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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

造船時代その9


造船所時代の日記(9)です

1988年を迎え、一人考えた。通常は心新たにする年始ながら、昨年の残滓を背負い、生きていく惨めさをどう吹ききるかの課題だ。

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本当に辛かった昨年を終え、年が改まったことで、私の気持ちは若干の落ち着きができはじめていた。
力をつぎ込もうとする仕事もない。まるで無い無いづくしの生活だ。
今年も社長年頭の挨拶から、所長、工場長の挨拶がある。殆どの人間が空々しく放送であったり、肉声であったりする彼らの言葉を聞いた。

3CT運動が始まった。(Communicate Together, Change Tamano, Charrange Tomorrow)らしい。こういうスローガン(キャッチコピー)を考える奴は、特異な才能があるものだと感心した。
全く真実味が感じられない。とにかく願望であることは分かるが、皆笛吹けど踊らずだ。
由良工場の修繕課長から電話の連絡があり、SOFECは出て行ったとのこと、Mr.TurnerがMr.○○によろしくと言っていたと伝言された。

金曜日は半日年休を取った。私に良くしてくれた、TIt氏が血便が出たと言って入院している病院へ見舞った。

土曜日、私は、相変わらずVZ750だ。今回は、Ima氏のYamahaと共に祖谷のかずら橋を見に出かけた。要は何処でも良い訳で、バイクを転がすことでストレスを発散させていた。

瀬戸内海をフェリーで渡る。船側から見える、玉野造船所は、いよいよ寂れて見えた。大型船舶が見えない。リグもない。Ima氏と二人で「変わったね」「うん」と言いながら1時間で高松へ着いた。ツーリングは、栗林公園を右手に見て、琴平町を通り、南下した。四国三郎(吉野川)を渡る赤い旧式の橋を越えて暫く西に進むと池田ダムがあった。そこで少し休憩して、しばし田舎の空気を吸った。そこから祖谷渓谷は目と鼻の先だった。
大歩危、小歩危の奇岩を見ながら、祖谷のかずら橋に着き、蔦で出来た小さな吊り橋を渡った。何のために誰が作ったのかは知らない。ただ、国の重要有形民俗文化財で野生のシラクチカズラ(つる草の一種)を編んで造られた高さ14m・長さ45mの原始的なつり橋だ。橋板はなく、歩幅間隔に丸太が並ぶだけで、下が見えるので、渡るのには勇気が要るスリル満点の橋だ。日本三大奇橋のひとつに数えられ、3年に1度架替え工事が行われるという。

近くの食堂で、まずい昼食を取り、同じ道を玉野に引き返した。
夕方、娘が来て泊まった。「お父さんがいないと寂しいよ」という。「新しいお父さんは、親切にしてくれるかい」「うんまあね」。男親は、どうにも駄目なものだ、話の接ぎ穂が分からない。
翌早朝、私は娘と岡山まで、買い物に出かけた。娘が欲しがる小物を買って、それで、娘は満足していた。

意味のない出張があり、淡々と時は過ぎた。私は職制として、課員の面接を行った。

部課長の歓送迎会、和歌山の漁業取締船、新日鉄との交流会、住金との交流会、3CT活動報告会、仕事らしい仕事はなかった。

バスケットボールの市長杯があり、私は未だ部と関係していた。後の新年会で、後輩が育っていく様子を嬉しく眺めた。思えば、嫌がるものを首に縄を付けてひっぱたり、バスケットのやり方で討論したり、色々なことがあり、今日まで来たという感じだった。

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その週も湯原憩いの家にVZ750を飛ばした。予約もなく訪れた宿は、パントリーの横にしか部屋はなかった。翌日は、乳牛、や肉牛が遊ぶ蒜山に入り、大自然の大きさに我が身の小ささをぶつけて、何の反応もないことに失望した。世の中は、自分が中心でないんだ。その事は分かっていても感情的には納得出来ない。帰りは米子を回り、倉吉から、いつものルートを、家路に急いだ。
いよいよ、皆の異動が始まった。パイ(海洋構造物)が無くなった私と私のスタッフはちりぢりになった。若い連中は、救われるが、年配は、お払い箱だ。社内社外の委員会なども徐々に私から若手に移っていった。信頼していた部下の一人を含む3人が、事業推進本部に移った。推進する事業がない事業推進本部だ。介護のスロープバスなどを無理して売っていこうという当面のニンジンしかない。

