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2006年06月17日
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テーマ:歴史の穴場(1)
カテゴリ:歴史
徳川慶喜といえば、大政奉還をした江戸幕府の最後の将軍というのはよく知られていると思います。鳥羽伏見の戦いで敗れて、大阪から江戸へ逃げ帰ったところまでは教科書にも載っていますが、その後どうなったかはあまり注目されていませんね。

この徳川慶喜ですが、結構長生きします。将軍の時が30そこそこで、77まで生きています。亡くなったのは大正2年で、明治天皇や維新の三傑をはじめとして明治維新の主要人物の大半は先にいなくなっています。

ではその間どこで何をしていたのか?実は維新後30年近く、静岡で隠居生活を送っていました。公式な謹慎処分は最初の2年間だったようですが。明治維新で幕府が完全に崩壊して、徳川家はその後廃藩置県まで静岡藩70万石の一大名として扱われます。慶喜も最初は水戸で謹慎していましたが、それに伴い静岡に移ります。

慶喜ゆかりの地は静岡駅からもそんなに遠くありません。最初に入ったのが宝台院という寺院で、その後そこから近い紺屋町の旧代官屋敷に移ります。ここは今は浮月楼という料亭になっています。値段が値段ですので、我々庶民がちょっとランチという訳にはとてもいきませんが。入口脇に「徳川慶喜屋敷跡」という石碑があります。その後東海道線の開通により騒音を嫌って、西草深の方へ移ります。これがどこなのかはまだ知らないのですが。

以前このブログに書いたかどうかわかりませんが、静岡は歴史の宝庫です。慶喜が静岡で余生を送っていたというのは、何年か前に大河ドラマで慶喜が採り上げられ色々な特集が組まれるまで私も全く知りませんでした。駿府は今川や家康だけではありませんでした。

静岡時代の慶喜は趣味に生きることになります。油絵や鷹狩、写真、囲碁等々。写真は最初の頃は写真師に撮らせ、その後は自分でも撮るようになったようですが、当時の静岡の様子を今に残す貴重な資料となっています。

明治30年に東京に戻り、天皇に謁見しその後公爵となります。住居は巣鴨を経て今の文京区の茗荷谷の近くに住むことになります。ここは今は確か財務省の職員宿舎になっていると思います。当時の面影は銀杏の木1本しかないのですが。最近都内一等地の公務員住宅を売却すべきという議論が政府内で行われていますが、民間の手に渡ると分割されたり多分跡形もなくなってしまうのではと思います。ちょっと気がかりではあります。





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Last updated  2006年06月18日 11時40分34秒
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