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ホタテバーガー☆ミ

安富才介

~安富才介~(やすとみ さいすけ)

1839(天保10)備中足守藩(現・岡山県岡山市)生まれ。
木下家の家臣、安富正之進の子。
足守で勘定方を任されていたがのち、江戸に召喚されこのとき家族ともども移住したようだ。

1852(嘉永5)父の死により家督を相続し、十二表二人扶持として勘定方に勤務したようだがこの後、いつしか藩籍を離れたらしい。
結婚していたようだが1863年(文久3)妻を亡くしている。

1864年(元治元)新選組入隊。馬術師範 監察方、勘定方
会津新選組副長
箱館では陸軍奉行添役。土方さんの側近

甲陽鎮撫隊として甲州敗退後、五兵衛新田へ。
近藤さんが捕らえられた後新選組主力を率いて会津に直行した。

その後会津では斎藤一の片腕として戦うが斉藤が会津に残った後、仙台で土方さんと合流。箱館へ渡る
渡航後は隊長として新選組を率いて本隊の大鳥隊に附属し五稜郭へ

その後陸軍奉行添役として最期まで付き従う。

明治2年5月11日
一本木関門における土方の最期を看取った隊士として、日野の土方家宛の書簡を立川主税に託した。

一筆啓上つかまつり候。雨天の節に御座候得共、揃われてご安泰、賀し奉り候。しからば土方隊長御義、江戸脱走のとき伝習第一大隊を率い野州宇都宮に戦われ、この後戦のとき手負い、会津でご養生ご全快、同所東方面を司られ後、同所瓦解のとき入城なりかね仙台に落ち、同所大君お逢いこれあり、説刀を贈られ、奥州福島へご出張のはず、また同所国論生通にて止む。
辰十月、榎本和泉守殿と誓い蝦夷に渡られ、陸軍奉行並海陸裁判を司られ後、巳の四月、瓦解のとき二股という処に出張、大勝利。
そのほか数度戦い、松前表街道利なくしてついに引き揚げ、同五月十一日函館瓦解のとき、町はずれ一本木関門にて諸兵隊を指揮遊ばされ、ついに同処にて討死せられ、誠にもって残念至極に存じ奉り候。
拙者義いまだ無事、何の面目やあるべく候。今日至り候様、篭城に軍議あい定まり、いずれも討死の覚悟に御座候。
ついては立川主税義、終始付き添い居り候間、城内を密かに出してその御宅へ右の条々委細御物語いたし候よう致したき存念に御座候。いずれその御宅へ罷り出で候間、左様ご承知くださるべく候。右は城中切迫に取り紛れ、乱筆ご容赦くださるべく候。まずはお知らせのみ、別に貴意を得、かくのごとくに御座候。恐惶謹言。
五月十二日
安富才助 正義(花押)
土方隼人様
なおもって、折角ご自愛お厭い、かつお目に係り申さず候得共、ご物客様方へよろしくご伝言くださるべく候。
隊長討死せられければ
早き瀬に力
足らぬか
下り鮎
   封    五月十六日認

     日野宿脇に而 土方隼人様 貴下
箱館五稜郭内 安富才介


五稜郭開城のときは榎本・松平とともに安富さんも一緒に行っている
官軍への降伏後、東京へ護送される。

同年11月、新政府の命令により足守本国まで藩士数人に護送され、翌12月到着。
実兄宮崎源之助とともに謹慎処分を受ける。

1870(明治3)新政府は罪科を許したが足守藩は依然として才輔を赦さなかった。
帰農を命じ、帯刀や領外へ出ることさえも禁止される。
1871年(明治4)漸く才助の戸籍搭載が認められるも、廃藩置県後足守県が存続するまで才輔の帯刀は許されることはなかったという。

1873年(1873)5月28日足守にて没。
無量院善来宗寿居士

*上記の才輔の手紙は土方歳三資料館にあり。
途中から字が曲がっていて大変な状況を思わせます。

ここに載ってる句は安富さんが書いたものじゃないんじゃないか?
という意見もあり。
隊長のことを「下り鮎」とは言わないだろう。と言うのがその根拠。
では誰が?
となると、土方さん本人では?と言うことで
これが辞世の句だと言う人もあり。

多分こんな感じでは?って程度の書き下し分なのでご容赦を。

岡山県岡山市足守田上寺墓地

参考・足立史談第486号 あさくら ゆう


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