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ホタテバーガー☆ミ

中島三郎助

~中島三郎助永胤~なかじまさぶろうすけながたね

元浦賀奉行所与力幕府両番上席軍艦役
長男恒太郎、次男英次郎ほか、奉行所関係者10余人を連れ榎本武揚とともに江戸を脱し蝦夷地へ。

蝦夷共和国では箱館奉行並
ちなみに箱館奉行は永井尚志

彼らは中島隊とも呼ばれ千代が岱陣屋を「この郭は我が墳墓の地なり」
と覚悟を固め明治2年5月16日大鳥圭介の撤退命令にも従わず新政府軍と戦闘、
40数名の守備兵のうち半数以上が討死する激闘の末戦死。

三郎助57歳。恒太郎22歳。英次郎19歳。
陣屋跡一帯は昭和6年中島町と命名され現在に至る。

いまさらだけどばりばりの海軍の人なんだよね
軍艦操練所では榎本さんと出会ってるし、当然永井尚志 、勝海舟、荒井郁之助 、松本良順、松岡盤吉、甲賀源吾 とも知り合いだよね
一度引退したのにすぐ出役してるのはこのころ薩摩藩邸に浪士が集まって放火や強盗を働き盛んに幕府を挑発し始めたころ
それでまたひっぱりだされたんだろうか?
慶応4年の1月に大阪へ行ってるってことは土方さんと会ったりしたかもね。
いや、大阪に乗ってきた順堂丸で土方さんが江戸へ帰ったのか。
するとすれ違い?いや一緒に江戸まで帰ってきたかな~

5月11日の箱館総攻撃で撃沈された朝陽丸にも乗ったことがあるんだ
かつて自分が乗っていた艦が敵になり撃沈されていくのをどんな思いで見てたんだろう?

中島さんは幼少のころから和歌、俳諧、漢詩文など風雅の道に才能を発揮し、
こと俳諧においては「俳人木鶏」(もっけい)の名をほしいままにしその存在を慕われていました。
そういえば明治元年の12月、箱館の俳人弧山堂無外の句会に土方さんと川村録四郎さんと一緒に出席してたよね

さざ波のままにみぎはの氷かな

最高点をとったとか…。

辞世は

ほととぎす 我も血を吐く 思ひかな

だと思ってましたが遺書と共に家族にあてた辞世があり

あらし吹く夕べの花ぞ目出たけれ
  散らで過ぐべき世にしあらねば


となっていました
どっちが辞世?

※中島三郎助関係史跡めぐり
中島三郎助まつり
中島三郎助まつり~フタタビ!
ジャック三郎助!!
晴れた!
浦賀☆
海防警備
三浦半島台場の旅
浦賀探訪~つづき☆

~略歴~

(横須賀開国史研究会:横須賀市図書館HP 参照) *また三郎助の父・清司も浦賀の与力で嘉永2年(1849)閏4月、浦賀に現れたイギリス海軍測量船マリナー号に乗り込んだ一人。 この父にして三郎助あり。のような父である。

