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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

フィリピン時代その3


フィリピンで過ごした時の日記(3)

ドマゲティ空港には昼前についた。フロール達は大きく手を振って、私を出迎えた。
早速宿捜しに町を回った。ネグロス・オリエンタル州都であるだけに人の数は多かった。又トライシクル(自転車にサイドカーをつけたようなもの)が多く、安くて、便利だという。
街外れのコテージ風の清潔感溢れるホテルが見つかった。私はそこにチェックインして、ネグロス・オリエンタルの拠点とすることに決めた。今までに泊まった中では最高に良かった。明日迎えに来る時間だけを言うと、フロール達は例によって、安宿を探しに出かけた。

先ずネグロス島について、
『ビサヤ諸島の南西部、セブ島とパナイ島に挟まれるようにして浮かぶこの島は、「砂糖の島」(SugerIsland)の異名を持ち、平野部には延々と砂糖きび畑が広がっている。また南北に細長いこの島の中央には、カンラオン火山などの山脈が走り、この島を西ネグロス州(Negro Occidental)、と東ネグロス州(Negro Oriental)とに分割している。訪問地、西ネグロス州の州都バコロドは今、近代的な雰囲気を漂わせ始めている。人口約37万人。西ネグロス州の約3割の人口が生活する、ネグロス島最大の都市であり、経済・文化の中心地である。また、砂糖産業の中心地としても大きな役割を果たしている。しかし、その裏側で貧困にあえぐ人々も少なくない。その最たる原因としては町の近代化に伴う急激な都市への人口流入があげられる。都市の肥大化、貧困、退廃。バコロドは言わば、マニラやセブの前身である。町行く人々やストリートチルドレンなどの表情に感じるものも多いだろう。つまり、バコロドの貧富の激しさは、フィリピン全体の縮図であると言っても過言ではないのだ。』
とまあそんなところだ。
シャワーを浴びて夕食へと出かけた。出かけには、トライシクルを呼び、レストラン街に向かわせた。意外に涼しい。ホテルに聞いていた海岸沿いのめぼしいレストランを探し当てトライシクルに10ペソを渡すと喜んでいた。
レストランで沢山注文して食べきれなかったのはセブでの教訓が生かされていない。味も旨く、パエリアが良いというので、頼むと待つこと30分ぐらいで、そろそろ腹が一杯になった頃にそれは出てきた。
又そのボリュームの多さに閉口した、流石にすこし食べて、重くなった胃を掲げて、海岸沿いを散歩した。バコロドの堤防に座って、持っていた小さな紙に湾の状況をスケッチしていると、子供達が興味深そうに近づいてきた。打ち寄せる波と、堤防は、そこが外国であることを一瞬忘れさせるものがあった。
そろそろ夕暮れも近くなり、今度は、歩いてバコロドの街を、ホテルまで帰った。
ホテルの非常に感じの良いホスピタリティにぐっすりと寝ることが出来た。しかし朝方から腹の具合が悪い。
昨日のパエリアが余分だったらしい。フロール達が迎えに来て、私はいつものように助手席に位置を占め、役所の案内人を迎えに行き、ネグロス東部の調査旅行が始まった。

最初は東岸沿いに、タノン海峡(セブ島を右方向に見る。)を北上した。十数橋調査し終わった頃急に腹が痛く脂汗が滲み出てきた。フロール達は私を気遣って、休憩をするように言い、彼らだけで、2~3橋を調査した。そこでどうしても我慢がならなくなり、その日の調査は、切り上げることにした、ホテルに帰って、持って来た胃腸薬を飲みシャワーを浴びて、横になり暫し午睡を採った。その日は、苦しかったが、やがて薬も効き、夕方頃には、又腹が減ってきた。後にも先にも食い過ぎで、仕事を休んだのは、この時が始めてであった。夕方別の店で、今度は簡単な食事を取った。
次の日は、昨日調査したマニュヨドまで素通りして、そこから先の調査となった。行き交う車は荷台の周囲に高い囲いをつけた大型トラックでそれには砂糖きびが満載されていた。

砂糖きびの工場へ消えていく大型トラックを見ながら、周囲を砂糖きび畑に囲まれた道路をひた走った。流石シュガーアイランドだ。全面に背丈よりも高いサトウキビが群生し、その下では、それを刈り取る作業に余念がない人達、一寸休憩をする人達があちこちに見られた。

畑の中にはモノレールのようなものがあり、それに収穫した砂糖きびを集めて入れ、道路まで運ぶ段取りになっていた。又鉄道の線路が道路と平面交差し、それで、収穫した砂糖きびを工場まで運ぶようだ。そのスケールの大きさに、私は圧倒されながら見とれていた。
「ミスター○○、ブリッジ」リトの声にふと我に返り又そそくさと車から降りた。そんな連続で、ネグロス・オリエンタルとオキシデンタルの境の町である、バルヘルモソの分岐点から、陸側の道を取り、すこし山の中に入っていった。
ネグロス島で一番高い山カンラオンが見えてきた。2465mの高い山。周りに何もないので、ひときわ高く見えた。フロール達も珍しそうに、多分学生時代に地理ででも習ったかのようで、ロセールは「ミスター○○、写真を撮っても良いか?」と聞くので頷くと、山を色々な角度から撮っては、はしゃいでいた。

