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ホタテバーガー☆ミ

文久4年(1864)元治元年

文久4年(1864)元治元年 30歳

旧暦新暦天気出来事
1.2 2.9 晴曇家茂海路にて再上京、警護のため下坂。八日まで安治川河口西九条付近を警備。
1.6 2.13  家茂天保山沖に着く
1.8 2.15大坂城に入る将軍家茂を大坂で迎え天満橋まで警護
1.10 2.17  平忠右衛門(祖母の実家)・平作兵衛宛に手紙を書く。(布陣図)ただし代筆
1.14 2.21曇雨将軍警護先陣として明け方大阪を出発し船で淀川を進み伏見着、伏見城裏の守護にあたる(伏見奉行所か?)
1.15 2.22薄曇家茂を護衛し入京、二条城に入る。壬生に帰陣する
この頃    大阪北船場高麗橋筋の呉服商・岩城升屋九右衛門に浪士乱入し近藤・土方・山南が追い払ったが、そこに今橋の両替商・鴻池善右衛門方からの使者が訪れ「浪士が金策に来たため」助けを求める。土方・山南が向かい山南が討ち取ったが摂州住人赤心沖光作の刀を折る。山南左腕重症?
1.17 2.24  富沢の主人筋、旗本の天野雅次郎が将軍警衛の上洛に伴い上京する。
1.21 2.28  御所に参内する家茂公の警備をする。
1.27 3.5   御所に参内する家茂公の警備をする。
2.1 3.8   早朝、会津藩と新選組誹謗の高札が四条橋東橋詰南側に立つ
2.2 3.9 沖田、井上と共に、壬生を訪れた富沢政恕(多摩連光寺村の名主。忠右衛門。兄弟子にも当たる)と面談、酒宴。山南欠席(怪我のため?)
2.3 3.10  近藤、富沢の宿を訪ねる。
2.4 3.11  新選組、松平容保候に招かれ前年8月の政変出動の恩賞金を下される
2.6 3.13  夜、五条大橋付近で酒によって乱暴を働く武州人2名を捕縛
2.8 3.15  富沢、新選組に出向いて武州人を引き取り京都から放逐する。
2.9 3.16  沖田、井上と共に富沢の宿を訪ねるが不在
2.11 3.18西国諸藩に出兵準備を命じ征長軍の総督に紀州徳川茂承が将軍の名代となる。松平容保候、京都守護職を解かれその副将となるが実際の出陣は無かった。 富沢が壬生に出向く
2.20 3.27   【元治元年(1864)】 この日改元して元治となる
2月    この頃、勇、容保候に薦められ温泉療養(有馬あたりか? 7~8日間程)
2.21 3.28長州討伐のため会津藩は征長軍副将の軍事総裁職に任じられ、代わって守護職には越前藩主松平春獄が就任するが新選組はその配下を拒否。
2.25 4.1   松平春獄京都守護職就任するが新選組は容保候の配下に転属を願い出る
2.26 4.2   新選組隊士7,8名、大阪屋で遊興中の武士1名、左官職人2名を捕縛し屯所へ連行する。
3月    一橋慶喜、自らの希望で将軍後見職を辞し禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮となる
3.3 4.8   京都所司代稲葉長門守正邦より、新選組は従前通り松平肥後守支配との達しを受ける。この日、井上と共に富沢を訪ね、清水寺に参拝してから祇園藤屋で酒宴を開く
3.5 4.10  近藤、沖田、藤堂、井上と共に富沢を誘い、島原の木津屋で酒宴「桃花の宴」
3.11 4.16  近藤、沖田、藤堂、井上、武田と共に富沢を誘い、花見の宴
3.19 4.24  会津藩の御用状に新選組が松平春獄暗殺を計画との風説が記される。
3.23 4.28薄曇雨幕府は諸藩兵の市中巡邏を廃止し市中警備を京都守護職・新選組・京都町奉行所に任せることにした
