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新生のらくろ君Aの館

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ジンバブウェ時代その2


私がジンバブウェで仕事をした時の日記(2)です


ジンバブウェは、石の家(現地語)という意味である。マシンゴの近くには、グレートジンバブウェがあり、セメントは勿論、漆喰無しに高い石の塔や、城壁のような建造物がある。
現在の技術をしても、再現が不可能であると言われている。
何故に、この様な土木技術を持った人類が居たのか、未だに謎であるという。ピラミッドもそうだし、万里の長城も然り、日本の城の石垣にしても、又然りである。私は、人類発祥の地とも言える、グレートジンバブウェに立ったことで、なにやら、体の内部の血が騒ぐような気がした。

ついでにガルヒについての日経新聞記事を、掲載させていただきたい。
『1999.4.23日経
250万年前の人類、道具使い肉食
エチオピアで化石進化の空白埋める。
猿人から、現代人など「ホモ属」の人類につながる進化の道筋で、これまでの空白域を埋める約250万年前の新種猿人の化石を、日本、米国、エチオピアの研究チームがエチオピアで見つけ、23日付の米科学誌サイエンスに発表した。一緒に見つかった石器などから、道具を使って肉食をした最古の人類とみられている。
 化石が見つかったのは、アディスアベバから約二百五十キロメートル北東の乾燥地帯。東京大学の諏訪元・助教授や、米カリフォルニア大学バークリー校のティム・ホワイト教授らのチームが一九九六年から昨年十二月にかけて調査と発掘をした。
六人分の頭部や腕、脚の骨が得られ、年代測定で、約二百五十万年前のものとわかった。一部の頚骨と歯の大きさから新種の猿人と判定し、現地語で「驚き」を意味する言葉にちなんで、アウストラロビテクス・ガルヒと名付けた。
 腕の長さは過去に見つかった猿人に近いが、脚の長さは現代人に近かった。
 また、同じ地層から見つかった石器やウマなどの骨の状態から、この猿人が石器を使ってこれらの動物の肉をそいだり、骨髄をとるなどしたりしていたらしいとわかった。研究グループは、道具を使って肉食する種としては最古とみられるとしている。
 これまで道具を使って肉食をした例としては約二百万年前にいたホモ・ハビリスが最も古いとされていた。諏訪さんは「肉食になって栄養状態もよくなり、その後の脳の発達につながった可能性もある」としている。
 アフリカでは、さまざまな猿人の化石が見つかっているが、三百万-四百万年前にいたとみられるアファール猿人以降に、・ホモ・ハビリスなど、ホモ属への枝分かれが始まったとみられている。その途中をつなぐものとしては、二百万-三百万年前にいたとされるアフリカヌス猿人が侯補だったが、はっきりした証拠はなかった。今回の化石は、頭骨や歯の形などがアフリカヌス猿人とは異なり、アファール猿人の特徴を残していた。諏訪さんは「今回の化石は、アファール猿人とホモ属とをつなぎ、現代人の先祖となりうることがわかった」と話している。
 馬場悠男・国立科学博物 人類研究部長の話
猿人からホモ属へ進化する道筋としては、これまでアフリカヌス猿人から進化したのか、そうでないのかあいまいだったが、今回の化石でアフリカヌスを経由しないで進化したことがかなりはっきりしてきた。われわれの祖先に直接つながる事が明らかになったことは非常に意義深い。』

鴻池のローカルエンジニアがMOTEに提出する書類のチェックを依頼に来た。
私は、コンサルは強いものだと思った。日本工営の看板を背負っていると、殆ど怖いものは無かった。
MOTEでは橋名板の話、完成図の話、サーティフィケイトの話など詰めていった。

MTa氏は無類の競馬好きである。といっても彼は一度も馬を見ない。パドックなどには足を向けないのだ。ひたすら、テレビ画面に映し出されるオッズを見ては、馬券を買う。ある種哲学と勝利の方程式を持っているようで、私は一度聞いたが、すぐ忘れてしまった。それで、結構勝っているから不思議である。宿舎兼事務所のガンヒルから車で数分のところに競馬場はあった。
こういうところが旧宗主国イギリスの面目躍如といったところである。

又MTa氏は、タンザニアのセレンゲテ公園と、ン・ゴロンゴロは一見に値すると言っていたが、これは、果たせぬままとなってしまった。

何しろ現場までは遠い。グツ方面の4橋の日帰りはきつい。朝7時に出て、途中、マトーレの兄が入院している病院を回り、チブで朝食をとって、デブレ2橋についたのが昼過ぎ、3時に現地を出発してもハラレへは19時頃になる。一日750kmの行程である。マシンゴから夜道をハラレに向かう時に見た下弦の月は、月が球体であることを私に教えてくれた、感動ものであった。

マレーテの運転に任せ、今私は何故、地球の果てにいるのだろうかと、ふと考えた。
造船にいれば味わうことのない経験だ。それを有り難いと思うか、苦痛と思うか、人間心の持ちようだなと少し感傷的になった。

帰ると、東京のKTa次長から、完成図書の件、瑕疵担保の件、完成図の件など2通のファックスが届いていた。このファックスが、私を日本人であること、母国は日本であることを感じさせるものとなっていた。

TIk所長は引き渡しが遅れる旨断りに来る。ただうんという訳にはいかない、ODAは政府間の問題である。しかし、判断は現場に任せられている。本社に連絡し手続きを取って貰った。

3月にはいると、日本工営のYo副社長と、鴻池組のHi専務がハラレに来るという。
昼過ぎ、雨上がりにウインゲートにゴルフに出かけた。
ウインゲートは近い、チャップマンほどトリッキーではないが、フェアウエイの両脇に植えられた、樹齢数百年の林の中に入れたら、どうしようもない。私はドライバーを闇雲に振り回す。時々林から抜けられず。四苦八苦する。少し間を縫って、脇に出せばいいのだが、少しの隙間を狙って、グリーンを探る。前方の木にあたって、後ろに飛ぶこともある。
私の場合は、どちらかというと、グリーン周りが下手である。よく日商のTSuさんに笑われたものである。

