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テレビ・新聞が報じないお役に立つ話

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2021.10.23
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下記の記事は文春オンラインからの借用(コピー)です。

 祖父母の介助、障害を有するきょうだいの世話、家族の薬の管理……。様々なかたちで家族の“介護”を担わざるをえない「ヤングケアラー」と呼ばれる子どもたちが、日本には数多くいる。
 そうした子どもたちの支援活動を行う大阪歯科大学医療保健学部教授の濱島淑惠氏は、著書『子ども介護者 ヤングケアラーの現実と社会の壁』(角川新書)のなかで彼らの実情を紹介している。ここでは、同書の一部抜粋に加え、濱島氏による寄稿を掲載。ヤングケアラーたちの苦悩に迫る。
◆◆◆
知られざる「ヤングケアラー」の実態
 小学生の子どもが、家族を介護(ケア)するために学校に行けない。これは遠いどこかの国の話ではない。現代日本においてこのようなことが起こっていることをどれくらいの人が知っているだろうか。
 ヤングケアラー――家族のケア(家事、介護、年下のきょうだいの世話、感情的サポートなど)を担う子ども・若者たちを「ヤングケアラー」と呼ぶ。
 最近になって、複数のマスコミ報道もあり、認知度は少しずつ上がってきたと思われる。2020年度、厚生労働省は文部科学省との連携のもと全国調査を実施し、2021年4月にはヤングケアラーの存在割合について、中学生で5.7%、全日制高校生で4.1%、定時制高校生で8.5%、通信制高校生で11.0%という数字を示した。10代、20代、ときには10歳未満でケアを担い、学校に行けなくなる、体を壊してしまう、友人関係がうまくいかなくなるという子ども、若者たちが相当数いるのである。
 2021年3月、国はヤングケアラーに関するプロジェクトチームを立ち上げ、同年5月に報告書をまとめ、方策を示すにいたった。
 急にそのようなことを言われても、にわかには信じがたいかもしれない。私自身、初めて聞いたときはそうだった。調査を始めたころには、「そんな子どもたちがそんなにいるはずないだろう」などのお𠮟りを受けることも多かった。
 私は2016年に国や自治体に先んじて、大阪府立高校10校の生徒(約5000名)を対象とした調査、2018年度に埼玉県立高校11校の生徒(約4000名)を対象とした調査を実施した。手前みそな言い方になるかもしれないが、これらの調査が子ども自身に対して尋ねた実態調査の先駆けといえる。
 最近、ようやく彼らの存在が社会的に認められ始めたという実感がある。この変化はうれしい限りであるが、懸念もある。表面的な実態把握や支援体制の構築に留まる、一時の流行で終わってしまう可能性は、まだ残っている。今もなお、ヤングケアラーと聞いて抵抗感を持つ人はいるであろう。
 そのようなとき、私はヤングケアラーというテーマがもつ普遍性について触れるようにしている。単にケアをしている子どもが可哀想だから救う、という限定的な話ではない。学習困難、いじめ、不登校、退学、ひきこもり、就職困難、貧困、介護殺人、虐待などさまざまな問題の背景に家族のケアの問題が絡んでいることがある。ヤングケアラーという概念を用いることは、早い段階でアプローチすることを可能にし、これらの問題防止にも貢献しうる。
 もうひとつ、私を悩ませていることがある。ヤングケアラーは可哀想かという疑問である。彼らが抱えるネガティブな面を示すことは、「手伝いだから良いことだ」という一般社会の固定観念を改め、彼らへの支援が必要であると理解してもらうためには、どうしても必要なことである。
 しかし、ネガティブな面ばかりを強調すると、彼らにさらなるスティグマを負わせる可能性もある。かといって、ヤングケアラーはポジティブな存在であると言ってしまうことも、そういう面を強調することにも違和感をもつ。
 さて、これではまだ雲をつかむような感覚が残るのではないだろうか。そこで今回、私が出会ったヤングケアラーたちの語りの一部を紹介したい。ヤングケアラーたちが日々何をしていて、家庭内でどのような役割を担っており、彼らの生活、人生において何が起こり、彼らはどのような気持ちでいるのか、より具体的なイメージが浮かび上がると思う。その際には、ここまで述べてきたことをぜひ念頭に置き、短絡的な評価をしないようにご留意いただきたい。そのうえで社会がとるべき道と私たちが日常でできることを考えてもらえることを願っている。
