定しているのか。 野依氏も中嶋氏も、これに答えてほしい。 学校の教科でなく、そろばんやお絵かき、書道、華道、ピアノの塾ならいいのか? NOVAの英語塾はどうだ? エスペラントを教える教室だったらどうだ。 水泳教室はどうだ? さまざまな理科実験を子どもにさせる塾だったらどうだい、ノーベル賞受賞者さん。 (四谷大塚では、夏休みに正にそういう理科実験教室を開いている。) このように畳み掛けるような質問をすれば、野依氏はどう答えるのであろうか。 ぜひお会いして議論し、コテンパンにしてさしあげたいという衝動にかられる。 教育再生会議出席者のするべきことは、 いかに公権力をふりかざすか(=塾を禁止する方法)を議論することではなく、 学校という形でも塾という形でもいいから、とにかく理想の教育の場とはどうあるべきかということを議論することだろう。 会議の目的すら分からぬ連中が、教育再生会議とは笑わせる。 再教育が必要な座長が居座る教育再生会議とはね。 野依座長の「塾禁止」放言問題は、政府税制調査会の本間正明・前会長の官舎問題(=わたしは何の関心もなかった)より、はるかに本質的で深刻な問題である。 野依座長を任命した安倍総理の責任を問いたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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