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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

造船時代その3

造船所時代の日記(3)です

1973年10月1日朝、出社直後電話で、12:21女児誕生を知る。(2988g)。雑用で、1時間の残業強いられた後病院に行く。
名前が、なかなか浮かばない。呻吟し、夜中0:00を過ぎる。

引っ越しで随分物が無くなった。偉人の伝記の中には「毛沢東」もあった。今学ばねばならない中国のルーツだ。仕事の業務日記も何処に行ったか分からない。勢いこの日記も飛ばすことになる。

1975年は、スイスアトランティック(S1061/1062番船)が印象的だった。ギリシャの、金に汚い船主で、オナシスを初め、ジューの中でも、金に汚いのが集まっているのではないか。
船工部が、船体の補強用鋼材を切り損ね、途中を溶接で繋がなければならない事態が起きた。設計として、そのこと自体強度的にも問題がないことを、船主の駐在官に説明に行ったところ、色々聞いた後出てきた答えが日本語で「jyugomanen」だった。「What?」と聞き返すと、接ぎ手を設けない値段は1本幾らかを聞いていた意味がようやく分かった。要するに、継いでも良いが、その代わり、新品分の金15万円をよこせというのだ。之は、もう技術の領分を超えているので、営業を呼び、そそくさと退散した。
それと、MOL(大阪商船三井船舶)のS1084/85番船である。一般貨物船であったが、このシリーズが貨物船の最後ではなかったろうか。以後は、荷役効率のいいコンテナ船に取って代わられることになる。
又この頃から、海洋構造物が始まり、沿岸で操業するジャッキアップリグが動き出した。アラブの石油輸出機構(OPEC)のオイルの動向を諸に受けることになる。この関係で、私は造船のジャンルを鞍替えすることになるのだ、即ちアラブが私を一般商船から遠ざけたことになる。ジャッキアップリグは、最初、お手伝いの様なものであった。
Fred Olsen: Key Drillなど(F408/F409と海洋構造物はFが付く)図面のチェックを主に行った。助っ人故に、詳しい顛末は知らないが、ラックピニオンで上下する、結構しちめんどくさい代物だった。

バスケットの試合も例年通り行われたであろうけれど、引退した身では、余り興味も沸かず。ただ、ひたすらに、仕事に励んだ1年だった。

YYからの年賀状は欠かさず来ており、結婚して子供が二人できたという。それでも青春を共有した、仲間として、又最初に惚れた女性として、強烈に私の頭にこびり付いている。
1976年も年賀状はきた。かつてYYは何時も私のことを一言褒め、自分のペースに持ち込む特技があった。あぁこの手で、私は振られたんだと、年賀状を見るたびに感じるのだった。

リグを設計し始めても商船の仕事もした。商船は、初めてPCC(自動車運搬船)を設計した。MOLのOlive Ace(S1136番船)であり、何層にも別れた、動く車格納庫(駐車場)は、丁度立って歩くには低すぎる高さで、何時もヘルメットをデッキの下の補強材に、ごつごついわせながら倉内を点検して歩いた。デッキは、軽い車の重量に耐えるだけで良く4~5mmの厚さで良いため、溶接による歪みが大きく、それが工数の大きなウエイトを占めていた。歪み取り専門の技能職が、甲板にへばり付いて、加熱しては水を流して、歪みを取っている様は、残念ながら、科学的に効率化されるに至らなかった。

PCCの後は、Dansk Fransk(S1133/1134番船)のカーゴを手がけ、特にエンジンルーム最前部の貨物倉内に所定の隙間が取れず、非常に苦労して補強を考えた事が頭に残っている。

苦労したデリック

同型の一般貨物船(これではデリックの設計に腐心した)


