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テーマ:バンドマンの語り場(1287)
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今回はちょっと角度を変えて母校、栄東高校の話。 東大進学やクイズで有名になった栄東高校。後輩達が活躍する姿、なんか、嬉しい。後輩には、県議会議員、市議会議員、大学教授、自分とはかけ離れた世界にいる。 東大に進学し、クイズ番組で活躍している後輩見ると、 。。。。 足元にも及ばない。先輩として自慢できることってあるかな? ん〜 ある! 大学進学したわけでもないが、誇りにできることが2つある。それは、 東日本大震災が起きたとき、被災地に住んでいたのと世界遺産登録が決まった平泉町に住んでいたこともあり、震災復興活動を立ち上げた。 それと玉川温泉の整体師を出版したことだ。 玉川温泉は秋田県の山深いところにある。このブログを初めて読んでくださっている皆様は玉川温泉と言われてもピンとこない方が多いと思う。 この玉川温泉は命の狭間で闘う方々が全国からお越しになる。2006年から2009年までここで整体師として施術させていただいた。 2008年の夏、「先生、あなたは玉川温泉の整体師、家の近くにある整体院の先生とは違うのよ。あなたに会いたくて来てくださる方も多いと思う。あなたの施術を受けて帰ると元気になって闘えるわ」 と有難いお言葉を戴いた。 そして年が明け、雪の中、とある男性のお客様が亡くなられた奥様の遺言をつたえるためにお越しになった。 その遺言がきっかけで本を出版した。施術を通じてお客様とのやりとりを中心に書いている。 その後、玉川温泉をやめることになり、平泉の自宅で開業。 そして震災が起きて震災の影響などで埼玉県に戻り、東京のリラクゼーション店で施術。 自分の施術は玉川温泉での経験が基本になっている。栄東高校を卒業して大学に行かなかったてつおはこんな男になった。 今や栄東高校は東大合格者の数はものすごく、知名度は全国規模。そんな栄東高校ではあるが6期生として入学した当時は男子校。 中学生のとき、塾が東大宮駅前だった。学校の前にあるJRの陸橋を通り、塾に通っていた。 時はまだ昭和。まだ歴史がなく進学校を目指していると話をきいた。通るたびになぜか、惹かれていく。公立高校も考えたが栄東に入りたい気持ちがそれを上回る。男子校だったせいかもしれない。 きっと先生も男性が多いから腹割った付き合いができるかもと思った。そして晴れて入学。 6期生は4クラスしかなかった。学力が高い生徒から1組、2組となり自分は4組。 そして入学して早々と勉強合宿があった。この勉強合宿、 最初にやらかした。それはいまや高校関係者のみの伝説となっている。 卒業アルバムより 一般的に知られている栄東高校の伝説とは、 朝と帰りに生徒全員が学校周り2.5kmを走る。 正門の脇をずっと走っていくと大宮工業高校が見える。その前に陸橋があり、JR操車場を越えて操車場の脇を走り、正門の前にある陸橋を渡って走るコース。 今は東大に入りたい一心で全国から集まっているから、生徒数も増え現実的に無理。在学中にあった荒川土手の20㎞マラソン大会があったが今はだろうなあ。 これも伝説かもしれないが、少数の卒業生しかしらない伝説がある! それは、 坊主事件である。 勉強合宿は長野県佐久市であった。先生は、 「トランプなんて持ってくるなよ。みつけたらバリカンだぞ」 という。 それを聞いて、持って行った ^^; そしたら見事にバレて坊主。今じゃ、ありえないでしょ? その数ヶ月後、また坊主となった。2回も坊主になった生徒は数人しかいない。その1人 笑 休み時間、4人が机の各隅に集まる。10円をひとりひとりのせ、順番で指で弾く。そして落ちた10円をゲット。 それがみつかり、坊主。 東大進学を目指す今の生徒じゃやらないよね。これが6期生。一年の時だったので4組。1-4は熱かったぜ! ところが、どの生徒も先生や学校に恨みをもたない。しかし、これだけは嫌だった。それは 暇さえあると草むしりをさせられた。これが一番苦痛。 この学校に入る動機、先生と腹を割った付き合い これは期待を裏切ることはなかった。