3.27 5.2   天狗党筑波山挙兵事件
3月中    新選組、長州人医師の倅を捕縛。
4.6 5.11  岡山に潜入していた新選組の密偵松山幾之助、岡元太郎ら四人に斬殺され、一本松の御成橋に梟首される 佐田介石ら5人が隊名を騙り金策をしたため捕縛
4.7 5.12  再び松平容保京都守護職に、松平定敬が京都所司代に就任。
4.11 5.16  富沢の帰府に先立ち近藤、沖田、井上らと島原の千紅万紫楼で送別会を開く。富澤さんとは宴ばっかりだな。
4.12 5.17  彦五郎宛の鉢金添状、彦五郎、土方為三郎宛に手紙を記す。「いつ戦死しても悔いの無い覚悟」を記したもの。「皇朝より御手渡しのご直筆」を写して取っておいてって手紙。
4.13 5.18曇晴前日の手紙と、8.18の政変時等に着用した鉢金、朝廷から下賜された書状、日記帳(!)などを日野佐藤家宛に富沢に託し、井上と共に出立を伏見まで見送る
4.22 5.27  松原通木屋町で出火、出動の際不審な武士を捕縛。長州人250人が京都潜入している事を知る。探索が本格的に始まる
4.26 5.31  京都見廻組、江戸で結成される。 市中の民家に夜間の木戸門の戸締りや警戒の徹底を奨励し、不審人物を見かけたときは即座に尋問し、乱暴したり、手に余る場合は打ち殺してもかまわないという町触れが出される。
5.1 6.4   家茂参内し横浜鎖港と長州処分を寛大に行う事を誓約し東帰を決める。これは朝幕双方合意の下に攘夷を行う事が決定されたという事。
5.3 6.6 家茂の上洛に公武合体の実現を期待したが、見通しのないまま家茂の江戸引き上げで、勇は新選組を代表して幕府老中(姫路藩主酒井雅楽頭)に建白書を提出、新選組の進退をも伺う
5.7 6.10曇雨家茂下坂のため道中警護、数日大坂に滞在
5.14 6.17  見廻組から会津藩を通して欠員補充のため新選組隊士の参加を希望してくる。9日に帰着した富沢、日野の彦五郎宅へ託された品々を届ける。
5.16 6.19家茂帰東、安治川河口で見送り新選組帰陣
5.20 6.23土方、島田、沖田、原田、永倉、井上、大坂西町奉行所与力内山彦次郎を大坂天満橋で殺害(?)新選組の仕業と伝えられるも土佐中島作太郎らの所業とも。この夜、近藤勇京都において小島鹿之助と中島三郎兵衛宛二通の書簡を認める
5月    この頃、局中男色流行。隊士が集団で脱走(実は密偵として町中に潜入?) 近藤、谷周平を養子に迎える
5月下旬    探索に当たっていた島田、浅野、山崎、川島ら四条小橋の薪炭商枡屋喜右衛門が徴収藩士古高俊太郎であることを突き止める
6.1 7.4   肥後宮部鼎蔵の僕忠蔵、南禅寺塔頭天授庵の肥後宿舎に入るところを新選組に捕らえられ南禅寺の山門に晒される。山崎烝、島田魁、川島勝司、浅野藤太郎ら探索方奔走
6.4 7.7 捕縛した長州藩士3名から浪士が多数京都・伏見・大阪に潜伏し鞍馬口への放火計画があることが判明する
6.5 7.8 早朝曇雨早朝、四条西木屋町の枡屋喜右衛門方を捜査連行、武器弾薬多数押収。その後枡屋の土蔵が破られ武器などが奪取される。この夜密議が行われることを古高俊太郎から拷問により探知「六月二十日前後の烈風の日に御所の風上に火を放ち参内する中川宮や松平容保など反長州系の公家と大名を排訴し天皇を長州へ動座する。」決行は7日祇園祭当日を予定。「池田屋事件」
会津藩との約束は夜五つ(8:50頃)
近藤隊10名は鴨川の西岸を土方隊24名は東岸を探索しながら北上、午後10時ごろ近藤隊池田屋到着。土方隊11:30頃到着。激闘約2時間7名討ち取り4人傷23名召捕り。肥後宮部鼎蔵、松田重助、播州大高又次郎、長州吉田稔麿、土佐望月亀弥太、北添佶摩ら。桂は逃亡