『島の中央を南北に脊梁(せきりょう)山脈がはしり、東岸と西岸をはっきりとわける。最高峰は標高2465mのカンラオン山。東岸は山脈が海岸にせまり、平地にとぼしいが、北岸と西岸は山の裾野(すその)が長く、肥沃(ひよく)な平野が広がっている。おもな農産物はサトウキビで、国内最大の生産量をほこる。西ネグロスと東ネグロスの2州からなる。フィリピンで4番目に大きい島で、面積は1万2704km2。人口は318万2219人(1990年)。』にある。

その日は、そこまでとし又来た道を引き返した。こんな調子で、朝から調査を始め、夕暮れで、見えなくなるまで、休むこと無く調査は行われた。
私の性格上、土曜日曜以外は、休むということは考えられなかった。
フロール達もそれは当たり前であること、私が意外に熱心であることから、すこし見直した風でもあった。バコロドの夜は更けていった。

次の日は、南に下り南海岸を調査した。何処も海岸沿いだけに、潮風による橋の傷みはひどく補強用鉄筋(リ・バー=Reinforced Bar)はコンクリートから剥き出しになり、赤茶けてさびていた。途中から未舗装道路に入り、オキシデンタルとの境まで行くと丁度日暮れとなって、我々は元来た道を例の通り帰った。バコロドの最後の夜も静かに過ぎていった。ボホールのタグビラランといい此処バコロドといい、とても落ち着ける雰囲気の良い町だと感じた。

特に名所旧跡があるわけでなく、ただの田舎町である。見るところもないので調査しかない。
最後の晩は、フロール、ロセール、リト4人で、パーティーと称して、一番最初に私が行った最も高級そうなレストランで打ち上げをした。
こうして、彼らの、モチベーションを高めるのも私の仕事の一つであった。

翌日は、国道ではない山道を近回りして、ネグロス・オキシデンタルに入った。州都はバコロドだが、バコロドから南は遠いので、鄙びた田舎の安宿に泊まることにした。シパラという町は、ちっぽけな町で、宿もコンクリートの床にベッドが置いてあるだけの粗末なものだった。私は初めてマニラから持参の蚊取り線香を使った。此処でマラリヤに掛かってはたまらない。
然し、夜中じゅうブンブンいう蚊の羽音には閉口した。

食事もレストランとはいかず、近くの地鶏の焼鳥屋で、私は手羽先とサンミゲールを常食とした。
ここらあたりは、未舗装道路で、1橋の調査にも時間が掛かる。短い期間であったが、私はその間に8つの手羽先を食し、確実に、16本のサンミゲールを飲んだことに間違いはない。
又その手羽先の旨いことと言ったら無かった。流石にフロール、ロセールとも最後は地元の魚を食べていたが、私は一向平気で鳥の脚にかぶりついた。

そろそろ調査仕事に嫌気と、疲れが出てきた。

******

エンカルタには、
『バコロド Bacolod フィリピン中部、ネグロス島北西岸の都市で、ネグロス・オキシデンタル州の州都。ギマラス海峡をはさんで向かいにギマラス島がある。ネグロス島の砂糖の集散地で、20世紀になって、サトウキビ・プランテーションの発達によりネグロス島最大の都市となり、「砂糖の首都」といわれる。製糖工場が多く、地域の金融と交易の中心地でもある。漁業もおこなわれている。遠浅のため港湾にめぐまれず、南西方25kmのプルパンダンが砂糖の積み出し港となっている。サン・セバスチャン教会が市の中心にあるほか、ネグロス・オクシデンタル・レコレストス大学(1941年創立)も市内にある。市の周辺にはサトウキビ・プランテーション所有者の豪華な住宅がたちならぶ。人口は44万7492人(1999年推計)。
』とあった。

リトの運転で、バコロドまで一気に北上し、そこを拠点に、ネグロス・オキシデンタルを調査することになった。彼らが、焼き鳥の町を過ぎてバコロドの調査中に、山岳地帯にいるNPA(イスラム原理主義)が町まで降りてきて、危険であったことを知らされ、ホッと胸を撫で下ろしたものだった。
バコロドは流石に都会の風情がした。

私は、中心街の、川の見える一見高級なホテルに泊まった。彼らは例によって安宿捜しに再び街に出て行った。高級ホテルといっても知れている。テレビがあり、ルームサービスがあるくらいだ。しかし金庫があり、ホテルマン達もいて、一応ホテルの体をなしていた。

ついた日は金曜日であった。私は、ローカルに暇を与えたが、リトだけは明日の海水浴にいくために迎えに来させることにした。そして早速ホテルでシャワーを浴び、ホテルのボーイに何か旨いものを食わせるところはないかと聞いた。
そのボーイは、直ぐ親しげに「日本から来たのか、なんの用で来たのか、観光か?」と聞くので「仕事だ、お前達の国の橋のコンディションを調べるためにはるばるやってきたのだ」と答えると、目を輝かせ「俺もやがて日本に行きたいと思っている」良いところを紹介するといって連れて行ってくれた。
食事が終わって、所在なさげにホテルに着きそのまま就寝した。

****

朝食を取りに出かけようとすると、例のボーイが、又擦り寄ってきて、「明日の日曜日に俺の家に来ないか。ご馳走するよ」といった。土曜日海水浴をして、さて日曜日はどうするかと思っていた矢先なので、招待を受けることにした。ボーイ君も里帰りをする日だったので、まあついでといってはなんだが、そんなところかと思っていた。

翌日曜日、ボーイ君は私の部屋をノックして、行こうという。初めて乗るジープニー、とても私だけでは乗り込めないだろう。ジープニーの運転手は誰が何処で乗ったかを良く覚えており降りる時には素早く料金をうけとる。降りる時には、自分の持っているコインなどで、天井や屋根を叩く。そのコンコンという音で、ジープニーは止まる仕掛けになっている。地理感がなければ、とても乗れたものではない。出会うジープニーには、屋根の上にも乗っている者がいたりして、「二層だてだ」とボーイ君は笑っていた。