この船では、非常に印象に残るエピソードがある。
2隻ともに共通した問題だった。詳細は忘れたが、1つは、コルトノズルラダーといって、推進効率を上げる為にプロペラ周りを囲った円筒形の筒が着いている舵がある。この舵を製作するに当たり、冷やしバメで、装着するところがあり、それは手順を踏まなければ、取り付けが不可能になってしまうものだった。之を現場が手順を誤り、先に冷やしバメをしてしまった。設計も手順をしっかり書いていないからだと言われ、現場で如何に抜いてやり直すかが、大問題となった。当時YHa君と一緒に、熱応力の問題と取り組み、如何にすれば抜けるかを必死に考え、現場へ出かけては、半徹夜作業を数日続けた。計算の効果もあり、何とか危機を脱した。全く心臓が縮む思いがした。

もう1つは、コンテナ船の船体に掛かるねじり応力を(コンテナ船の様な開口部が大きな船は、ねじりに弱い)計測するために、実船で、斜め左右のバラストタンクに海水を注入して、最大のねじり応力を出させて、それを甲板や、開口部に貼った歪みゲージで計るというものだ。当然徹夜の作業となる。パンをかじり、牛乳飲みながら、注水に対する応力の経時変化を計測していった。
ところが、あるところから急に期待通りに応力が上がらない、どうしたことかと水に浸かっているバラストタンクのマンホールを空けて、懐中電灯で調査に行った。何と、あろう事かタイト(水密)であるはずの壁に誤って穴があいているではないか、それが倉内に流れ込み、すんでの所で、沈没まではいかないものの、大騒ぎとなった。当然実験は中止、船工部も慌てて、補修し、監督に見つけられぬ様に徹夜の仕事となった。設計としては、誤った指示の図面が出ていたら責任問題とばかり私は、急ぎ図面を見直したが、図面は正常、船工部のミスが明らかとなった。概して、現場の連中は、設計が悪いと、鬼の首を取った様に怒鳴り込むが、自分たちの犯したミスは、内々に隠してしまう癖があった。
この様に、1年で新造船の設計は1~2隻であり、色々なバリエーションが起こりうるので、楽しいと言えばそうかも知れぬが、常に緊張感漂うものがあった。
この様に、仕事以外は、何の変哲もなく、1976年も終わった。

1977年も又年賀状で始まる。YYは、新居に引っ越し。私だって2人の可愛い子がおり、皆幸せにやっている。結構なことではないか。
そう思いきれないところに問題がある。

鈴鹿山丸

ひずみ取りが大変だった鈴鹿山丸(大型自動車運搬船)


仕事は、前年との同型船に近いPCCの「鈴鹿山丸」、これもMOLだ。例によって技術的には余り進歩が無く、船工部の歪み取りに関する、各種計測の結果が出ていたものの、相変わらずおっさんが、甲板を焼いては水を掛ける姿が見られた。その作業のために一隻で2000時間以上之に費やすという。
全く馬鹿げたものである。
もう1隻は、RO/RO(ロールオン・ロールオフ)といって、トレーラー毎船内に入り、動かない部分だけを残し運転席は何度も往復して、残した重量貨物を積載運搬する船である。S1078(Mascot)で、私の造船所では初めてであった。Mascot自体は北欧の(ノルウェー)船主で、品が良く、紳士的であった。PCCの大型版と言って過言ではないが、今度は、歪みに悩まされることはないものの、何十トンものトレーラーを満載して走る訳だから、ファスニング(トレーラーを船体に固定する)が、大変で、そこに掛かる力は、船体の運動をも加味した結構でかいものになった。船尾に設けられたランプウェイ(乗り込み口)から、走り込んでいくトレーラーを見て、本当に大丈夫なのかと設計した私も一瞬不安になってくるほどだ。当然、PCCの様な、低い甲板高さではなく見上げる様に上の甲板は高い。
今まで書いてきた番船は社内の便宜的なもので、引き渡しや、正式文書には残らない。
又、前にも述べたが、船の保証項目は2つである(と聞いている)
1.積載トン数。(デッドウェイト)
2.速度(スピ-ド)である。