西暦和暦年齢出来事
1821文政 4年 1月 1浦賀奉行所与力・中島清司の次男として誕生
1827文政10年 1月 7宝蔵院高田流槍術入門
1829文政12年11月 9母と離別
1831天保 2年 1月11田付流砲術入門
宝蔵院高田流槍術目録
1834天保 5年  14天然理心流剣術入門
荻野流砲術入門
1835天保 6年閏7月15浦賀奉行所与力見習勤として出仕(高50俵)
西御丸一番組御徒・岡田定十郎の娘すず(14歳)と結婚
1837天保 8年 6月17米船モリソン号来航
観音崎台場詰
1838天保 9年 3月18浦賀奉行所月番勤務
田付流砲術目録
天然理心流剣術目録
        5月  御徒目付砲術見分の節 すべて命中させ褒美
1839天保10年 3月19三崎役宅勤務
荻野流砲術目録
1841天保12年 4月219月まで番所勤務
北辰一刀流剣術入門
1843天保14年 4月22鳥ヶ崎台場詰 主席
集最流砲術入門
1844弘化元年 1月24北辰一刀流目録
1844      3月  浦賀奉行所月番勤務
        8月  御備場の大砲の仕掛台についての研究を命ぜられる
        10月  荻野流砲術免許皆伝
この年集最流砲術目録
1845弘化 2年 3月25マンハッタン号来航
         5月  浦賀で大砲製作
         10月  高島流砲術入門
1846弘化 3年 1月26田付流砲術免許皆伝
集最流砲術免許皆伝
        閏5月  ビッドル率いるアメリカ東インド艦隊来航 野比沖で警備
         10月  高島流砲術免許皆伝
1847弘化 4年 9月27非常時には奉行所付を命ぜられる
1848弘化 5年 1月28長男・恒太郎出生
1848嘉永元年 3月  武器掛を命ぜられる
        7月  格別出精に付 5人扶持をうける
1849嘉永 2年 4月29吟味掛を命ぜられる
        6月  下田丸を西洋型に改造意見
この年、父清司の跡番代で正式な与力職になる
        12月  異国船応接掛を命ぜられる
1850嘉永 3年 6月30鉄砲製薬掛を命ぜられる
        7月  玉薬製造所並びに御船屋消失
1851嘉永 4年 4月31上記の事件で監督不行届につき押込処分
次男・英次郎出生
1853嘉永 6年 6月33ペリー来航 応接掛として黒船に乗船
         8月  海防に関する上申書提出
         10月  軍艦造船委員(9月鳳凰丸建造開始)
1854嘉永7年 1月34吉田松陰・宮部鼎蔵、中島父子と会う
        1月  ペリー再来 応接掛
         5月  鳳凰丸竣工
        10月  明神崎台場大砲整備
1855安政 2年 2月35鳳凰丸艦長代理
         3月  鳳凰丸 江戸へ回航し幕府重役に検分
伊豆・戸田へヘタ号を見分のため出張
         7月  桂小五郎寄宿
         8月  海軍伝習所へ入所決定
         9月  長崎へ(海軍士官の修行と造船学習得)
1856安政 3年 6月36伝習の儀格別出精に付 褒美
1858安政 5年 2月38咸臨丸で対馬・五島へ航海実習
          5月  長崎伝習所より帰る
          6月  軍艦操練所教授方に
1860安政 7年 1月40咸臨丸アメリカへ出航
1860万延元年 9月  軍艦操練所頭取手伝に
1861文久元年 9月41病気のため頭取手伝を依願免職に
1862文久 2年12月42浦賀奉行所月番勤務
1863文久 3年 1月43将軍上洛御用掛
富士見御宝蔵格軍艦頭取手伝
         2月  海防策に対する上申書提出
         3月  対イギリス戦に備え 亀甲岸御備場詰
         7月  館浦御備場築造普請御用掛
1864元治元年 7月44父清司病死
          9月  大衆帰本塚設立
         12月  富士見御宝蔵格軍艦頭取出役(15人扶持)
1866慶応 2年 2月46軍艦頭取出役依願免職(病気のため)
         3月  岩戸の満願寺へ芭蕉句碑建立
         12月  三郎助引退恒太郎跡番代で与力に
1867慶応 3年 5月47開陽丸へ乗艦 軍艦組出役
         7月  軍艦役並に
         9月  大阪へ
         12月  小十人格軍艦役 朝陽丸で帰府
1868慶応 4年 1月48順動丸で再び大阪へ
両番上席軍艦役
         2月  末男・与曾八出生
         8月  開陽丸で江戸脱出
1868明治元年11月48箱館へ
         12月  箱館奉行並
1869明治2年5月16日49千代ヶ丘砲台で恒太郎・英次郎とともに戦死
1891明治24年  西浦賀愛宕山に招魂碑建立
1897明治30年6月  浦賀ドック設立

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