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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

ジンバブウェ時代その1


私がジンバブウェで仕事をした時の日記(1)です


1995年8月14日、盆明けの出社で、KTa次長に呼ばれて、ジンバブウェ行きを打診された。
出向先では命令通り動くのが仕事、否やはなかった。工営の副理事のレクチャーを受ける。
ジンバブウェは昔南ローデシアと呼ばれソールズベリーが首都(現ハラレ)だった。
ODAでジンバブウェに6橋を建造・ドネーション(無償供与)する。現在MTa氏がレジデント・エンジニア(駐在技師)として駐在している。人柄の良いJOCV上がりの人と聞いた。後、彼を宇宙人と呼ぶ日がくる。
鴻池組が、コントラクターである。

フィリピンで後事を託した大林組の方も8月15日に帰国されるとの話を聞いた。

ジンバブウェまでのビジネスクラスのエア・チケットは、124万4360円とのことだった。個人にとってはとてつもなく高い。
KTa次長の梗概説明を聞き、かなり気候的にも恵まれたところらしい事が分かり安心した。
それから数日間出発前にばたばたと事前勉強をした。
ドネーションする橋はポストテンションのPC桁橋である、といってもはっきりイメージされるものはなかった。
造船しか知らなくて、フィリピンで橋梁の状態調査の時、土木の単語を少し覚えただけである。
しかし先人がいるので少し心強い。以前に行くことを打診されたパキスタン、インドに比べると天国のようなところと聞いた。

いよいよアフリカかという感慨がこみ上げる。

1995年8月23日に成田へ向かった。チェックインを済ませた。そこからはもう外国。エグゼクティブ・ルームで、出発までの時間を潰す。
航空会社はキャセイパシフィックで、香港トランジット、南アのヨハネスブルグに向かう。

時間の感覚が麻痺する。フライト中、飲み物と、食事の攻勢にたじたじとなった。香港の空港は啓徳空港で、世界でも指折りの危険な空港で、機長泣かせと聞いている。高い集合アパートすれすれに機は、啓徳の滑走路に進入した。此処でのトランジットは難なく済む。外に出ないから又エグゼクティブ・ルームで休む。

香港からヨハネまでは、12時間の長丁場だ。
機内には数人の日本人がいたようだが、食事と睡眠の連続で退屈な空の旅だ。機内では久しぶりに古い映画を見た。

ヨハネスブルグでは一旦入国の審査を受ける。荷物は無事届いていた。すぐ又チェックインし今度は、ジンバブウェ航空に乗り換えた。尾翼に国旗をあしらった中型機だ。
ヨハネを飛び立って、眼下に見えるのは、荒涼とした大地、赤茶けた、木も生えていない砂漠のような大地だった。しかし、機がハラレに近づくと、地上は全面緑に覆われていたのを見て、心が和んだ。砂漠が終わり、サバンナの風景が見える。

とにかくアフリカの規模は大きいの一言に尽きた。2時間ほどのフライトで、ハラレ空港に無事到着した。私はつぶやいた「こんな所で仕事が出来るかな」。

イミグレーションでは荷物を開けさせられた。簡単だが手荷物検査はばっちりだ。パソコンは、業務用で、終わったら持ち帰るというとOKだった。
イミグレーションと荷物検査を終えて、空港の外に出た。

ジンバブウェで実際に仕事をしてくれるエンジニアのニョニと運転手のマレーテが迎えに来ていた。ニョニは、ン・デベレ族で、褐色の綺麗な肌をしていた。
私は、黒人は皆黒くて同じだと思っていたが、黒さにも色々あって、ショナ族の黒よりン・デベレ族の方が褐色がかって、それなりに優越意識を持っているようだ。

女性もそうで、最初は美醜が分からなかったが、暫く居ると、矢張りブスと、そうでないのとが居ることも分かってきた。後で聞いた話だが、黒人も日焼けを気にするらしい。日焼け止めクリームを塗っていた。何をか況やである。

暑いかと思ったが、意外に涼しい。日本で聞いてきた通り、ジンバブウェは国自体が、高原に位置し、ハラレは標高が1500mと軽井沢並みの気候である。
空港にはレジデント・エンジニアのMTa氏の代理といって日商岩井のTSu氏が来ていた。

その日はそのまま宿舎兼仕事場である、ハラレ郊外のヒラー通りに面したガンヒルにある家(兼事務所)に着いた。夕方夕食を一緒にといって、TSu氏と鴻池のSYa氏が私を迎えに来た。MTa氏が根回ししていてくれていたのだ。ジンバブウェで中華料理を食べさせる唯一の店パールガーデンで、小さな歓迎会を催してくれた。
後にチャイナタウンが出来るまでは、中華料理店はここだけしかなかった。

南アの赤ワインは、旨く、チリや、ボルドーに引けを取らない。飲みゆくうちに段々とうち解けていった。TSu氏は我が大学の同窓生で、通信工学科出身の異色の商社マンであった。
こうしてハラレでの第一夜は更けていった。
一日後、MTaレジデント・エンジニアが帰ってきた。MTa氏がいる限り私は殆ど何もしなくて良かった。

「黒い犬」さえ来なかったら、やっていけると感じた。

私はここに来る前に、フィリピンにいたが、その時は、全くコンサルの何たるかも知らずただ将棋の駒であれば良かった。しかしジンバブウェに来る前に私は一通りのレクチャーを受け、勉強もしていたので、自分のミッションが何であるかをわきまえることが出来た。

駐在技師であるMTaさんは若いが、とても面倒見が良く、特に多くの低開発国を歴訪しているだけに虐げられた連中にも優しかった。

ジンバブウェ地図

こうして段々と、人の顔も覚え、かつ仕事も徐々にではあるが、分かってきた。
これからお世話になるODAの橋名は
1オジ橋、2ウングウェ橋、3デブレ1橋、4ソテ橋、5ペンベジ橋、6デブレ2橋、の6橋だった。
全部ポストテンションのPC桁橋であった。
短いウングウェ橋は約50m、長いデブレ2橋でも高々170mそこそこであった。

短期間に多くのことを学んだ。何しろ道路はおろか橋についても殆どその成り立ち、名称から覚えないといけない。

鴻池組は、TIk所長、TAd副所長、SYa氏と私の名前が同じYTo氏などがいた。現場に張り付いて仕事を実際切り盛りしているのは高尾氏であった。高尾氏は何でもよく知っていた。
現場は、南アの業者に丸投げしていて、TIk所長らは、マネージメントだけをしていた。

とりあえずの私の仕事は、現場に行き進捗状況をチェックすることだった。そして覚えること。現場はそれぞれ、3地域に別れ、その各々が、ハラレから200~300km離れていた。交通機関は、車だけ。日本工営側の布陣は、MTaレジデント・エンジニア、私、現地のシニア・エンジニアであるチャワンダ(ショナ族)ジュニアのニョニ(ン・デベレ族)、大女の秘書マトーレ、運転手のマレーテ、庭師のパトリックとその女房、後から雇った女中のテンダイであった。

さらにマンスリーレポートを提出、ODAのお金を引き出すための相手のMOTE(日本の国土交通省に相当)の担当官テベレジ、ムダワリマ、チプルなどに面談した。
JICAの専門家であるTYa氏は、私と同じ歳だった。

大使館には、後にニューヨーク国連大使の元へと転出された小西大使の後の束原大使。岡本公使、後に来られた安村参事官、小路一等書記官などがおられた。
日本人会は、約200名足らずであり全国に散らばっているJOCVの人達以外は、各商社の商社マンが多く、別のプロジェクトで来ている人が何人かいた。