新選組は死亡奥沢栄助、、新田革左衛門、安藤早太郎
隊士編成
局長:近藤勇
総長:山南敬介
副長:土方歳三
副長助勤:沖田、永倉、原田、藤堂、井上、斉藤、尾形、松原、安藤、武田、谷三十郎
諸士調役兼監察:島田、川島、林、山崎、浅野
勘定役:河合、酒井、尾関
平隊士:約20名
この時容保候体調不良に苦しみ起きられない状態だった。
6.6 7.9 近隣の探索や死傷等の確認の後、昼頃壬生屯所に凱旋
再び市中巡察に出動。一隊は縄手から祇園を通過し知恩院に程近い真葛が原で休息。会津藩が捕らえた志士の身柄移送の警備に付いた隊士もいた。 武田、土佐の大秋鼎(大利鼎吉)を捕縛。祇園で薩人を誤認捕縛するなどして帰営。会津藩より応援の隊士柴司ら7名派遣される。
6.7 7.10  去る5.14、見廻組から要請のあった新選組隊士の譲渡移籍を断る 会津藩、見廻組の召抱えに謝絶の返書を送る。会津藩より500両の恩賞金と薬種料として負傷者へ20両の慰労金を下賜される。
6.8 7.11  池田屋騒動の報復で長州浪士の切斬り込みありとの風聞しきりで、屯所の表裏警備に万全を配す。近藤、池田屋騒動の顛末を郷里へ報ず。 幕府より500両、朝廷より100両下される。録位を与える内示が下るがのち辞退。
6.9 7.12  会津藩に加勢を要請した結果20名余りの手勢応援に参じる
6.10 7.13「明保野亭事件」会津応援の柴司、清水産寧坂の明保野亭に長州浪士を襲撃で手傷を負わせるも土佐藩士麻田時太郎と判明困惑する
6.11 7.14薄曇麻田時太郎、土佐藩邸において切腹する
6.12 7.15麻田の加害者柴司、責任をとって自決する。享年21。
6.13 7.16夕立柴司の葬儀に土方、井上、武田、河合、浅野ら参列、一同落涙。黒谷へ出向く。武田と浅野が弔歌を詠む
6.14 7.17  長州藩に池田屋事変の一報届く。藩主毛利敬親はただちに出兵を命じ翌日から藩兵が続々と京都に向った。来島又兵衛、福原越後、久坂玄瑞、真木和泉、国司信濃、益田右衛門など
6.16 7.17  長州藩に池田屋事変の一報届く。藩主毛利敬親はただちに出兵を命じ翌日から藩兵が続々と京都に向った。来島又兵衛、福原越後、久坂玄瑞、真木和泉、国司信濃、益田右衛門など
6.20 7.23  彦五郎宛に近藤に両番頭次席の格が与えられる旨の手紙を記すが幕臣取立てを断る
6.21 7.24会津藩から六条西本願寺辺に潜伏の西国浪士多数有りとの情報を得て、本願寺の探索を行う。次の日屯所に戻る。 長州藩久坂玄瑞、真木和泉率いる長州軍大阪上陸し伏見周辺に布陣
6.23 7.26  深夜、新選組、東本願寺にて休息。
6.24 7.27薄曇新選組に出動命令。長州藩兵の上洛に備えて守護職、所司代と共に竹田街道九条河原に出陣し銭取橋付近に陣を敷く。
6.25 7.28  長州藩山崎天王寺に陣を張る。福原越後らぞくぞくと合流。
6.27 7.30酷暑。東寺に近い四ツ塚に移陣したが翌日加茂川九条河原に戻る
7月    土佐藩主山内容堂、武市半平太の釈放を要求した同志23名を謀反とみなして斬首。
7.2 8.3   探索方川島勝司、嵯峨天龍寺の長州藩陣地を偵察。 歳三、 彦五郎宛に九条河原より手紙を記す。「一戦の上、命これあり候わば、委細申し上げ奉るべく候」
7.3 8.4   「小島政則聴書」に近藤は養女迄致し候由、十三歳位の趣也の記載有。周平の事が間違って伝わったのか?それとも養女をもらったのか?それが総司に懸想した女の人といわれている人なのか?
