ちょっとした失敗談◆肺結核になってしまったことがある。30歳の終りころ。 広告代理店の激務でやせすぎて弱った身体。 栄養失調から風邪などこじらせて脂汗が出る毎日。 夜な夜な死神のような影におびえ、金縛りに会う夜。 31歳の誕生日は入院した長崎のベッドで迎えた。 その前には破局も一度経験している。 吉祥寺の結婚式場押さえた後での破局破談。ああ。 その後、初秋の御宿を雨に濡れて彷徨い月の砂漠を歩いて 熱と悪寒でゾクゾクしながら泊まる宿も決められず 日帰りしたことがあったなあ。 その後、藪医者に治療を受けて結核が誤診されて、 軽いリューマチと軽い栄養失調と診断されて薬を 沢山調合していただいて半年間のみ続けたが、 全然治らなくて、いっそ薬飲むのをやめたら食欲が出てきた。 元気になった気がした。仕事はハードだった。 昼食に暇もないくらいだった。病院にいくのはいつしかやめた。 半年ほど、一生懸命働いた。身体はけだるく、 新富町の地下鉄の階段を普通に歩いては登れず、 膝を持ち上げて階段登る男になっていた。 そして月日だけが過ぎた。 集団健康診断の時期にレントゲンには、100円玉大の肺の穴が開いていた。 オミゴトだった。 「空気が肺の外に漏れてますよ。よく生きていますね。」 レントゲンの写真を持たせてくれたお医者さんはそう言った。 社長に見せたらT社長が、仰った。 「ヨクナルナル!すぐに君の故郷の病院で療養しなさい! 戻ってくるのを待っているから、安心していってきなさい!」 それから5ヶ月間、私は入院した。 その後には退院して、東京の広告代理店に戻り その社長の下、16年間勤めた。 とても短い輝いた16年間だった。 ◆さて、結核入院生活は結構楽しかった。 4月から入院して退院したのは10月の半ば頃だったであろうか 真夏には、病院を抜け出して、結核で入院している患者でありながら 病院裏の山越えて近くの川で裸になって泳いだ。何日か日課のように 川遊びした。岩の上で甲羅干し。時にはすっ裸。川の流れに河童のように 戯れた。随分と日焼けもしていた事だろう。 回診で回ってくるお医者さんに、「地黒ですか?」 「随分元気なからだになっていますよ、驚異的な回復です!」 なんて言われましたっけ。キャ!バレテル?そんなまさか。 「はい、地黒です!ありがとうございます!」と答えた。 いつも一緒にすごす入院仲間さえ知らないことだから、 (他の患者は川で泳ぐ元気はないし)バレテルはづがない。 そう思い込んでいた。今もそうだったと思っている。が...?。 持ち込んだラジカセから聴こえてくるFMミュージックが心の慰めだった。 会社の社長からは月に一回ほど状況伺いの電話が東京から入った。 「早く帰ってこいよ!君の仕事が待っているよ!」と、嬉しかった。 大分元気になった頃、一度だけ外出許可が下りて佐世保まで遊びに行った。 バスに乗って佐世保まで行くのがチョット不安だった。 しかし、外の空気というか、四ヶ町商店街での本屋やデパートでの散策や 買い物、見学がとても生きた心地したものだ。 元気で暮らせるって、元気で街歩けるってしあわせだなあと痛感した。 そんなこんなで元気になって、5ヶ月の入院生活は終わった。 入院してる間に何人かの同部屋の患者さんが亡くなって行った。 人生の終末のあっけなさを目の当たりにした。 蛍光灯の天井を見ながら、元気で働ける事がいかに幸せな事かを認識した。 つまり健康に生きられる、それだけで幸せだということを痛感した。 そして東京の昔の職場に戻った。 皆面白がって「亡霊が戻った」と噂された。 「ヨクナルナルは死んだかと思った」と言う輩も何人もいた。 ビジネス社会で5ヶ月音沙汰なしの自分は忘れられかけて居たと言うわけだ。 東京はそういうところだ。 ◆リストラも経験した。 17年勤めた会社を会社の不景気のあおりで、来るか来るかと思っているところへきた社内リストラ。17年ついてきた社長に、他で、君ならがんばれると言われて肩を叩かれて「一度は地獄をみろ!」ともお言葉いただいて、その気になって、1ヵ月後にその会社を去った自分。サラリーマンの悲しさを身に沁みて感じたね。 ◆独立して生きていくことは運命だったかもしれない。 それから6ヶ月後に会社設立して独立した。 随分と悩んだ。林や山にこもった。考えた。3ヶ月くらいで決断した。 そして今の自営業の生活に入った。というわけ。 またいづれそのあたりの事を語ろう。 -------2009.1.1 ジャンル別一覧
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