振動その他はGuarantee項目ではない。ただ振動して良いという訳ではなく、ある決められた水準以下であることが要求されることは言うまでもない。そこにはIMO(国際海事機構)や各種船級協会が介在して、やたらと決め事が多い。しかし官の仕事と違って、一般商船は(艦艇は経験がないので言及出来ない)自由度が高い。日本の役人は、と言うか、機構そのものは、技術士が何人以上とか、何やかやと、入札制限が多い。之に比べて、民を相手の造船は、自由に設計することが可能である。やたらと技術士が何人などとは決めていない。誰でも出来るが、誰にも出来ない(力がないと)ことになっている。従って、日本の船舶関係の技術士は登録人数166人に比べ、建設部門は、20960人と圧倒的に多い。生物工学66人、航空・宇宙101人に継ぐ低さである。
それでも無事船は走っているし、問題がない。それだけ、建設に比べて簡単かというと、とんでもない。むしろより複雑だと思っている。前にも書いたか、構造力学、弾性学、弾塑性学、抵抗、推進、旋回、動揺、復元性、振動、船舶算法、進水、溶接工学、有限要素法、・・・と、どれをとっても頭のいたいものである。従って、私は、Naval Architectとしての誇りを捨てないし、Civilに負けないで行こうと思っている。(今は、Civilの端くれの仕事だが)

翌朝病院に行き、娘の名前を4つの候補に絞った。「夕紀」「綾奈」「千種」「玲奈」である。結局○○に決めた。会社の資金借入書に名前を書く時、役所以外では初めて名前を記入した。大阪の母より電話があり、お祝いを贈ったとのこと、有り難い。
会社での資金借り入れの為の書類7通そろえて出した。会社といえば親、社員といえば子供、そんなら、もっと簡単で良いのではと思いつつ、会社も何も俺たちを信じているわけではないのだと、妙なところで納得する。同僚とトンチャン屋でのみ食う。喫茶店で、くだの撒きっぱなしの整理をした。皆同僚のおごり(年令は遙かに先輩)だった。

病院に行き、肝機能が悪いので、薬が大幅に増えていた。リチウム(リーマス)は当然入っていた。相変わらずの薬局の混み具合、先にTMi君を見舞い(後1週間)帰りに薬をもらった。

テレサテンの歌は、男をとろけさせる様で、男を突き放す。不思議な女である。「あんた抱かれたいよ、あんた会いたい・・・・」とか、
「泣き出してしまいそう、痛いほど好きだから、何処へも行かないで、息を止めてそばにいて、体からこの心、取り出してくれるなら、貴方に見せたいの、この胸の思いを・・・おしえて・・・」を思い出しずいぶんと辛く空しく、もどかしさを感じた。
別れは何時の世でも避けられない。YYの時もそうだったが、置き去りにされるのはいつも自分のような気がした。

凡々と日が過ぎ、10年上の人が転勤や復帰など入れ替えがある。その日は徒歩で帰宅したので遅くなったせいか風邪を引く、翌日熱が38℃まで出て、正直午後からの会議に救われた。
翌日、風邪も治り、早速水島川鉄のジムで、実業団優勝大会で、優勝。珍しいことでもなく皆淡々としていた。

****

会社のこと、そこそこ、上司の交通事故、若い女性の交通事故と、事故が多い。
今は故人となり儚くなったが、バスケット仲間のYNa君(YIno君)の結婚式に招かれた。朝5:30、宇野駅から連絡船に乗り高松で45分の待ち合わせ。特急南風に乗り中村へ、途中気分が悪くなるも、車窓に目を転じると、緑豊かな自然が、心を癒してくれる。高知で、KAn、SIno、TNaと合流、中村まで、昔話に花が咲く。何しろこんな機会でもないと、旧友が揃うことはない。中村で、飯を食い旅館花屋に荷をおろし、くつろぐ。YNaがお袋さんと現れ、暫時式場に入り、写真班に早変わり。披露の席は400人余、高知の皿鉢料理がどっさり、エビ、刺身、鯛の活き作りなどで満腹の呈、新婦のKInoさんは、YNaより1才年上、岳父は高知県会議員、流石に気っぷが良い。宴会終了後花屋に帰るべく、腰を上げたら、KInoさんのいとこが現れ、「お友達の方どうぞ」と車で中村市のはずれに誘われた。自分で道を切り開いたという小高い丘の奥には、之も自分で建てたというログハウス。中に入ってびっくりしたのは、囲炉裏が真ん中で、冬に入りかけていたにも拘わらず、部屋全体が暖かく、囲炉裏端には今日捕れたという天然鮎が串に刺されて、ぐるっりと火の取り囲んでいた。

