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2006年05月31日
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テーマ:歴史の穴場(1)
カテゴリ:歴史
江戸時代の名君といえば、恐らく真っ先に出てくるのは上杉鷹山だろうと思います。保科正之はその影に隠れてしまっていますが、ひょっとするとそれ以上の名君ではないかという説もあります。

保科正之という人物は、一応高校の日本史の教科書には載っているはずですが、殆どの人は覚えていないだろうと思います。まずは簡単に略歴から。

1611年生まれ。父は徳川2代将軍秀忠。3代将軍家光の異母弟。信州高遠藩保科家の養子となり、その後山形を経て会津に移る。家光死後、4代将軍家綱の後見人となり幕政を補佐。1672年没。

大阪夏の陣の後、武家政治が武断政治から文治政治に移り変わっていく時代を引っ張っていった人で、かつ会津藩の基礎を築いた人です。

保科正之の後、会津藩3代目の時に幕府から松平姓を与えられ、幕末に歴史の表舞台に出てくる会津藩というのは、この系統です。幕末の藩主松平容保は幕府からの京都守護職の打診を再三断ったのですが、保科正之が幕末に生きていたらきっと引き受けたであろうと口説かれ、断れなくなったという因縁があります。

家光の異母弟というところがミソなのですが、秀忠は大変な恐妻家で、正室於江与の方は淀殿の妹でしかも6歳年上でした。そんな中で側室に極秘に産ませたようですが、於江与の方に知れると命をも狙われかねないということで、武田信玄の娘の見性院に預けられ、更には信州高遠の保科正光の養子となっています。

家光も正之の存在は将軍になってから知ったようです。家光は40代で亡くなり、まだ元服前だった4代家綱の補佐を任され、大老格として幕政を引っ張ることになります。現在の皇居東御苑に江戸城天守閣跡がありますが、これは正之の時代に明暦の大火で焼け落ち、その後再建されず今に至っています。天守閣は戦乱の世に威厳を示すだけのものであり、平和な世ではもっと他の復興に力を入れるべきといって、再建しないことを決断したのが正之です。

また会津藩においては、当時の武家社会の慣例として主君が亡くなると殉死者が必ず出たのですが、会津では真っ先にこれを禁じました。また社倉といって非常時に備え米を備蓄する制度を設け、飢饉の時には他藩では餓死者が相次ぐ中、会津ではその米を放出して餓死者が出ないようにしたそうです。更には領内の90歳以上の民には身分を問わず禄を与え、これは日本初の国民年金制度とも言われています。現在の国民年金制度が確立したのが1961年ですから、300年も前にそういう仕組みがあったというのは、驚くべきことです。

明治維新の際に会津藩は朝敵とされたこともあって、それゆえ明治の世では採り上げられることも少なくなり、現在もあまり知られていないのではと思います。





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Last updated  2006年05月31日 23時59分56秒
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