その週もその翌週も娘の洋服やバッグを買うのに付き合った。

ついに私は、仲間2人と共にくだんの部長に、今度研究所に新設される開発部への移籍を命じられた。時の社長の思いつきでの人間減らしだった。
私をよく知る、リグの経験者で2年先輩は「○○さん、どうして?今度は総合課で、次の次は設計部長の筈ではなかったのですか」といった。

私には直ぐこの人事は、昨年、部長に楯突いた言動に対する報復人事であることだと感じた。其れ以外私の落ち度は全くなかったからだ。よしんば吉田号事故責任ならば、上の人間もしかるべき扱いが当然だからだ。

新しい研究所開発部の発足を前にその役割を聞くために新部長に話を聞いた。内容は惨憺たるもので、暗澹たる気持ちになった。
終末の金曜日に私は、数名の人間と共に玉原の研究所に引っ越した。みんなに別れの挨拶を交わした。誰しも今回の人事をまともだと思う人間はいなかったが、それまで、出向を命じたり、転勤を指示してきたのだから、今度は自分の番だと思えば、平等であると感じた。
心の晴れぬ侭、月曜日から、開発部に初出勤した。何をして良いのかも分からない。どんな連中が集まっているのかも知れない。どんなテーマを模索するのかも分からない。無い無いづくしのスタートだった。

開発部では、「マーケティング」の輪講を行った。
旧職場のNMa君からGOo室長が吐血、胃潰瘍の手術をするとの知らせが入った。既に東京に転勤されている。どうしようもなかった。
旧構造設計室では私を送る、送別会が行われた。

土曜日には、旧設計部での設計部長杯ゴルフコンペに呼ばれ、参加した。

何も無くなった私にはバイクが唯一の気晴らしだった。Ima氏とくろねこ仲間で新庄村まで走った。生憎その日は小雨だった。落合、勝山を経て、新庄村へ。新庄村そのものは1000人強の小さな町だが、近くにメルヘンの里があったり岡山の田舎を感じさせる場所だった。

玉野研究所(玉研)開発部の発足会が、本クラブで行われた。どの顔を見ても、冴えたのがいない。

開発部ではすることもなく、シーズ探しと称して、大阪の見本市に出張した。
ゴールデンウイークというのに何の楽しみもない。私を部長にさせなかった、二人組を含む四人で、新岡山ゴルフクラブへ出かけた。

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次の日は雨でもあり、何処にも出かけなかった。

私の為に、部課長による送別会が休み明けに本クラブの奥座敷で行われた。「長い間ご苦労さん」や「山より大きな猪はでないよ」それぞれに言葉を掛けてくれたが、私にはそれが皆空々しく感じた。同期の仲間と二次会で飲み、無念さを打ち明けた。

終末にはVZ750。新しく仲間に加わった、Fuj氏を加えて、吹屋にツーリングを試みた。
高梁市に入る手前を成羽川沿いに西進しさらに県道を北上する。このあたりは、横溝正史の舞台になったところである。吹屋の豪農の家は、城の様であり、内部の拝観も許されている。
其処はおどろおどろしい、「八墓村」や、「犬神家の一族」を連想させる。横溝正史の物語は岡山を舞台にしたものが殆どで、伯備線を降りバスで数キロ、更に歩いて・・・と、その行方を完全には特定していない。そんな横溝正史全集を読んでいだ私は、岡山の何処に行ってもそれらが頭を離れない。
一方あまり乗ることも無くなったカローラの車検を終え、タイヤも交換した。
NMa君から大石さんの退院を聞き知った。取り敢えずは良かった。
開発部の仕事は定まらない。
翌週もVZ750でいIma、Fujの三人で恩原へ行った。岡山県苫田郡上斉原村恩原はスキーで有名なところだ。かつて梨狩りで、通った国道179を、奥津渓谷を過ぎ、人形峠に入る前を右折恩原高原に入った。5月の高原は新緑で、清々しい。スキーをやらない私は青い高原が好きだ。

開発部ではようやく、「新幹線の雪害対策」がテーマとして取り上げられた。雪の米原を如何に遅延無く新幹線を走らせるかは、JRの重要な課題だった。我々はそれに目を付け、何とか出来ないかを考え始めた。その為にJR東海本社やJRの博多駅で、新幹線の車体の下を見学することが出来た。但し私自身は全然興味の湧くものではなかった。

