文春新書『英語学習の極意』著者サイト

2007/05/12(土)16:56

「バベル」の殺伐と納得性。

映画・演劇(とりわけミュージカル)評(243)

殺伐うずまくなかに納得性が貫かれている。 ストーリーについてほとんど白紙の状態で見たのだが、 「つぎはこうなるんじゃないかな。や、やめてくれ……」 と思いながら見ていると、あまり予想から外れないところで出来事が積み重なってゆく。 「ただ、出来事を見ていてくれ」と突っ放す。 硬質のドキュメンタリーのように。 いたたまれず息苦しくなって、許されるなら廊下に出て少し休みたい、とぼくの内臓が小さな叫び声をあげはじめる。 菊地凛子さんの演ずる聾唖の高校生チエコが、刑事ケンジ(二階堂 智)を居室へ招いてから奥へ消え、 別の姿でふたたび現れるところも、 そうなるのではないか、 そういう姿で現れるのではないかという予感があった。 そこへ導く伏線が火をふいていたから。 (このシーンが世間で話題だったことは、あとで知った) 思い切ったシーンなのだけど、直前までの流れとの断絶感がまったくない。 目のまえで起こっていることは非日常のピークなのに、それが必然として受け止められる。 そういうところまで観る者を追い込む、構成のうまさ。 一見オムニバス風に3つのストーリーが、モロッコとLA&メキシコと東京で同時進行し、 乾いた出来事がやがて互いに糸を引くのだけど、 しょせん3つのストーリーはばらばらのままなのだ。 この乾いたところがいい。 「考えさせてやろう」というような、制作側の傲慢を感じさせない。 近頃の日本のテレビドラマにうんざりするほどある「大団円の全体像ご説明の時間」など、もちろんないのだ。 (↓関連サイト) http://babel.gyao.jp/ 3つのストーリーの時系列を切り刻んで、かなり思い切って前後にずらしてある。 だから謎だらけなのだ。 それが少しずつ見えてくる楽しみ。 おそらく映画にはぼくが気がつかない伏線がいろいろ張られていたのではないか。 切ない音楽もよかったし、 もう1度観にゆくか、それとも別の映画を観るか、 すごく迷っている。 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督はメキシコで生まれ育った。 だからメキシコのシーンが、ショットというショットすべて、喧騒に質感があるのは当然だろうけれど、 その感覚の延長で、渋谷か池袋あたりの裏町の喧騒と、気持ちのすれちがいを撮った。 日本が新鮮にみえた。 ハリウッドの“渡辺 謙さんもの”(たとえば)のウソ臭い日本に、ぼくはうんざりしてきたのだけど、 「バベル」の日本は、現実いじょうにホントっぽい日本だ。 さいきん、ハリウッドが日本の役者をつかうことに目覚めてきた。 日本人の役者を入れておけば、日本での興行収入が確実に上がる。 一時期、ハリウッドが“13億人の(!)”中国市場に幻想を抱いていた時期があったけれど (ピークは、ディズニーがアニメ映画「ムーラン」をつくったころか)、 中国で“受けた”ところで所詮は海賊版VCD・DVDが横行するだけだし、そもそも観客1人あたりの収益が低いから、 じつは大しておいしいマーケットではないのだ ……ということに気がついて、よくよく見渡したら、やっぱりおいしいのは「日本」だった! というのがハリウッドの近頃のディスカヴァリーではなかったのか。 海賊版をゆるさず、 何千万人もの大衆が高い入場料を払って映画を観る国。 そういう、ぼくたちにとってはごく当たり前の日本の本領(そこぢから)が、 日本人の俳優さんたちにハリウッドで活躍するチャンスを与えているのかもしれないと、ひそかにぼくはおもっているのだけど。

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