ゆえに、この様にブログのネタにもなっている。 しかし、先生達は大変だった。今の栄東のもとを作り上げた先生だ。教育方針に合わず辞めた先生も多くいらっしゃる。当時の若手の先生は、教育方針と戦っていた。 教育とは?指導とは?? 若い先生達は必死に立ち向かい生徒と接してきた。そんな先生達を生徒たちは好きだった。 今、栄東高校で坊主事件や先生との絆を講演会で話をしたら、在校生はどう思うかな? できのわるいバカ代表、てつおである。 伝説とまではいかないけど文化祭で三年間連続でバンド演奏をやった。先生達もバンドを組んでステージに立ったんだ。 でも、てつおが一度だけ栄東高校の授業内容に対して、腹が立ったことがある。今わかると大問題になるから内容は伏せておく。2年のときの数学の授業は悔しかった。数学の先生は当時の先生たちを束ねる職種についていた。先生たちはこの先生の教育方針と闘っていたと思う。 そのくらいならまだ我慢はできたが当時のてつおは今で言うイジメと戦っていた。いじめを受けていると自分で認めたくないのだが一般的にはそういうだろう。 相談することもできた。しかし、解決させるのは当事者である生徒ではなく、先生とその親。正直そいつを、 ぶちのめしたかった。 こらえて、こらえて、この試練を無駄にするものかと自分にいいきかせた。 次第に授業が苦しくなる。クラスの仲間のみどういう状況だったかは知っているがどんなことをされたかはもし、講演会をやらせていただくことがあったらそのときに話をしたい。ここでの説明は避ける。 日に日に集中力がなくなり、授業や自宅での勉強ができない。思うように覚えられないのだ。この高校に進学してよかったのか?と正直思った。 一年生で坊主、二年、三年はこの環境での死闘。しかし、それを支えてくれたのが、 先生とのコミュニケーション。 どんなに成績が悪くても先生は落ちこぼれ扱いをしない。 だからこそ、あえて先生に助けを求めなかった。親にすら、言っていない。言ってしまうと、自らかした試練が無駄に終わる。知っているのは、二年、三年と同じクラスの生徒だけでいい。 大学にいきたいという思いは二年生でなくなった。本当は日大芸術学部の放送学科に入りたかったがそれ以前に勉強ができない状況に陥ってしまった。 弁当を休憩中に食われたこともある。授業中にさされたとき、俺をののしることがずっと続く。その中で、一度だけ、殴りかかっていこうと思ったことがあった。それも授業中である。しかし、それをやったらすべてが無駄になるに違いない。たとえ、当事者が悪くても。。。 年齢を重ね、同級生を訴えようと思った。そいつも自分と同じように家庭を持ち子供を育て上げただろう。次は俺に責任を取ってもらおうと思ったわけ。年月が経ちすぎたから無理だろうなあ。と思うのだが、もう一人のてつおが頭の中で訴える。 そんなことして嬉しいか?裁判をしてまでお金が欲しいのか?? このもやもやを解決したのが栄東高校同窓懇談会に出席したおかげだった。 大学を諦め、専門学校に進学。その後、音楽機材を輸入する商社に就職したが、父が岩手県に家を購入。家族で岩手に引っ越すことになり、一年もたたないまま退職。 しかし、1993年、父の会社が倒産。様々な仕事を経験し、行きついたのが整体師だった。 怪我で2003年、入院。リハビリの先生に感銘を受け、リハビリのような仕事は何ができるか模索。そして整体師の道を歩み始めた。 まずはリラクゼーション会社に就職。盛岡、花巻の温泉施設で施術をしていた。そして、玉川温泉と隣接するホテルで施術することになった。 そこで人生を変える方と出会う。そのお客様を施術したとき、お客様に言われた。 「あなた、このままでいるの?私は経営者だけど現役のエスティシャンよ。今でも、すぐやれるわ。あなたも私と一緒でしょ?」 その言葉をいただき、即行動!玉川温泉へ直談判。年が明けた4月から玉川温泉で働くこととなった。本を出版後、自宅があった平泉町で開業したが一年後、東日本大震災が起きる。 仮設住宅に住まれている方、仮設住宅を作る為に他県から来てくださった作業員さん、そしてお身内や友達を亡くされた方、様々なお客様を施術させていただいた。 自分の家も破壊されたが幸いにして普通に暮らせることができた。