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よろず屋の猫

金曜日のラララ (1)

『金曜日のラララ』

彼が歌っている。
中庭を持つ“ロ”の字型の校舎の西棟二階にある第三音楽室は、放課後、軽音部のテリトリーとなる。
彼は県道に面した窓側の机に腰掛けて、ぼんやりと外を見ながら、この夏、とても流行ったバラードを口ずさんでいる。
ラララ・・・、とメロディーをなぞる声は、その歌を歌うボーカリストがそうであるように、高音部でかすかにかすれる。
晩夏の、夕暮れの日差しはもはや熱を失い、彼の横顔に寂しげな陰影を彫る。
私は、そう整った顔立ちでもない彼が、何故あれ程に女の子たちの心を騒がせるのか、胸の痛みと共に思い知る。
「ラ・ラ・ラ・・・。」と私は声を重ねる。
私と彼の声質は相性が良く、とても綺麗にユニゾンする。
開け放たれた音楽室の引き戸に寄りかかっている私に気づき、彼はデュエットを楽しみ始める。
すると私達の歌は、上質のシルクのように、柔らかな金色の西日に染まり、静かに時を織る。
「なぁ、麻美。」と彼が、まるで歌の続きのように私に呼びかける。
「このまま時が止まっちゃえば良いのにな。」




電話が鳴っている。
一度は無視しようと思いながら、それは執拗になり続け、麻美のまどろみを破る。
ドレッサーの上の時計を見れば、午後三時をわずかに過ぎたところ。
留守番電話にしておかなかった自分に舌打ちしたい気分になりながら、麻美はベッドから抜け出る。
綿毛布の上にミステリーの文庫本。
またたいして読み進めなかった、これではいつ読み終えるか知れたものではない。

なり続ける電話。
受話器に手を伸ばしながら、その上の鏡に映った自分が目に入り、一瞬「これは誰だろう」と思う。
張りを失いかさついた肌はきめが粗くなっている。
鼻頭の毛穴の汚れは黒い点になり、右頬にある米粒ほどの染みはホワイトニング美容液をつかってももう取れない。
つやのない髪、数本だが白髪が見つかる。

鏡の中の女がフッと表情を緩め、諦めに似た笑みを浮かべた。
あんな夢を見たからだ。
博志、あれは博志だった。
まったく博志ときたら、相変わらずカッコ良いんだから。

そして麻美はもう一度鏡を見る。
肌だって髪だって、高校生と比べればそりゃ劣るが、三十代後半の女にしては決して悪くない。
けれど同時に、もう少しお手入れに気を配ろうとも思う。
油断していれば、あっという間に年齢との戦いに力つきてしまう。

まだ鳴り続ける電話、もうそろそろ諦めても良い頃なのに。
それが麻美の胸をあわ立たせる。
ディスプレイの番号は携帯電話からのもので、登録していないものであることを示している。

「私、遥」と電話の相手はいきなりそっけない声で言った。
高校時代の友人、妙な偶然もあるものだと麻美は思う。
「携帯変えた?」
「うん、まぁちょっとゴタゴタがあったもので」

昔から遥にゴタゴタは付き物だった。
高校時代はヤンキーと言われ、卒業後はホステスになった友達。
付き合っていた男の、本妻に乗り込まれたこともある。

「なぁに、義之さんと別れたの?」
「うん、それはまぁ、良いんだ、別件で」と遥は言う。
そして続けて言う。
「博志が死んだ」

その言葉は確かに麻美の耳に届いた。
なのに瞬時に心にシールドが張られたみたいに、麻美の内へとは染みとおらなかった。
だから何の感情も湧き起こらず、「ふうん」とつぶやくだけだった。

博志、死んだんだ。
人が死んだんだから、原因があるはずだ。
淡々と麻美はそう思う。
だから「どうして」と尋ねる。

けれど「ど・う・し・て」と舌に乗せた瞬間、麻美は理解した。
博志が入院していたのなら、誰かから連絡があったはずだ、だから病死ではない。
麻美は既に同級生を一人交通事故で失っていたが、博志にはありえない。
ちゃんちゃらおかしい。
博志はそんな“普通”の死に方をするはずがない。

麻美の考えに、上手に言葉をあてはめて教える教師のように遥が言う。
「自殺」




神奈川県立S高校は田んぼの隣に立っている。
昨年の文化祭の時にキャッチフレーズを「明るい農村・S高校」にしようと言う話があったそうだ。
生徒達はけっこう面白がっていたのに、教師達は青筋立てて怒ったと、先輩から聞いた。
「It was only joke」
しわがれた声のロックミュージシャンの真似をして、先輩は続けた。
「まったく教師ってヤツはよ。」