母と祖母と。3人での暮らしのはじまり
 ヤングケアラーの調査でも多く見られた事例の一つが祖父母のケアである。その一人、Aさんを紹介しよう。
 Aさんは物心ついた頃から母、祖母と暮らしていた。Aさんの母親はもともと体が丈夫ではなかったため、祖母の年金で暮らすようになった。
 Aさんがケアを始めたのは小学生の頃で、母親は体調不良のため、家で休んでいることがほとんどであった。家のことは祖母が中心となり担っており、Aさんはそのお手伝いを始めた。具体的には買い物をしたり、家事を祖母とともにしていたという。
 このような経緯なので、Aさんにとってケアの始まりは祖母の「手伝い」という感覚だった。この「手伝い感覚」というのは、多くのヤングケアラーたちが口にすることである。
 小学3年生の頃には、祖母が腰を痛め、半分寝たきりになってしまった。これによって家族3人が少しずつ力を合わせて生活するようになる。
 Aさんの役割は、病院への付き添い、お弁当等食料の買い物、食事の準備だった。外出できる家族がいなかったため、外出しなければならないような用事は、自然とすべてAさんがするようになったという。祖母の体の清拭(入浴はできなかった)や着替えやトイレの介助も必要だった。これらは母親と協力して行っていた。
 このように祖母が要介護状態になったことをきっかけとして、Aさんのケア役割は増えた。しかし、Aさんが小学生の頃までは、母親がまだ動くことができたため、無理をしながらも、夜間の介助等、かなりのケアを担ってくれていた、とAさんは語った。そのおかげで、Aさんは小学校に行ったり、友人と遊ぶことはできていたとのことであった。
 中学校に入ると家事や身体介助等、Aさんのケアの分担が増えていき、学校を休む、遅刻することが増えていった。学校に十分に行くことができず、家では家族のケアのため、勉強をすることもできなかった。
「勉強には……ついていけなく、なりました」
 さらに、中学時代の友人関係についてはこんなふうに話してくれた。
「学校に、あまり行けなかったから……。友達が、いなかったから……」
「本当に、寂しかった……寂しかったです」
 このように、ケア役割が増え、学校生活や友人関係にも影響が生じ、寂しさを抱えていたが、そのことを話せる相手はいなかったという。学校の先生には「言える雰囲気ではなかった」ため話すことはなく、関係が疎遠になっていった友人にも、深く話すことはできなかった。
ひとりきりであることの不安、重責
 高校は定時制高校に進学した。高校に入ってからも家事、祖母の介助、さらに買い物や通院介助など、外出しなければならない用事は全てAさんが担っていた。当然ながら高校でも遅刻、欠席が多くならざるを得ず、学校でも家庭でも、勉強するような状態にはなかった。無論、友人を作ることは難しかった。
 特に高校3年の頃が一番きつかったという。祖母が病気で入院し、ケアが一時不要になった。しかし、その後すぐ、心臓の弱かった母親が倒れて救急車で搬送された。母親は退院できたものの、全面的に介助が必要な状態になった。
 Aさんは、祖母のケアから母親のケアへと連続するわけだが、ヤングケアラーではこのようなことは決して珍しくない。その場合、ケア役割が切れ目なく続き、その影響は長期化する。
 しかも、母親が倒れたときからAさんは、ひとりで母親のケアを担うことになった。これまでは、祖母または母親と協力してケアをしてきたが、たったひとりでケアを、その責任を引き受けることになったのである。
 10代の高校生がひとりでケアの全て、すなわち自分と家族の生命と生活の全てを引き受ける、ということを想像できるだろうか。これは今までとは異なる次元のケア役割へと移行したと言える。Aさんの生活は、家族のケア一色に染まっていった。
 Aさんは、この高校3年生以降が一番つらかったと言っているが、それはケア負担だけが理由ではない。それよりもむしろ「ひとりきり」だったからだと言う。誰一人として相談できる相手はいない。頼れるきょうだいでもいればいいが、それもない。何かあってもその都度ひとりで判断しなければならない。「ひとりきり」の状況による負担がおおきかった。
「毎日……不安でいっぱいで……本当に、つらかったです」
 さらにこのときの状況をこのようにも語った。
「世話が必要じゃない人が……自分しか、いなかった」
 何とも言えない表現である。自分がケアをするしかない。頼れる人がいない、というケア役割の話だけではないだろう。