郊外に出てしばらく走ると、田舎の空気が一杯の田園地帯にはいる、その先の村がボーイ君の実家だ。
私は、家に招じ入れられたが、お母さんと、お兄さんという人が出てきて挨拶を交わした。

********

ボーイ君が、ホテルの客で日本から来て、橋の調査をしてくれているのだと私を紹介してくれた。
それから先は、本当に田舎料理でもてなしてくれ、サンミゲールも出てきた。腹一杯になりながら聞くところに依ると、兄は、地方の役所の役人をしているのだという。道理で羽振りが良さそうだと思った。満腹感と気さくなホスピタリティーに満足して私とボーイ君は近くの海岸に泳ぎに行った。
とても綺麗だとは言い難かったが、日本の海に比べると、数段綺麗な遠浅の海だった。
暫く泳いで、ボーイ君と話し、日本に来たら是非連絡をくれと言って、名刺を渡して、二人一緒にホテルに帰還した。

明日はいよいよイロイロだ。ネグロス島でも最大の都市と聞いていた。

ホテルに帰ってから、ホテルの近くの閉館間際のイロイロ博物館に入った。そこは、土着のフィリピーノがどのように生活をして、今日に至るかをディスプレイも幼稚に飾り付けてあった。
次の日は、残ったカピツ迄の調査を行い、帰ってから船で、パナイ島で渡ることになった。フェリーはなく一般の乗客と貨物を積む船でどうして車をと渡すのか思っていたが、もっこで包み込んで無事車も乗船することが出来た。

エンカルタには
『イロイロ Iloilo フィリピン西部、パナイ島の南部にある政令都市。イロイロ川の河口に位置する同名州の州都。周辺の農業地帯ではサトウキビと米が栽培され、広葉樹林や採石場がある。おもな工業は、砂糖の精製と手織物(とくにパイナップル繊維の布)。対岸のギマラス島にまもられた良港にめぐまれ、商業も盛んである。市内にはフィリピン中央大学(1905年創立)がある。町は16世紀に建設され、1855年に対外貿易港として開港して以来、パナイ島やネグロス島をふくむ西ビサヤ地方の中心としてさかえた。人口は36万3778人(1999年推計)。』とあった。

イロイロ市では、これもスペイン調の落ち着いたホテルが、港の近くに見つかった。早速そこにチェックインして、その晩は、又ネグロスオキシデンタルの調査完了と、最後のパナイ島の調査の安全を祈りながら内輪のパーティーを行った。

翌日早く対岸にあるギマラス島を先に調査することにした。渡し船で渡り、トライシクルで、島の役所ジョルダンまで行った。そこで、案内を頼み、島を一周したが、この島は美しく、何か小豆島を小さくしたようなのどかな感じがした。私はいっぺんにこの島を好きになった。全体に、灌木の緑が素晴らしく、起伏の少ない適当な凹凸の島は、とてもゆっくり出来そうな所だ。
そこかしこで、海水浴が出来そうで、私は、残念ながらこの島に割り当てた時間が1日しかないことを悔しがった。

再び、渡し船で、イロイロ市に帰り、近くの教会に足を運んだが、中までは入らなかった。イロイロ市に泊まり翌日は、島の中央を縦断するカピツのロハスまでの橋梁検査を行った。途中、写真を撮るのに熱中のあまり、ロセールが、3-4メートルの土手を転げ落ち、丁度下で、くすぶっていた、籾殻の中に落ち幸い何事もなかったのでホッとした。今まで気が付かなかったが、もし事故にあったらどうすればいいのだ、全体の責任者としては、うかうかしていられないなどとその時ふと思った。

その日はそのまま帰り、翌日は、東海岸沿いの道(国道)を又同じロハスまでの調査に充てた。
島の東部の調査を終わり、イロイロ市で、市内の調査をするのは矢張り嫌な仕事だった。マニラやセブほどではないが、橋の下はトイレにかわりはなかったからだ。

イロイロ市の調査を終え、次の日は、サンノセ・デ・ブエナビスタ迄基地を移動し、その間の橋を調査しながら走った。

サンノセ・デ・ブエナビスタに到着し早速宿捜しに掛かった。しかし市内には適当なところがなかった。私はロセールに、ホットシャワーと、クーラー付の部屋を探すよう指示していたので、少し海岸沿いのリゾート地まで踏み込まなければならなかった。
町外れで、海岸縁に、観光客相手のロッジが並んでいた。その内の一つに決め、宿のオーナーの娘で未だうら若い綺麗な女性を知った。名前をローレライといった。独身のロセールと似合いだということで、けしかけたがそれ以上ロセールからはアクションを起こさなかった。

そこはレストランもあったが、フロールはなにやら値段が高そうなのを気にして、町の食堂まで出るよう我々を誘導した。
ロセールとリトが一緒の部屋で、3つの部屋を取ったが、ネグロスのコンクリート床の部屋より一寸ましな部屋しかなかった。

****

ロセールは、ここパナイ島北部のアクラン出身であるが、南までは来たことがないようであった。
アクラン迄のアンティケ地方を西海岸沿いに北上してその道を2日掛けて調査した。その海のずっと向こうはJOCV出身のAo氏の担当するパラワンだ。
ホテルに帰り、夜遅くまで、ローレライと話した。