あちこちから人が来る。この無償援助(ODA)は、先が見えるようになり、セレモニーの日程の話までになっている。MTa氏は、此処に置くのが勿体ないとの本社意向で、次のプロジェクトの話が多くなった。

ウングウェ橋は1本の桁にジャンカとコンクリートの充填不良があり、壊してやり直すこととなった。
Ungwe橋


そもそも、この無償援助には、橋と道路の建設のほかに機材の供与と技術供与が謳われていた。ウングエ橋と、ソテ橋はジンバブウェ人の手で行うことになっていた。
ジャンカも充填不良もその意味では、無理もないところであった。

Sote橋

今週のゴルフはウォーレンヒルと、ロイヤルハラレだ。ジンバブウェは、かのニックプライスを排出した国であり、ロイヤルハラレは、中でも美しいコースだった。
日本人会のコンペでもあり、JICA専門家のTYa氏が優勝した。グロス92だった。

月曜日は、土曜日から痛くなった歯が、絶不調になり、痛く飯が食べられないくらいで、部屋のベッドにて休んでいた。
パソコンも不調であり、三隣亡の日だった。バファリンを貰って飲む。
火曜日は7:30までぐっすりと休め、歯痛も治った。東京に聞いていたパソコンの件は、システムに不具合があるらしく、東京からシステムを送付するとのことであった。
歯痛も治ったのでウングウェ橋にハンドオーバーの下見に行った。しかし、12月末時点での懸案事項が未だ直っていない。流石のMTa氏もお冠であった。

夕食は、新しく出来た中華料理店(チャイナタウン)で日商のおごりでご馳走になった。大使館連中も、沖縄民謡団の歓迎と言うことで、大挙して、訪れていた。
何しろステーキを食わせるところはあるが、中華は此処ぐらいしかないので、みんな日本人は此処に集まる。以前一軒だった中華レストランのバンブーレストランにはここが出来てからは滅多に行かなくなった。 オーナーは、ボスニアから戦禍を逃れてきたと言い、マレーシア人がコックを務めていた。

ペンベジ橋は導入道路に岩が出て、発破を掛ける必要が出てきたとのこと、MOTEの規則での勾配を守るべく作業を進めることになった。

2月22日(木)ウングウェ橋のハンドオーバー検査で、ムダワリマ達と大挙して訪れた。MOTEからは、来春卒業の女子大生2名も参加した。数カ所の指摘事項はあったものの、合格となり、帰り道カドマで食事をして帰った。
金曜日は午後からシャーウッドにゴルフに出かけた。後半ドライバーが不調であった。
夕刻、沖縄の民謡を、ガールズハイスクールに聞きに行った。帰りの食事は、チキンハウスで食べた。

土日は再びゴルフ。ウィンゲートと、チャップマンである。
土曜日のウィンゲートでは109でありもう少しだった。1.ヘッドアップ。2.フォロースルー3.スタンドスティルが課題だ。
チャップマンは118。何しろ池ぽちゃが4回もあった。TSu、FNaと気心の知れた人達故に緊張感がないのかも知れない。二日終わって流石に背中が痛かった。今日は男所帯の鴻池でビデオを見て、ざる碁を横目で見る。

月曜日、デブレ2橋のエントランス道路の軸線が、MOTEの旧来のそれと違っていることが判明、すり付けのための協議を行った。Ta氏が、是正案を図面で説明し、その足で、ニョニと二人でテベレジを訪れ、説明、承認を得た。
帰り、銀行に寄り、金を引き出す。ローカル達の給料日である。私は、何時も給料日に思う。こんなに安いお金で良くやっているなぁと。
基本的に彼らは、楽しみがない。だが働けるだけましなのである。女中のテンダイを雇う時も、嫌と言うほど候補者が来て、面接に追われた。

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黒は黒、どれをとっても美人なんていやしない。

月の会計報告と、次月のレミッタンスを本社に打電(ファックス)する。これが私にとっては重要な仕事である。領収書の類は、無くしてはならない。経理の仕事の煩わしさも、海外故みんなやらねばならない。パソコン(マッキントッシュだったが)を使えないと、気が遠くなるだろう。

TIk氏も最終支払い要求を持って、事務所を訪れる。コンサルが、OKを出さない限り、ゼネコンも金を受け取れない。
渡すのは明日現地でデブレ2橋のファイナルインスペクション後ということにした。
MTa氏がマトーレと銀行へ行っている間に、OCSとマレーテの別れた女房が子供の養育費をくれと言って、裁判所の命令書を携えて、事務所に来た。マレーテは女にはルーズなところがある。

昼過ぎ、ハラレを出発夕刻シェブロンホテルに到着、テベレジと歓談しているところへTYa氏も到着した。その足で、鴻池の別荘に行き、MTa氏などは囲碁大会を始めた。
12時過ぎまでやっているのを見ながら、私は一足先に休んだ。
明日はデブレ2橋の最終検査日である。

朝は腹一杯食べた。デブレ2橋まで直行し9:30から検査が始まった。

Devure2橋

MOTE側はテベレジと、計画2名、設計2名、地方の担当2名であった。
舗装も完全ではなく、土手も終わっていない。とても最終検査を受ける段階ではない。しかし後日それらを遂行すると言うことで、テベレジはすんなりとサインはくれた。
デブレ2橋は旧橋のすぐ下流に造られている。旧橋は低いが、乾期の通行用(人道)としては未だ使える。
壊すかどうか、テベレジがダイレクターにどうするか判断を仰ぐことになり、それを待って、対策する。

