滝川充太郎~滝川充太郎~伝習隊隊士 鳥羽伏見でも戦ったらしいが良くわからない(笑) はっきりその名前が認識できるのは(私が) 江戸城明渡しの翌日(4/12)、旧幕府の歩兵部隊の多くが江戸を脱走して、国府台に終結。 伝習隊も脱走。 歩兵奉行・大鳥圭介を総督に据え宇都宮に向けて進軍していた彼らのもとに、14日、充太郎が合流。 この頃充太郎は伝習隊大手前大隊(=伝習第一大隊)の頭取だったが、陸軍副総裁藤沢志摩守より「第一大隊 頭」を拝命し、残兵を率いて遅れて国府台に向かうことになった。 しかし、第一大隊の頭はすでに、衆評で推された会津脱藩の秋月登之助が名乗っていたため、「大いに不都合なりしと云う」ことになり、充太郎は第一大隊を出て14日に第二大隊(小川町大隊)に合流・転属。 その後は大鳥さんと戦っていく。 箱館政府内では歩兵頭並となり、第一レジマン(連隊)第一大隊長として箱館守備。 土方さんとも戦っている 二股口の戦闘に箱館から2小隊を率いて途中参加。 ま、応援と言うか交代要員ですな 命令もなしに自ら敵陣に斬り込み奮戦したが、猛反撃を受ける結果となる これに激怒した大川正次郎に責められるが土方さんが仲裁、「大川の理、滝川の勇」を認めて和解。さすがだ~。 5月11日箱館総攻撃では市街戦中に脛に受傷する。 五稜郭に向かう途中に土方さんや大野右仲らと会い、大野に伝習仕官隊の指揮を預け、自身は千代ヶ岡へ退いている 五稜郭降伏後、西南戦争で戦死 弟・規矩次郎(←なんて読むの?)が明治2年5月に滝川家の家督を相続。のち、海軍少将となる。 充太郎の父は滝川播磨守具誉(ともたか) 幕府大目付のあの滝川播磨守ですよ 元治元年(1864)7月19日、禁門の変で発生した火災が六角獄舎まで延焼しそうになり本来ならば解き放ちになる囚人を過激尊攘浪士が多かったため逃亡を恐れ、惨殺してしまった、あの滝川播磨守ですよ また天誅組の処分にかかわったのもこの方。 文久3年(1863)におきた「大和の変」・「生野の変」において捕縛された 平野国臣らは六角獄舎へ送られたが、捕縛した津藩は平野らに同情的で捕縛したものの助命の嘆願書まで送っていたらしい。 その引渡しのときにも滝川に助命を願ったが滝川は聞き入れず、結局六角獄で処刑してしまう。 このときの滝川(=幕府)への不審がのちの鳥羽・伏見の戦いで津藩が寝返る要因になったとも。 鳥羽伏見の戦いのとき津藩へ応援要請に行ったのがこの人だったのは皮肉だったよね。 全然別の人が行ってたら違う結果があったのかしら? この方、 目付、外国奉行、京都町奉行などを経て元治元年(1864)大目付に就任。 慶応3年(1867)薩摩藩による江戸での狼藉を報告すべく西上。 翌年1月の鳥羽伏見の戦いでは淀城にあって幕府軍を指揮するが敗北。その責を問われて免職となり、登城禁止。 この方、というかこの家は小栗上野介忠順と懇意だったらしく、そののちは謹慎した慶喜に従って静岡へ行っている ジャンル別一覧
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