私が、今は偉くなっていた同期入社(大学院卒)と一緒に新素材展を見に行った日に、TSh氏が交通事故でなくなったことを知った。私は心底替わってやりたいと思った。
翌日曜日晴海のビジネスショウへも行った。

鳥取で素泊まり4500円の安宿に泊まった。
翌日は、鳥取城趾を見たり、何もない鳥取の町を走った帰り、Ima、Fujが参加したくろねこツーリングに神庭の滝で落ち合った。倉吉から関金町を通り、湯原湖、湯原温泉を通るこれも通り慣れた道だ。
神庭の滝は中国地方随一の名瀑であり、水煙をあげながら断崖絶壁を落下するこの滝は、高さ110m、幅20mあり、豪壮な姿が渓谷と見事に調和している。付近一帯は、日本百景、日本の滝百選にも選ばれ県立自然公園に指定されているそうで、新緑がとても美しい。
滝の近くには野性の猿が約200匹住んでいるとかで、猿が寄ってくるのは、丁度箕面の滝に似た感じがする。

赤穂城へツーリングした。一人のツーリングは寂しいものだが、仕方がないことだった。
その夜、娘が来て泊まった。

開発部は軌道に乗らない。いわば素人、意欲のない者の集まり、旨く行く方が不思議だ。
週末は5時起きで、ローカル道路だけを通り大阪へ向かった。又姉の家に泊まった。TNaに電話したが、不在だった。翌日、奈良斑鳩を回り、京都にない新鮮さを感じて、そのまま帰った。510kmのツアーは私にとってはなんでもないことだが、乗っている間よりVZ750を降りた時の寂しさが辛い。

会社では、相変わらずマーケティングの輪講が月曜日に行われる。バイク仲間のIma氏は、四国ドックへの出向が決まったらしい。同時にTA氏が、開発部に来るとのこと。
病院に行った。月一回の通院で、薬を貰い続けている。一生薬を飲みつづけなければ駄目なのだろうか。私は非常なおも苦しさを感じた。
翌日は、VZ750で早朝の道を牛窓まで飛ばした。ペンション村を回り直ぐとんぼ返り、Ima氏と、Fuj氏その他若者数名と、再び吹屋に出かけた。吹屋は魅力的な町だ。矢張り横溝正史の何かが居そうだ。吹屋といい、八束村といい、岡山は、結構面白い。

姉の土地の草取りを業者に依頼した。姉は、私がずっと玉野にいるかと思って、私の家近くに土地を買っていたが、維持する人が居なく、草はぼうぼうとなり、近所から苦情が絶えなかった。
出張の前日、持っていく資料を会社に忘れ、夜中0時過ぎに会社へ戻り準備した。
新幹線の雪害対策の素案は、それなりに出来上がった。しかし何れにしても魂のないものだった。我々はそれを携えて、JR東海名古屋を訪れた。相手の取締役は、NMi部長の同期生とかで、話は聞いてくれ、会食を共にしたが、その後が続かなかった。

週末は、広島の姉の家に泊めて貰った。行きは国道2号線を使いゆっくりと走った。笠岡、尾道、三原、それぞれ味わいのある町が続く。東広島市あたりから、都会の感触が現れ、市内は、原爆ドームも見え、ここが、我がふるさとの広島かとの思いであった。市内を流れる太田川は、今は何事もなかったかの如く流れているが、原爆を被弾した時には、水を求める人達で、埋まり、そして死んでいったのだと考えると、終戦来43年経っていたが、強烈な印象を受けた。
一泊した翌日は、三瀧寺を訪れた。