最後の日、我々はローレライと、もう一人もっと若い娘の6人で、打ち上げの先取りとの名目で、又パーティーを持った。ローレライは遅くまで付き合ってくれ、「ジェネラル山下が遺していった、ゴールデン仏陀を知っているか」という。「名前は聞いたことあるが、本当かどうか疑わしい」というと、ローレライは「シュア、シュア」と真顔で説明をしてくれた。
この近くにそれは隠されているのだとも言って目を輝かせた。
明日は、土曜日だから調査はないし明後日まで、ボラカイに行くのだから日程的には楽な方だった。
ボラカイは一度行ってみたかったので、2泊することに決めていた。朝起きて出発までローレライと、ゴールデン仏陀の話で盛り上がった。
いつしか我々の間では、サンノセ・デ・ブエナビスタからアクランまでの道路を、ローレライ・ロセールロードと呼ぶことになっていた。

フロール達のせかす声を背後に聞いた。「ミスター○○出発の時間ですよ。」私はゴールデン仏陀についてもう少し詳しく知りたく名残惜しいが、渋々立ち上がった。

*******

我々はロッジを後にして、町に出て、朝食を採った。
それから車にガソリンの補給をし、領収書を貰い、後ろ髪引かれる思いで、サンノセ・デ・ブエナビスタを後にし、ローレライ・ロセール・ロードを北上した。西に広がるアンティケの海岸沿いを調査した橋を反芻するように、数十の町や村を過ぎ我々のピックアップは、アンティケとアクランの境である、パナイ島の最北部に到着した。

いよいよボラカイが待っている。私の胸はいやが上にも高鳴った。前もって聞いていた、片平雇いの土木測量技師から聞いていたし私もそれなりの、資料に目を通していた。リトは、渡し(バンカ)のあるウニオンへと車を乗り入れた。

此処で私はフロール達が躊躇しているのを見た。「どうした?」と聞くと「我々は此処で待っている、ミスター○○だけ行ってこい」という。「何故だ?」の問に「ボラカイ島は、リゾート地で宿代が高い、我々には勿体ない」というのだ。私はふと現実に引き戻された。そういえばそうだ彼らの宿泊バジェッドは決まっているし、低い。言いようがなかったが「お前達も初めてだろう、もう二度と来ることは出来ないぞ、何とかならぬか」と言った。フロール達はひそひそタガログ語で相談していたが、やがて、「ミスター○○、我々も行く」といった。結論は、コテージを一軒借りて、そこに男女3人が泊まり、宿泊代をを1/3にするということで話が纏まったらしい。

男女同室は、日本などでは考えられないが、勇気ある決断だったのだろう。そうと決まれば、バンカのチケット売り場で、4人分のチケットを買い、西洋人達が並んで待つ乗り場に急いだ。
リゾート地だけに欧米人が多い。日本人は余り見かけなかった。バンカに乗るには靴を脱ぎ、素足で、海に入りながら、船頭に手を引いて貰って乗り込む。遠目には狭いようであるが結構人は乗れるようだ、大きく突きだした、安定を保つための浮力体とは弓なりの木で作った資材が使われていた。それがなければ、カヌーのような形なので、瞬時にひっくり返るであろう。

私は造船出身の目が覚め、このしなやかで、牧歌的な乗り物(バンカ)に興味を持った。

ボラカイの舟

そして復元性で、教えを乞い、そして、野本謙作阪大名誉教授(近日前にヨットの事故で亡くなられた)を思い出し、難解な数式がちらと頭をかすめた。
しかしヘイエルダールの時代から、ポリネシアンを問わず、太平洋のメラネシアン、ミクロネシアンの交通手段は、こういった、素朴で合理的なバンカによってなされていたのだと言うことも同時に、考え、はやる心がなお一層加速するのを感じた。
バンカには飲料水なども積まれていた、十数人が乗るともう一杯で、我々は船底に腰を下ろした。
立っていては復元性に悪いことは、皆常識として分かっていた。バンカは、動力付だ、モーターボートの船外機をつけたようなものだ。ゆっくりと離岸して、ボラカイ湾をボラカイ島へと静かにバンカは走り出した。

清々しい海風に興奮は高まった。心地良い海風に吹かれること十数分でボラカイ島に近づき船頭は、遠浅の岸近くで、人の膝下が浸るくらいのところにバンカを留め、我々は、ズボンをまくし上げ、女性はスカートをたくし上げて、海に入り、岸へと向かった。
いよいよボラカイ島だと思うと心なしか胸が高まっているのを感じた。

日本なら正に「白砂青松」といわれるところだが、此処では「白砂ココナッツ」であった。
眼を射るような白砂からの反射光を辛うじてレイバンのサングラスが保護してくれた。
水際から、道まではまた少し歩くほどの遠浅な海岸線がおよそ東西に2kmほど繋がっていた。
早速我々は、ガイドを見つけ、安宿を探した。適当なところがあいていた。何しろ日頃から、予約など余りしない私、この時も何とかなった。高級なところは長期滞在の西洋人が、占領しているらしかった。
コテージの床はセメントであり、ベッドも余り良いものではなかったが、私は満足だった。ネグロス・オキシデンタルで、チキンを嫌と言うほど食った時の宿に比べると陽光といい、環境といい格段の違いがあった。