日本工営としては、よもやこのまま鴻池が何もしないとは考えられなかったが、一筆入れなければサーティフィケイトを渡さないことにした。この頃TIk氏は、MTa氏を避けている。気持ちは分かるが、当然と思った。彼らも南アの業者に丸投げである、どういう事が起こるかは保証の限りではない。
悪く転ぶとコンサルの責任になる。此処は慎重で当たり前だ。そもそもこんな状態で、受験するという態度が分からなかった。
それぞれにそれぞれの思惑があるのだと、私は、納得した。
帰りはチブで、ムサナ達とビールを飲んだ。彼らは良い奴ばかりである。日本人ほど腹黒くない。まあ純粋なのである。ハラレの事務所(兼宿舎)へは、8時頃の到着となった。

翌日TIk所長はサーティフィケイトを取りに来たが、前日の決定通り、渡さなかった。TIk氏は、本社に伺いを立てると一旦帰った。その後明日一番で誓約書を書いてくることとなった。

Ta氏が、ソテ橋のアライメントの正式図を持ち曲率については2案(R=300とR=300にトランジッションをつける)を持ってきた。

翌金曜日、朝一番にTIk所長が誓約書を持ってくる。
次のプロジェクトの大使説明用資料(昨日ワープロで打った分)を本社に送付した。

TIk氏はペンベジ橋の労務をデブレ2橋に移動するという。TAd副所長が、デブレ2橋、仮供用の件で来る。配水管が十分でない。どうも鴻池は所長、副所長ともおざなりである。

Pembezi橋

一人Ta氏が頑張っている。私は鎌を掛けた。「Taさんは、鴻池ではないでしょう?」というと「いや鴻池です」と言ったがどうも違うことは見え見えであった。

やっと土日。Na氏とSu氏と三人で、ウィンゲートを回る。110、寄せとパットが、どうにもならない。
その日は珍しく自分で焼きめしを造り食べ、読書をした。「科学とは何か」でも意味は分からなかった。
日曜日は、Na氏、Ta氏、と私で、ウィンゲートだ。109だった。実力ラインである。
その後、鴻池のHi専務達とチャイナタウン(中華料理屋)で会食。Ta氏は居なかったことで彼が鴻池の社員でないことが決定的となった。

月曜日は6時に目覚めてしまった。MTa氏はHi専務らと、ビクトリアフォールへ出かけた。
午前中アカウントを済ませ、本社へOCSする。
午後3時にテベレジとアポイントを取り、チャワンダと二人で、各橋の導入道路のアライメントに関して、又デブレ2橋の仮供用について、など協議し承認を得た。
デブレ2橋の旧橋は残すことで決定した。又Hi専務のダイレクター面会の件も頼む。

夕食はシェラトンホテルで、Hi専務を囲み、鴻池の連中とJETROのNaさんとMTaさんでステーキを食べた。

ジープのタイヤ交換の件、テベレジへのアポイント、チャワンダのムタレ宿舎のデポジット返してくれない等々雑用が結構多い。
MTa氏は次期プロジェクトのマンゴチ橋の件で一日中忙しそう。
夕食は昨日の面子で食べる。MTa氏が午前中少し機嫌が悪かったが夕食時は饒舌になっていた。カラオケをしたが、余り乗れなかった。

TYa氏からオカバンゴ(ボツワナ)行きの誘いがあったが、結局ツエツエ蝿の話などがあって、行くのを取りやめた。
Hi専務は、行き違いで、結局ダイレクターに会わずに帰った。
MTa氏はいよいよ帰りそうだ。私とレジデント(駐在)エンジニアを交代するべくMOTEにレターを書いていた。

翌7日TIk氏と、グツ方面の4橋を訪問する。9時半に出発して、帰ったのは夜の8時半だった。その間TIk氏は良く喋った。彼は、ここへ来る前は、タイのプーケットに駐在していたらしく、盛んにプーケットの女の話が出る。

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矢張りフィリピンといい、タイと言い、東南アジアは、同じモンゴリアンで親しみが湧く。
特にタイは仏教国であり、山田長政以来の関係もあって、行きたいところだ。

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海外勤務は厳しい、特に発展途上国では、金があっても物がないので買うに買えない。それだけに金が貯まる仕掛けになっている。特に金がインセンティブにはならないが、矢張りタイやフィリピンなどで、可愛い娘がいる方が、心の潤いになる。
私のフィリピン好みは、このあたりが原点なのか、まぁ、黒ん坊よりはましである。
スペイン系のフィリピーナ、これは、ペルーのスペイン系と似ているような気がした。
矢張り人間のルーツを探求することは楽しいことだと私は思う。

MTa氏にグツ方面4橋検査結果の報告をする。一方TYa氏からボツワナ(オカバンゴ)の話が未だ沈静化せず。4泊5日の日程まで決めているという。
ホテルはシャレー方式(高床式小屋)とまで煮詰まっている様子。

土日はウィンゲート。土曜日は6:00起床、小路一等書記官とTSu氏3人で回る。ニアピン、ドラコンなどを取ることが出来たが、スコアはさっぱり。午後はクラブコンペに入りTYa、TIk、Tsuと本日はダブルヘッダーとなった。
夕食はTSu邸で、他人丼。この日は流石につかれた。如何に凌ぎやすいといっても、灼熱の太陽が照りつける中でのダブルヘッダーは、若いつもりの私にも歳を感じさせた。

日曜日は、菊地(大使館)、TIk、Koと回る。ドライバーも湿りがちだが、後30mの寄せがネックである。
夕食はTSu邸で東浜(医療コンサル)、Sa(建築設備コンサル)、JYa(長大)、TIk、MTaと私で、話が弾んだ。
此処では、色々な人に出会う。それが財産なのかも知れない。出自はとやかく言わない。しかしTSu氏は私のことを、Naval architectと紹介する。私もそれを言われて、満更でもない。
今はcivilをやっているが、私の底流にはNaval architectの血が流れているのだ。