*****

久し振りに、バスケットの練習を真剣にやり、汗を一杯かいた。日曜日、現監査役から電話でゴルフの誘いを受けたが、行かず、のらりくらりと過ごした。
工務の某が、トラックにはねられて即死とか。日頃調子の悪い車を器用なTYa君が来て直してくれた。
翌日は、家の棟上げの件やバスケットボールの後期の日程などに費やされた。
1日おいて11月1日出勤して、タイムカードの序列が変わっていない。本来上がるはずなのにといぶかしく、且つ不快に思いながら入室する。
次の999番船Amocoの引き継ぎに、私が出席した為に、記念すべき1000番船は、MOo氏の担当となった。

なぜか空しさが、日々募り、楽しさは、遠ざかる日々が続く。
ドライブ中、前照灯が切れ、途中で懐中電灯を片手にフューズを取り替えた。
矢張り翌日もタイムカード順は変わっていない。資格は本当に上がったのだろうかなといぶかしさがつのる。
最近出張が減って、楽でよいが、それが仕事評価のバロメーターで有れば問題だ。現監査役のグループとは、配属が違い、彼ら活気があるが、こちらは意気消沈した感じ。矢張り、上に立つ物、相当に見識と、ビジョン、且つ教養がなければ駄目だと思った。今の私の上司にはそれが欠落していた。
S968進水する。もう珍しくもない。自分の担当した船であっても馬鹿バルク(何の変哲もない、普通のバラ積み貨物船を私たちはこう呼んだ)位では、見に行く気持ちも起こらない。

今日は棟上げの予定だ、見に行ってみよう。
本日、文化の日と気づかず病院は休み、月曜日年休を覚悟で、その日は出勤する。私を部長にさせなかったプロジェクトチームの下手人が海外出張をする許可証を見て、その件は知っていたものの、愕然とした気分になった。しかしこうなれば、相手同様ニヒリズムで通さねばなるまい。何となく胸騒ぐ思いがした。
その日は5時の定時間まで仕事をした。

息子が2才になった。中国大会に臨み、油谷重工に惜敗、山陽国策パルプには勝った。

肝臓は回復している、リチウムの濃度を測る。
仕事は、HVR(社内振動連絡会議)で東京へ、いつもの瀬戸に乗れず、岡山で1時間20分待ち、あさかぜに乗り東京着は翌日の朝8:00だった。船基設の連中、また同期、バージンズの連中と会い、早く帰るつもりが宇野着0:38分となった。
飛び石の間は休む人が多い。TYa君と児島シーサイドに打ちっ放しに行く。安定したと思ったが隣が、がんがん飛ばすので嫌になった。帰りの車、TYa君はかなり饒舌になっていた。

出張帰りの報告書など書けば後は仕事に集中できなかった。

1978年の年賀状はYYから来ていたろうが、覚えていない。とにかく、YYは海外旅行ばかりで、年賀状は、遅れることが多い。それぞれに羽ばたいているのだと、もう関係はないものの、昔の良き時が走馬燈の様によぎる、一瞬である。
こうして年始めには必ずYYのことに思いをはせる。