私は海岸近くの部屋に入り、フロール達は3人で、奥の方の部屋に入っていった。私は待ちきれず、海水パンツに身を包み、白砂の中を、ロセールとリトを従えて、海に飛び込んだ。
フロールは恥ずかしいのか、水着を持っていないので普段着のまま素足で、海岸に出てきた。
しかし桃源郷とは此処のことを言うのだろうか、今まで泳いだ中で最高、いや他に類を見ないほどのエメラルドグリーンの海の透明度と、白砂のマッチング。さらにココナッツのグリーンが見事に調和していた。

若い人達が、沖縄とかに行き又この様なところに来る気持ちは容易に察することが出来た。何しろ素晴らしい。此処では、ホワイトビーチ沿いに、ダイビングスクールの看板が目立った。皆の目的は矢張りダイビングにあるようだった。2日間の逗留を決めていた初日に、ロセールに、ツアーの有無を聞かせ、ダイビングコースと、島内観光コースのあることを知った。

何とロセールは泳げない、リトは良いとして、ダイビングに出かけることにはならなかった。
私は一人ダイビングに出かけようかとも思ったが、島の中も見たかったので、島内観光を選んだ。この次に島の案内をすることになるが、観光は、例のトライシクルを雇ってのものであった。
原動機付きのトライシクルは起伏の少ない丘を上り下りするには格好のものであった。
私はロセールを通じて、交渉に当たらせ、自らも、英語で値引き交渉に加わった。
此処で出るのが大阪人根性である。如何に今や仮面シティーボーイになったとはいえ、流れる血はそうそう私の性格を変えるものではなかった。値引き交渉は成立し、トライシクルは幻想的な、山の中へと動き始めた。

此処でボラカイの案内をガイドブックや、他のホームページの紹介を兼ねて書いておく。

先ずはエリアガイドから
『ボラカイはパナイ島北西端の沖に浮かぶ小島だ。面積2500エーカー、長さ7キロ。幅は最も狭いところでわずか1キロ。しかない小さな島だが、一部を除いて周囲はサンゴ礁に囲まれ、風景的にはきわめて美しい。
ビーチ・リゾートの拠点は島の西岸のホワイト・サンド・ビーチWhite Sand Beach(通称ロング・ビーチ)。この名称どおり、マニラ近効のリゾートへ移出されているといわれる砂の色は、限りなく純白に近く、砂質もまた限りなくパウダー・サンドに近い。このみごとなビーチが、約4.5キロ。にわたって続くのである。真昼の陽光のなかで、青い海と白い砂浜の鮮烈なコントラストが織りなす風景は、あまりにも絵はがき的で現実味に乏しい気さえするほどだ。これほど明るく解放的な美しい風景をもつビーチ・リゾートは、今のところボラカイをおいて他にない。

 ただし、この類まれな風景美はビ-チ北端部にからくも保たれているものの、大部分は俗化による景観破壊が著しい。この島の美しさは一部ヨーロッパ人旅行者の間ではかなり以前から注目されていたが、1980年代半ば以降がぜん人気が高まり旅行者が急増した。当然それに対応すべく宿泊、食事、娯楽などの諸施設も増えたが、あまりの無計画・無秩序な施設の拡充が珠玉の自然美を台なしにしてしまったのが惜しまれる。美しいからこそ人は集まる。その反面、人が増えれば本来の自然美は失われやすい。開発というものの難しさだろう。幸い一時の乱開発には歯止めがかかり、コテージ建設区域などの規制、ビーチや水際の定期清掃といったことが行なわれて多少なりとも風景美の修復は進んでいるかにみえる。だが環境整備という名の開発は進み、舗装道路、バイク・タクシー、鉄筋コンクリート製ホテル、テニスコート、ボーリング場などがすでにある。近代化によってもたらされた利便性、快適性とひきかえにこの島の素朴さや静けさは損なわれた。

美しさゆえの宿命ともいえる皮肉な変化だが、節度ある開発こそが島の健全な発展の鍵となることは確かだ。ところで滞在客の多くがヨーロッパ人というのもボラカイの特徴だ。彼らのビーチ・ファッションは過激で女性のトップレスは当たり前、男性もビキニを通り越し、わがフンドンも顔色なしのTバックという超過激派も珍しくない。またときにはヌードの女性を散見することもある。ヨーロッパのなかでもスイスやドイツ、スウェーデンからの連中は太陽に飢えているせしもある。とくに、ヨーロッパ人が多いのは12~1月で、折しも彼らの故国は厳冬期。陽光をむさぼりたいのは生理的欲求かもしれない。しかし、島民は彼らのあけすけなスタイルを不快に感じているふしがある。表立って何も言わないのは観光収入が彼らの生活を支えているからだろう。この時期にボラカイが満杯状態になるもうひとつの理由は、カリボでアティアティハンが行われるからだ。カリボの町は小さく宿泊施設も少ないので、旅行者はこぞってボラカイに滞在することになる。

島内に13ある村のうち、比較的大きなのは3つだけ。南端のマノク・マノクManoc-Manoc、中部西岸のバラバグBalabag、北端のヤパクYapak。ホワイト・サンド・ビーチはバラバタからマノク・マノクの北西側の寒村アンゴルAngolまでの間に延びていて、海岸沿いに宿泊コテージやマリン・スポーツのステーション、Tシャツなどトロピカル・ウェアのショップ、パブ、レストランなどがある。バラバグには学校、郵便局といった公共施設、また近くには観光案内所もある。つまりこの4キロ余の区間がいわはボラカイの“ツーリスト・ベルト〃だ。
宿泊施設は他にはマノク・マノクに近いカタバン・ビーチCagban Beachに2、3あるぐらいだ。島を東西に横断するルートは2本あるが、アルゴンからのものが最短で徒歩約15分で東岸へ抜けられる。
 北端のヤパクは、人もまばらでプライベート・ビーチの気分が味わえ、しかもプカ・シェルが採れるビーチがある。その名もプカ・シェル・ビーチPuka Shell Beach。なんでもここで採れるボラカイ・プカ・シェルは白さと輝きの点で世界でも有数のものだという。それだけにだいぶ掘りつくされてしまっているそうだ。ヤパタ周辺には大型コウモリの洞穴Bat caveやシェル博物館Shell Museumがある。東海岸は、ホワイト・サンド・ビーチのような砂浜に恵まれないせいか、手つかずの状態だ。それだけに喧噪とは無縁。東側の海面は、雨季に当たるが6~10月が穏やかになる。』