日商岩井は、ウングウェ橋の近くで建機をリースしているとかで、その状態を見に行ったりもした。現場近くで、サザ(トウモロコシの粉を吹かして固めたものを)の昼食を採ったが、流石に之を1年食べ続けるのかと、少々憂鬱になった。しかし、それは杞憂で、中華レストランや、他のレストランで食事を採ることが多く、その点は助かった。

姉たちが11月1日に日本を発ってジンバブウェに来ることになった。それまでの間、6橋の場所を何度か訪れた。記憶は薄れているが、MTa氏と同行したり、私と運転手だけで言ったりと、様々だった。

冗長だが、1人で海外出張をするメモリーとして、参考までに、出入国の詳細を書き残す。
この詳細は、姉たちが、年内一杯を掛けて、私が居る間にジンバブウェに旅行したいとのことで、その時の手順を姉たちに書き送ったものだ。

【成田からハラレ迄の旅程 (香港経由の例)は以下のとおりだ。】

チェックインカウンター
空港使用券購入
出国審査への入場
出国審査
出発ゲート
機内(東京一香港)
TRANSIT
出発ゲート
機内 (香港-ヨハネス)
入国審査(一時)
この間結構長時間の待ち合わせ(ヨハネスブルグ)
1階上がチェックインカウンター
出国審査
出発ゲート
機内(ヨハネスージンバブウェ)
入国審査
荷物受け取り
税関申請無し
入国(ジンバブウェ内)
 
2時間前(出発40分前閉鎖)エアーチケット貰う。搭乗券〈ポーデイングパス〉受
 
1.荷物預け(30kg迄:預り票を航空券に貼付:ハラレ迄スルーにして貰う)
機内持込丈なら不要

2.出帰国カードがどこにあるか聞き出国欄記入
:空港使用券を自動販売機で購入(2000円)
:空港使用券を渡す (ここから先は出国者だけ)
 ここにも出帰国カードが置いてある。

3.パスポート、出帰国カード、搭乗券の3つを提出
 パスポートに出国スタンプと帰国カード(半分をホッチキス止される)
:Min.30分前(出発10分前に閉鎖:注意)半券返却。ゲ-ト番号注意
:搭乗券の半券見せる(座席教えてくれる)到着間際に香港へのImmigration Cardが配られるが香港へは入国しないので記入不要。
:Transit or Transferの案内に沿って通り進み。次の航空会社(同じか)のカウンターで搭乗ゲ-トの確認を受ける。(搭乗券に書いてくれる)
:Min.60分余裕みる
:Min.30分前(出発10分前に閉鎖:注意)半券返却。ゲート番号注意
:搭乗券の半券見せる(座席教えてくれる)到着間際に南アへのImmigration Cardが配られるので記入する。(目的はTransitとする)
:1.パスポート(スタンプを受ける)2.Immigration Card渡す3.エアーチケット見せる場合有り。質問受けたら・・トランジットと答える

 出国してすぐ次の出発便の予約を・確認する方がよい(出巷ロビーで)
1.パスポート見せる

2.エアーチケット見せる

3.搭乗券受ける

4.荷物検査をする。2時間前(3時間前くらいに行っておく方が安心)
:1.パスポート2.エアーチケット3.搭乗券
:Min.30分前(出発10分前に閉鎖:注意)半券返却。ゲ-ト番号注意
一寸歩くがゲート番号目当てに進めばよい。(ゲートからバス又は歩き)
:搭乗券の半券見せる(座席教えてくれる)到着間際にジンバブウェへのImmigration Cardが配られるので記入する(目的は観光:Visitorとする)

1.パスポート(入国スタンプを受ける)

2.Immigration Card渡す
 
3.帰りのエアーチケットを見せろと言う場合がある。(名刺を見せる)
:荷物を受け取る (預けた場合:ぐるぐる回って出てくる〉
:税金申告関係ないので申請不要ゲート通る
:空港(狭いのですぐ分かる)

注意事項
1)成田のチェックインカウンターでチケットを受け取ることになる。2時間より早めに行く方がいい。(格安切符を受け取ったりする)
2)荷物を預けた場合、ハラレまでスルーと頼んで荷物のタグのFinal designation にHREと書いてあることを確認する。同様にエアーチケットに貼り付けた分も確認しておく(後でクレーム等があるとき必要になる。
3)四角で囲んだところがポイント。
4)別紙に、日本人出国、帰国記録
パスポートのスタンプ押印、Immigration Cardの各例。
その時もしジンバブウェでの住所が必要であったらNippon Koei Office 10 HILLER ROAD GUNHILL HARARE Tel:745018とする。
5)時刻表や、空港見取り図参照
看板を見て確認する。
6)南アで一旦出たら(入国)、荷物を預けたり、レストランで休憩して飲み物を取るとかのために、銀行で少し両替(Exchange)が必要。約30円/RAND(ランド)。
7)ヨハネスブルグでは、荷物を運んで、小銭をせびろうとする奴がいるかも知れないので、きっぱりノーサンキューと言い自分でカートで運ぶ。
8)南アでもチェックインは早めにする。(中にシャワールームもあるそうだ)
気候は、今は朝夕は少し肌寒く、日中は少し汗ばむ(外では)。

大事な事(香港経由の例)
フランクフルト周りは、少し値段が高くなり、しかも1日だけだし、もったいない。また、アフリカに出張があれば(日本工営にいて)何時でも行けるからだ。
ポイントは、何と言っても、ケープタウンだ。
 格安切符の料金の聞き方(旅行会社に次のケースを聞く)
1東京-香港(HG)-ヨハネスブルグ(J)-ハラレ(H)の往復料金
2東京一香港(HG)-ヨハネスブルグ(J)の往復料金
3東京-香港(HG)-ヨハネスブルグ(J)-ハラレ(H)の片道料金
4東京-香港(HG)-ヨハネスブルグ(J)の片道料金
 日本では、ヨハネスデルグ(J)-ハラレ(H)間のエコノミー切符はないはずだから2と4を聞く。
12〉ジンバブウェ(ハラレ)の入国審査で帰りのエアーチケットが無い(片道)とき名刺を見せる。

***

赴任当初は、観光のために如何に仕事をしていなかったかを記しておきたい。(丸秘である)
やがて姉たちがやってきた。

ここからは姉の日記をベースに姉に代わって記録する。(観光旅行だ)
姉たちがジンバブウェ滞在中は、私はその殆どに同行した。それもこれもMTa氏の好意に依るところが大だ。夢のような日々であった。

1995年 11月1日(木)〜11月2日(金):姉の日記から。

成田から香港、乗り継ぎも何とか無事に過ごし、ヨハネスブルグまでの13時間も快適な旅に終わった。しかしハラレ行きの飛行機の故障で11時30分発が12時40分になったでも修理できず情報も得られぬまま一旦飛行機を降りて待機。軽食を採る。日本からのツアー10名も一緒だった。珍しいことだ。なにぶん南アからジンバブエのハラレまでは国境を越えて列車だと丸2日もかかるところなのでみんなおとなしく待っていた。

その間何の報告もなく食事をサービスするのだと言われついて行った場所はファーストクラスの人たち用で、中に入れてもらえなかった。持っていたランド(南アの通貨)でケーキとミネラルウォーターを買って個人旅行の辛さを感じつつ一息。

PM4時にアナウンスが有り何とか飛行することがわかってやれやれすっかり落ち着きを取り戻した。結局6時間ほど待たされた後PM5時、6番ゲートから搭乗、6時20分ハラレ到着(定刻より6時間も遅く)。入国管理局でとまどって大変だった。ボールペンをとられた。○○(私)の顔を見たときはほっとし、出会えた時は本当に嬉し涙が出そうだった。