今年も仕事ではS1977番船(Mascot)の小型自動車運搬船で多分600台積み程度のプラモデルのようなミニチュア版であったが、前のRO/ROと同船主。親しみを覚えた。出来上がった船は、こじんまりしていて、瀬戸内海に飾っておきたい様なものであったが、遠くノルウェーまで出て行ってしまった。この頃から、特に自分が設計担当した船に愛着を感じだし、その船(ドイツ語では船を女性名詞として扱っている)の引き渡しということは、多分親が娘を嫁に出す時の心境では無かろうかと、勝手に想像した。
船は個別受注生産であり、船主は決まっていて、量産品にはない、手作りの愛着は、いやが上にも湧き上がる。ところが、船も停年を間近にし、採算が取れた段階からは、売船されることも多く、自分の設計した船が、船名が変わり、船体塗装も様変わりしてしまうので、何処かで出会っても、それと分からないことが多い。レジスターブックというものがあり、それを辿れば、履歴が分かり、廃船前の軌跡は追えることになっている。
設計に心血を注いだS903えるべ丸も売船され、船名を変えていた。

名を変えたえるべ丸

名を変えた活躍する旧えるべ丸(容色は衰えても・・)


もう一つは、S1161/62番船(P&O)Peninsular and Oriental という船主の結構品の良いカーゴーシップだった。(前に一般貨物船が、終わりだというのは、少し勘違いしていた)
“Strathconon”と"Strasardle"の船名をもつ上品な姉妹貨物船はLR船級、甲板はグリーン、船体は白と鮮やかで、大きなデリック1基と小さなクレーン6基を持つ優雅な船であった。
こんな船主ばかりだと、技術屋はやり甲斐があるのだが。

結構苦労の貨物船

結構苦労して設計した貨物船


 この頃から海洋構造物が動き出し、Herrema社(後にSSDBを造る)のF534、Launching Bargeを殆ど一人で手がけた。Skidと大きな鋳物製のTilting Beamからなるバージで、材料のこと、構造力学的なこと、安定性やその他色々学ばせて貰った。如何せん、その写真はない様だ。
そして、この頃から会社は、緊急要員対策賃金総合案なるものを策定し始め、徐々に締め付けが始まった。

1979年、YYから相変わらず年賀状がきた。達筆だった。

S1196(Mascot)の大型自動車運搬船を設計することになった。
M/V NOPAL BARBROと呼ばれたこの船は、私が課長補佐に昇格しての初めての商船であり、且つPCCの最後の船となった。ノルウェーの船主だから当然船級はNV(ノルスケ・ベリタス)であり、長さ、194.5m、幅32m、13層からなる船体に20500馬力のエンジンを搭載した、一般車両約5600台を搭載可能な大型船であった。その車両は、船腹と、船尾から、ランプウェイを通って自走搬入される。車には、少量のガソリンしか入って居らず、運転手は、短時間で器用に所定の位置に格納すると交代で、船外に降りる繰り返しである。
 本船は、バルバスバウ(Bulbusbow)が無い。昔のタイプの船だ。従って、船首部分の水面下の幅が極端に薄い。横波に対する強度は十分かとの船級の問いに対して、一心不乱に強度計算をして、数日後、神戸を訪れ、船級に説明、その時、本部(オスロ)からも技師が来ていて、ディスカッションとなったが、そこは民間の良いところ、こちらの計算手法と、結果を十分に理解してくれて、結局、Approvalを得た。私が、NVと親しくし出したのは、それが最初であった。

大型自動車運搬船

ノルウェー船主の大型自動車運搬船(NVとお近づきになった)


それまでは、LR(ロイド・レジスター・オブ・シッピング)やNK(日本海事協会)が多く時にAB(アメリカン・ビューロウ・オブ・シッピング)もあった。
総じてノルウェー人は紳士であり、英語も母国語でないだけに私には分かりやすい。MASCOT以来私はハッピーな船主、船級に出会ったことになる。
最初のグリークや、WW(と言っても2つ有りワーコン:華僑系は汚く、ワールドワイドは紳士だ)
ダブダブと称していたが、中身は大きく違った。

