3007627 ランダム
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よろず屋の猫

春の予感

彼は春の到来を感じさせる最初の風が吹く頃、祖母の薬を作るために家を訪ねてくる。
その前はひどく年老いた蟲師がその仕事を行っていたらしいが、私は覚えていない。
彼の最初の記憶は、老蟲師に手を取られ玄関に立つ姿、私はまだ3歳位だったと思うけれど、鮮明にその時のことを覚えている。
私より4つ年上の兄より、もうちょっと大きい「お兄ちゃん」は銀色の髪と、緑の瞳を持っていた。
その瞳が「お日様に透かした葉っぱのようだ。」、と思ったから。
けれど彼は覗き込む私から、ふいと視線をはずし、庭の方を、まるでなにかがそこにいるかのように眺めるのだった。
最初の年、私たちはほとんど会話をすることなく、彼はもっぱら老蟲師に薬の作り方を教わることですごした後、再び老蟲師と共に旅に出た。
次の年、老蟲師は彼を私の家に預けて、一月ほどして迎えに来た。
そして次の年からは彼が一人で訪ねて来るようになった。
「おじいちゃんはどうして来ないの。何故お兄ちゃんを一人にするの」と問う私に、
「あの子はね身寄りのない子なのですよ。おじいちゃんとは血がつながっていない。」と祖母は応えた。
「おじいちゃんもたまには自分の家に帰りたいのでしょう、だからあの子に私をまかせることにして、その間は家族の元に帰るのね。」
老蟲師はたまたまその時に彼の面倒を見ているだけ、今まで何人もの蟲師について旅をし続けてきた。蟲を寄せ付ける習性の彼は一所に長くはいられない。これからもそうして一生を旅で暮らすのだろう、と。
私は泣いた。泣いて泣いて祖母に訴えた。
そして次の彼の訪問からは、客用のではない、彼の布団や茶碗などが用意されるようになった。

祖母はこの町から街道を西に下った海辺の村の出だった。
その村では多くの者が奇妙な病にかかる。まるで風土病のように。
「放って置くと骨がぼろぼろになって、すぐに折れてしまう。やがて身体がまるで芯がないかのようにぐにゃぐにゃになって死んでしまうのよ。」と祖母は説明した。
蟲のせいなのだと言う。
蟲師が調合する薬を梅雨の間飲めば、つつがなくその年を過ごすことができる。
だから蟲師はその村では大事にされた。
多くの職人をかかえる機織工房の跡取り息子だった祖父は、商用の帰り道に村を通り、祖母を見初めた。家族は大反対だったらしいが押し切り結婚すると、祖母のために蟲師が家を訪れ、薬を調合できるように手はずを整えた。
薬は村に生える幾種かの草から作られる。
私の家の庭にも植えてみたが、どうしても根付かないものもあった。
蟲師は春のはじめに村で採ったそれらの草をもって家を訪ね、庭の草をたし、軒先に干して乾燥させた後、薬を作る。
梅雨の間、毎朝祖母はその薬を煎じて飲む。
薬が残りわずかになった頃、梅雨が明ける。

「凪殻と言うんだ。」と彼は絵を描いて説明してくれたことがある。
「本来は海に住む生物に寄生してる。ひどく弱い蟲なんで身を守る殻が必要なんだ、だから宿主から栄養を奪って作る。」
まるでカタツムリのようなその蟲はたいていの人の目には見えないと言う。
「産卵時期は梅雨。孵った幼蟲には殻がない、その期間に薬を飲めば幼蟲は死んでしまう。」
けれど親蟲は一度寄生されたら取り除くことができないという。だから一生その期間は薬を飲み続けるしかない。
私や兄は彼の蟲の話が大好きだった。彼が来るたびに新しい蟲の話をせがんだ。
彼は、やれやれと言う顔をして、淡々と話し出す。
蟲が見えない私と兄にとって、それは御伽噺のように不思議なものだった。

ある年、彼は家に来ると「へぇ。」と私を見るなり言った。
けれど私がみつめても彼とは目が合わない。
彼の視線の先は、私の周囲をさまよっていた。
「あんた、運が良いヤツだな。」
私は「何?。」と聞いたけれども、そのことについては決して語ってくれなかった。
「ま、負けないようにすることだ。」と言うだけで。