これだけ見ても心躍るが、そこに今自分がいるのだということは、何にも変えがたい、この調査旅行の疲れをいっぺんに吹き飛ばすような自由さを味わった。
初日は島探検とトライシクルに乗る。ホワイト・サンド・ビーチに沿って北へ上がり、5キロも行かないうちにプカ・シェル・ビーチに着いた。白い砂が若干大粒である意外は、ホワイト・サンド・ビーチと何ら変わらず、返って、静かなことが、自然を感じるのには絶好のポイントだった。そこで私は、思う存分泳いだ。リトはそうでもないが、フロールは勿論、ロセールも泳げないために、海岸のプカ・シェルを売っている店で私を辛抱強く待っていた。時々ロセールだけは、一緒に海にはいるが、幼児の様に水遊びをしているだけであった。私は素潜りなどで、海中の熱帯魚と戯れ、時の経つのを暫し忘れた。

ひとしきり泳ぎ終わって、海岸で、横たわり、太陽を満喫する。又海にはいる。そして時刻は出発を促す頃になった。私は、プカ・シェルの店で、その店最高のものを買った。それでも、マニラで買う数分の一に相当する金額だった。
プカ・シェルは、米粒大のかわいい真珠だった。
フロールたちはうらやましそうだった。何しろ彼らにはとても手の出る品物ではなかった。

プカ・シェルビーチを後ろ髪引かれる思いで後にして、大型コウモリの洞窟に急いだ。洞窟への道は若干残る原生林を分け入って、進んだ先にあった。ぽっかりと空いた、その洞窟は、垂直に降りていく危なっかしい梯子がついていた。こんな時リトは一番初めに猿のように身軽に降りていく。2番目は私、そしてロセールと、そのロセールに大丈夫かと確かめてからフロールの順に中に入っていった。他の欧米人観光客も同様に奇声を発しながら入っていく。

しばらくは外の光に慣れた瞳孔は狭くなっていて、周囲を見渡せないが、暗さになれ瞳孔が開いてくると、洞窟の天井といわず、そこかしこにびっしりとコウモリが逆さになってぶら下がっていた。夜行性故、殆ど身じろぎもしないが、時々飛び立つ奴を見ると、小さな鳥ほどのものもいた。
しかし人口密度(いやコウモリ密度)はすざまじいもので、殆ど壁、天井は、コウモリで覆われていた。
次に訪れたのは、シェル博物館。プカ・シェルそのものと、加工した米粒真珠(ライス・パール)がぎっしりと展示されていた。そうして、又東海岸に出て、私は歩行中にも傍の海に飛び込んだ。「ミスター○○は余程泳ぐのが好きなんだなぁ」とロセールは言った。「明日泳ぎを教えてやる」というと、ロセールは目を輝かせていた。
こうして、島一周をした後コテージのある、ホワイト・サンド・ビーチに戻ってきた。その日は、その後自由行動にしたので、フロールらは、賑やかなところに足を向けたが、私は残照を惜しんでまで、海水浴に親しんだ。

夕食時になった。4人で訪れたのは勿論海鮮の店。店の前には生きたエビや魚が泳いでいる。尤も、豪華そうな店(といっても小屋のようなもの)に入って、自分で指さしたエビなどを焼いて貰って食べた。いくら食べても食べられる。肉と違って、とても沢山食べられる。実に旨い。海水浴と、島巡りで疲れた体にはサンミゲールとその海鮮の料理は腹に染み渡った。
大きくなった腹を抱えて、一旦各自のコテージに帰り、食休みした後、フロールを除く男3人で、ホワイト・サンド・ビーチの北はずれの野外ディスコに出かけた。

「ロセール、踊れ!リトも」と言っても恥ずかしがって踊らない。「ミスター○○こそ踊りなさいよ」と逆に言われてよく見ると若者ばかり、気後れして、そこは見物だけにして、浜辺を散策した。
そして夜も更けてきたので、眠りにつくべくコテージに入った。
暫くベッドに横になっていたが、ニックニックという蚊に刺されると大変ということで此処でも蚊取り線香をつけた。
暫くして、興奮で寝やらず、起き出して海岸に出ると、海は黒くて見えないが、満点の空に輝く星は、日本ではプラネタリウムでしか見られないような、いやそれより臨場感が何とも言えず、暫し、喧噪と、労働を忘れ、島の第一夜は更けていった。