シェラトンで外食。まぁ〜1日遠い道程だった。

1995年11月3日(金)、今日はハラレ市内観光。

ハラレ近郊の動物公園に、又植物園に運転手マレーテが案内した。
午前中はハラレ市内を一望できる高台に行き、バランスロック(石の芸術)へ、広大な土地に石芸術が、散在するところ見て回り、午後はボタニックガーデン(植物園)や、ムクビシ・ウッドランドにて動物や水鳥たちと象やダチョウ、渡り鳥の遊ぶ姿を眺めてアフリカに来たのだと実感した。

ハラレの街は、澄み渡った青空、紫色のジャカランダ、朱色のフランボヤンの花が咲き、とても美しく道路も広くきれいな街だ。日中は暑さで大変だが、木陰は風も有り涼しい感じがする。

1995年11月4日(土)カリバへ出発。

カリバ空港までジンバブウェ航空で飛んだ。AM 10時ハラレ発、約50分の飛行だ。運転手のマレーテは車で我々を追いかけ、カリバ空港で待機していた。マレーテの運転で、カティーサーク・カリバホテル到着。砂漠に近い岩と石と赤土の中に緑が遠慮してポツポツと点在する道を通っての道程だ。
ホテルで昼食を採った。PM1時30分なんとも照り返しがきつい。飲み物を注文して10分、引き続きソーセージを注文して20分、ずいぶんアフリカ時間に悩まされる。でも安い。ジュース30円、ソーセージバーガーは300円で食べ切れない。

カリバ湖の夕日が沈むのを湖上から見るというので、PM4時半サンセットクルーズに出掛ける。
PM6時まで、途中カバ親子の群と湖底から湧き出した水が渦巻いている場所、また、湖面につき出ている白樺のような木の間を通り、帰りの航路では丁度カリバ湖西岸にそれはそれは大きな夕日が湖の彼方に沈む風景をじっと見つめていた。

クルーズを終え、夕日が完全に湖面に沈む頃、カティーサークホテル(ロッジ)に着いた。夕食を取り、シャワーも浴びてくつろいでいる頃、窓の外で、草をむしるような音が聞こえた。私はカーテンを開けてぶったまげた。何と4~6トンはあろうかという巨大なカバが眼前にいるではないか。カバが部屋の前まで来て草を食べていているのだ。窓から覗いて、岩かと思ったら動くのでびっくりした。

慌てて、カメラでバシャバシャ撮った。カバは、ひとしきり草を食べ終わると、のそのそと方向を変えて藪に消えていった。
見た!2メートルも離れていない至近距離(部屋の中から)で、巨大なカバを見た。私は、非常に興奮して、暫く寝付けなかった。夜は静かに更けていった。これは予期せぬ大きな観光目玉になった。

1995年11月5日(日)

朝6時前、日は少し登っていたが光が湖面に映って美しい。しばらくして猿が尻尾を立てて目の前を横切る。ホテルの車でカリバ湖をせき止める巨大なダムの天望台に上り、ダムの上を歩いた。カリバ湖が一望できる美しい場所から見るダムは壮大だ。

このダムは西洋人が建設したようで、多くの犠牲者を出したと記載されているが、当時この様な土木工事を異国の土地でなしえた、技術者の気概を感じて、感慨ひとしおのものがあった。傍には慰霊の教会が建ち、人々は、そこでお祈りを捧げていた。如何に人間の祖先トォーマイ猿人やガルヒが、此処アフリカを発祥しているからと言って、彼らにこれを造る技術はなかった。改めて現代の西洋人の偉大さに頭が下がった。

アフリカ女性の手作りのセーターを4枚購入した。夕方5時前のフライトでハラレに帰るとMTa氏が迎えに来てくれていた。

1995年11月6日(月)

午前中はマレーテとバランスロックに行った。午後、明日の予定だったライオンパークへ行く。ライオン、チーター、ヒョウ、シマウマ、ヌーなどが放し飼いになって車で見て回った。どの動物もこちらが思う方向に顔を見せてくれないのでシャッターチャンスが難しい。
帰りに高台に上り360度展望する。ハラレの高層ビルや空港方向を臨む。

PM4時半巨大倉庫のようなところ(スーパーマーケット:ジャガー)に買い物に行く食料品をカートいっぱい買っても5000円位。帰りは夕日が草原の向こうに沈むのが真っ赤で美しく雲も茜色に染まって素晴らしい。帰りは、私が帰国時大変世話になった、クレスタロッジに投宿した。落ち着いた良いホテルだ。

1995年11月7日(火)

午前中はマレーテと近くのチノイ公園に行き、のんびり過ごした。午後3時グレートジンバブエ遺跡に向け出発。300kmの道程。マレーテの運転でフランボヤンホテルへ。午後6時到着、時速100kmでのドライブだった。同じような景色が続き途中2箇所ほど町を通過、草原に木や岩が散在する。所々に牛や猿がいてのどか。土の家や放牧しているところもある。明日はAM 9時運転手が迎えにきて遺跡を見に行く予定。

1995年11月8日(水)

AM 9時ホテル出発、グレートジンバブエ遺跡(13世紀の王朝の遺跡)を見に行く。小さい石一つ一つツ石を巧みに積み上げてタワーを作ったり、城壁や10m以上もある塔を見ると、当時の人たちの技術の素晴らしさが偲ばれる。現在も石積みを試みているらしいのだが、同じようには出来ないとのこと。絵はがきの塔はジンバブエのコインの図柄になっている。

土器や槍、腕輪、耳飾りなどのようなものが出土したらしくミュージアムに展示してあった。ショナ族の村のモニュメントがあり民族衣装をつけたおじさんが部屋の前で座っていた。中で一緒に写真を撮る。アフリカの子供たちがおそらく歴史の勉強だろうと思うが遺跡や部落を見学。岩山に登ったりしていた。1人迷子になったらしく運転手のマレーテが先生の所まで連れて行く。帰りも快適なドライブ。

1995年11月9日(木)

今日は午前中にハラレ市の経営する保育園へ折り紙を届けに行く。青年海外協力隊で青木さん(女性)が出迎えてくださる。子供たちは昼食が終わってお昼寝の時間、物珍しそうにこちらを見て寝られないのでそのまま帰る。子供たちと写真を撮りたかったが残念。

昼食はMsマトーレの作るアフリカの常食サザをご馳走になった。とうもろこしの粉をお湯で溶かして団子状にしたもの。夕方ハラレ市内でショッピングを楽しんだ。ショッピングと言っても買うものは余り無い。一寸した土産物しか買えない。象牙は御法度である。

1995年11月10日(金)

AM 10時15分ハラレ発のフライトで、カリバ経由でワンゲ国立公園(と言ってもボツワナに跨った大きな自然公園)に到着。空港まではMTa氏が送ってくれ、マレーテは、別便でワンゲに待機、我々を空港から、サファリ・ロッジまで運んでくれた。PM12時20分ワンゲサファリロッジにチェックイン。サファリ・ロッジで昼食を取り、午後2時半ナショナルパークへ。マレーテ運転の車で動物公園内を見て回る。

最初はキリンとサル、シマウマ、ガゼル位しか観察できなかった。インパラや、草食動物は多かったが、ライオンには巡り会わなかった。
PM4時ごろから水飲み場に沢山の象が現れ、水を飲み始めた。ゾウは、黒山のようにいた、僅かな水飲み場はゾウで占領されていた。その他の動物は姿を見せない。

