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ホタテバーガー☆ミ

慶応2年(1866)

慶応2年(1866)32歳

旧暦新暦天気出来事
1.3 2.17  土方、沖田に代筆させて佐藤芳三郎(日野のもう一人の名主)、土方隼人(家督を継いだ策介)、土方伊十郎(ナカの実家の当主)に年賀状を送る
1.21 3.7   薩長同盟成立「長州藩の復権と一会桑がそれをさえぎるときは戦う」為の同盟
1.24 3.10  近藤、松平容保候より再度の広島出張を下命される
1.26 3.12  近藤ら永井らにつき再び広島へ行くことが決定
1.28 3.14  近藤芸州再出張。伊東甲子太郎、尾形俊太郎、篠原泰之進の4人、永井らに先立って広島へ出張。彼らの影となって、山崎烝、吉村貫一郎も探索方として広島へ出張。歳三再び局長代理
1月    一会桑と老中板倉勝静、小笠原長行との間で決めた長州処分案を朝廷に提示し勅許を得る。
2月    土方、彦五郎に手紙を書く。大石が東下する事、刀を預ける事。
2.2 3.18  新選組公金50両紛失が発覚し、河合謹慎
2.3 3.19  近藤一行広島に入る
2.4 3.20  老中唐津藩主小笠原長行長州に処分を伝え執行するために広島へ出立
2.5 3.21大石鍬次郎、芸藩某と口論の末斬殺、時同じくして鍬次郎弟造酒蔵、祇園において今井祐二郎に殺害される
2.6 3.22  西郷隆盛、一会桑に加え朝廷、二条関白・中川宮・武家伝奏・議奏を強く批判する。
2.12 3.28勘定方河合耆三郎、切腹に処す
2.18 4.3   小川信太郎切腹
2月    新選組隊士、奈良に出張
3月    小笠原長行らなんの成果もなく帰京。
3.12 4.24夜、近藤帰京。伊東とは別行動。(歳三の手紙・先生過12日夜、御帰京被遊・・・)
3.27 5.11  伊東、篠原、広島出張から帰る
旧 3.29 5.13夕雷雨宮川音五郎・粂次郎兄弟と近藤つねに手紙を記す。近藤が無事に広島から帰ってきたことの報告など
4.1 5.15谷三十郎、祇園石段下において殺害される
大石鍬次郎供一人つれて日野へ。彦五郎に家督相続の相談をする。土方より刀一腰を送ってきたので代金15両を鍬次郎に託す。3日に帰る
4.2 5.16  朝彦親王、二月の奈良出張に対し晒30枚を下す。
5月    隊士数、133名
6.5 7.16  征長軍出兵布告も芸州藩・薩摩藩はこれを拒絶
6.7 7.18  長州再征「四境戦争」
6.10 7.21  柴田彦三郎、脱走
6.15 7.26  柴田の脱走を追って、内海次郎、近藤芳助、松本喜次郎、三井丑之助、出石に向かう
6.19 7.30  出石藩の役人、柴田彦三郎を捕らえて、内海ら新選組の追手に引き渡す
6.23 8.3   柴田彦三郎切腹
6末    広島出張中の山崎、吉村の両人から小瀬川の戦い等についての報告書届く。
7.5 8.14  勝海舟より近藤土方へ格次郎の世話のお礼でお金を送る
7.16 8.25  彦五郎、京都本願寺の近藤へ手紙を出す
幕臣志賀又四郎、新選組を市中警備から除外する事を建言する
7.20 8.29  14代将軍家茂大阪城にて逝去(21)
慶喜、自ら幕府軍の指揮者として出陣を宣言するが、小笠原長行の逃亡、九州諸藩の勝手な戦線離脱などにより出陣を中止、一方的に休戦を発表する形で第二次長州戦争は幕府軍の敗北に終わる
7.25 9.3   幕府から新選組、見廻組に対し、警備地域の割付が達せられる
7.27 9.5   一橋慶喜、徳川15代の継嗣、征長総督名代を承認。将軍職は辞退
