382957 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ホタテバーガー☆ミ

永井尚志

~永井尚志~

文化13年(1816)11/3~明治24年(1891)7/1
幕臣。外国奉行、軍艦奉行、若年寄など歴任。蝦夷共和国箱館奉行
玄番頭。号介堂(かいどう)

弁天台場で新選組と共に篭城。降伏。

三河国奥殿藩主松平乗尹の庶子として生まれ、旗本永井求馬尚徳の養子となる。
昌平黌で学び、老中阿部正弘に見出され嘉永6年には徒士頭、目付けと進む。安政元年より長崎勤務となり、その間に長崎海軍伝習所の監督に任ぜられる。

 勘定奉行、外国奉行と官を進め、新設された軍艦奉行に就任するが、安政の大獄に連座して罷免。
しかし文久2年に再び軍艦操練所用掛、京都町奉行として出仕。
この頃の京都といえば反幕府勢力が著しく、天誅などという暗殺事件が横行。
京都守護職同様危険の伴う職であったに違いない。
元治元年には大目付となり長州征討の処理にあたり、慶応3年には若年寄格、本役に進む。そして大政奉還の上表文の起草にも携わる。
新選組との縁も浅からず京都を撤退の折二条城警護でもめたとき伏見奉行所へ行かせたのもこの人。

鳥羽伏見の戦いの後免職。
榎本さんたちと江戸を脱走。蝦夷では箱館奉行として治安維持や対外交渉、貿易、裁判のことに当たった。

明治2年5月11日の市街戦で敗走。
新選組、砲兵隊と弁天台場に入り奮戦するが既に海軍の援護もなく、市中を新政府軍に制圧され陸の孤島となった弁天台場には攻撃に持ちこたえるだけの余力はなかった。

5月15日、五稜郭に先立って降伏。
のちに榎本さんたちと共に東京に送られ投獄された。

明治5年放免になったあと、開拓使御用掛などを経て明治8年元老院権大書記官を歴任。
翌年致仕して寺島村に閑居。

明治24年7月永眠。

お墓は荒川区本行寺
円通寺にも碑があります。

~新選組との関係~

土方さんたち浪士組が上洛した当時(文久3年1863)、永井さんは京都東町奉行の要職にありました。
浪士が上洛した当日のことを記した沖田林太郎の留書には以下のようにあります。
 
 御池西へ入東御町永井主水正殿組同心山田豹三郎殿、京地逗留中不自由之儀も有之候節は、同人江願出候へば取扱呉候様相達候、
二月二十三日


江戸から上洛した浪士達に対し、京都に滞在中何か不自由なことがあれば東町奉行所の永井さんの組の同心山田豹三郎に頼めば対処してくれるというお達しがあったという内容です。

また土方さんたちが警護し、信頼を得た中川宮朝彦親王もその日記の中に記している。

 秋月悌次郎依招参る。幕大小目附之内原市之進のかわり致す可き人体も無之、予が勘考には新撰組近藤勇然る可哉、若長防之者上坂之節相対す爲と存候旨噺候処、至極と申し且永井玄蕃に申候へば可行内々咄候也。又同人、予方へ借用之義、肥後守へ内談、暫時幕へやとい、其上予新家故家格も立兼候故、幕へ兼て頼置候辺を以、従幕予へ借候方可然極秘心添候也。
「朝彦親王日記」(慶應三年九月十三日)


原市之進のかわりに近藤さんをどうかって言うことを永井さんに言ったこととかでてきます。

~松本良順との交流~

 安政4年(1857)、長崎海軍伝習所の監督から戻ったとき。
長崎の海軍伝習所でオランダの教授による海軍伝習がはじまった頃、当時は蘭学禁制であったため、外国人による実地の学習がかなわないことを憂いていた良順は、長崎から江戸に帰ってきたばかりの目付永井尚志宅を訪れ、長崎で蘭医学を学べるよう願い出た。
この話を聞いた永井が早速老中の堀田備中守に相談したところ寛容な返事があったので海軍伝習生として行けば良いと言うことになった。
漢方医の妨害を阻止し良順を長崎に行かせて無事に蘭学を学ぶことができた。
 
その後、安政6年(1859)2月伝習の中止命令がだされるたとき、永井は外国奉行、軍艦奉行として直接は長崎の伝習に関わっていないのですが、江戸において幕閣にたいし伝習所の便宜を図っていたと思われます。そして、松本良順のことも、大変気にかけていたようです。

~榎本武揚との関係~
安政2年(1855)長崎海軍伝習所の聴講生として参加した榎本はそこで永井尚志、勝海舟、木村介舟、荒木郁之助、松本良順、松岡盤吉、甲賀源吾と知己を得ます。

何気に共通のお知り合いが多い人。

ところで
息子の永井岩之丞。
1846年(弘化3)-1907年(明治40)
幕臣三好山城守幽雙の二男として生まれ、永井尚志の養子となる。
函館五稜郭で父と共に戦う。
1873年(明治6)司法省十等出仕を命ぜられ、1880年(明治13)5月判事。

高(常陸宍戸藩藩主松平頼徳が側室との間にもうけた娘)との間に生まれた長女・夏子は三島由紀夫の祖母。
夏子は12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えていたという。

その三島由紀夫。
1969年(昭和44)、馬琴原作の歌舞伎台本「椿説弓張月」を主演・8代目松本幸四郎で書いている。

墓所は多磨霊園。
愛刀は「関の孫六(孫六兼元)」

孫六兼元と言うのは、末関の頂点を二分する和泉守兼定(二代目兼定)と共に美濃伝を広めた最大の功労者。
美濃善阿弥派出身。二代目兼元が著名で、永正の頃に初代兼定のもとで修行し、その息子二代目兼定と兄弟の契りを結んだという。

習作時代は兼本と銘を切り、戦国時代に「折れず曲がらずよく斬れる」と
武田信玄・豊臣秀吉・前田利政など錚々たる武将が佩刀し、斬味をもって天下に鳴る名匠である。


Copyright (c) 1997-2019 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.