次の一週間は、取り立てていうほどのこともなく、ささやかな夫婦の諍いや、一寸した出来事に終始した。バスケットのMTa君宅で、幹部連中が集まりご馳走になった。来期YSi氏が、コーチを引き受けてくれるので協力を約し、その他の人事は、追って決めて納会にて発表することになった。

入院していたTMi君が、フィアンセのA嬢と来訪するという。嬉しかった、共に酒を酌み交わし語ったが、調子に乗って、ウイスキーを相当飲んだらしい、彼らが辞去した後、酩酊し、そのまま翌日まで気が付かなかった。
翌月曜日頭はがんがん、二日酔いである。定時後の会議までが長かった。
新居の残金など払って、阪大会や、バージンズ、バスケットボール部の忘年会が目白押し。

*****

取り敢えず、バージンズと、阪大会の忘年会は終わった。
子供達を実家に預け、高島屋で買い物をする。有り金叩いてレザーのジャンパーを買い、家に帰ったらすっからかん。

S1000番船は計算機(カルコンプ)で図面を描いた初めての船。私は外板展開(Shell Expansion)TKa君が(Constructio Profilr & Deck Plans)を担当。
バスケットの納会では、YSi(旧姓YKi)氏が監督、KHaさんがコーチ、是非私にも残留して欲しいとのことで、シューティングコーチなる名称を作り、収まる様要請された。之と雑務を執り行うマネージャーの選定が、とにかく決まらず越年も必死となった。

1973年は始めはよく、終わりは最悪となった。
・父逝く
・Depression入院
・新居購入
 ****
・娘誕生
・多数の転勤
・多数友人の結婚式
・四姉の別居(いびり出された)
・etc.
が今年だった。
より良き来年を期待しよう。今年の残滓は仕事だけでよい、と私は行く年来る年の鐘の音を聞きながら、ほろ酔い加減で呟くともなく胸にしまい込んだ。

1974年を実家に泊まり込んで、早朝5:00、金甲山へご来光を拝みに、一人で車を飛ばした。今年の始まりは、緩やかに見えるが、何となくひしひしとした重圧感も同時に覚える。好むと好まざるとに拘わらず、年は明け、始まる。ご来光に手を合わせた時は無心だった。
午後、母と、四姉が、来玉。岡山駅まで迎えに行き、途中、新居となるべく建設中の場所に案内した。母は、通常であれば良いが、どうにもせっぱ詰まると、四姉に辛く当たる。
3日には、母と、四姉と息子とで高松稲荷を訪れようと出かけたが、道路は異常に混雑、やむなく吉備津彦神社参拝に切り替えた。帰りは、後楽園烏城を経てその足で、母を伴って四姉は帰っていった。

翌日、私は逆に大阪へ行った。友人のKHaと会い談笑し、TNaと会い買い物をした。息子のパトカー、それと自分の靴。昨日今日と梅田3番街をうろつく。

元兄夫婦が来る。四姉はあれほど痛めつけられたにも拘わらず、それでも水炊きを作る。私は素直な気持ちになれず、無口だった。
元兄は、事故を起こし、その代わりにと、相手に自分の車を取られたままという。かの息子は、生まれついての知能障害で、訳の分からぬ言葉を発し、見るも哀れであった。

初出は、特に変わったこと無く、社長が相変わらず、「コストダウン」を叫んでいた。
S1000番船の線図(Body Plan:船の容積、スピードを決める船の外形状を決める重要な図面で、社外秘になっている。)を、課長のコメントで大幅に修正することになった。基本から変わる、私とTKa君は、設計大改正の為、本社と、東洋電機に図面を書きに行くことになった。