8.8 9.16  慶喜、節刀拝受(天皇名代の証)直後に「防長を忽ち恭順させてみせる」と豪語
8.11 9.19  慶喜、九州小倉口敗戦の報届くや翌日の出陣を中止し解兵を言い出す
8.14 9.22  二条関白、慶喜に対し激しい不満をぶつける。さらに幕臣、会津藩にとってもこれは手酷い裏切りに他ならない
8.21 9.29  慶喜、将軍死去を理由にして休戦の沙汰書を出させてしまう
8.22 9.30  長州征伐が停止
8.2910.7   土佐中井庄五郎ら三条の制札(長州藩朝敵とする旨)を加茂川に投げ込む
8月    土方、平作平に手紙を記す。6月に起きた百姓一揆を鎮圧した事を慰労したり、長州出陣が叶わなかった事を伝えている
9.3 10.11  山崎、吉村の広島での活動が伝えられる。
9.4 10.12  中川宮、国事扶助職の辞意表明する
9.5 10.13  再度制札が投げ捨てられる
9.8 10.16  武田観柳斎暗殺?
9.1210.20三条大橋制札事件に原田左之助、新井忠雄らが出動、土佐藩士八名と乱闘、土佐の藤崎吉五郎を斬殺、宮川助五郎を捕縛
9.1310.21  安藤鎌次、重傷を負って自刃
9.1410.22  御書院番(見廻組隊士?)大沢源次郎謀反を図り、一橋家臣(陸軍奉行支配調役)渋沢栄一と土方ら5~6人と共に大徳寺へ捕縛に向かう。大沢は陸軍奉行の支配なので町奉行所は手が出せないが手練なので新選組に協力依頼が来た。(11月説有)
9.1510.23  伊東甲子太郎、篠原泰之進、名古屋へ出張
9.1810.24曇雨近藤、京都所司代邸を訪問し宮川の助命を申し出る
9.1910.27去る12日の三条制札事件の和解のために土佐藩から、近藤、土方、吉村貫一郎、鈴木三樹三郎、伊東甲子太郎が祇園に招かれる
9.2511.2   伊東、篠原、名古屋より戻る
9.2611.3   醒ケ井木津屋橋の近藤妾宅(私邸)で、伊東、篠原と時局について激論を交わす
9.2711.4   前日に引き続き、伊東、近藤激論する
9.2811.5   武田観柳斎、この日に斬られた、とも(?)刺客は斉藤、篠原とも言う
10.6 11.12  老中小笠原長行、御役御免となる
10.7 11.13  市橋鎌吉没
10.1711.23  容保候、京都守護職の辞職を申請する。これにより朝廷と一会桑との強い結びつきの支配が崩壊する。
10月    新選組、島田の名前で富永村の元右衛門より500両借用する
10月    土方ら隊士数名、元見廻組の大沢源次郎を捕らえる
10月    薩摩藩論を変更、朝廷を通さず直接慶喜と相談するようになり、幕薩間に融和関係が築かれる
11.1 12.7   日野の彦五郎、長屋へ稽古場を補理し稽古始。
12.5 1.10  一橋慶喜、十五代将軍となる
12.11 1.16  内侍所で神楽が行われる。孝明帝風邪気味なのに出席して夜遅くまで過ごす
12.15 1.20  孝明帝、発疹が始まる。
朝彦親王、中村左馬を遣いとして新選組へ銀20枚下賜
12.17 1.22  孝明帝の典医15名、病名「疱瘡」と診断。このあと快方に向かう。
12.20 1.25  三条制札事件の恩賞下る
12.24 1.26  孝明帝、夜半に容態が急変。発熱・吐き気・下痢が起き重態。
12.25 1.30  孝明天皇崩御す。36歳(29日辰の刻に発表される)容保候倒れる
日付不詳    川嶋勝司、酒井兵庫、浅野薫ら局の手で斬られる

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