広島市の北西の三滝山(植松山、宗箇山とも呼ばれる)356mの谷間に位置する三瀧寺は、三滝観音として親しまれている。三滝山は古く茶人の上田宗箇が城下の茶室の借景として松を植えた山として宗箇山とも呼ばれるらしい。また、境内には水流の異なる三つの流れが瀬音を響かせ、各水流が滝を持っていることから三瀧寺と呼ばれるようだ。江戸時代には龍泉寺とも称してい他とガイドには書いてあった。境内にある県重要文化財の朱色の多宝塔は、もともと和歌山県の広八幡神社の境内に建立されていたものを、原爆犠牲者の慰霊のため、昭和26年(1951年)に移築されたもので室町時代のものであるという。その塔内には、国の重要文化財である、平安時代に制作された木造阿弥陀如来坐像が安置されている。また、本堂の側面にある長大な板には、詩人故大木惇夫の長編詩「三瀧寺」が叙情豊かに墨書きしている。都心から近距離(横川駅から直ぐ)にあるにもかかわらず深山幽谷の趣きが広がる境内は、ゆったりとしていた。
又私は、義兄の推する縮景園にも行った。縮景園は、広島藩主浅野長晟(ながあきら)が入国の翌年、元和(げんな)6年(1620)から、別邸の庭として築成されたもので、作庭者は茶人として知られる家老の上田宗箇である。
園の名称は、幾多の勝景を聚(あつ)め縮めて表現したことによるが、また、中国杭州の西湖を模して縮景したとも伝えられている。
園の中央に濯纓池(たくえいち)を掘って大小10余の島を浮かべ、周囲に山を築き、渓谷、橋、茶室、四阿(あずまや)などが巧妙に配置され、それらをつなぐ園路によって回遊できるようになっている。この種の庭園は回遊式庭園と称され、室町時代にその萌芽がみられ、江戸時代初期に最盛期を迎えた形式で諸大名の大庭園の多くはこれに属する。縮景園の地割は実際の面積を何倍にも大きく見せるために、各部は変化に富んでおり、あるいは深山幽谷、あるいは広々とした海浜の観があり、四季の風情とともにまことに縮景の園名にふさわしい変化と統一ある景観をそなえている。
池の中央にかけられた跨虹橋(ここうきょう)は、七代藩主重晟(しげあきら)が京都の名工に二度も築きなおさせたものといわれ、東京小石川後楽園の円月橋や京都修学院離宮の千歳橋(ちとせばし)にも似た大胆奇抜な手法が駆使されている。清風館は庭園のほぼ中央にあり、庭園の結構にふさわしい数寄屋(すきや)造りで、屋根はこけら葺きである。西側は優雅な書院造りの様式をそなえており、東側には花頭窓を設け跨虹橋を臨んでいる。代々の藩主が特に愛好した名亭である。昭和20年(1945)原爆によって壊滅状態になったが、計画的に整備をすすめ、清風館、明月亭などの亭館も復元した。現在、年間約25万人の来園者があり、名勝庭園として親しまれている。
―以上ガイドから拾った。

翌月曜日は現実に引き戻された。MM氏、K氏が鉄構へ転籍という。船の人減らしは、大胆に行われていた。玉原(玉研)から古巣を訪れる機会があったが、そのとき私はもはや部外者であった。

東京晴海で「受注産業のためのマーケティング戦略」セミナーがあり、出張した。TYaと、SKaと飲んだ。共に船殻設計で、苦労した仲間だ。皆バラバラになっている。何処の部署も之といって、活気のあるところはない。ASaとは、今度、ツーリングで、十和田湖に行こうとの話しになった。

又SKa氏とは、私も頭髪が気になり始めていたので、当時有名になっていた中国の「101」を一緒に買おうとの話になり、その後数本(1本1万円)を買ったが、全く効果がなかった。
翌日もセミナーは続いた。海員会館のまずい飯を食べ、気乗りのしないセミナーは結局何の役にも立たなかった。
年間のボーナスも決まった。僅かなものだった。私は給料日と、ボーナス日は嫌いであった。
あれだけ苦労して働いたのに対価はこれだけかと何時も思っていた。
玉研では、企画会議が行われる。如何に企業の研究所として、成果を出すかが問われていた。私の見るところでは、とても飯の種になる様な研究はなかった。研究のための研究、私の感想はそうだった。概して優秀な人材が多い中、大学の延長での研究生活は、とても企業のそれとは遊離したものに感じられた。
帰ったら、TIt氏から電話が入っていた。私を気遣ってくれる一人だった。