そんなことはどうでも良い。
私は泣く場所を探しているのだ。

放課後の人気の消えた南棟校舎は、とうに陽はささなくなっており、梅雨を向かえる前なのでとても涼しい。
校庭から運動部がランニングする掛け声が聞こえる。
低く単調なリズムの合間をぬって、カキーンとバットがボールを打つ音が響く。
今日は金曜日だから、校庭を使っているのはサッカー部と野球部か。

南棟の突き当たりを曲がって西棟に入ると、第三音楽室が見えた。
金曜日は、軽音の連中はデート費用を稼ぐためのバイトの日。
クラスメートの浩二に聞いた事を思い出して、あそこにしようと決める。

失恋なんて、よくある事だわ。
卓也が恵美を好きなことは知ってたし、遅かれ早かれこうなることも分ってた。
そう思う心を裏切って、卓也と恵美が教室から仲良く、回りの男の子たちの冷かしを浴びながら出て行くのを見た時の、心臓が引きつるような感覚が蘇る。
心配をする友達に強がって見せたは良いけど、それに疲れてしまったらしい。
一人になったら目頭が熱くなった。

とにかくどっぷり失恋気分に浸って泣くのよ。
そしてさっぱり諦める。

人がいるとは思ってもみなかった。
だから引き戸を開けた音楽室の、窓側の机に座って県道を見ているシルエットを見て、「あぁぁ・・・」と間の抜けた声が出た。

彼はゆっくりとこちらに振り向いた。
口元が薄く開いている。
わずかにかすれた声が耳元に届き、それで彼が歌を歌っていることに気付く。
イギリスのバンドのバラードだ。

柏木博志。
隣りのクラスの男の子。

「何の用?」

歌の続きみたいに聞こえたから、私はただただポーっと彼を見ていた。
窓からの西日が強くて、彼の表情が良く分らない。
ズボンのポケットに両手を入れ、心持ち上身を前に折り、机に浅く腰掛けている。
無造作なのに、ファッション雑誌のモデルの取る完璧なポーズのように見える。
髪が金色に透けて、空いた窓からの風に揺れる。

「何で泣いてるの?」

やっと私に話しかけているのだと気付き、慌てて目をぬぐう。
指はたいして濡れない。
なのに彼は分ったのだろうか。

「泣いてなんかいないわ」
「ふふーん。」

頭を大きく後ろに反らし、唇の端をグイと上げる。
「失恋でしょ」
いじわるい響きが唇から漏れる。
さっきから私は彼の唇ばかり見ている。
独立した生き物みたいだ。
歌を紡ぎ出す小さな生物。

「さっき卓也と恵美が仲良く帰っていったからね」と親指で窓を指す。
強烈な西日に慣れてきた目が、彼の顔を捉えるようになる。
切れ長の目。
その目のすぐ上に薄くかかる前髪は茶色がかっている、染めているんだろうか。
唇は薄く、皮肉な言葉が似合いそうだ。
酷薄な印象をわずかのところで免れているのは、笑うと奥二重の目が優しい弧を描くからだ。

「櫻井麻美さん、浩二と同じクラスでしょ。
 浩二、あんたの事気に入ってるんだよ、知ってた?。
 なのにあんたは卓也の事が好きらしいって、嘆く嘆く」

浩二の気持ちなら知っている。
私と浩二が話をすると、他の男の子達がはやす。
それでどうして気付かないでいられる?。
でも気のない相手なら、そ知らぬふりで流せるようじゃなきゃ、女子高生なんてやってられない。

「浩二君はカッコ良い。でも軽音の男はイヤ。女ったらしばっかじゃないの。」
アハハハハ、と身体を勢いよく身体をのけぞらして愉快そうに博志は笑った。
「えぇ、そんな事、急に言われても困るぅ・・・ってさ、出来ないの?」
右手をジャンケンのパーのように開いて口元に当て、肩を揺すった。
恵美の得意のポーズ。
男の子には「可愛い」と評判だが、女の子からは総スカンを喰っている。
恵美が居ない場所で、みんな真似してあざ笑っている。