しばらく走ってバファローを見つけ近づいたら道路を外れたため罰金40ドルとられた。帰りは最初のポイントに戻り象、キリン、シマウマが水飲み場に集まっていた。雨が降らないので、動物たちの水場が干からびて、夕方になると象を先頭に人間達の見晴台の下の水飲み場までやってくる。象が引き上げると、キリンやシマウマ、ジャッカルなどが水を飲みにやってくる。

車から出て見晴らし台の下で写真を撮っていたらレンジャーに注意された。夜はサファリ・ロッジに泊まった。明日もAM 6時からナショナルパークへ行く予定。






1995年11月11日(土)

明け方(5時頃)、目を覚ますと部屋の窓の外にはロッジ近くまで、色々な動物が、来ていた。仔象を連れた数頭の象が横切る。再度ワンゲナショナルパークへ。マレーテの車で、早朝6時に公園に入った。パークの入口までの所で数頭の象の歓迎を受ける。残念ながらライオンは遠くに1頭のメスを見かけただけで群れを発見することはできなかった。なかなかライオンには巡り会えない。しかし、バッファローは沢山いた。

ワンゲ(HWA)ナショナルパークからの帰りに車道に巨大な象(はぐれ象)が出てきた。これが又デカイ。普通は直ぐ横切って逃げてゆくのに運転手が車を止めたものだから車の窓に向かって威嚇してきた。座っている後部座席に向かってきたのでびっくりした。一瞬、生きた心地がしなかったがとにかく必至に逃げた。車の窓を鼻で割られていたらと恐ろしく後で震えが来た。

車で、そのままビクトリアフォールへ向かった。AM 11時ホテルに着く前にMTa氏に出会う。ホテルまで案内してもらって別れた。奇しくも同じ日に本社から部長(Shin氏)がビクトリアフォールに来るという。MTa氏はその応対に忙しく、我々は部長に会うといけないので買い物もせずホテルでのんびり。

泊まりたかったエレファント・ホテルにはその部長が泊まるというので、少し離れた野性的なサファリ・ロッジに宿泊を変更した。昼は、自由時間としショッピングを楽しんだ。PM6時20分ディナーショーで、トラディショナルダンスを鑑賞。

トラディッショナルダンスを見ていると、PM6時40分に稲光がして大粒の雨が降り出し、ドラディショナルダンスは取りやめとなる。稲光は広い空のあちこちでそれはきれい。美しい線を描く稲光を写真に収められたらば良かったのに。ダンスは明晩に延期になり楽しみだ。

明日はビクトリアフォールに行く予定。とても楽しい旅を続ける。

1995年11月12日(日)

昨日の雨が嘘のように雲1つない青空、清々しい朝だ。AM 8時10分ビクトリアフォールのツアーに参加した。雨期が始まる前で、平年より雨量が少ないと言われいた。水量は差ほどでもなかったが、そのスケールの大きさに舌を巻いてしまった。高いところで落差は120mはあった。

それでも豪快、水しぶきが霧のようになって降りかかってくる。視界180度一面の滝。水量はどれくらいだろうか。ジンバブエ、ザンビアの国境にかかっている橋の上からバンジージャンプをしている人に出くわしラッキーだった。両側には岩が迫り出し橋も狭く感じるのによくぞ勇気があるものだと恐れ入る。

AM 11時ホテルの部屋に帰ると猿が3匹テラスで迎えてくれる。PM4時サンセットクルーズ。
ビクトリアフォール側のザンベジ川の景色はカリバ湖と異なりまた違った趣がある。バンビ、カバ等がいた。とにかく日の当たっているところは暑い。帰りに昨日夕立で流れたトラディショナルなるダンスを見に行く。すごい体の動きと独特のリズムで楽しましてくれる。

夕方、カリバ湖のカリバの反対側でのシャンペンクルーズに参加した。西欧のおじいさんが、健脚で、一人で世界を回っているというのに巡り会った。何言葉か英語で話したが、年寄りとも思えぬ冒険心は矢張り血の違いからだろうか。
その晩もサファリ・ロッジに泊まった。

1995年11月13日(月)

AM 8時United Airホテル出発、クロコダイルパークに行き、気持ちが悪いくらい沢山のワニを見た。ホテルの車でビクトリア空港まで行き、ビクトリアフォールを空から見るセスナ機に乗った。8時45分〜9時の短い間だが、プロペラ機(5人乗り)でビクトリアフォールを上空より眺める。空から見ると、矢張り水量は少なかった。

また違った美しさに興奮してすっかり汗をかいてしまった。帰りにパイロットと記念撮影をして別れた。ホテルに帰り、ルームサービスで昼食を採り、午後は別の車でビクトリアフォールの市内観光をしてショッピングセンターへ。PM1時まで買い物し、1時40分ホテルからの迎えの車でホテルへ帰る。ホテルをPM3時15分出発飛行場へ。飛行便を間違えたようだが、ハラレ行き直行便で出発PM5時20分に乗り到着6時20分と前の便より早く着いた。Ya様の運転手Mrロバートの迎えで帰宅。

1995年11月14日(火)フリータイム

姉はさすがに疲れたのか本を読んでいてもすぐに眠ってしまう。MTa氏出張、私も仕事で出かけて静かだったようだ。夕食はMTaさんと一緒に外に出かけたエビの変わった料理をいただいた。

1995年11月15日(水)

今日は楽しみのムタレのレオパードロックホテルに2泊3日で出かける日。私は朝から忙しくて11時出発の予定が12時10分になった。マレーテの車で、レオパードロックホテルのあるムタレへ出発。

ムタレはハラレから東南東の方向、ジンバブウェ第3の都市で、近くにニャンガ公園がある。此処は前ダイアナ妃も来たというおとぎの国のお城のようなホテルでゴルフ場が併設されている。
道中ハーフウェイポイントで、40分間ぐらい食事をしたが5時ごろに到着。景色はカリバの時と違って緑が多く、遠くの山はとんがり帽子あり、テーブルのようなのがあり、雪をかぶったように頂上付近に石がある。山や道筋には石の芸術の小山が並んで美しい。

少し上ったところ(PM4時30分ごろ)美しい街並みが眼下に広がる。モザンビークまで5kmの距離のムタレ市だ。しばらく小道行くとモザンビークの町が見下ろせる高台に出る。国道が走っているところがジンバブエとモザンビークの国境とのこと。なんだか不思議な気がする。モザンビークを背に写真を撮る。目的のホテルは日本の山道のように曲がりくねった道を走ってやっと到着。

ジンバブエ一のホテルだ。ゴルフ場を併設する素晴らしい景色。夕方あたりの写真を撮って山の向こうに沈むサンセットを撮す。(ホテルは最高、フォーシーズンズホテルのよう)。夜はヒレステーキのディナー。明日ゴルフ場に出られるといいのだが。

1995年11月16日(木)

AM 7時食事予定。夜中1時30分ごろ目覚めて寝付かれず朝は6時40分に起床、こんなに慌てた事は無い。朝食後ゴルフのラウンドをする。姉は私のスコア付け乍ら歩く。姉はパー3のホールだけ打った。5打のダボ。コースはきれいで景色は自然の景色を取り入れてあり雄大なハザード池等あり面白くしてある。午後PM1時ニャンガまで100km位をドライブ。往復途中ムタレの街を通っていく。

ニャンガまでは車が少なく左右の街は緑も多く少し裕福な感じがする集落がある。松の種類と思われる木が整然と植林されていて日本の北山を思わせる。緑と茶の落差がひどい。
ニャンガで写真を撮り、私は石の置物(ジンバブエの国鳥)を購入。帰り道車の中から石を乗せた山、ムタレの街道等の写真を数枚撮す。

