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カテゴリ:アニメ
夏は“戦争”を考える季節でもあると思ってます。
「うちてしやまん。」 言葉の意味を問いたいのではありません。 この言葉がどう言う使われ方をしたのか、まさか大人のスタッフが知らないとは思えません。 カッコ良い言葉だとでも思ってるのでしょうか。 神経を疑いました。 あらすじは公式HPから 木星の周辺に主力部隊を配備し、ミュウたちを迎え撃つキース。 対ミュウ戦闘訓練を受けたメンバーズたちとトォニィたちナスカチルドレンの激しい戦闘の末に、散り行く命と残される命。 人の悲しみと怒りが星々の狭間に満ち満ちる時、ジョミーは、そしてキースはなにを思うのか? キース率いる“人間”とミューの戦い、アステラの死はほぼ原作通りです。 けれどそれまでに描かれているものの違いで、と言うより描かないものによって、別のものになってしまいました。 まずレティシアと養父母が無事と言うのがご都合主義。 その前にミューと分かった者が殺されていて、何故レティシアが、しかも抵抗したあとで無事なんでしょう。 時にシステムを厳しき描き、時に甘い。 ミューたちが戦うべきものが何であるのかを明確に示せていません。 確かジョミーが、僕たちの敵はシステムと明言したシーンがあったと記憶してるのですが、それほどのものかと思わせる甘さです。 自分たちのしていることに疑問を抱くアステラ。 トォニィはジョミーが一人で背負っていると言います。 そうでしょうか。 降伏の意を示したものを新世代のミューたちに殺させたジョミー。 その前の世代のミューたちの反感を一心に背負っているのは新世代のミューたち。 今回も犠牲になったのは新世代。 ジョミーが全てを一身に背負っている描き方をこれまでしてきているとは、私には思えません。 今となっては、ジョミーを倒して自分達がトップに立とうと言ったアステラの気持ちの方を理解できてしまいます。 レティシアが拘束されていると知り、キースに頼み込むスウェナ。 キースに頼むと言う事は、志に反することではないですか。 ミューたちをどうにかして欲しいといっているのではない、自分の子供だけを何とかして欲しい。 子を持つ親としては当然の気持ちです、でも“迷い”を描かなくてどうする。 このスウェナに“あねさん”と呼ばれる気風の良さがあるとは思えません。 私はたぶんスタッフさん達はこの戦いが描きたかったんだろうなと思っていました。 それだけの見ごたえのあるシーンでした。 これはこれで良い。 見ごたえのある戦いのシーンは私も好きです。 でも本当の倒さなければいけない敵はシステムである、と言うのはどこにいってしまったんでしょう。 戦いは犠牲がつきもの。 犠牲により、さらに“敵”への憎しみがます。 これは双方に言えること。 このループする愚かさに気付かせるのに、キースが取ったレティシアの“人質”と言う手段の挿話は、無用です。 返って本筋を見失います。 ミューたちの敵はキースなんでしょうか。 自分を守ろうとしたアステラを失ったトォニィ。 泣ける場面なんでしょうね、でも私は泣けません。 トォニィもまた人を殺している。 殺された彼、彼女達にも大事な存在がいたはず。 哀れさを感じるとすれば、末端で戦う兵士も一人の人間で、そこにあるのは個としての人間らしい感情なのだと言う事。 けれどそれが上には意味がないと言うことでしょうか。 上とはすなわちジョミーです。 アニメのジョミーは、私にはこうとしかもはや思えません。 何が描きたいのでしょう。 “被害者”として悲しい存在のミューたち、討てばよい敵はキース。 今回からはそれしか感じられませんでした。 『地球へ・・・』も随分底が浅い話になったものです。
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