月曜日は、MOTEのボポトを訪問した。話し終わった頃に、ダイレクターのクデンガが現れた。
デブレ2橋、ソテ橋、ペンベジ橋のアライメントについて各々注文がついた。結果はTa氏に連絡、対応を指示した。
MTa氏は、Jya氏と大使館を回り、自分の帰国が4月1日であることを告げたようだ。
昼食をIYa氏と取り、昼食後、Jya氏は、マトーレ、マレーテの案内でライオン・チータパークへ行った。
未だにパソコンの調子が悪い。

1996年3月12日、朝、Tya氏とオカバンゴ(ボツワナ)の話をして、ニョニと二人で空港に迎えに行った。

JYaさんがバランスロックから帰るのを待って、みんなで、イタリアンレストランのピノスへ、食事に行った。スパゲッティの旨いところで、夜ならワインも旨い。
4時過ぎにJYa、TSu、両氏らテニスをした。Jya氏は日頃やっているとかで、上手であった。球は時々どこへ飛ぶか分からない、隣の家にはいるのはしょっちゅうだった。その度にパトリックが取りに走る。ガードナー(庭師)同志の連携で、球を回収してくる。その日はポルトガル・レストラン(コンビーノ)で夕食を取り、疲れて寝た。

翌朝、MTa氏はJYa氏を送るために朝早く出かけた。
そろそろプロジェクトも先が見えだしたので、ニョニは要らなくなる。次の就職先を探すように言う。ジンバブウェでは、大きな産業もなく、如何にジンバブウェ大学を出ていても、就職先は容易に見つからない。
我々のような海外からのプロジェクトにアサインされるのはまだいい方である。
MOTEへプログレッシブレポートを届け、TYa氏のオフィスに立ち寄り、オカバンゴの話をする。MTa氏の帰国歓送会をするべく話をした。
それから、大使館、日商オフィスと周り、X-線検査の結果を聞きに行く。

 ハニーデューに買い物に出かける。此処は、前にも書いたが、裏が畑になっており、そこの取れたてを売っているので新鮮且つ安い。肉や野菜は、冷凍物であるが、これは仕方ない。
料理が出来ないので、食事はみんなの世話になっていた。

SYaさんなどは、現地のメイドに、いろいろと教えているらしいが、矢張りぱっとしないという。

TIk所長と、Ta氏は、ヨハネに出張しており、金曜日の夕方帰ることになっているという。

翌日は6:30目覚めた。Na氏から、日本人会ゴルフコンペのマッチプレーは、今週は出来ないと言う。私は今までTAd夫人の棄権もあり3回戦まで勝ち上がってきていた。
8:30にニョニを伴って、ウングウェのその後の進捗を見に出かけた。此処は、一寸したことでも、一日がかりだ。往路は、私が運転し正午近くに現地に到着した。
アウトスタンディング部が、完全に施工されていない。矢張り、緩めると、業者は、なかなか動かない。Ta氏などに言わせると、一旦現場を離れて次に行くとなかなか戻れないと言う。それもそうだか、以前から言っていること、時間はあったはずなのにと不満を残しながら帰途についた。
帰りは、カドマ市で、遅い昼食を取った。大柄なンデベレ族のニョニは良く食った。流石体格がでかいだけのことはある。まともにやり合ったら、一発で脳しんとうを起こしそうな気がするくらいだ。
そう言えば、ニョニには、白人(スウェーデン)の彼女が居る。いつぞや、タンザニアに旅行に出かけた。タンザニアの、セレンゲティやン・ゴロンゴロは、私も行ってみたいところだ。
12:30にカドマを出て、16:15に事務所に帰着した。現場までは中でも近い方だが520kmのドライブだ。

翌金曜日は、今度はニョニと、デブレ2橋へ、こうなったら体力勝負だ。朝痛かった歯も、TSuさんから貰った薬が効き、途中から、楽になった。
11:00から仮オープンのための試験を実施。Ta氏、ショーンヒルと、フォアマンのルンドが応対した。MOTEからもムサンジェが立ち会う。カルバートや、ドレンネージを主に見る。矢張り、注文がつく。
MTa、TSuの二人は、南アとの国境近くのベイトブリッジに出かけていたが、車が調子悪いとの電話が入って、マレ-テが、応援に行く。二人はグウェル迄、タクシーで帰ったという。良くタクシーがあったものだ。6:20に帰って待つこと久し。二人は10:00前にやっと帰着、タイヤボルト折損が原因とか(三菱自工の車ではなかったが)。まこと、アフリカでは何が起こるか分からない。

今回の土曜日は、珍しくゴルフに行かなかった。MTa氏が例によって馬に行っている間に、ブローデルからフィフスアヴェニューを買い物してまわった。夕方チャイナタウンへ、MTa氏の送別会の含みで、鴻池の連中と会食した。食事には何時も欠かさぬ、赤ワイン。ジンバブウェのワインは、南アから来ているものが多く、旨い。MTa氏は、日頃になく饒舌であった。彼らは2次会へ行くといって出かけたが、私は先に失礼した。

日曜日は朝寝られず、4:30からごそごそしていた。初めて自分が運転して、7時5分前にはウインゲートについた。朝の寝起きが悪かったからか、気分が優れず、ゴルフもそぞろになってしまった。

月曜日、いよいよMTa氏がジンバブウェを去る日が近づいた。MOTEに行くも、テベレジ、ムダワリマのアンパンマン達は居なかった。TYa氏に仮オープン(デブレ2橋)の通知と新聞を届けた。我々は新聞を読むと、それをJICA専門家のTYa氏に届けてあげるのが日課になっていた。
日本で何が起こっているか、数日遅れの新聞も我々には貴重だった。又同時に、「週刊文春」も送付して貰っていた。隅から隅まで、嘗めるように読むのが楽しみだった。
夕食のカレーを食べると、鴻池の事務所を訪れ、MTa氏は囲碁、私はビデオ鑑賞と、それぞれの時間を過ごした。

