カテゴリ:神社仏閣・参拝
先日書いた 琵琶湖周辺の3世紀頃のリーディング の続きです。 今回の3世紀のこの時代を リーディングするにあたっての キーポイントは2つありました。 一つは、前回のブログで描いた 私が気になっていた ▲ そして、もうひとつは 銅鐸です。 今日は▲について 書いていきたいと思います。 長浜港からはじめに向かった 竹生島は日本三弁財天のひとつ。 (安芸の厳島、相模の江ノ島) ここに逃げてきた、人間だった頃の 市杵島姫(弁財天)は kumikoさんのリーディングによると この場所で亡くなっているようでした。 生前に一度、訪れていて ここで死のうと決めていたようです。 穏やかに見えたこの島では 私もですが、みんな何か心の奥底 ぐっとくる祈りにも近い 強い思いを感じていたようです。 この島に、神社やお寺などが建てられたのは、 この時代から、もっともっと 何世紀も先のお話。 下の写真は、昔の船着き場 だったらしい場所。 たぶん、この島を訪れて、 ここに来られる方は少ないことでしょう。 かなり分かりにくい場所です。 この場所に降りたときに 私は気圧が下がったかのように、 頭が締め付けられた感覚と共に、 懐かしいような、切ないような・・・ 不思議な感覚となりました。 kumikoさんに、 “ この感覚は21世紀じゃないね。” と言われて、その時やけに その言葉に納得した気がしました。 そんな想いを抱きながら、 私たちは竹生島から、今津へ渡り、 そこから、白髭神社へ向かいました。 白髭神社には 寿老神と弁財天を祀っている 祠がありました。 神社にまつわる歴史を見ると、 垂仁天皇の時代に創建されたといわれています。 近江最古の神社で湖の中に鳥居があり 近畿の厳島神社ともいわれております。 実際、垂仁天皇の時代というと 5世紀辺りであり、その後も、 多くの歴史を残してきた場所でもあります。 しかし、今回のリーディングでは、 この白髭神社周辺は、 3世紀、まだ神社も無かった頃なのでしょうが、 追いやられた民族たちにとって、 大きなポイントとなっていた場所のようです。 この神社から右斜め前方に 沖島という島があり、 その先にはキレイな三角形の山が見えます。 (御上山・近江富士ともいわれているそうです) 前回のブログで描いたキーワードの ▲ が、ここに出ています。 そのキーポイントの更なる鍵となったものが、 安曇川町で立ち寄った、 神代文字の石でした。 写真の看板にも書かれているように、 まだ解明されていないとされる内容を、 今回リーディングで読み解いていきました。 ただ、あくまでも リーディングです。 写真だと見にくいので、 絵に書いたものですと、 こんな感じです、 ↓ この神代文字のリーディングによって 分かったことは、文字は3世紀のころ、 敵に追われて逃げてきた民族が かなり、切羽詰まって 同じ民族に伝えるために 書いた内容だったというのです。 そんなこと、どこにも書かれてはいません。 これはリーディングにより見えたことです。 この神代文字の石は 当時の紙も連絡手段もなかった時代の 唯一の手段であり、 道標(みちしるべ)だったようです。 逃げてきた民族がその一族のために、 必死に伝えたことのようでした。 神代文字の内容は、白髭神社辺りから 琵琶湖を挟んで、反対側に見える 三角の山(御上山)の麓を見て描いたもの。 文字の左右にあるラーメンマークのようなものは、 その一族にしかわからない、 〇〇へ、 というような記号だそうです。 その記号によって、自分たちの一族に 伝えているということがわかったのです。 真ん中に伸びている、木々のような模様は 正しく木々そのものであり、 この木々を抜けて、琵琶湖を渡り、 三角の山(御上山)の麓で、 一族みんなが集結できるよう。 必ず、生き残るんだ。 という決死の思いで、 一族に伝えるために 彫ったということだったのです。 このリーディングを主催された kumikoさんは、 この神代文字の内容を以上のように読み取り、 非常に切羽詰っている危機感を 読み取られています。 それを聞いた歴史研究科のR氏は これまで解明できなかった部分の 紐が解けたようで 涙が出るほど嬉しかった・・・ ・・・とのことでした。 私が、はじめこの神代文字を見たときは やはり、 山の麓の川のように見えるもの これは琵琶湖で、その奥に木々が生えしげり、 空に伸びていく様。 ・・・という感じで 絵に書かれたそのままを見ていましたが、 観ていて次第に、 これからのこの民族たちの 子孫たちへ向けての 五穀豊穣や、子孫繁栄としての メッセージに見えてきました。 kumikoさんも、 一族への生き残るための 道標(みちしるべ)のなかに、 男たちや年配・老人である自分たちが戦うが、 女や子どもたちは何としても生き残って、 子孫を残していってほしい。 そんな強い思いが 感じられていたようでした。 そして、驚いたのが、 この石に神代文字を彫ったのが、 なんと人間として生きていた頃の 寿老神 だった。 と、kumikoさんは見えたようです。 私も、それには鳥肌がたちました。 安曇川町の、神代文字の石のあった場所から、 私たちは、琵琶湖大橋を渡り、 御上山の麓まで車でいきました。 山の麓には御上神社があり、 その鳥居をくぐると、 御上山と並行して置いてあるかのような 三角の石がありました。 先ほどの神代文字の手前に書かれてあった、 山の麓の▲マークは まさに、この石だったようです。 ここで一族がみんな、集結できるよう、 人間だった頃の寿老神は 伝えていたのだそうです。 この御上神社、 実は、後に征服した民族によって 作られたものだったようです。 今回このリーディングに参加した 7人のメンバーは、 追われていた民族に係る人物 ・・・だったのかもしれません。 私もそんな気がしました。 後で、今回のリーディングの旅を振り返り、 Mさんによる、L字型のダウジングで、 果たして逃げていた民族(龍族)は どのくらい生き残ったのか・・・。 という問いに対して、 30% と言う答えでした。 しかしほとんどの男たちは 殺されていたようです。 でも、絶滅ではなかった。 これだけこの旅を通してきたのに、 その頃の歴史の背景など、 詳しい成り行きすら、無知な私でも、 当時の方々の強い思いや感情を感じられた、 貴重なものでした。 もうひとつ感じたこと・・・。 ほとんどの歴史は、 後からの征服者達により、 自分たちの都合のいいように かなり書き換えられたり、作られたり 真実が見えないことの方が ほとんどなんだな・・・。 ・・・そんな風に感じました。 最初にあげた、もうひとつのキーワード。 銅鐸 これについても、知らなかった事実が たくさん見えて 感動しました。 銅鐸については、 またにします・・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Mar 27, 2011 11:55:20 AM
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