太陽が昇るのを待てずに海岸に出た。静かな海は、東京で、今何があるかを思い出すことさえも出来ないほどだった。こんな清々しい朝は、生まれて初めてであった。その内、太陽も昇り始める頃、フロール達が起きてきて「ミスター○○朝飯を食べに行こう」と声を掛けてきた。その声で、4人揃って、例の海鮮店近くの軽食を食べさせるところで簡単な朝食を採った。
旨いものを良い場所で食べる、これが天国というものか。東京の高級レストランでも味わえない幸せを感じていた。
食事が終わると、コテージから持ってきた本を取り出し、白砂の上に寝そべりサングラス越しにのんびりと読書を始めた。するとどうだろう、ホワイト・ビーチの北の方から西欧人の二人連れ(所謂アベック)が近づいてくるのに気が付いた。私はそれを見てびっくりした。女性はトップレスである。
それが実に美人だ。横に並んでいる男も残念ながらターザンのようにたくましく筋肉隆々たる美男子である。私は慌てて、置いてあったサングラスを身につけ、目線で彼女のバストを追った。
美男・美女はそれが自慢らしく決まった時間にそこを通る。暫し目の保養をさせて貰った。
太陽が、じりじりと背中を焦がすようになると私は、海に飛び込みそれを癒した。読書、海、その連続で2日目は暮れていく。時間が無限大であったらいいのにと思ったことであった。

その間にロセールとリトも海岸に出てきて、水に浸かった。約束通り、私はロセールに泳ぎの基礎から教えた。それも空を向いて仰向けに・・・。胸一杯に空気を吸い込んでやれば大丈夫と言い聞かせて、練習すること30分でロセールは仰臥姿勢での浮き身を身につけた。

此処でアクランでのアテアテハンについて、これもエリアガイドから借用する。
『毎年1月第4週の土、日曜のイロイロ市内は、色彩と音と群集が織りなす“ディナギヤンDinagyang”フイーバーで、狂乱のるつぼと化する。ティナギヤンとはDinang=Merry,Yong、つまり、Merry making――うきうきする――といつた程の意味か、要するに幼きキリスト「サント・ニーニヨ」礼賛の祭りである。
 ディナギヤンの源流は、イロイロと同じパナイ島北部の小さな町カリボKaliboに求められる。ここにアティアティ八ンAti-Atihanという祭りがあり、その歴史は13世紀にまでさかのぼる。13世紀半ばころ、ボルネオの部族ダトゥDatuの10家族がボルネオを逃かれ、北東のパナイ島へたどり着いた。そこはアティ族Atiの居住区だった。アティはフィリピン原住のネグリトNegritosの1部族で、小柄で黒い肌が特徴である。アティはダトゥの家族に居住区を与え、その来訪を祝った。新参者たちはアティ族にならって顔を黒く塗った。――。これか本来のアティアティ八ンの起源らしい。ところか後年、セフ島へ上陸したスペイン人かキリスト教布教のためにこの島へもやってきた。彼らはカリボに侵攻してきたモスレム軍団をあざむき、撃退する手段としてアティアティ八ンの儀式を利用した。居住者たちをすべてアティ族に見せかけるベく肌を黒く塗り、戦闘用の衣装をまとわせた。これが効を奏してか回教徒軍に勝利を収めたとき、スペイン人はそれがサント・ニーニヨの守護によるものだと説いた。アティアティハンに宗教的意味あいが加わったのはこれが発端のようだ』

『アティアティハンから派生した同種の祭りは、1月中に各地、各島にある。ちなみに、カリボから北西へ30kmのイバハイIbajayには同名のAti-Atihan in Ibayayがあり、本家はこつちと主張しているそうだ。しかし、商業ベースにのって大規模かつ華々しく行われるカリボのアティアテハンが相手では、歴史的な真偽は二の次。知名度で完敗しているのが現実だ。祭りの期間がカリボの1週遅れというのも分が悪い。
 セブ島ではシノロ・サント・ニーニヨ・デ・セブSinulog Santo Nino de Cebu〈通称シノロ〉と呼ばれる。期間はカリボと同じ、1月第3週と重なるが、なにしろサント・ニーニヨの本尊を擁する土地。サント・ニーニョ信仰団体Cofrodio del Santo Ninoが最初に組織されたのがセブで、ここから各地にサント・ニーニヨ信仰は波及していった。その結果カリボの祭りと結びついて現在のアティアティハンが生まれたわけだ。観光地セブだけに、シノロの熱狂ぶりも相当過激だ。
 さて、イロイロのディナギャンも、かってはAti-Atihan in Iroiroと呼ばれていた。
ラム・セクションの人数はグループの規模に比例して多いから、100人単位のグループが発っする音量となるとまるで雷鳴のようだ。
とにかく本番1週間前から町は徐々に熱っぽさを増し、ドラムの轟きが町全体を日1日と強く覆っていく。
 しかし、人びとのエネルギーが完全に爆発するのは、なんといってもコンテストが終了する日曜の午後だ。競技チームのよく訓練された、激しく色鮮やかな踊りは、つかの問のショーにすぎなかった
ことを実感させられる。つまり、その華麗なショーに酔いしれていたすべての観客が、コンテスト終了と同時に、彼ら自身か路上に繰り出して踊り出すのだ。その群集の密度と、彼らか発散する異様な熱気は、すごいという他に言いようがない。路上の踊りの輪を、傍観していることも難しい。“一緒に踊れ”とひっぱり込まれ、“ぐっと干せよ”と強い酒を飲まされる。こうして、人びとの集合離散が町中に繰り返される。Dinagyang=Merry makingと命名したパシフイコ・スタリオのセンスは、やはり作家のものだと納得する。そして午後6時、街頭から、いっさいのドラムの音が唐突に消える。音出し禁止の時刻なのだ。あちこちでカセットのディスコ・サウンドに乗って踊る小さなグループはあるにせよ、とにかくこれか熱狂のディナギヤンの、いさぎよい終焉なのである。』