火曜日、MTa氏は、TSu氏と、6時過ぎに出かけた。MOTEは相変わらず不在。
Ta氏が来訪し、デブレ2橋の件で話す。又ウングウェ橋はやっと懸案事項が終了したので、完成写真をもって、MOTEへの報告を依頼された。
秘書のマトーレを送りがてら、住居近くあたりをドライブしジンバブウェ大学の前を通った。(日本では東大か)チャワンダも、ニョニも同大学の卒業生であった。
その帰り、不覚にも、帰りスピード違反で捕まってしまった。

相変わらず、仕事はなかなか思うようには進まない。パソコンも機嫌をそこねたままである。2台有ったので、何とか凌げたが、これが1台だと、どうしようもない。この国に日本製がある訳もない。

TSu氏は奥さんが、不在であるため、食事を一緒に食べた。
夕食後、又TSu邸で、カラオケを歌う。結構、皆、マイクを離さないのが多く、自分の得意な曲を、うなったり歌ったりした。

翌朝、8:15グツまで運転した。それからMTa氏と運転交代。デブレ2橋、デブレ1橋(アライメントの件で時間を取る)ペンベジ橋、ソテ橋、と周り、帰宅は8時過ぎになった。

Devure1橋

TYaさんから、ボツワナは、マラリヤの薬を飲む必要があるとの電話が入った。オカバンゴ行きは段々大儀になってきた。

昨日に引き続きボツワナのマラリアの件で、大いに揺れた。TYa氏は、未だ行く予定で、マラリア対策を考えていた。MTa氏は航空券の手配で忙しい。
MOTEにムダワリマを訪ね2月分のプログレッシブレポートを手渡した。
夕刻、TYa氏主催のMTa氏送別会を行った。MOTEからもテベレジ夫妻、設計のチプル、カプンダンガ、ムダワリマ、イクワ、ムサナが来ていた。
MTa氏の人柄を良く思う人間は、皆来ていた。その夜は、夜更けまで飲んだ。MTa氏の人徳が忍ばれた。
翌3月23日(土)MTa氏と、ビクトリアフォールに行くことになった。8:00過ぎ出発マシンゴ道路を、チブからグウェルに抜け、ジンバブウェ第二の都市、ブラワヨに入った。チブとグウェル間は私が運転したが、その他はMTa氏がハンドルを握った。

ブラワヨで、少し遅い昼食を取りそのままビクトリアフォールへ向かった。ビクトリアフォールには夕方4時過ぎに到着したが、どのホテルも満室だった。何時も緻密な計画のMTa氏にとっては珍しいことだった。何しろ雨期なので、前回来たひからびた滝ではなく、水を高々と舞上げる豪快な滝になっていた。そんなことで、ホテルも満室なのであろう。
イララホテルの紹介で、43km戻ったところに個人経営の所謂民宿があるという。露天では寝られないので、引き返した。大通りから、ブッシュの奥に大分入ったその民宿は、我々のほかにもう1組の宿泊客が居た。主人の勧めるままワインを2本のみ、白い萱の中で、一夜を過ごした。
翌日、朝食を採り、精算する時に驚いた。何と370US$という。超一流ホテルでもそこまでは取らない。Z$の間違いではないかと思ったが、どうにもぼられた。そうそうに引き払いビクトリアフォールに再び取って返した。

ビクトリアフォールから少し行ったところに、カツングラがあり、そこは、ボツワナ、ザンビア、ナミビアの国境が集まる街だった。警備員の案内(20Z$)で、ボツワナ、ザンビア間を行き来する薄汚れたフェリーを見た。国境といっても何の変哲もないところだ。人間が人為的に引いた、線であることは、此処を見ればよく分かる。又、ビクトリアフォールに取って返し、今度はそうそうに宿の予約をした。(サン・カシノ・ホテルだった)寝場所を確保したので、いよいよ滝に向かう。

ジンバブウェ側からの滝は見慣れていたので、ザンビア側へ行こうということになり、検問所に行ったが、何と、一人10US$必要という。そんなこととは知らず、こちらはZ$しか持ち合わせていない。Z$で2倍払うと行っても、頑なにノーである。今回2度目の悔しい思いをして、悄然と帰った。
ジンバブエ側の滝も壮観で、水量が多かった。雨具を貸してくれるが、それでもびしょびしょになる。
何しろ、滝から遠い道を走っていても、噴煙のように、水のカーテンが、空高く見えるほどである。近くでの、度迫力は凄いものだった。矢張り世界3大瀑布の1つだなぁと感じた。

歩き疲れて、ホテルに帰り、少し休んで、前回泊まれなかった、エレファントホテルに、夕食に出かけた。帰って、ホテルのカジノを覗いたが規模は小さかったし、賭け事の不得意な、私は100Z$負けてしまった。それからMTa氏はエレファントホテルのカジノへ取って返し、夜12:00くらいまでやったとか。あーぁタフである。

ハラレに帰る日だ。7:00に起き朝食を採った。MTaさんの運転する車で、少し寝てしまった。ブラワヨのホテルで昼食を取り、運転を交代した。グウェルまで運転したが、何かおかしい。タイヤに木のとげが刺さり、パンクしていた。ブラワヨの市内で良かった。車屋を捜しパンクを治させた。私は何時も思う、こんな黒ちゃんの店で本当に直るのだろうかと。時間は掛かったが、何とかパンクは直り、一路ハラレへ。

ハラレに着いてみると何と、停電ではないか。町中真っ暗である。これも一つの体験と、私は考えられるようになっていた。夕食は久し振りにパール・ガーデンに行く。此処は、私が最初にハラレに着いた時に、中華を食べさせる店として、TSuさんやSyaさんが連れてきてくれたところだ。その後、近くのブローデルに、チャイナタウンが出来たので、其方に変わってしまった。