翌日4時半に起き、は八塔寺にツーリングした。途中少し道に迷った。閑谷学校の近く吉永駅から北へ上る。八塔寺山へのつづらおりの坂道をぐんぐん登ると突然視界が開け、山頂部にかやぶきの農家が点在するのどかな風景が広がる。標高400mの高原に開ける「八塔寺の村」。高野山に並ぶほど仏教が栄えたこの村も、今では戸数約13戸、ふるさと村のシンボル的存在の”カヤ葺き民家”と寺院からその歴史がほのかに漂う・・・そんな心あたたまるのどかな景色の中を、時計を気にせずのんびり散策すれば、遠い昔にかえったようななつかしい思い出がいっぱいわき上がり、普段の嫌な生活を忘れることが出来る。
昼前、Ima氏が遅れて駆けつけた、一緒に歩いた、八塔寺山からは、遠く南に瀬戸内海、北に中国連山の美しい眺めが見られ、付近には民宿・レクリエーション・食事などの施設も整備されていた。今村晶平監督の映画”黒い雨”のロケ地となったことは我々も知っていて、そのバス停に行き、のどかな映画を思い浮かべた。照鏡山八塔寺は八塔寺山の深い緑の中、神亀5年弓削道鏡が開基したと伝えられ、今なお当時を偲ばせる寺院である。天台宗・本尊は十一面観音を祀っている。
今度は133kmの行程で楽だったが、岡山のふるさとに触れる気分で爽快だった。

カローラも下回りが傷みエンジンの調子も悪くなってきた。日曜日はあいにくの雨模様。カローラに乗って、各ディーラー周りをした。ホンダ:CXR、プレリュード、マツダ:RX7、トヨタ:MR2、日産:シルビア、EXAがその対象だった。
とにかく走る車が良い。内装なんてどうでも良かった。2人乗れれば十分だと思った。実際一人しか乗らないのだから。色々考えて、マツダと、トヨタが残った。その日の内には決めかねた。翌日夕方、早速マツダの関係者が私の家を訪れた。
会社は相変わらずだ。やる気を起こさせる様なことは何にもない。1日おいて今度はトヨタの販売員が来訪。同じに日にマツダも再びやってきた。値引きやサービスの件で、どの車にするか決めかねた。
ホンダからは電話が来たきりだった。

TItさんが来て泊まって帰った。辞めるつもりだという。優秀な人だけに会社も、手放したくないとの思惑もあり、簡単に辞めさせてくれないらしい。病気上がりもあって、肩が落ちている様に思えた。この頃の会社は、明日はどうなるのかとの不安が渦巻き、尋常では仕事が出来ない雰囲気であった。

土曜日、値引き、サービス品を勘案してRX7に決めた。
ロータリーエンジンがスーパーチャージャーに勝った。一番ベーシックなものにしたので、パワーステアリングが付いていないのには後々苦労した。その晩は、娘を食事に連れて行き、娘はそのまま泊まった。
翌日は、最後になるカローラで、娘と一緒に豪渓から、吉備高原都市を回った。私は吉備路が好きだった。県南部に位置し、北は高梁市・賀陽町に、東は岡山市・山手村に、南は清音村に、西は真備町・矢掛町・美星町に接している。
岡山市の西部を高梁川が流れている。岡山にはあと2つ大きな川がある。中心部を流れる旭川と東のはずれの吉井川である。西の高梁川沿いから少し入ったところに豪渓はある。吉備高原の間を縫って流れてきた高梁川によって運ばれた土砂による肥沃な平野に吉備路は位置する。
全国有数の規模といわれる作山古墳を始めこうもり塚古墳などの古墳群や備中国分寺、国分尼寺跡、宝福寺などの寺社が多く、歴史的にも繁栄の地であったことを伺うことができる。
北東部には吉備津彦命の温羅退治の伝説や、平安時代に山上仏教仏教の繁栄した地として知られている鬼ノ城、新山、岩屋の連山がある。
桃太郎伝説、吉備王国、雪舟伝説等歴史の息づかいが流れる総社、かつて吉備王国の中心地として栄えたこの地は多くの文化遺産が歴史を伝え、今も桃太郎ゆかりの温羅伝説などが語り継がれている。
総社インターそばの赤浜は雪舟誕生の地でもある。
備中国分寺(のどかな備中の風景の中にたたずむ五重の塔は周りの景色にとけ込み、みごとなたたずまいであり、奈良を彷彿させるものがある。) 吉備路古墳群(造山古墳、作山古墳、こうもり塚古墳)
宝福寺(日本の水墨画を代表する画聖雪舟が幼いころ修業し、涙で描いたネズミの伝説で有名なお寺。朱色も鮮やかな三重の塔や古式庭園、荘厳な本堂など本格的な禅宗様式を備えた風情あふれる山寺。である。)