7.7 8.8   岡山藩偵察に出張の隊士松山幾之介、城下で捕らえられ殺害さる
7.8 8.9   長州の捕虜から長州情勢を入手、守護職へ報告
7.11 8.12夕立幕府は伏見に布陣する長州藩家老国司信濃(くにししなの)に撤退勧告を出すが拒絶される。 孝明天皇の安全のため彦根遷都を画策していた佐久間象山三条小橋辺で肥後の河上彦斉に殺害される。これにより計画は頓挫。
7.13 8.14  池田屋惣兵衛、六角牢で獄死
7.16 8.17  佐久間象山息恪次郎、会津藩山本覚馬の紹介により仇討ちのため新選組食客となる。名を三浦啓之助と改める
7.17 8.18新選組、長州藩への態度が優柔不断な一橋慶喜の宿舎に乱入しようとして会津藩士に諭される。 象山の息子佐久間恪二郎、会津藩士・山本覚馬の紹介で入隊。三浦啓之助と改める
7.18 8.19長州の入江九一・浜中太郎、新選組誹謗の高札を立てる。 長州藩、会津藩討伐を名目に京都市中への進軍を開始。新選組は伏見の長州藩邸へ焼き討ちをかける準備中伏見方面で大砲の音を聞き、伏見へ向かう。伏見関門で長州藩家老福原越後隊と戦闘。長州藩兵敗走に新選組単独で進軍、伏見稲荷から墨染めまで追撃。
7.19 8.20禁門の変(蛤御門の変)。長州藩進軍して御所へ向かう。勢力回復のため藩主父子の雪冤、尊攘派七卿の赦免を願ったが不許可となる。
新選組、九条河原より出陣。銭取橋を守備する。御所方面での砲声に堺町御門まで駆けつける。すでに大勢は決していたが鷹司邸に潜む20人ほどの長州兵と小戦を行い撃ち破る。堺町御門で会津藩と連動して日野邸で残党狩り、後刻天龍寺へ廻戦する。蛤御門にて長州久坂ら自刃。
堺町御門において新選組、会津藩と連動し長州藩兵を挟み撃ちにする。
火災による逃亡を恐れた幕吏によって六角牢に投獄された古高ら殺害される。あとでこれを知った容保候はこの暴挙に驚き滝川を呼びつけて叱り飛ばす。
兵火により京都市外の三分の二焦土と化す。永倉、原田負傷
7.20 8.21山崎天王山に屯集する真木和泉追捕に向かい、伏見に宿陣
7.21 8.22早朝、伏見を出立して橋本から船で渡り近藤・永倉・斉藤は天王山を目指す。真木和泉ら17士天王山山頂においてそれぞれ自刃する。もう一隊は土方・原田・藤堂・井上・浅野・武田・山崎・島田・林・尾関・川島らが会津藩兵らと山下を固め諸隊は神社を焼き払う。新選組、橋本まで引き上げる。一部は大坂警護のため枚方より下坂
7.22 8.23  市中で残党狩り。大坂の長州屋敷を焼き打ち。安藤早太郎、月末には新田革左衛門(池田屋手負)死す
7.23 8.24  長州討伐の許可が朝廷より下りる。総督一橋慶喜、副総督越前前藩主松平慶永。しかし幕府は将軍自らが長州征伐に当たることを声明し、総督に尾張候徳川慶勝(容保の兄)副総督に松平茂昭(越前藩主)を任じる。 容保候、江戸幕府に建議書を送るが返事なし 新選組、高槻昆陽宿の残党狩りで長州兵の銃、弾薬を押収する。25日になって市中探索後壬生に帰る
不明    この頃近藤増長。永倉ら6名(原田、島田、斉藤、葛山、尾関雅次郎)容保候に建白書を提出。近藤の非を五箇条に渡って列挙し一条でも申し開きできない場合切腹を仰せ付けて欲しいとする過激なものだった。容保候は6名を宥め近藤との仲を取り持ち一同和解。8月下旬説有
7.21    孝明帝、慶喜を呼び長州征討を命じ「長州朝敵」となり会津藩は苦境を脱する
7.24 8.25  第一次長州征伐開始
7.26 8.27  江戸・京洛の長州藩邸没収
7.27 8.28  容保候、越前の松平慶永に上京を促し現状の打破を願って書を送るも慶永は立たず。