食事が終わり、帰宅すると、TYaさんから電話があった。朝から電話をしてくれていたようだ。ワンゲに行った知り合いの女性がマラリアにかかって、今朝死んだという。その事で、奥さんはショックを受け、オカバンゴ行きは全てキャンセルしたという。私としても余り気乗りしていなかったので、かえって良かったと思った。TYaさんぜひ行って多彩な動物を見たかったらしいが、命には替えられない。
アフリカなんかもう来ることはないのは分かっているが、余り羽目を外して取り返しが付かなくなっては、経験どころの騒ぎでない。

世間が騒がしいので急遽雇った、ガードマンの家に泥棒が入ったとか、一体何を取るのだと、笑えてしまった。毛布が欲しいというので、要らなくなったのを与えた。

翌日、MTa氏は東京のKTa次長に電話し、コンプリーション・レポートの件や、総合報告書の件で打ち合わせていた。やがてそれらは、私が作成せねばならなかった。KTa次長は5月に来るので、その時に詳しく話そうと言うことになった。
Ta氏が来訪、ウングウェ橋の懸案事項処理完了と、写真を持参。又ソテ橋、デブレ2橋のアライメントについても協議した。
MOTEに行くも、ワークショップがあるといって、誰もいなかった。

月締めの金が合わず、少しイライラした。又MTa氏の名義の銀行はクローズし、新たに私の口座を開いた。これからの本国からのレミッタンスは、私の口座に振り込まれることになる。

一人女中を雇うことになった。何人もの候補者が来た。日本人のオフィスで働けるのは、彼女らにとっては、願ってもないことのようであった。若くて大人しそうなのを選んで、雇った。名前をテンダイといった。

TIk氏の訪問を受け、デブレ2橋の引き渡し検査の依頼を受けた。パイプカルバートなど、又アウトスタンディング・マターはあるものの、MOTEに立会の依頼を申請に行く。ムダワリマに、ウングウェ橋未決事項の終了レターと写真を渡し、今回の立会の配車関係を打ち合わせた。
テベレジにも会った。

アライメントの件は、何とか収束に向かう。重要な懸案事項は、MTa氏のいる間に済ませて欲しかったし、MTa氏もその事は気に掛けてくれていた。
そしてレジデントエンジニアが、MTa氏から私に替わる旨のレターを書き、KTa次長の筆跡を真似たサインをして、MOTE並びに関係者に配送した。
TSuさんが来て、夜中まで、何くれと無く話し込んだ。

MTa氏の口座を閉じるに当たって、Z$をUS$に変えること不可(外貨持ち出しを許さない)故、彼の残り400Z$を旨く使うことにした。最後に、車や、バイクなど売却したZ$をどうするのか漠然とした不安が残った。

チャワンダと、ニョニの派遣会社である、シビルエンジニアのムガベが来た。次のプロジェクトに何時移れるかという。ニョニは、もう良いが、チャワンダは、手放せない。彼が居ないと完成図書、アズビルトドローイングも書けない。前金で、オフィスをクローズするまでの契約を取り交わした。

ミッシェルコート旅行社のアンジーと白人女性の2名がやってきた。MTa氏のエアチケットの件である。

1996年3月29日(金)
デブレ2橋の引き渡し検査が行われた。7:15ハラレ発かねての配車通りに分乗して現場へ向かう。テベレジ、キヤニ、ムサナとメンバーは殆ど変わらない。ムダワリマは来ていなかった。途中チブで、朝食を採り、11:30過ぎデブレ2橋に到着した。一通り歩いて、サインがなされた。
ゼネコンもこの書類が大切であるが、コンサルも、これがないと、国から金が出ない。無償援助(ODA)の仕組みが徐々に分かってきた私には、この何気ないサインに、少し緊張した。
帰りは、TYa氏のランクルを運転して、ハラレに帰った。
シャワーを浴びる暇もなく、チャイナタウンでMTa氏と、SYa氏の送別会に臨んだ。
私は思った。MTa氏もそうだが、SYa氏も、結局海外に来ている連中は、海外でしか仕事がない。一つのプロジェクトが終わると、次の海外でのプロジェクトにアサインされる。それが、長引くと、本社で待機することになる。海外では自分が王様だが、結局は、孫悟空宜しく、お釈迦様(本社)の手の平で泳いでいるだけなのだ。
TYa夫妻、TSu氏、鴻池の全員が、集まっていた。
MTa氏の人望の厚さを物語る良い宴会だった。

一区切りついての週末。Naさんとのマッチプレーが待っていた。TSu氏をアテンダントとして8:00ウインゲートで行われた。何しろ岡本公使がつけた、膨大なハンディがある。
終わってみると106だったが、残り2ホールを残して3アップで勝った。
事務所に帰るとTYa氏やMOTEからムサナを始め、銀行関係、アンジー夫妻、チャワンダ夫妻、ニョニらが焼き肉パーティーをやっていた。
夕食はTsu邸で、TYa夫妻、Na、Ito、TIk、SYa、MTa氏達と夕食後、夜中までカラオケに興じた。「天城越え」などは私の最も得意とするところだった。

日曜日は、7時頃には目が覚めたが流石に疲れた。朝食後、MTa氏は、SYa氏の元に囲碁をしに行く。私は、事務所の整理などをして、ゆっくりする。

3時過ぎTSu氏が、事務所を訪れ、TSu氏と共にMTa氏を送る。

16:50発ヨハネ行きで、MTa氏は飛び立った。

何か重い、重大なものが、無くなったような、寂寞感と、不安感が彼を襲った。これからは一人だ。

翌日からにわかに忙しくなった。デブレ2橋のアライメントをセットル。従業員に給料を払う。
MTa氏からの申し送りの会計の整理、本社へのMTa氏の日本帰国のインフォメーション。
ニョニも今日を限りに次のプロジェクトに移る、その精算。
家主への領収書の発行以来。
ガードマンにボーナス(泥棒に入られたと言うことでの補填)
一人で決済するのは、何かと疲れる。MTa氏の存在の大きさを改めて知る。