ホテルの近くの露店で刺繍のエプロン購入。25Zドル。ひどく汚れていて洗濯をしなければダメだ、失敗。夜ハウスボーイが来てベッドを替えてくれたが最初にベルを押されて何を言っているのかわからず扉を開けるのが不安だったと姉が述懐。

(姉が友人に当てた手紙文:草木には雨の欲しい日々でしょうが、雲1つない青空の晴天で旅行者には好都合です。木陰は涼しいのですが、日中はとても暑いです。今日はジンバブエ1番のホテルと言われるレオパードロック ホテル(Leopard Rock Hotel)に来ています。何しろやっと予約が取れたというお城のようなホテルで、プール・テニス・ゲートボール・ゴルフ場・カジノまであってそれは素晴らしいホテルです。
弟は持参のゴルフクラブでプレーをしましたが、私は秘書のようにスコアを付けながら美しい景色の写真を撮って回りました。何しろ、18ホールキャディ付1000円で回れます。
ゴルフ場も辺りの山を借景にとても良く整備されています。やさしいショートホールを1度打たせてもらい、ダボでした。ダイアナ妃も来られたようで、写真がありました。)

1995年11月17日(金)レオパードロック2泊目

今朝はAM2時に目が覚めて途中寝られなかったが、6時20分には気がついてよかった(姉)。私は心配して7時30分にTELした。朝食の後、ギフトショップでホロホロ鳥の画と絵はがき2枚購入。AM 10時マレーテが迎えに来て姉たち2人は先にハラレに帰ることになった。私は仕事があり途中のホテルまで一緒する。姉たちはスコールのような雨が3度降る中、帰り道長いきれいな道が続くので写真を1枚車中から撮った。(昼食の後)PM1時30分出発、帰りに市場で買い物(野菜)する。今夜2人ガードマンが来ているのに外の電気を消してしまったので玄関のベルが何度もなる。

私も遅れてレオパードロックからハラレに移動した。

1995年11月18日(土)フリータイム、日本に帰るための準備をした。

AM9時マレーテが来る約束だったが10時5分になってやっと現れる。パトリックが心配してして何かと話をしてくれる。いつもの市内への最後のショッピングでも目的のハンドタオルはなく自分のエプロンを買っただけだった。12時帰宅、今日が姉たちの最後(ジンバブエハラレの家)の日。庭のジャカランダの紫の花も枯れて寂しそう。明日の朝は早いAM 8時30分発の飛行機で出発MTaさんに送ってもらう。今夜は中華料理店行き、鴻池IKe、Yam、Tak氏達と食事。

1995年11月19日(日)

AM 6時30分出発ジンバブエを後に南アのヨハネスブルグまで移動する。ハラレ空港まではMta氏が見送ってくれた。Zドルは500ドルしか持ち出しできないため銀行でUSドルに交換搭乗手続き。入国手数料US20ドル、私駐在故にZドルの20ドル。1/10だ。言葉が分からないのでトラブル、MTa氏解決。チケット交換荷物検査の上出国。デッキからIke氏、Tak氏、Mta氏らが手を振って別れを惜しんでくれる。

AM 10時10分ヨハネスブルグ空港に到着。入国手続きの上、銀行にてTCをランドにチェンジ。USドル3.581、1R(ランド)27.925円。物価はジンバブエより高い。11時15分乗り合い自動車に乗って約1時間Holiday Innホテルに到着。昼食を取った後外に買い物に出かけようとするとホテルのガードマンに止められる。危険だからガードマンが護衛に付いていくという。そんなにまでして危険に身を置くことはないと、ホテルに引き上げた。ヨハネはあいにくの雨で肌寒いうえにホテルの外は危険、ガードマンの護衛がないと買物もだめとのことで、ホテルのショップが5時に開くまで部屋で過ごす。ホテルの部屋からビルの写真を撮る。

5時ショッピングで石のペンダントトップ24金入り15R60200円。お店の人は感じ悪かった。
夕食も、昼食と同じでバイキング。明日は7:30食事、8:45出発。

1995年11月20日(月)今日はブルートレインに乗る日。

昨日から危険だと言うことでホテルに缶詰になっていたので希望が膨らむ。朝からのあいにくの雨でブルートレインの停留駅までタクシーを飛ばした。ブルートレインの駅が工事中とのことで近くにタクシーを止められず、ポーターと一緒に駅まで少々歩かされ寒さがこたえる。
ハラレの暑さはどこにいったやら。

いざブルートレインに乗ろうとして、駅で予約デポジットを切符と交換しようとしたら予め払った金額が不足していることが発覚した。1人分しか支払っていないとのこと。

私は少し慌てて、ジンバブウェ旅行社のアンジーに国際電話を掛けた。色々調べてくれたが、やんぬるかな、矢張り旅行社の間違いだった。残り2人分のお金(日本円にして66000円位)を支払いやっと乗車することができた。

クレジットカードで難を逃れたのだが、それにしても高い。カードがなかったら、どうしたもんだろう。ぞっとした。旅行社との連絡をとりながら思ったが、彼女らは月給6000円の世界で1人分でもびっくりなのに、とても3人分の金額は考えられなかったのだろう。とりあえず解決出来て良かった。交渉から支払いまでの時間は約40分、一寸ひやっとした。

ブルートレインは定刻10時14分の5分遅れで出発。待望のアフリカ大地の縦断だ。ジンバブエのカリバの茶褐色の大地に比べてこちらは緑豊か、牛まで幸せそうに見える。出発の時は雨も上がり心がけの良さがうかがえる。食事も一流シェフによるもので最高だ。(ワイン飲み放題)1つのコンパートメントしか取れなかったが、たまたま隣が空いていて使えるとの事である。とにかくどこまで行っても緑の大地、空と地平線が交わった大パノラマだ。

ブルートレインは、ジンバブウェのビクトリアフォールから出発し、南アのケープタウンを終点とする2国間列車だ。我々はヨハネスブルグから途中乗車と言う形だ。ヨハネから走ること数時間、PM5時10分キンバリーの駅に到着。キンバリーは昔、金鉱があったところで、金鉱で掘り進んだ後のビックホールを見学した。大きく掘られた穴に水がたまって、当時盛況だったことが伺えた。我々も砂金を目指してしてかわいい列車で出掛け、体験の後ブルートレインの待つキンバリー駅へ帰る。砂金捜しの余興も付いて、休憩点としては、格好の場所であった。

夜8時45分まで何もせず窓の外を眺め退屈。夕食がPM9時から8時45分に変わったと知らせあり、慌てて出かけると外人たちはドレスアップしてきているので肩身が狭く、コンパートメントに着替えに帰り再びディナーへ。日本人感覚を捨てて華やかなにいかねば尻込みをしていてはダメだとは姉の弁。

1995年11月21日(火)

AM 5時28分日の出。大草原の向こうからかすかに輝きながら徐々にかつ素早く太陽が昇る。美しい日の出を写真に収める。7:05発、ホームで写真を撮る。再び列車に乗り、通路側が賑やかになってきた。私は何事かと出てみると、無数のフラミンゴが、集結しているではないか。暫しピンクの競演に見入った。

AM8 時45分ワークレスターに到着。9時15分の出発まで外に出て緑の屋根の家やブルートレインの前などで写真を撮る。

朝食事の間に長いトンネルや岩山や、美しい家並みを通過、ぶどう畑と景色は抜群。

列車に乗って1昼夜、ようやくケープタウンに近づいた。巨大なテーブルマウンテンが、眼前に迫ってきた。予定通りケープタウンに到着。旅行社のアンジーとの約束では、ケープの駅にネームカードを持った出迎えがいるといっていたが、一向にそれらしい姿が見えない。