8.2 9.2   幕府は幕府なりの長州討伐の配置を慶喜に命令 容保候、19日、9/17、10/29家臣公用人らを東下させ将軍家茂の上洛を懇請。
この頃容保候無理がたたって体調を崩し在京家老にまかせる。
8.3 9.3   松本喜次郎、河合耆三郎、長州兵による摂津高浜村の被害を調査する。
8.4 9.4   池田屋事変の戦功によって幕府より恩賞を受ける 高浜村より被害無しとの報告が届く
8.5 9.5   長州征伐の総督に徳川茂承を命じる 四国連合艦隊下関砲撃。これにより長州は保守派が政権を握り攘夷を放棄し、幕府に降伏を申し出るが攘夷は朝廷と幕府の命によるものとして責任は幕府にあると主張
8.19 9.19  会津並びに新選組の武功に対し、幕府より賞状下さる。
小島・橋本宛に手紙を書く。
8.20 9.20  上洛していた宮川粂二郎(勇の兄)京都を出立。この時手紙を託す。関西に出張予定のある山口近江守(小野地村の地頭)に京都に寄って欲しいって書いたやつ。
9.5 10.1 禁門の変の際に西本願寺侍臣らと長州兵に合流しようとしていた、剣客斉藤弥九郎の義弟ら5人を捕縛。 近藤、永倉、武田、尾形と共に江戸へ出立。 山口近江守、壬生を訪れる。
9.6 10.2   小島鹿之助、橋本本家、橋本分家宛に手紙を記す
9.7 10.3   近藤勇、永倉、尾形、武田の四人東帰。彼らに先立って藤堂、江戸において伊東甲子太郎を新選組に勧誘、勇らは老中訪問して長州討征将軍の上洛運動を懇願、その間御典医松本良順を訪問、更に隊士の募集をする。歳三が局長代理
9.9 10.5 葛山武八郎を切腹させる
9.1010.6   長州同調者による投げ文等の犯人を探索し、鷹司家家臣水口貢と商人東一郎を捕縛。
9.1210.8   三浦敬之助、義母に手紙を送る(近藤、土方、ごく親切)
9.1510.11  近藤ら江戸着(9日到着?どちらにしてもすごい速さ)
9.1610.12  近藤一行、会津藩邸に赴く 勝海舟宛に三浦敬之助のことで手紙を記す。ただし代筆
9.2110.17  小島鹿之助、近藤と面談。 土方、上溝村焼失のお見舞い状を送る。
9.2210.18  長州藩の賠償肩代わりを幕府が承認。これにより幕府が攘夷を撤廃した事を意味する。
9.2510.21  土方、小島鹿之助に手紙を記す。前年の冬上溝村での大火見舞い。ここでもこの前送った恋文見てね。って書いている
9.3010.23  土方、浅野薫とともに、松代藩北沢正誠を訪れ三浦を松代藩への帰藩させるよう遊説する。これは松平定敬が佐久間家の家名復興を望んだ結果らしい(23日とも)
10初    松代藩士、三浦に会い帰藩を勧めるも聞き入れず
10.5 10.30  近藤、日野の佐藤家に赴く。
池田屋騒動に参戦した篠塚峰三、旧主からの申し入れによって離隊
10.711.2   この頃壬生墓地に芹沢らの立派な墓を建てる 勇留守の壬生屯所に多摩から上洛した入隊希望の松本(木)元太郎と小林重太郎の二人に土方歳三困惑の態、丁重に断る。
10.9 11.4   彦五郎・近藤宛に手紙を書く。篠塚のこと、松本・小林の事
10.1111.6   近藤、神田和泉橋医学所に松本良順を訪問
10.1211.8   勇、彦五郎宛手紙を記す
10.1411.10  近藤、神田和泉橋医学所に松本良順を訪問
10.1511.11  朝廷より総督を副総督に天皇の権能代行の印である節刀を賜り、ようやく征長軍は大阪を立ち広島と小倉に向かい11月下旬に長州を包囲。
近藤会津藩に上書を提出し禄位を辞退することを申し出る?