一応ここで調査の全行程は終わった。
楽しいこと、つらい思い出をもってアクラン飛行場に戻った。
ここからマニラへ直行だ。機上に落ち着いて,しばし眠りについた。

ふと我に返るとミンドロ島の上空を機体は滑るように飛び、マニラ空港はもうすぐであった。
離陸時は、余り考えないが、私は飛行機に乗った時、飛行機が着陸態勢に入って、海面や地面が見え始めると、必ず、今失速したら100%死ぬな、そして、段々高度が下がるに従って、80%、60%と考えるのが常になっていた。そして見事ランディングを果たすと90%は助かると思い、逆噴射時にはこれで大丈夫と思うのだった。

空港には、運転手のジョーと、フロールの夫が迎えに来ていた。ロセールは独り者だから誰も来ていない。私はロセールを私の車で、家まで届けてやった。
明日からはボナベンチャーで、写真の整理と、レポートの入力のための整理に掛からなければならない。調査した橋は、千数百橋にも達していた。

ボナベンチャーでは既に帰還しているチーム、未だ最後の追い込みを行っているチームなどがあり、集まった顔は、それぞれに赤銅色に焼けていた。
未だ終了していないチームへは先に済んだチームが応援に出かけていた。
私の調査対象区域は、橋の数が1番多かった。早速整理に掛からざるを得ない。
私と後2人は、ODAのアサイメントが長く、米人のそれは短かった。ほかにも期限が近い者がいて、彼らの最後の調整も私たち残りチームが始末をすることになった。
忙しさが急になった。


仕事で行き詰まった。周りのチームが、レポートを細かく書いているのに対して、フロールの記録は実にあっさりしていた。橋の状態は、「Good」または「re-bar exposed several part」とそんな調子である。私は悔やんだ、フロールは、女だから緻密かと思っていたが、全く駄目であった。
ほかのチームのシニアは、表現力が豊であった。悔やんでも仕方がなかったが、私の持ち前の正義感と内容の遅れに対して悩みがつのった。

そしてそのころから、体調がおかしくなり始めた。「黒い犬」が忍び寄り始めていた。
腹を下し、トイレに行こうと思っても、ボナベンチャーの事務所は、水洗の事情が悪く、わざわざ、ジョーを伴って、旧事務所ビルに出かけて用をたさねばならなかった。車の混雑で、10分はかかる。
実にくだらないがこれがフィリピンだ。外見のビルは立派だが、中身はお粗末なのだ。

例えば、高層ビルを建設中の現場で、遙か上の方で仕事をしている、所謂鳶みたいな人間は、ヘルメットも無し、足場も丸太1本防護ネットすらない。
周りは湿気で暑い。良い建物が出来る環境ではないのだ。
それはさておき、旧事務所のトイレまでの我慢は並大抵のものではない。

******

そんなことを繰り返す日も多くなった。何しろ自炊が出来ない。食べるものも十分ではなくなってきた。衰弱が激しくなった。
朝の連続ドラマ「春よ来い」の音楽と、いしだあゆみの顔を見ると又ボナベンチャーへ行かなければならない。辛かった。

フロールの顔を見ると怒りが込み上げてくる、フロールにも又私自身へも。
ついにダウンの時が来た。出かけられなかった。断りの電話をする・・・。
日本工営の駐在のT.N氏に後始末をお願いしなければならなくなった。
肩身が狭かった。
苦痛の連続の日々に変わった。
「黒い犬」が忍び寄っていた。

一旦遠ざかっていたので、その薬は、持ってきていなかった。その事が良くなかった。
しかし調査旅行中は、至って元気であったのに。私の負けず嫌いと潔癖さが、フロールのレポートを許すわけにはいかなかった。
後1ヶ月で終了出来るはずのところを、駐在のT.N氏に助けて貰わなければならなかった。
T.N氏は色々と気を遣ってくれた。自分の仕事が終わってから、ボナベンチャーに駆けつけ、フロール達を叱咤して、仕事を進めてくれた。

駐在のT.N氏は、私に帰国するように勧めてくれた。私自身も帰国以外に何も出来ない。かえって足手まといになるとの判断で、帰国の準備を始めた。

日本工営のマニラ事務所で、秘書のアイリーンさんに帰国のための手続きを依頼した。6ヶ月のアサインで来ているので、それまでに帰国することは難しいのだ。期間中2度と入国しないとの誓約をして、移民局の行列に並んだ。
帰国の書類は整い、現地でのお金の精算も終えて、待たしていた、ジョーの車で、逃げるようにマニラ空港に向かった。
道路の混雑は私の計算には入っていなかった。ジョーに近道を採るように指示したがどこも一杯だった。気持ちが焦ってジョーを何度も叱った。
空港到着はぎりぎりセーフだった。ジョーにと思って、私が貯めていたペソのコインをナイロン袋に入れていたが、急いだあまり渡すのを忘れてしまった。
よく仕えてくれたのに、悪いことをしてしまった。

急いで荷物をカートに積み、チェックインカウンターに向かった。

私を乗せた、ビジネスシートは、ほどなくマニラ空港を後にして、まどろむまもなく成田に着いた。

後味の悪い出張だった。
日本工営との契約期間は後1年半残っている。T.Kさんから○○さん(私)は急病との事前連絡が入っており、慰労の声はあっても、
早く帰ってきたことを誰も責めなかった。それが私には有り難かった。

しばらくは医者と工営の事務所に通った。「黒い犬」の原因が取れたので、徐々に回復していった。

【とりあえずフィリピンはここまでです。思い出したら追加して書きます。】




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