私は、慌てて、探したが見つからない。仕方なく、自分たちで荷物を運び、タクシー乗り場まで出た。結局旅行社の迎えがなくタクシーでホテルへ向かうことになった。近づいてくるタクシーの運転手に荷物を運ばせ、ようやくそのタクシーに乗った。行き先であるシティロッジを告げると、運転手は分かったとばかり、車を飛ばした。ケープタウンの港町の中にホテルを見つけ、入っていくと、予約は聞いていないと言う。

またか!、しかし予約票には間違いなくシティロッジと書いてある。私は運転手を待たせ、フロントに確認した。フロントは、それなら、山側の姉妹店だということで、電話で確認するとそちらに予約は入っていた。
運転手の早とちりだが、こちらも2つ同じ名前があるなどとは聞いていない。
又アンジーの奴(旅行者の女性だが)と思った。
紆余曲折のあげくやっと目的のホテルに着いた。ゴルフコース併設のロッジだが、なかなか落ち着いた感じだった。ホテルのフロント女性は優しく接してくれた。

PM2時タクシーでショッピング。ジュエリーの良いのが無く。△△がエスティーローダーの化粧品を買っただけ。

フロントに、今夜、何か催し物がないかと聞くと、ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」があるという。ホテルから送り迎えをしてくれるというので、それを見に行くことにした。予約をしていたタクシーが8時20分予約の時間になっても来ないので、またイライラ。でも何とか出発できた。本当にイライラすることが多い。何しろホテルでも約束を守ってくれないのでイライラストレスの溜まりっぱなしだ。

ミュージカルは英語だから雰囲気は分かるが、まぁそんなところだ。2時間ばかりも経っただろうか、迎えの運転手が見つかりホテルでやっとゆっくりした。

明日はテーブルマウンテンと、喜望峰へのバスツアーを組んでいた。

1995年11月22日(水)今日はアフリカ最後の日。

午前中テーブルマウンテン、ウォーターフロント、午後、最南端の喜望峰に行こうと考えたが、△△の具合が悪く行けなくなり、姉と2人だけでテーブルマウンテンに登った。上から見下ろす光景は、絶景の一語に尽きた。 眼前に広く大西洋が見えた。中国の女性が一人でリュックをしょって、旅して回っていると話しかけてきた。やはりここでは黄色人種は互いに親近感が湧くのかも知れない。

テーブルマウンテンの頂上でTシャツを買い、山から下りて、ウォーターフロントまで行き、ケープの港町で、海鮮の食事をした。そこからタクシーでホテルに帰った。
その頃には△△の様子も何とか落ち着いていた。姉は退屈なので、ホテルの周り暫く散策し、写真を写してのんびりする。

午後からのグッドホープケープ(喜望峰)には行きたかったが、私は断念。姉だけでも行けばと思ったが姉も行きたいのは山々だが1人で行くには、心細いのも半分と言ったところだ。私も少々不安だったので、それを察してか、結局行くことを諦めた。
姉もこれが正解、私も安心して落ち着いたみたいだと言っていた。。

1995年11月23日(木)いよいよ帰国。

朝食を済ませると、9時40分ケープタウン発ヨハネスブルグ行きのSA(南アフリカ航空:
South African Airways)でケープタウンを離れた。ヨハネスブルグでお土産のチョコレートを買って姉を伴った観光旅行は終了だ。しかし、ヨハネスブルグを出発するまでは気が抜けない。
ヨハネから香港経由で成田までは、どちらもキャセイパシフィックが快適な旅を提供してくれた。

1995年11月24日(金)

香港でトランジット。免税店ではUSドルの使用ができたが、結局何も買わずに帰る。

成田にはPM2時50分に着いた。実に長い観光旅行だった。駐車場に電話をして迎えの車が来てやっと帰ることができた。夕食はお寿司を食べた。久しぶりに食べる日本のお米はおいしい。

1995年11月25日は1日ゆっくりして欲26日昼前に姉を、蘇我駅まで送り、PM1時31分発ひかり235号で姉は帰阪した。

姉がジンバブエに来て今日の帰国まではMTa氏の計らいで、豪華な観光旅行をさせてもらった。年の瀬も近づいたので、私も姉たちを送って日本に帰る口実を見つけてくれたのだ。後に会社の次長のその辺りを追及されたが、何とか言い訳することが出来た。

一旦日本に帰ったものの、日本では特にすることもなく、来日中のベトナム人の役人を国内で案内したり雑用をこなした。ベトナム人は、どうやら自国でのエリートのようで、日本には研修に来ているようだ。あちこち案内したが、英語が基調で時折漢字を書いての意思疎通を図った。ベトナムも北の方は中国の影響を受けている。

雑用が終わると、1996年の年明けから、ジンバブウェへ本格的に出掛けることになる。今度行くと年末までは帰れない。

***

いよいよ本格的にジンバブウェの生活に入るべく年明け早々1996年1月8日再び機上の人となった。香港まではあっという間についた。香港でのトランジット時に免税店で、パーカーのボールペンと肝得健を買った。このボールペンは極太で書きやすく、その時私は再び訪れる、この香港で無くすなんて事は考えだにしなかった。

香港からヨハネ行きゲートで暫く待っていると、Mr.○○・・・と私を呼ぶアナウンスが聞こえた、後もう一人呼ばれた。何事や有らんと係員に申し出ると、1st クラスにアップグレードいたしますとのことだった。偶然とはいえ、非常にラッキーだった。

ビジネスクラスでも、かなりゆったりしているが、ファーストクラスはさらに落ち着けるし、スチュワーデスがそれこそマンツーマンのようにサービスしてくれる。隣は同じくアップグレードされた丸紅の商社マンだった。私よりは数段若い。

高級出稼ぎ人夫ではあるが、その事自体を楽しまなくてはと、私は、ワインを注文し、心地よいまで飲んだ。飛行機は高度9400m(外気温マイナス36度)速度905Km/hで31㎞/hの向かい風の中を順調に飛行していた。

こんな時同期の出世や、後輩に追い抜かれた悲しさ、空しさが胸を突く。
まどろんで起きたら食事を繰り返し、約12時間の飛行を終えて、機はヨハネの空港に降りた。
私は気が弱く、荷物がスルーされるかどうかを確認に行き、係官に必ずハラレまで行くようにと念を押さなければ気が済まなかった。

それが済むと、ファーストクラス用ラウンジで休憩するまもなく、ハラレ(ジンバブウェの首都)行きの搭乗時間となった。
ジンバブウェ航空機長のアナウンスは、殆ど聞き取れなかった。こんな英語力で、本当に勤まるのだろうか。
公式となるとからっきし意気地がない自分を不甲斐なく思った。

****

次回はジンバブウェってどこということを書いてみよう。

ジンバブウェって?と良く聞かれる。

南アフリカのジンバブウェは,南アフリカ共和国、ボツワナ、ザンビア、モザンビークと国境を接している。高地の真ん中をカリバ湖とザンベジ川に注ぐ川が縦横に流れ,ザンベジ川には,ジンバブウェの自然景観を誇るヴィクトリア滝がある。かつては南ローデシアという名のイギリスの植民地であったが,イアン・スミス首相率いる少数白人政権と,ロバー卜・ムガベ、ジョシェア・ヌコモ率いる黒人多数派のジンバブウェ・アフリカ民族同盟・愛国戦線〈ZANU・PF〉の闘争の末,1980年に独立を達成した。
ジンバブウェは高地のため,熱帯地方のわりに温暖で湿度も低い。11-3月にかけて雨期が訪れるが,東部の高地以外では雨量もまばらで,渇水も珍しくない。
 年間降水量は,雨量の多い東部の高地で1,400mm・雨量の少ないリンポポ谷で400mmである。政府は交通網の開発に積極的である。とくに鉄道の拡張と最新技術の導入,国際線航路の増便に力を入れている。