そんな吉備路を抜けて総社から右手に取ると、名勝豪渓である。高梁川の支流、槙谷川の上流にある豪渓は、天にそびえ立つ奇岩絶壁が清流や木々と見事に調和し、壮大な渓谷美をくりひろげる岡山県代表の景勝地である。秋の紅葉シーズンは全山紅葉して最高の景観を醸し出す。
距離は近かったが、歩いたことで私は適度な疲労感を覚えた。
ドライブインで夕食を取り、息子が修学旅行へ行くというので、娘にお小遣いを預けて帰した。

8月から更に吉田号で苦労を共にしたTIn氏が開発部にやって来るという。

週末は豪雨だった。マツダの若い人が来て、細部を打ち合わせた。納車は月末になるという。

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土曜日、日本原から、津山鶴山公園を回り、倉吉から鳥取に抜けた。
聚楽園、博物館などを訪れながら、夕方近く湯郷温泉に着いた。日本原は、自衛隊の演習場がある。ここで、実弾を浪費している。更に鶴山公園は森忠政が慶長9年(1604)から13年を費やして築城したもので別名鶴山城のあった城趾である。天守閣などの建物は明治7年(1874)に取り壊され、現在は天守閣跡や城郭を残すだけとなっている。
一帯は鶴山公園として整備され、春に私が訪れた時は5,000本の桜が満開で、ゴザを敷いた桜花の下での花見酒に酔ったことを思い出した。新緑の頃には藤とツツジ、秋には紅葉、冬には雪景色と四季を通じて訪れる人が多く、岡山奥座敷の行楽地になっている。
衆楽園は明暦3年(1657)津山藩二代藩主、森長継公が京都から作庭師を招き、仙洞御所を模して造営した名園である。中国山地を借景としたスケールの大きさ。南北に長い池に四つの島を配した近世池泉回遊式の大名庭園で、同じ様式の後楽園よりも古く由緒深いものである。初夏の睡蓮がようやく咲き始めて美しかった。冬の雪景色は特に美しいということであった。

湯郷の竹亭は、日頃使うビジネスホテルとは違うリゾートホテルであった。6時に夕食を取り、そのまま湯郷の町に出かけた。

*****

翌朝は、5時に目覚め、6時から朝の露天風呂を楽しんだ。朝食を済ませ、旅館をチェックアウトして、黒尾峠から智頭町を通り一気に北上、再び鳥取に着いた。鳥取は殆ど何も見るところはない。
西には、以前私が同期連中(バージンズ)と来た白兎海岸がある。海水浴場には良いところだ。
その昔、大国主命がここを通りかかった時、ワニ(サメのことというのが定説らしい)に皮を剥かれて赤裸になった白兎を助けたことで有名だ。
たしかに、見れば、海岸の西の端には小さな島があり、そこから白兎がワニをだまして陸に渡ろうとしたのだと言われれば、ああ、そんなものかな、とも思える雰囲気だ。
この「神話」は「大黒さま」として童謡にもなっており私も良く聞かされた。
市内の、仁風閣へ行った。フレンチ・ルネッサンス様式を基調とした白亜の木造2階建てで、山陰に残る唯一の明治洋風建築だ。白さが眩しい。時の皇太子(後の大正天皇)の山陰行啓の宿舎として使われた建物で、随行した海軍大将東郷平八郎によって「仁風閣」と命名されたとのこと。
仁風閣がこの位置に建てられたのは、明治40年5月のことで、池田家第14代の当主池田仲博侯爵が、宮内省匠頭であった片山東熊工学博士に設計を依頼し、工部大学校で片山博士の後輩にあたる鳥取市出身の橋本平蔵工学士が監督したという。片山博士は、明治洋風建築最高傑作である赤坂離宮をはじめ、あの京都国立博物館など、数多くの有名建築を設計し、当時の宮廷建築の第一人者といわれた人だ。
仁風閣の完成に合わせ、県下で初めて電灯が燈され、また、山陰線が鳥取まで開通し、鳥取の近代化を象徴する出来事となったというが、相変わらずの貧乏県である。
夕方4時過ぎに鳥取駅を出発、私は、どう帰ったのかさえも知らず、一路玉野に向かっていた。
帰って一人の家は、いっそうの寂寞感があり、言いようのない寂しさが私を襲った。

造船時代その10に続く




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