 Aさんにとって家族は「ケアの対象」ではない。さまざまな苦難にも一緒に向き合い、時には楽しく笑い、固い絆で結ばれた、愛する家族である。その家族が少しずつ元気を失い、自分を残して変わっていく。深い悲しみ、喪失感、恐れが、そのセリフの根底にあるように私は感じた。それを分かち合える人もいない。この「ひとりきり」の感覚を、高校生のAさんは「ひとりきり」で背負っていたのである。
 ただ、この時期、唯一の理解者がいた。それは高校の先生である。Aさんの欠席の多さを心配し、声をかけてくれた。その先生にだけは家のことを話すことができ、Aさんが何とか卒業できるよう、相談にのってもらえたという。
 先生は介護や福祉サービスのことをよく知っているわけではなく、Aさんの置かれている状況を根本から変えてくれることはなかった。しかし、「ひとりきり」だったAさんにとって、時々行くことができた学校に、話を聞き、理解してくれる人がいて、親身になって卒業できるよう一緒に考えてくれるということ。それだけで大きな支えになったという。
ケア一色、先のことなど考えられない
 高校は出席日数ぎりぎりで卒業することができた。卒業に合わせるように、祖母が退院してくる。祖母も要介護の状態(当時、要介護3程度)であり、Aさんは母親と祖母のケアを一手に引き受けることになる。
 このときにはすでに介護保険制度が始まり、祖母はホームヘルパー、訪問看護のサービスを利用できた。ケアマネジャーの定期的な訪問もあった。その約1年後、Aさんが20代になった頃、母親の状態が悪化し、立つこともできず、寝たきりになる(当時、要介護5)。母親もホームヘルパーと訪問看護、訪問リハビリのサービスを利用し始めた。
 介護保険制度の介護サービスを利用することによって、ケア負担は多少減ったかもしれない。しかし、楽になったという話はAさんからは出なかった。
 Aさんのぎりぎりの生活は続いた。介護サービスが来ている空き時間には、苦しい家計を助けるためアルバイトに出ており、自由になる時間や休む時間は相変わらずなかった。
 また、介護保険を使うことにより、ケアマネジャーとやりとりをし、介護サービスの利用を考え、管理するという役割も生じた。これらはAさんの仕事として追加された。
 本来、20代という自分の人生を歩み始める時期であったが、そのタイミングに乗ることは到底できなかった。一度タイミングを逸すると、社会のメインストリームに戻ることが難しいという特徴が、この日本社会にはある。ケア経験が長期にわたってAさんの人生に影響を及ぼした理由のひとつには、ケア経験が重要なタイミングと重なっていたこともあげられよう。
 このような生活を続けるなかで、Aさんの体調に変化が生じた。まず、食べ物、固形物を飲み込むことができなくなった。Aさんは、理由はわからないが、おそらく精神的なものではないか、と話した。さらに、体重も減り、一番ひどいときは20キロ以上減ったという。
 Aさんが2人のケアを担うようになり、その約半年後、家庭での介護に限界があると自分たちも、ケアマネジャーも判断し、祖母は介護施設に入所することになった。
「これによって、ケアが楽になったのでは?」
 私はそう尋ねた。Aさんは答えにつまり、悩むような様子を見せた。
「それほどでも、ないです。楽になった……という感じは、ありませんでした」
 これがAさんの答えだった。
 理由を尋ねると、祖母のケアはなくなったが、母親の状態が悪化の一途をたどったため、楽になることはなかったそうだ。
自分だけが生きていて申し訳ない
 祖母は施設に入所した数年後に亡くなった。母親のケアはそれから10年以上続いた。Aさんが30代後半になったとき、母親が亡くなった。Aさんのケア生活は、このとき終わったことになる。
 母親や祖母が亡くなったときの気持ちを、Aさんはこのように話している。
「自分だけが、生きていて、申し訳ない」
 ヤングケアラーのなかには、家族のケアが何らかの理由で終わった後、「介護ロス」のようなものを感じる者が少なくない。ぽっかりと心に穴が開き、自分のアイデンティティや人生の意義、目標が見いだせない、何もない自分に気づいた、どう生きていけばよいかわからなくなった等の話をよく聞く。
 物心ついたころから3人で力を合わせて生きてきて、10代の頃から母親と祖母を中心とした生活を送ってきたAさんの心に最後に残ったものは、安堵の気持ちでも解放感でもなかった。変わらぬ深い孤独と罪悪感に近いものだった。
濱島 淑惠





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最終更新日  2021.10.23 15:30:05
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