ジンバブウェを訪れる観光客の目的は,アフリカ文化に触れ、サファリで遊ぶことである。
観光の目玉はヴィクトリア滝で、カリバ・ダムや数々の国立公国,マシンゴに近いグレート・ジンバブウェ、マノポ・ヒルズなど世界有数の景観がすばらしい。ザンベジ川でのカヌーやいかだの急流下り、東部の高地での登山やマス釣りなど.アウトドアのための施設の開発が進んでいる。
ハラレやヴイクトリア滝には会議場もある。政府は環境破壊を懸念しており、ジンバブウェは観光業をあまり増大させるつもりはない。

ビクトリアフォール

しかし,外貨獲得の魅力は捨て難く、エレファント・ヒルなどヴイクトリア滝周辺の開発は進んでいる。旅行者の入国制限は緩和され.所持金の制限もなくなった。外国人はドルでの支払いが義務づけられており、2本立ての通貨制度が効を奏して.ジンバブウェ・ドルでの支払いが滅っている。

私は空港に降り立った時に肌でそのすがすがしさを感じた。太陽は眩しいが、何しろ湿気は低い。此処ハラレは、標高が1500m程度と聞いており軽井沢の雰囲気である。
何しろ黒人の国であるが、独立した今も、白人の豪農によって土地の大部分は専有されている。
私の事務所兼居住の家も1エーカーの土地に、テニスコートとプールがあり、ベッドルームは3つある。他の人に聞いたが、それでも狭いようだった。

昨今、ロバート・ムガベ大統領の独裁が露わになり、白人が迫害を受けていることは、新聞紙上で報じられている通りであるが、 虐げられた、黒人達が、鬱憤を晴らすかのような現在ではなく、私はジンバブウェに滞在した時が現在のような荒んだ環境ではなかったことに安堵している。

南に南ア、東にモザンビーク、西はボツワナ、そして北にザンビアに接する位置にある。丁度日本の九州の北半分の地形に似ているなあと私は思った。しかし海はないのである。


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1996年1月9日
鴻池組からTa氏がやって来た。最後に行われるセレモニーについての打合せも兼ねていた。
相手政府、大使館、日本工営、鴻池組、これに建設機材供与の日商岩井の全てを調整しなければならなかった。
小西大使が、国連大使として転出、それを見送りに空港まで有志で行った。
土曜日曜は、ゴルフである。最初は整備もそこそこの、ポリスクラブへ、ゴルフは得意でないMTa氏と行った。
日曜日には、ウインゲート、ゴルフクラブを初めて回る。
人の、癖なり、人となりがよく分かり面白い。安村参事官は、人の良い、偉ぶらない人だ。キャディ付、昼飯を食って、118Z$ととにかく安い。
この日から、私は、ゴルフ三昧の日を送ることになる。

現場視察で始めて行ったのはウングウェだった。
次に出かけたのは、グツ方面の4橋だった。グツからマシンゴへ、ニョニの運転で出かけ、MTa氏と私は、シェブロンホテル、ニョニはグツのチャワンダにあてがわれていた宿舎に泊まった。その晩は、TAd氏の家で、放談。カラオケを0時近くまで歌った。TAd氏はもう、アフリカ人になっていた。
翌日はグツの4橋を視察、、特にオジ橋のアバットの損傷状況を視察した、相当堀直して、再施工しなければならない。
デブレ2橋の完成を急ぐことを第一主眼とした。
南アの業者のスチュアートと、工事監督のフリッキーにあった。帰り少し自分で車を運転したが、ガス欠が心配で、チマニマニ方面へ遠回りして、ガソリンを補充した。
帰りはひたすらに走り、クレスタロッジで食事をして、ガンヒルの宿舎に帰り、ぐったりした体にシャワーを浴び綿のように眠った。

鴻池TIk所長に竣工検査が間に合うのかと督促、結局高尾氏が来て、1ヶ月延びることとなり、テベレジにその旨伝えた。
色々な情報が一気に私を襲い、パニック状態であった。

近くのハニーデューへ野菜を買いに行く。産地直送というか、裏が広大な畑で、肉類なども置いているスーパーマーケットだ。当然白人専用である。日本人は準白人。

MTa氏は、2月10日頃帰国し、次の仕事に備える。そうなると私一人となる。一寸不安はよぎった。
セレモニーの具体的内容が、段々と煮詰まってくる。
MTa氏は、モザンビークに行くかどうかは微妙になってきた。しかし次のプロジェクトは、完全に来る。MTa氏も交代を控え、かなり神経質になっていた。
旅行社のアンジーに往復の航空券を手配50万円は高いとファックスにて交渉をしていた。
何れにしても何処に行くのか未だはっきりしていないようだ。

日曜日の日本人会ゴルフコンペの練習といって、日商岩井のTSuさんが、チャップマン・ゴルフクラブに行こうと誘ってくれた。なかなかトリッキーなホールもあり、2番ホールの池越えパー4はとても2オンする感じではない。刻んでも難しく、私は何個この池にボールを入れたやら。昼飯を入れて、181Z$だった。但し、砂氏がメンバーであることで110Z$は安くなっているということっだった。 

TIkさんに借りた柳田邦男の「犠牲」を読み終えた。
あとがきの「敗北感にさいなまれる」といわれる気持ちは分かりますが、真実に歩んだ人生に敗北はありません。打ち倒されて低くなればなるほど、見えない神の生命は確かに注ぎ込まれるのです。:グリーク・ワーク(悲嘆の仕事)
私は自分自身と照らし合わせた。

日本人会コンペは雨模様だった。昔から、人前であがる。(ゴルフに限り)成績は、自分相応だが惨憺たるものだった。ブービー、ブービーメーカーにはならないが、ダボペースでは回れない。ええい117だ!284Z$だった。
夕刻砂氏が来てルサカ(マラウィ)にはTS部長が行くらしい。
日本工営の何たるかも知らず、橋の何たるか、道路も何も知らず、良くまあぬけぬけと、シニアブリッジエンジニアと名乗っているものだと自分自身に感心した。
TYa氏を通じて、ディレクターのクデンガに会う。進捗状況、セレモニーの話などする。
今は雨期、道路路肩の流されているところ有り。ソテ橋では大雨のために工事はストップだ。
乾期と雨期がかくも差があるとは、日本では考えられない。
TYa氏は、JICAの専門家で来ている。いわば向こうの政府側の見方をする人。52年から59年まで明石の本四公団にいて、坂出、児島で過ごしたとか。
奥さんはクリスチャンで、お二人で英語を習っておられた。
(その奥さんが先日なくなられたことをMTa氏を通じて聞いた。まだ若いのに・・・。痛ましいことである)

デブレ2橋でTa氏の説明を受け、チャワンダ、フリッキーに会う。帰りは、デブレ1橋からハラレの入り口まで運転をした。ポリスがスピード違反で止めたものの、TYa氏が粘って、放免された。たどたどしい英語でも粘るものだなぁと感心した。

