【小説】そよ風(2)
昼下がり、窓際に座る良太の前髪が風でゆれていた。良太はシャーペンを回しながらぼんやりと加奈のことを考えていた。「葛城君、次読んで」講師の声で現実に引き戻された。「は、はい」適当に読み始めた箇所があっているはずもなく、周りの笑いを誘った。「そんなんじゃ志望校に受からないぞ!」という叱咤もその日の良太にとっては馬の耳に念仏であった。 終業とともに何人かが教室を急いで出て行く。いつもなら良太はゆっくり帰るしたくをするのだが、今日は違った。良太の足はまっしぐらにあの公園へと向かっていた。「夕方も散歩しているかもしれない」そう思うとさらに駆け足になっていた。 「そんなに偶然が重なるわけないよな」と思っていたら、ジョンらしき犬が駆けてきた。ジョンはわきめもふらず良太に突進してきた。ガバッ!と良太にとびかかり、勢い良太は倒れこんだ。押し倒されつつも良太はニヤニヤしていた。「もうすぐくる」と思っていたが、あの昼の声は聞こえてこない。かわりに低い声で「ジョン、待てと言ってるだろ」という声とともに、太っちょの中年男性が現れた。「おそらく桜井さんだ」と直感した。「ああ、君すまないねえ」「いっ、いいんです」良太はさっと起き上がり、芝生をはらった。そしておもむろにジョンの頭をなでなでした。すべては計算づくの行動だ。数学だけは得意だった。「ジョンが初対面の人に飛び掛るなんてめったにないんだが、ほんとうにごめんよ。けがはなかったかい?」「ええ、大丈夫ですよ。それに初対面ではないんです。今日、ランチをご一緒しました。もちろん加奈さんと一緒にですが」「ああ、大田さんのお知り合いでしたか。これまた失礼。彼女にはほんとうにお世話になってるよ。もしかして」「えっ、違いますよ」「そうか。雰囲気も似てたからご親戚の方かと思ったよ。ワッハッハ」豪快な笑いに肩の力がすっと抜けた。完全に良太の勇み足だ。「もしこの後予定がなければ、うちで晩御飯でもどうかね?家内が旅行に行っていて独りなんだよ」断る理由はなかった。かぎっこだった良太は、食卓にひとりで座り、温めなおしたごはんとみそしるとハンバーグをテレビをみながら食べている姿を想像し、桜井さんを少し同情の目で見つめながら、「いいですよ。よろこんでおつきあいします!」と返事して、のこのことついていった。 公園を出たところに黒いリムジンがとまっていた。近づくと運転手が降りてきてサッとドアを開ける。ジョンが飛び乗り、桜井さんも乗り込んだ。中から、「さっ、乗りたまえ」と声がして、恐る恐る良太も乗った。ここまではまったく想像できなかった。移動中、ガタガタと震えていたことだけ覚えている。 15分ほど走ったところで車がとまった。緊張したまま降りると、だだっ広い庭に大きな玄関が迎えてくれた。中から初老の男性が出てきて、「お帰りなさいませ」と言って頭を下げた。執事というやつだろう。「こりゃあ、とんでもないとこにきちゃったぞ」良太はますます身震いした。「どうした?寒いのかね」そう聞かれるほどガタガタしていたらしい。 ここまで来るともう何が来ても驚かないという覚悟もできていそうなのだが、来るもの来るもの浮世離れしていて、まるでドラマを見ているようだった。通されたダイニングも広く、20人は裕に食べられそうだった。「きみ、嫌いなものはあるかい?」「ありません」「そうか、いいことだよ。私は肉とピーマンと・・・、まあ忘れるくらい嫌いなものがあってね。シェフがよく把握しとるよ。ワッハッハ」なんでも豪快に笑い飛ばす。人生の余裕のようなものを感じ取っていた。良太は分厚いステーキを勝手に想像していたが、すでに消えていた。広いテーブルの奥に座り、料理が出てくるのを待っていた。 その時、桜井さんの携帯が鳴った。「もしもし。なに?そりゃ大変だ。すぐに来たまえ。ふむバス停まで来ているのか。迎えをやるから待ってなさい」とにかく緊急の来客らしい。「すまんが、どうしても人に会わなくてはならなくなった。うちまでお送りするから今日のところはお引取りいただけるだろうか?もちろん食事は持って帰れるように用意しているよ」 そうして大きなお土産の包みをいただき車に乗り込んだ。今度はリムジンではなくベンツだった。屋敷を出る頃、前からリムジンが帰ってきた。「VIPの客かな」と思って見ていたら、若い女性が前かがみで屋敷に駆け込んで行った。どことなく加奈さんのように見えたが確信はなかった。