「だから卓也をもってかれちゃうんだぜ」

どうしてクラスの違う、今まで一言も口をきいた事のない彼に、こんな事を言われなくちゃならないんだろう。
頭にきて、私は持ち前の生意気さをぐんぐん取り戻すのを感じていた。
「男の子って可愛い仕草ってヤツが大好きなのよね、簡単にだまされちゃう。あなたもそうだったんでしょ。中学の時に付き合ってたって聞いてるわよ」
「別にだまされてなんかないよ。一生懸命可愛く見せようってのは、男にとっちゃ悪いことじゃないんだし。でも・・・」
「でも何よ」
「厭きた」

イキがってる風にも見えなかった。
ポンと放り出された言葉は何の感情も込められてなくて、だからこそ残酷だった。
私はほんの一瞬、恵美に同情した。
彼が次から次へと女の子を変えると言う噂は、どうやら本当らしい。

「卓也もその内、恵美に飽きるさ。」
「別れるのを待つなんて趣味じゃないわ」
「だったら本気で考えてみなよ、浩二のこと。中学からの付き合いだから言うけど、根は真面目なヤツなんだ」
「浩二君は私を気に入ってる。でも好きってわけじゃない」
「始めはそれで良いじゃないか」
「私はイヤ」
「少女マンガみたいな女だなぁ」
彼は肩をすくめ、窓の外を見る。
それっきり口をきかなかった。
決してバカにしてるわけじゃない、でもオレは興味ないね、そんな女。
彼の姿はそう語っている。

何で私は傷ついたような気持ちになるのだろう。

窓の外から県道を走る車の音や、帰路に着く生徒達の声が聞こえる。
なのに静かだった。
それらの雑音さえ、私には静けさに溶け込む一要素でしかなかった。

「ねぇ、歌ってよ」
夕陽が遠くに見える住宅地の向こうに落ちるには、まだ間がある。
「さっきの歌、私、好きなの」
「良いよ、大サービス。だけど言っとくけど、あんたが浩二のお気に入りだから、だよ」
“お気に入り”の所だけ声を大きくして言う。
まったく憎たらしいヤツだ。

彼が歌い出す。
音楽室を包む静けさに、そっと寄り添うように。
話している時は聞き取れないが、歌うとかすかにハスキーなのが分る。
なのに良く伸びる声。

何て素敵な声だろう。

私はピアノの蓋を、音をたてないように細心の注意を払って開ける。
そして彼の声に、右手でメロディーをなぞらせる。

ピアノは幼稚園から十年習った。
モノにはならなかったけど、楽しむ程度のテクニックはついた。
彼のリズムに合わせられるようになったら、更に左手で伴奏をつけてみた。
けれど何だか物足りない気分。
私も歌ってみたい。

思い切って、声を出してみる。

彼がちょっと驚いたような表情を向けた。
それが見る見る変わっていく。

さっきまで彼が相手をしていたのはただの“女の子”だった。
私だったかも知れない。
今、窓の外、バス停へと向かいながら笑い声を上げている誰か、だったかも知れない。
誰と入れ替わろうと、彼にはどうでも良いことだっただろう。

今、初めて、“私”と言う存在がいることに気付いて、こちらに向かってくる。
彼の声にハリが増す、歌詞のメッセージを生き生きと語り出す。
歌うことを楽しんでいる。

その詞はとても悲しいものなのに、切ないと感じているのに、同時に私はとても幸福な気分で、最後の鍵盤から指を離した。

「ねぇ、軽音、入りなよ」
一緒に歌う前までとは大違いの、高揚した声。

「キーボードが欲しかったんだよ。でも何より麻美が一番良いのは・・・」

いきなり呼び捨てですか?。
トクンと心臓がなる。

「その声だよ、麻美の声、良いよ。女の子のボーカルってキーキー高いのが多くって、オレ、あれはイヤなんだ。麻美の声は良いよ、ちょっと低めなんだけどアルトまで行かないって微妙な感じで。」
彼の浮き立った気分が私にまで伝染して、思わず「そうね、楽しいかもしれない」と応じてしまった。

あぁ、今入ってるクラブはどうするの?。
良いや、やめちゃえ、やめちゃえ。
卓也がいるクラブなんて未練はない。

「一緒にいれば浩二のことも分るしさ」
「あなたも相当しつこいわね」
「オレ、友達にはウェットなんだ」
「よく言うわよ」

私達は、小さな子供同士がいたずらの相談でもしてるようにニヤリとして、それからクスクスと笑いあった。

浩二君の事なんてどうでも良いのよ。
私はもう新しい恋を見つけてしまったのだから。

高校一年、夏の始まり。


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