次の日もにわかに多くなった雑用。考えてみれば、リリーフの役目はそんなところかも知れない。MOTE訪問、鴻池からのビデオテープを渡し、MTa氏送別会の写真を渡す。TYa氏のところにも回って写真を渡した。

どうやらムダワリマはJICA研修生として3ヶ月間日本に行くらしい。
SYa氏は、MOTEへのクレームレターに工営のオーバーレターが要るという。
Ta氏は、今まで二重帳簿的なプログレッシブレポートを、追いついたので1本化したいという。
何しろ、一から十まで、やらなければならない。

翌日マレーテを使いTYa氏がケープへ旅行するので空港まで送らせる。SYa氏の昨日の件
1.ロッキーの売却の件(新車並みのタックスが掛かることに対してテベレジからの援助レターを貰う)
2.部品没収の件:プロビンスが変な動きをしている。これを牽制する必要がある。
留守中、マトーレが自分の好き放題をしている。私を甘く見ているようだった。一喝すると、ブーたれていたが、最初が肝心と締め上げた。この女は、心のさもしい女であることが、別れ際に分かった。矢張り黒かと、思ったものだ。
しかしそれに引き替え、チャワンダの誠実さには胸を打たれた。矢張り教養かとも思った。

TSu氏の依頼で、TSu邸の刈草処理をマレーテにピックアップを使い処理させた。
台所にカーテンをつけないと、夕日が入って、暑くてどうしようもない。マレーテの運転でカーテンを買いに出かけたが適当なのが見つからなかった。

鴻池から、レジデントエンジニア宛てにレターが来ているので取りに来て欲しいという。生意気な奴め、届けに来ればいいものをと思っているとチャワンダが帰ってきたので、取りに行かせる。
内容はロッキー(検査で使用していたジープ)の件と、デブレ2橋のアライメントの件だった。
アライメントでは随分泣かされた。かつて私は、MTa氏に、道路なんてものは、ブルドーザーで、道をつけて、アスファルトをひけば良いだけではないかというと、○○さん全くその通りですよと言っていたが。実際道路を造るためには、いろいろ規制があり、カーブでの曲率なども、スピードによって細かく決められていることを知った。又、上下の勾配も、向こうから来る車をどの時点で見ることが出来るかも決められていた。従って、アライメントの数十センチなんかどうでも良いと思いがちだが、大見得切って、そんなことを言う訳にも行かず。悩まされた訳だ。

午後Na、TIk、TSuと私で、チャップマンに行った。103で比較的満足いく結果だったが、池ぽちゃ2回。チャップマンの2番ホールと、5番ホールの池は、心理的に私を圧迫する。
TIk氏は、出張で、休み明け5日間くらい南アとボツワナへ行く予定とのこと。

金曜日に私とTSu氏とで、ロイヤルハラレコースへ行くも、9:00に受け付け締めきりと言うことで、仕方なしに、ウインゲートに回った。
果たせるかな、この名門コースで95を出し,100を大幅に切った。ティーショット、2ND、バンカー、パター共に、私としては上出来であった。

そして、私の偉業を不思議がる様に、午後から雷雨が激しかった。矢張り天も狐に摘まれているのであろう。
帰宅後MTa氏から、日本に着いたと連絡があった。
家主からの家賃領収確認のFAXが入っていた。
ガードマンは、イースターの間交代していた。ガードマンというよりも、どう見てもこいつらの方が怪しいというようなのしか居ない。

土曜日は、ベッドで週刊誌を読み、9:00に起床、だらだらしていた。
ミケルスホテルにピックアップしたのは、ザンビアのJICA、雇用促進関係の人、北大畜産の教授、ともう一人合計9人で、チャイナタウンへTSu氏の接待で行く。後は、おきまりのTSu邸カラオケ。5人は今日グレートジンバブウェに行き明日はモーリシャスへ行くとのこと。
正に此処居ては、色んな人種と、一期一会である。

日曜日7:00過ぎに目覚める。
8:40再び、ロイヤルハラレで、プレーする。ニックプライスになった気分だ。インから始めたが、昨日の好調とは裏腹に、元の木阿弥になってしまった。昼食後は、TSuさんは、大使公邸に麻雀をしにいった。TIk氏達はワンゲに行って遅くに帰ってきたという。午後は退屈な時を過ごした。

月曜日、ジンバブウェに来たことを振り返る。いろいろなことがあり、取り越し苦労も多かった。
夕方、フィフス・アベニューに買い物に行っただけで、結局休みは何処にも行かなかった。
何時も世話になっているTSuさん夫妻と寿司を食べた。楽しく歓談し、○○さん日本に帰るなら、帰り道はスイス・オーストリアまわりが良いと言うことになって、無料で、アレンジしてあげるよとの話になった。
定まった意識無しでは暮らしは時として苦痛を伴う。目的としたことをこつこつやることが私の性には合っている。正直に肩を張らずに目の前の仕事をやっていくしかない。そう思った。

火曜日、セレモニーの場所の利点欠点を、表に纏めて、判断することとし、鴻池に作らせる。日本からに船便が着いたとの知らせにマレーテを郵便局まで取りにやったが、大体想像通りの、変形を起こしていた。
TYaさんはケープタウンから帰り、のど風邪を引いたと言っていた。ケープの紅葉は、格別美しかったと言っていた。
この人はどん欲にあちらこちらを回っている。アフリカを十分楽しんでいるようだ。
TIk氏は、工事第3期に入った旨のレターを携え、サーティフィケイトを出してくれるように依頼にやってきた。
MOTEにムダワリマを訪ね、用地買収、完成図、第2期の未決事項などを話した。
TIk、SYa両氏が、SYa氏後任としてYTo君を紹介に来た。YTo君は若いが、ケニヤ人と結婚し、フランス語も話すという。鴻池では異色の存在である。おそらく現地採用であろう。

