2012/08/16(木)11:41
「慰安婦さんも竹槍訓練」 という、お蔵入りのニュース映画
平成12年12月に書いた 「慰安婦さんも竹槍訓練」 という文章を以下に再掲載します。
その他、わたしが慰安婦問題について書いた文章を集めたページ:
慰安婦問題にどう立ち向かうか (前半は英文、後半は和文)
慰安婦さんも竹槍訓練
実は、最近になって突然思い出したことがある。わたしが中学生のころ、昭和48~49年ごろのこと。
NHK で、昔のニュース映画をスポット番組として流していた。
これが面白くてよく見ていたのだが、なんとその日のタイトルが 「慰安婦さんも竹槍訓練」 というものだった。
■ おそらく今では秘蔵のフイルム
何だ、この 「慰安婦」 というのは?
うぶな中学生だったコラム子には、何のことかさっぱり分からなかった。
そうしたら、父が血相を変えてやってきて、いきなりテレビのスイッチを切るではないか。
「人が見よるのに消さんといてや」
「こんなもん、見られん」
「いつも見よるやないの。……だいたい、慰安婦さんいうて、何なん?」
絶句する父。ここで母が静かに言った。
「兵隊さんにお酒を酌いだりする人のことよ」
「そしたら、何で見たらいかんの?」
「さあ、どしてじゃろかねえ…」
今思えば、母は本当に 「慰安婦」 のことを 「カフエの女給」 ていどに思っていたのかもしれない。
「何で見たらいかんのぞね」 とスイッチを入れた。
父がまた消そうとした。
画面には、どことなくきびしい表情をした女性たちが整列している風景が写った。
縦隊を組んで駆け足をするところでニュースは終わってしまった。心なしか安堵の父であった。
いったいどこにいた慰安婦さんたちだったのか、大事なところはテレビを消していた間に全部すんでしまった。
自分でも驚くのだが、わたしは昔のことのつまらない詳細をけっこう覚えていることがあるのだ。
このニュース映画のフィルム、今でも NHK の倉庫のどこかに眠っているはずだが、放映されることはもう2度とないだろう。
しかし、こんなアブナいニュース映画をヤラセで作るとは到底考えられないから、貴重なナマの資料には違いない。どなたか発掘していただけないものだろうか。
■ 客観的事実は? 実態は?
思えば慰安婦問題の発端は、「軍人をお客とする公娼」 を 「慰安婦」 という特殊用語で呼んでしまったことにあるとも言える。
それは婉曲表現の一つであり、せめてもの愛護の気持ちも含んでいたと思う。
ところが、「慰安婦」 という用語が突出してしまい、婉曲表現であるがゆえに実態が不明確となり、かえって何か特別なオドロオドロしいものであったかのようにヒステリックに祭り上げられてしまった。
この関係の研究としては、秦 郁彦(はた・いくひこ)博士の 『慰安婦と戦場の性』 (新潮選書) がもっとも信頼できる。
これによると、慰安婦の総数は 「多めに見ても2万人前後」。
その民族別比率は、地域によって異なるが、概数でいえば
日本人 (内地人) 4割
現地人 3割
朝鮮人 2割
その他 1割
「慰安婦の9割以上が生還したと推定している」 と秦博士は言う。
■戦争という巨大な惨禍がもたらすそれぞれの不幸
戦争にせよ、風俗業にせよ、悲惨な事例というのは多々あるものであって、その交差点である慰安婦さんたちの境遇にも、さまざまな悲劇があったことは想像に難くない。
トルストイもいうように、幸せというのは似たり寄ったりだが、不幸はそれぞれの不幸がある。
わたしがどうにも納得できないのは、現在生存している元慰安婦たちのことを、あたかも悲劇の頂点に立つ者であるかのごとく祭り上げ、国家による特別な賠償を求める一部勢力の姿勢である。
多くの人が命を失った。自分の子供を、親を、救うすべなく死なせてしまった不幸。ほんの一瞬が生死を分ける非情な運命。
空襲で鉄柱に腕をはさまれ、どうしても逃げられない人。火がそこまで迫ってくる。
「この腕を切ってくれぇ!」 と絶叫が響く。しかし、どうすることもできなかった。その人は火にあぶられ、いかなる苦しみのなかで死んでいったことか……。
そんな話を、母校・愛光学園 (松山市) の国語の先生から聞いたことがある。
戦後、物資の乏しいなか、最愛の夫は帰らず、幾人もの子供をかかえてどうしようもなく、米国人兵士に春を売った女性。
ある日、その夫が帰ってくるとの知らせが届く。周囲の人々は祝福するが、女性は愛しい夫に見まみえることなく、電車に身を投げた……。
これもその国語の先生の話である。
■ なぜ元慰安婦だけ特別扱いなのか
元慰安婦の女性たちにも、癒しがたい心の傷はあるであろうが、戦争に翻弄された人々はそれぞれに傷を負いつつ生きているはずだ。
口幅ったいことではあるが、戦争と戦後の混乱を生き延びられた人々は、それだけで恵まれていたとも言えるのではなかろうか。
もろもろの不幸があるなかで、今に生き延びた 元慰安婦のみに、なぜ損害賠償の請求権があると言えるのだろうか。どう考えても、バランスを欠いているとしか思われない。
むしろ、戦争という巨大な不幸・悲劇を極度に矮小化することにつながるのではなかろうか。
戦争処理が国家間の賠償によって成り立っているのは、当を得ている。個人個人のさまざまな不幸の形に、いかなる賠償をしていけるだろうか。そして、すでにこの世にない人々には、いかなる償いができようか。
われわれに出来る償いとは、よりよい国、よりよい世の中を作らんと、愚直に歩むことだけではないか。
元慰安婦の女性たちの せめてもの尊厳をダシにして、善人を演ずる運動家や弁護士・マスコミ関係者こそ、償いの道から最も遠い人々と言わなければならない。