仕事は、若干ひまになり、会社で、時間を持て余す様になった。S1022/23の担当が誰になるかも定まらず、心焦る日が続く。
定時間後、TKa君と玉野日活ポルノで、3本を見て、多少気分悪くなった。ああいうのは、見るものでないなあと思った。
翌日S1000番船の作図の為に東京へ向け出発。寝台車の中、疲れていたので岡山迄の間に寝込んでしまった。横浜付近で目覚め、現監査役と一緒に、東京温泉で一風呂浴び、マイアミで珈琲を飲んだ。ゆったりした気持ちで、新橋の本社に出て、昼飯は築地の寿司屋で、3300円も取られ、少し青ざめた。午後東洋電機のCalcompで作画。外板展開図だけで結構な時間を食ってしまった。千葉から同種類の件で、T嬢が派遣されてきており、同じ仕事を女性がやっているのかと、若干愕然とした。断面のフェアリング、船尾の一部の不備、等有り疲れと共に時間が掛かる。2日目は、投宿先をキャンセル、埼玉に二姉の家を訪ねた。

S1000番船の図面作成の為、少し東京に逗留したので、二姉、三姉の所に足をのばした。三姉のところで、初めてトルコン車に乗り、勝手の違いに少し冷や汗をかく。TKa君と、喋り詰めで帰り、宇野駅で、二級下のTSi君の出張とすれ違った。記念すべき1000番船は、どうやら副担当的な感じだ。

その後も、淡々と日は過ぎ、ストレスを紛らわすのに、酒の力を借りなければならなかった。
給料日に、その少なさにがっくりと来て、勤労意欲をなくしてしまった。
バスケットボール部の本年の首脳陣が決まり、無冠となった私は、自由な立場で、バスケットそのものを楽しむことが出来る様になった。
未だ薬を貰っている。家の仕様と、建売の貧弱さをいやと言うほど感じ、様々なクレームを付けた。
HR(社内船殻連絡会議)で、東京からも人が来、彼らと、旧交を温めながら、飲む。

玉野では恒例行事化した山火事があり、人家にほど近く迄押し寄せ、一時は騒然となった。誰かに言わせると、住宅地開墾の為に、都市計画上火を付けるのだとか言ううわさが立ったほどだ。

****

その週の日曜日、大勢の仲間の助けを借りて、新居に引っ越した。
病院では先生が替わった。

細かい設計業務のため、昔誇っていた視力も1.5から右0.6,左0.9となっていた。
土曜日には、子供を連れ、社内のハイキングに参加し、山に登って、瀬戸内海を満喫した。
私は、家を建てたばかりで、あまり裕福ではなかったので限られた予算の中、自分で門扉と、正面の塀をブロックで作る決心をし、設計に掛かった。
化粧ブロックを千鳥模様に六段その間に格子を入れ、門柱は、矢張りブロックだけれど、鉄平石を張る構想だ。そんな風に設計図は出来上がった。

施工に掛かり,取り敢えず、カーポートから組み立て、セメントを打って、基礎固めをした。やがて稚拙ではあるがなんとなく表面の塀は完成した。
岡山の田舎にアメリカのプロバスケットが来たので見に行ったが、(ハーレムクラウンズ対アメリカンインディアンズ)どうもふざけが過ぎて、不愉快だった。

社内の英語テストを受けたが、所詮英語は学校に返してきたので成績は今一だった。
病院では、光信先生に代わり(大学病院は、よく担当医が変わる)よく説明をしてくれた。「リーマス」は、飲み過ぎると中毒になり、三環系の「トフラニール」は安心だが、ただ便秘などの副作用があるなど。
夕刻に門扉を立て、塀の基礎を深く掘った。水準器、下げ振りを使い本格的且つ、細心のものにした。
裏側の比較的凝りのない方の塀は完成、土均しをした。
五月の連休、子供2人をつれて、栗林公園内の動物園に行った。他人の塀作りの手伝いもしたり、義弟の子供を見に行ったり、ボーリングをしたり、家庭的な父親に返った。
一緒の職場に入っていた、2年後輩の、鹿児島生まれのTSi君が、船殻工作部へ転出することになった。
また現取締役をしている、KOo君(例の女に持てすぎる男)が結婚すると言い、招待状を貰ったが、私は辞退し、祝電だけを送った。と言うのも、彼の奥さんは、有力国会議員の娘であり。彼自身、父が、某大手造船会社の社長のいすを争い、病気で果たせなかった、血統の持ち主であって、招待客には国会議員や、会社のお歴々が来るからである。気後れという奴か。