次の日は、チャワンダは朝早くからごそごそし、8:30過ぎにロッキーで出かけていった。
午後、西日が暑く再び、カーテンを買いに出かけたが、この時もなかなか決まらない。注文すると3-4日掛かるという。窓の大きさに合わせて、裁断と縫製を依頼した。
その日は、他にさしたることもなく過ぎていった。

日が変わり、KTa次長、MTa氏から朝1番にFAXが入ってきた。コンプリーションレポートに必要な資料を知らせろと言ってくる。
8:00にTIk氏とグツ方面の4橋へ行った。チブで食事し、ソテ橋の堤防の造成法で、時間を食う。
ハラレに着いたのは9:30だった。グツ4橋は、みんなまともに検査して歩くと1日では、見切れない。
MTa氏から再度FAXがあり、20日に日本を発つとの知らせだった。次の任地など、行き先は書いてなかった。

金曜日は1日どんよりしていた。SYa氏の送別会をする以外は、淡々と時は過ぎていった。
金曜日、TSu、TIk氏を立会人に、Kaさんとのマッチプレーに臨んだ。カントリークラブである。出だしは2ダウンと焦ったが、3ホールを残し、8アップで勝った。
キャディーが悪く、ボールを1ヶ失った。しかし、コースは日本のそれと似ており結構面白かった。
昼は、チャイナタウンで、TIk氏いや鴻池にご馳走になった。
夕食は、TSu氏と鴻池を招き、寿司とかき揚げでの夕食会となった。来訪者が南アのワインは持ってきたので、より楽しくなった。
仕事は毎日細々としたことが続く。主にチャワンダが対応しているが、相手は、白人、なかなか巧く行かないことも多いようだ。私の相手は、もっぱらTa氏である。他の鴻池の連中は、現場を知らな過ぎる。

私のその他の仕事はMOTEの要求の聞き役、報告、大使館への報告、JICAへの報告と、大まかなODAの流れをコントロールすることにあった。幸いMOTEを含めて、話の分かる人間が多く、私はそれを有り難いと思った。もし、臍の曲がった奴が居るとおそらく私の仕事は何倍にもふくれあがったであろう。

マレーテがマズダ(乗用車)のブレーキがおかしいという。命に関わること故、早速シューを取り替えさせた。
チャワンダは、MOTEのニャムエダと、会議に使う工事写真を撮りに行った。グツ方面の4橋を無声で、30分取った由。
MTa氏からも、セレモニーの件を心配し、又機材供与の件についてもFAXが届いた。こちらは、ソテ橋の護岸工事をどうするかで、頭が痛かった。Ta氏を交えて、良策を検討した。
又Ta氏には、そろそろコンプリーションレポートを作成すべく、エルサルバドルのレポートの例と、今回の目次を渡した。目次は、MTa氏が考えた骨子を手直ししたものだった。

TYa氏からは、30mスパンのI―合成桁の図面と計算書の例を要求された。又施工管理記録一式も同時に欲しいという。こうなると造船屋の弱いところ、すぐにMTa氏にファックスを送ると共に、Ta氏に施工面の記録の準備を依頼した。

グツ方面の4橋へTa氏と行くことになった。主に護岸の件を見て回ることになった。橋台(アバットメント)は、重力で、持たせている。ダムと同じだ。そこへ裏側に水が回ると、浮力でアバットが浮き上がる。そうなると計算をし直さなくては、橋が成り立たない。私は、造船の知識でもそれぐらいは理解出来た。護岸が大切であることは、論を待たなかった。

帰りの車の中で、Ta氏自身のこと、鴻池の人ではないのだろうと聞く、この点は、最終的に、鴻池でなく、西松建設からの応援であることを認めた。○○さんに嘘を突き通すことは出来ないと聞いて私のもやもやした気持ちもクリヤーになり、落ち着いた気持ちになった。私自身もシビルでは無くネーバルアーキテクトであることを話した。
私は密かに、造船の方が、土木よりも、緻密であることを感じていた。

なれないところ、MTa氏が居なくなって、仕事が山のようにある私は、余裕を無くしていた。

木曜日の朝、天井裏で、ネズミの走る音、寝られなくて、6:30頃起きた。今日一日は、ぐずぐずしていた。明日すること、TYa氏や、大使館から頼まれていることなどをリストアップしておいた。
今日は1日平穏に過ぎていった。

MOTEに対してペイメントレターの見直しをする。
MOTEの担当は、ムダワリマが研修のために日本に行くというので、上司のテベレジが受け持つことになった。
TYa氏依頼の書類、図面を渡す。
又Ta氏からは、機材の再輸出に関して、税金のかからぬようにMOTEにサポートして貰うべくレターを出すよう依頼があった。土台借りた機材を返すのに、税金を取ろうなんて太い考え方だと言っても、省が違えば、なかなか思うようにいかない。日本の役所も、どこも皆同じだと感じた。

TSu氏は、モザンビークに、それこそ死のドライブを経験したとか。道無き道をランクルで走り、300kmを10時間かけて走ったとか。一人で良くやるよと思った。矢張り商社マンはたくましい。どんなへんぴなところでも先ず商社マンが行き、それからJOCVそして政府という順であるらしい。並の根性では商社マンはつとまらない。

土曜日は、買い物に出かけた。ブローデルからフィフスアベニューを回った。こちらの方がリカーショップよりワインが安かった。TIk氏は5:00過ぎ南ア(ボツワナ)から帰ってきたようだ。
夕方、TSu氏は、私をチャイナタウンに招待してくれた。此処の料理は旨い。少し高いが、その値打ちはある。それまでは、パールガーデンであったが、何しろコックが違う。
ビールを飲み、数品を取って、4000Z$くらいのようだった。

日曜日、夕方まで、ぶらぶらとし、新聞、週刊誌を読んだ。TIk氏の土産、ワインと、チョコレートが届いた。セレモニーの話や、マラウィ行きをどうかと打診される。

<続きます>





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