MTa氏は次のプロジェクトで頭は一杯である。
1月最後の日曜日、チャップマンにTSu氏、Itou氏と出かけた。
またしてもTSu氏に負ける。ゴルフ以前の問題。精神的不安定さがモロに出ている。
楽しまなければ、意味がない。
夕食はTsu氏宅で、安村参事官やJETOROの中西さんらとご馳走になる。
MTa氏が追いかけている女性は、SSさんというとても可愛い人のようだ。
皆話題豊富な人ばかりだ。TSu氏はXX年生まれ、私より5歳若かった。

*****

私のオフィスには3台の車があった。1台はマツダのファミリアで乗用車だ。もう一台はロッキーというジープで、そしてポンコツのピックアップである。ピックアップはもっぱらチャワンダが使い、私らは後の2台を駆使して、現場を手分けして回ることになる。
ニョニと、マレーテは、マシンゴに出かけた。
MTa氏は、マラウィのニュープロジェクトの件で、忙しくしていた。その間を利用してMOTEに出かけたが、殆ど留守だった。テベレジもアンパンマンのようであるが、その下のムダワリマはもっとアンパンマンのようであった。

翌日ダイレクターのクデンガとグツの4橋を視察に出かけた。その先のポコトケ橋は先の大雨で冠水し、相当ダメージが大きいようであった。
MTa氏と、TSu氏は、マラウィに出かけた。今日は給料日で、銀行に金をおろしに行く。パトリックの給料などは、夫婦で日本円の6000円程度である。運転手のマレーテも15000円くらいで日本ではとても考えられない。

ニョニが、もう少しのところで、ピックアップが動かなくなり、全員出動で、押し掛けして、何とか、家に持ち帰った。スターターが悪く修理屋に出す。

土曜と日曜は、ゴルフ。マッチプレイと、そのウイットネスそれにしても私のゴルフは巧くならない。腰がスウェイしているのだが、どうしても治らない。大きくハンディを貰っている。(30)これは、一番最初に日本人会で回った時公使がつけたハンディである。
夕食はTSu氏の家で、採ることが多い。彼は世界中行って無いところがないくらい、壁に貼った大きな世界地図の上に自分が働いてきた所にピンを立てている。料理も旨い。アフリカでこんな料理がと思うほど素晴らしい食卓となる。

月曜日から又仕事だ。といっても鴻池が頑張ればいい。私はMOTEとの連絡と、マンスリーレポートの作成をするだけだ。
MTa氏は、既に帰国の心づもりで、後に残る私に何かとアドバイスをしてくれた。
彼は、プログレスレポートは、チャワンダに書かせるようにすればいいと言う。あと鴻池は、頼りにならないとも、真情を吐露する。
MOTEの連中の電話での受け答えも、なまりのある英語でなかなか分かりにくい。
買い物は週1回行くのだが、山のように買っても高々知れている。周りが黒人ばかりでなかったら、非常に良い所だがと思う。

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私は、考古学にも興味を持っており、トゥーマイ猿人が750万年前、又ガルヒ(肉食を初めた)が250万年前にアフリカを発祥の地としている。そこから北上し一方はクロマニヨン人としてヨーロッパ、ガリア、や西欧に残り分岐した一方は東へと辿った。又途中に、南下したアーリア人と、東南アジア人がいる。陸続きだった日本は、当然モンゴリアンを代表するトライブである。北京原人が出てきたのはまだずっと遅れてである。

アリューシャン列島を渡り、エスキモーやアメリカインディアン、メキシコのアステカ、ペルーのインカなどはモンゴリアンそのものである。

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人類の祖先はトゥーマイ猿人については日経新聞にその記載があったので此処に記載しておく。
『トゥーマイ猿人最古の人類化石(2002.7.21:日経)
アフリカ中央部チャドで見つかったトゥーマイ猿人化石は人類の起源に新たな視点をもたらした。これまで多くの化石が発掘された東アフリカから離れた場所での発見で、頭骨の形も独特だ。人類の祖先は早い段階から広範囲に居住地域を広げ多様な進化を遂げていたことがうかがえる。

チャドとフランスの国際調査隊が見つけたトゥーマイ猿人は六百万-七百万年前の化石で、人類の祖先としては最古。既知の猿人にない特徴を持つ。脳容積は三百五十立方?前後で現代人(約千三百三十立方?)の四分の一。チンパンジー並みに小さいが、歯をみるとチンパンジーのように大きな犬歯はなく、人類の特徴をはっきり備える。
 歯の表面を覆うエナメル質の厚みは食生活を知る手がかりになる。森で軟らかい果実などを食べるゴリラやチンパンジーのエナメル質は薄いが草原で砂混じりの草木の根や硬い木の実を食べた猿人は厚く丈夫なエナメル質を持つ。トゥーマイのはチンパンジーより厚いが、アウストラロピテクスなどもう少し新しい時代の猿人に比べるとそれほど厚くない。「両者の中間」と、国立科学博物館の馬場悠男人類研究部長は指摘する。
 顔面で目をひくのは目の上の隆起だが、これはずっと後世(二十五万-四十万年前)のネアンデルタール人などを思わせる特徴。他の猿人にはみられない。猿人はみな似ているのではなく、人類への進化の初期段階から「様々な特徴を持つ猿人が存在し多様性があった」(馬場部長)ことを示す発見だ。
 居住地域にも広がりがあることが分かった。多くの猿人化石は、アフリカ東部を引き裂く長大な大地の割れ目「大地溝帯」の東側で見つかった。その付近で豊かな森が途切れ、東へ向け乾燥した草原が広がる。
 地球内部の力で大地溝帯が生まれ始めたのはおよそ一千万年前。割れ目に沿って生まれた山々が西からの湿った風を遮り、大地溝帯の東側では雨が減った。森林が消え早原に変わっていく大きな環境変化の中で、草原に適した二足歩行の生活様式を確立した猿人だけが生き延び、人類の祖先になった。、
 この人類誕生のシナリオは「イーストサイド物語」と呼ぶ人類学の定説だが、トゥーマイは定説を裏切るかのように、大地溝帯から二千五百?も遠く離れた場所で見つかった。
 実はトゥーマイ猿人化石と一緒にワニなど水辺に住む動物の化石も見つかっている。アフリカ中央部の、現在はサハラ砂漠南部にあたる地域もかつては水や線が豊かだったことがうかがえる。こうしたことから森林と草原が接する場所であれ「アフリカのどこでも人類の祖先が生まれ進化していったと考えられる」と、京都大学の石田英実教授(自然人類学)はみる。もはや人類誕生の地は「イーストサイド」に限定できない。
 十年ほど前者では人類とチンパンジーなど類人猿との進化の分岐点付近の化石が全く見つかっておらず、系統図の大きな空白は「ミッシングリンク(失われた環)」と呼ばれてきた。
 東京大学の諏訪元・助教授ら日米の研究者グループがエチオピアで見つけた四百四十万年前のラミダス猿人が最古で、それ以前は石田京大教授らがケニアで発掘した九百五十万年前の類人猿化石(サンプルピテクス)まで、実に五百万年もの空白があった。
 この数年で五百万年前を超える古い猿人化石が相次いで見つ空白が急速に埋まりつつある。アフリカの古い地層に注目し、ねばり強く調査を続けた結果だ。
 人間や類人猿のDNA(デオキシボ核酸)分析からは、両者の分岐は約五百万年とされる。この見積もりと食い違うトゥーマイ猿人発見はDNAを利用する「分子進化学」に再検討を促すものだ。
 トゥーマイ猿人の方も、直立二足歩行の直接の証拠となりうる足の骨が見つかっていないなど、現状の化石だけからでは人類への進化のどこに位置づけられるか正確には分かっていない。人類学が探求を目指す空白はまだまだ広い。
    (編集委員 滝順一)』

続きます。



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