しかし、母と次女が入院しなければならない状況になってしまった。 母をこのままにしておくと命の保証はない。手術できるのは仙台と盛岡。自宅から100kmさきである。 そんな状況下の中で震災復興プロジェクトを立ち上げた。 詳しくは以前のブログを見ていただきたい。 生まれ故郷の埼玉県にもどり、即、母と次女を病院へ。無事、母の手術はうまくいき、次女は入院しなくていいと言われた。そして埼玉に戻ってきたことを栄東高校の先生にご挨拶を兼ね報告。 一年生のときの担任の先生、二年、三年の時の担任の先生に挨拶することができた。 2人の担任の先生は、栄東から埼玉栄高校と栄中学校におられたので栄高校の図書館に本を置いていただいた。そして母校、栄東高校に挨拶に行き、在学中に化学を担当されていた先生が教頭をされていてお会いすることがかなった。栄東高校にも本を置かせていただいた。 その数年後に画期的なことが起きた。それは、先に書いた同窓懇談会である。たしか、できたのは2016年だったかなあ?? 栄東高校同窓会 栄東高校OB、OGが一年に一回集まって酒を飲むイベント。このイベントに先生も来てくださる。そして後輩にも会える。辞められた先生もお越しになり、栄東高校に行ってよかったと実感できるイベントだ。 卒業してから恩師に会って酒が飲めるなんて、なんて幸せな学校なのだろう。 先生に、「てつお!本良かったぞ。次の本はいつ出すんだ?」 この言葉を戴いて涙が止まらなかった。三年間の高校生活の苦しさが先生からいただいた言葉で体が浄化されたかのようだった。 その言葉で2,3年の時の辛さは先生の言葉で報われた。 栄東高校は東京大学に入る為の予備校的高校ではない! 熱い熱い先生達が作り上げてきた高校である。その教え子たちが教師として栄東高校の今を支えている。 こんな素晴らしい学校は全国にどのくらいあるだろう。 震災プロジェクトをやり遂げた今、母校に恩返しをしなくてはならない。 同窓会に出席したことがきっかけで考えていて、こんなことをコロナ禍前に思いついて相談しに母校へ行った。それは ブラスバンドとコーラス部とのコラボレーションだ。 この動画を見て感動して思いついた。 STYX in Concert With the Contemporary Youth Orchestra 吹奏楽部とコーラス部で同じステージで演奏。場所など確保できれば前向きに検討するとお言葉を戴いた。 動画はSTYXだが、実はゲストで読んでほしい方がいらっしゃる。それはMR.BIGのベーシスト、ビリーシーンを。 何を途方もないことを! と思われると思うだろうがまじなのです。私がやってきたプロジェクトは音楽を通じて命の大切さを訴え、支援のお礼を伝える活動をしてきた。 2017年、岩手に戻り、凱旋ライブ。この時演奏したのがMR.BIGの曲。MR.BIGの功績を岩手県民に伝えるのが目的だった。 MR.BIGは震災直後の4月に岩手県民会館でのライブを予定していた。ありとあらゆるイベントが中止になる中、彼らは中止にしなかった。 岩手県民会館が使えなかったので盛岡市民会館に場所を変えてライブを決行。どれだけ感謝したか計り知れない。 彼らは少しでも力になりたい一心でライブを行った。 ビリーに凱旋ライブの報告とともに被災地への支援のお礼を伝えたらありがたいことにお返事を戴けた。 こんなハートフルなミュージシャンがいるだろうか?日本のミュージシャンではありえない。 ビリーはコロナ禍の中、岩手に向けてメッセージを送ってくださった。 このご縁で知り合ったMR.BIGのビリーシーンをゲストによび、栄東高校スペシャルミュージックイベントをやりたい。 自分も演奏に参加すれば栄東高校の在学生と卒業生が一緒にできる企画になる。Mr.Bigの曲を演奏してほしい。 ビリーシーンを呼ぶとなると多くの方々の応援とご理解がないとできない。 栄東高校の卒業生として佐藤栄学園の歴史に携わるために考えた企画。どうかお力を貸していただきたい。 宜しくお願いいたします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年09月03日 19時06分58秒
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