そんな訳だけではないが、翌日は定時から飲み歩き、なんだか奢られた形で、そのままスーパーカブ号(90CC)に乗り裏道を帰った。しこたま飲んだせいで、翌日の二日酔いは、ほぼ夕方まで続いた。
週末は、息子を連れて行くつもりが、体調と、時間的制約から、一人で、バスケット仲間と共に四国で、高松工芸高校と、高松高専との練習試合に臨んだ。工芸とは引き分け、高専とは大差で勝った。
私は、試合には出ず、レフェリーをかってでた。
翌月曜日、神鋼高砂工場に、スターンフレーム(船尾骨材):船の舵を支えプロペラ軸を通し、狭隘で、且つ重要な部材。の木型検査(鋳物製の部分)にスーパーバイザーとして立ち会った。工場見学を案内され、肝心の検査では、ここの線が、もう一つ、ここは、少し削り込み、ここは少しふくらませてと注文を付けた。
バスケットボールでは、鳥取工業のY君が入り、即戦力と期待したが、余り長くは続かなかった。しんどいスポーツなので,いやという者を引き止めることは困難だった。
週末は、後で、「私を部長にさせなかったプロジェクトチ-ム」の一人となる人間の塀作りを手伝い
ドライブし、五月人形を片づけたりして過ごした。この時期艦艇設計に去る者が多かった。
課長の命で、他人の図面の手伝いをさせられ、不愉快だった。S984/1020は雑務を残し、終了、同型船が来るかどうかは流動的。

NVとの交渉も無事終わり、やっと一息ついた。

****

1979年は、殆どS1196の設計で一杯だった。それ程問題点はないけれど、NVは結構理屈ぽい船級協会だったので、面倒臭くはあったが、かえって、勉強にはなった。理論には理論で応える。技術屋の醍醐味である。ややもすると官(日本)の仕事は、理屈はどうあれ、こう決まっているからと裁量の余地がない事が多い。これから1985年までが、私が1番楽しく輝いていたのではないだろうか。

******

S1196の目処が殆ど立ち、運転引き渡しが近くなった。ランチング・バージも目処が付いた。
歪みと戦いPCC

ひずみも取れて綺麗に出来上がった自動車運搬船


その年の暮れ、次のS1218(二重底を有するタンカー:英光海運、英光丸)の建造方針会議で、千葉に出張する。本船は、日本の船主で、ガソリンスタンドを経営しているとか。通常それまでのタンカーは、強度的な意味合いからは、船底も、船側も鋼板1枚で良かった。本船は、船側は1枚であったものの、船底は2重底になっていた。
その後の趨勢を捕らえた、当時としては画期的なものであった。その後はIMO(国際海事機構)により、船底、船側とも2重を義務づけられた。それ故に、規則が発効するまでの駆け込み建造が見られた。バラ積み貨物船にしろ、鉱石運搬船にしろ、一般貨物船にしろ、全て2重底であった。タンカーが、2重底、2重船側になったのは、座礁、衝突により外側の鋼板が壊れても、直ぐには重油の流出が防げるからである。それを先取りしていたと言える。2重底のタンカーは、通常重油を搭載する船倉には、2重底のトップにマンホールを付けなく、バラスト(海水を積む)倉にマンホールを設け、次々と船底を潜って、所定の場所に行かなければならず、結構辛いことである。

建造方針会議の数日後、ソ連が、アフガニスタンに侵攻し、その年は暮れた。



<造船その4に>続きます。


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