10.2711.13  近藤、松本良順を再訪。胃薬を調合される。
11.1 11.14  近藤ら新入隊士(伊東ら)を募って江戸出発。(相馬、野村、中島、横倉、安富入隊)
11.5 11.18  深夜「天誅組」中山忠光、長州俗論派により暗殺。忠光の姉慶子は祐宮(明治天皇)の生母
11.1611.26  近藤、伊東らを伴い京都に戻る
11.1712.15  歳三、武州に愛用の鉄扇を送る。 征長軍総督徳川慶勝は大阪を発す。
11.2112.19  このころ会津藩内(京都、江戸、会津)で深刻な対立が生じる。特に公用方に批判が集中。これは江戸や会津が幕府、京都が朝廷を対象に忠誠を尽くしていたから。
11.2712.14  近藤、大阪の三橋楼に加賀屋を呼びつけ、問屋筋36軒より15万両の献金を申し付ける。 征長軍総督徳川慶勝、広島に陣を布く。副総督の松平茂昭も九州小倉に出陣。18日に長州総攻撃を予定。
11月    近藤、小原銀蔵、会津藩邸を訪問する。 蛤御門の戦いにより、幕府から戦功論賞を受ける
12.1 12.29  加賀屋問屋筋、谷三十郎に献金の日延べを願い出る。
12.2 12.30  四条大橋たもとの南座において「仮名手本忠臣蔵」を上演中酔った新選組隊士が劇場内に乱入し狼藉三昧。二階にいた藤堂平助が騒ぎを鎮めた。
12.5 1.2   甲子太郎ら、京都着
12月    新選組50名、瀬田へ出張
      幕府と長州の和約成立。このことが幕府に過剰な自信となる。江戸と京都との考えがますます食い違い会津、薩摩、幕府に失望する。 長州、自藩の軍に一切の援助を禁止するが、怒った高杉晋作らに武力で政権を奪取される。薩摩、長州に肩入れし始め武器の調達に力を貸すようになる。
      大坂鴻池等22人から6600貫の銀(71000両)余りを借り受ける 五条坂に潜伏中の浪士11名捕縛。
      隊士編成
局長:近藤勇
副長:土方歳三
組頭 1番:沖田総司 2番:伊東甲子太郎 3番:井上源三郎 4番:斎藤一 5番:尾形俊太郎 6番:武田観柳斉 7番:松原忠司 8番:谷三十郎
小荷駄雑具方:原田佐之助 諸役:8名
              平隊士:39名
軍中法度
1、役所を堅くあい守り、式法を乱すべからず。進退組頭の下知に随うべき事
1、敵味方、強弱の批評一切停止の事。付、奇矯妖怪不思議の説を申すべからず。
1、食物一切美味禁制の事。
1、昼夜に限らず急変これあり候とも、決して騒動いたすべからず。心静かに身を堅め下知を待つべき事。
1、私の遺恨ありとも、陣中において喧嘩口論つかまつるまじき事。
1、出勢前に兵糧を食い、鎧一締めして槍大刀の目釘心付くべき事。
1、組頭討死におよび候とき、その組衆その場において戦死を遂ぐべし。もし臆病を構え、その虎口逃れ来る輩これあるにおいては、斬罪、微罪、その品に随いてこれ申し渡すべく候。かねて覚悟、未練の働きこれなきよう、あい嗜むべき事。
1、烈しき虎口において組頭のほか、屍骸引く退くことなさず。始終その場を逃げず忠義を抽ずべき事。
1、合戦勝利後、乱取禁制なり。その御下知これあるにおいては、定式のごとく御法を守るべき事。
行軍録作成。

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