今朝、風に春を感じた。
私はやりかけの機織もそっちのけで、彼の物を押入れから出した。
職人達の織物を小さい頃から見慣れた私は、いつしか自分もするようになった。
カタンカタンと乾いて響く音が好きだ。
歌を歌いながら、または幸福な空想に想いを馳せながら、私は一定のリズムではたを動かす。
出来上がっていく織物は、春の訪れのように心を慰める。
吹きすさぶ木枯らしの季節も私は寂しくなかった。
私の織物はとても評判が良い。遠い大きな街からも買い付けに人が訪れてくるのだった。
彼の皿や茶碗、箸を洗い、布団を庭の物干しに干す。
家人はそんなことはお手伝いの者にやらせれば良いと言うが、頑として私は譲らなかった。
空気はまだしんと冷たいが、風はもう既に春を迎えた里を通り、この庭にも予感を運んできた。
私は縁側に座り、ほんのわずかに冬とは違う、陽の明るさを見る。
眠りに誘われながら、もうじき帰って来る彼を思う。



この町に来ると、帰って来たと思えるようになったのはいつからだろうと蟲師は思った。
彼は人の多い場所は苦手だし、幾ら小さな町とは言え、ここにそんな気持ちを抱くのは自分でもおかしかった。
訪ねる家はこの町では名家の一つだ。蟲に寄生された老婦人のために薬をつくる。
町の中心の路を東に進むと立派な門が見えてきたが、彼はいつもそうしてきたように、庭に通じる裏口にまわった。
縁側で少女がうたた寝をしている。
彼がこの家に一人で訪れるようになった次の年。
少女は彼の腕をとるなり、まず二回の一室に連れて行った。
「ここがあなたの部屋、あれがあなたの服。」と、この工房で織られた織物でつくった丹前を指差さす。
そしてお勝手に連れて行き、食器棚をあけると、
「これがお皿、これがお茶碗、これがお箸・・・。」と次々と見せるのだった。
少女の祖母がこっそりと、少女が泣いて用意するようにとせがみ、内、箸は少女が自分のお年玉で買ったものだと教えてくれた。
彼は少女を見つめた。
いや、もう少女と呼ぶ時期はすぎてしまっただろうか。
いつの間にこんなに美しくなってしまったのだろう。
上等な絹のようにきめの細かな白い肌、健やかさを見せる薄桃色の頬、午後の光の中で匂い立つように存在している。
下ろしている髪が風に吹かれてふわりふわりとなびく。
その髪と踊っているかのように、蟲が遊んでいた。
輝精。
その蟲は人の気を養分とする。しかしえらく贅沢で、穏やかで柔らかな、人をも心地よくする波を持つ気しか喰わない。
輝精はりん粉を放出する。幾色にも輝くその粉は蟲を見ることが出来ない者でも、その感覚に触れることが出来る。
りん粉は宿主の指を伝わり、宿主が作り出すものに移り、至上の品とする。
世の美しいものを作り出す者達には、輝精がついていることが多い。
けれども輝精も所詮は蟲。宿主が気を保つことが出来ることがなくなると、あっさりと捨てて他を探す。
見捨てられた者の中には、もう二度と自分が人々を感嘆させる物を作り出すことが出来ないという事実が受け入れられず、堕ちていく者もいる。
今も彼女のまわりに輝精がいることに、彼はほっとする。
彼女が今も変わらぬことをあらわしているから。
彼は彼女の頬に手を伸ばす。
輝精が阻むかのように彼の指の前で動きまわる。
「妬くなよ。」と彼は手をひらひらさせる。
「おい、こんなところで寝てると風邪ひくぞ。」
その声に彼女はうっすらと目を明ける。
逆光の中、男を確かめるように目を凝らす。
銀の髪と緑の瞳。
彼女の顔に見る間に微笑が浮かぶ。
あぁ、今年も春が来たのだと蟲師は思う。
「おかえり、ギンコ。」
「ただいま、律花。」


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