『カントはこう考えた ― 人はなぜ「なぜ」と問うのか』 石川 文康 著 とうぶん読まないので、忘れないように日記にする。
自分がなにを考えているのか、感じているのか、言語化がむずかしいとようちゃん2号、思っているのね。ところが「むずかしいわけがない」って言う人がいる。ようちゃん2号、ちょっとこの人に今、傲慢さを感じている。この人、理性で何でも説明できるというようなところにいるように思う。 確かにね、少なくとも自分で言語化できるとわかっている範囲のことは、それほどむずかしくはない。どう言えばいいのだろう…?「理性で捌けるものの空間の中では、むずかしいことは発生しない」と言うのかな?そこからはみ出すようなことを、今、考えたいのだと思う。以下↓引用。-------------------------------------------学生時代のある春の日、一冊の哲学入門書を読み始め、最初の一ページで強いショックを覚えた。哲学とは何かを知りたくて飢えていただけに、なおさら驚いた。というのは、その箇所には、ほぼ次のように記されていたからである。 哲学とはなにか、そもそも「なにか?」とはなにか……、と。哲学とはなにか以前に、「なにか?」とはなにか、という問いがある。それを知ったショックのあまり、先へ読み進んだのかどうか、読み進んだとしても、どこまで読み進んだかは、今となってはよく覚えていない。しかし、「哲学とはなにか」という問いが直接には答えられていないにもかかわらず、そのことでかえって、哲学とはどういうものなのかが、直接答えられる以上に答えられているように受け止められた。哲学のはっきりした輪郭はつかめなかったものの、そのスタンスだけははっきり感じ取ることができた。そして、それで十分だった。-------------------------------------------以上↑引用。その人が設定したものではあるのだけれど、自身を捕らえて放さない問いってあると思う。著者が読んだ本には、哲学とはなにか、が直接文章化されていないのだけれど、哲学とはなにかが著者はわかった、と捉えたということだよね。(「感じ取ることができた」=「わかった」としてはだめかな?)そうすると、人が「わかった」とわかることができるのはなぜか?、ってのが、たとえばようちゃん2号が今、考えたいことの一つみたい。(その一つの答えは、一応は日記にした。トラックバック)人の文章を引用するのは、自分にとってむずかしいと思えることを言語化するための練習のようにも捉えているかな?