旧暦 | 新暦 | 天気 | 出来事 |
1.1 | 2.5 | 曇晴 | 伊東甲子太郎ら永倉新八、斎藤一らと島原に居続ける |
1.4 | 2.8 | 晴 | 島原角屋より帰隊した永倉らに激怒、謹慎を申し付ける |
1月 | | | 近藤は1864.8の批判事件以来永倉に含むところがあったので切腹させようとするが土方がこれを止める |
1.6 | 2.10 | | 土方、橋本本家、分家、小島鹿之助宛に年賀状を記す。主上ご崩去で悲嘆し新年のお祝いはしない内容。漢詩が添えられている |
1.7 | 2.11 | 雨曇 | 沖田総司、永倉新八、斎藤一(?)ら四条大橋で、土佐の中井庄五郎や片岡源馬と衝突する |
1.9 | 2.13 | | 明治天皇即位 |
1.10 | 2.14 | | 田内知士道不覚悟により切腹 |
1.18 | 2.22 | 春雨 | 伊東甲子太郎、新井忠雄九州遊説の旅に出る |
1.28 | 3.4 | | 新選組、孝明天皇の埋葬に幕府歩兵・会津・桑名藩兵と共に御車の警備にあたる |
1月下旬 | | | 慶喜、フランス公使ロッシュ等と接触を図り始める |
2.2 | 3.7 | | 伊東、太宰府で中岡慎太郎(土佐)らに会う |
2.4 | 3.9 | | 伊東、真木外記に面談、新選組分離を語る |
2.6 | 3.11 | | 伊東、別行動の新井と合流するがスパイ容疑をかけられ肥後周旋が失敗したと聞かされる |
2.12 | 3.17 | | 松平容保候、幕府に辞表を提出するが慶喜に引き止められ叶わず |
2.19 | 3.24 | | 島田魁、大隈守広光に脇差を注文する |
2月 | | | 総司、労咳を発病 |
3.5 | 4.9 | | 慶喜、独断で兵庫開港の勅許を朝廷に奏請する。これが雄藩(特に薩摩)の反発を買う。 |
3.10 | 4.14 | 雨曇 | 伊東、鈴木、篠原ら山陸奉行戸田大和守忠至に属して、御陵衛士を拝命 |
3.12 | 4.16 | 晴 | 甲子太郎ら九州遊説より帰る |
3.13 | 4.17 | 晴曇 | 伊東ら近藤・土方と分離の談合を持つ。このとき永倉・斉藤を拝借したいと申し入れ、近藤、斉藤を連れて行くように快諾。 |
3.15 | 4.19 | | 伊東ら京都町奉行の大久保主膳正、会津公用方の村左兵衛に分離の事情を説明、了承を得る |
3.16 | 4.20 | 晴 | 近藤と共に伊東と分離受諾の酒宴を開く |
3.20 | 4.24 | 晴 | 御陵衛士として伊東、鈴木、篠原、加納、新井、毛内、阿部、服部、藤堂、富山、橋本、内海、中西、佐原、斎藤、清原、江田ら新選組屯所を出て三条城安寺に移る |
3.21 | 4.25 | | 伊東ら御陵衛士たちは宿舎を五条東詰善立寺に移す |
3下旬~4 | | | 慶喜、英・蘭・仏・米四国代表と正式な謁見を行う。 |
4.14 | 5.17 | | 剣術師範田中寅三勤王思想激しく、脱走 |
4.15 | 5.18 | | 田中寅蔵、寺町本満寺に潜伏中を発見され屯所に連行、切腹 |
4.19 | 5.22 | | 山崎烝、中山忠能(ただやす)を訪問 |
4.26 | 5.29 | | 沖田氏縁者光縁寺に埋葬する |
4.29 | 6.1 | | 矢口健一郎没 |
4月 | | | 島田、堀川弾正大忠より10両借用 |
5.11 | 6.13 | | 新井忠雄、太宰府に到り真木外記に会い、新選組分離を報ずる |
5.21 | 6.23 | | 西郷、中岡、乾退助と会談、武力倒幕を決める。薩土密約 |
| | | このころから江戸の薩摩藩邸に尊攘激派500人以上が集結し幕府を挑発するため放火や強盗を働き始める。当時江戸の市中取締りは出羽庄内藩とそのお預かり新徴組 |
5.24 | 6.26 | | 山崎、尾形、吉村と共に近藤の建白書(草案)を持参し、柳原前光(さきみつ)、正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねねる)を訪れる。
長州処分問題、兵庫開港問題での幕薩の対立が激しくなり、慶喜は長州藩の寛大な処分と兵庫開港の勅許を勝ち取る。これは朝廷の主導権の掌握に成功した事を意味する
|
5.25 | 6.27 | | 新選組、京の医師曲真瀬(まなせ)道策を大阪において殺害 |
5.26 | 6.28 | | 薩摩、土佐、越前、宇和島の四候慶喜の政策を批判の建白書を朝廷に提出 |
5.27 | 6.29 | | 土佐中岡慎太郎、乾退助・谷守部(干城)を薩摩の西郷吉之助、小松帯刀らに紹介し「薩土盟約」を結ばせる。 |
6月 | | | 竜馬と中岡の仲介により後藤象二郎、西郷隆盛らが協力して倒幕を目指す「薩土盟約」がつくられる |
6.8 | 7.9 | | 伊東ら高台寺塔頭月真院に移る |
6.10 | 7.11 | 曇雨 | 近藤、土方以下隊士総員幕臣に取り立てが決定 |
6.12 | 7.13 | | 茨木司、佐野七五三助、中村五郎、富川十郎外6名、幕府召し抱えに反対、月真院の伊東に相談する |
6.13 | 7.14 | 雨曇 | 茨木司ら新選組離隊の嘆願書を京都守護職へ提出。近藤、土方ら守護職邸に赴き説論するも自説を曲げず |
6.14 | 7.15 | 晴 | 前日に引き続き京都守護職邸で近藤ら説論するも効奏せず。茨木、佐野、中村、富川切腹、他の6名を追放す。4人の葬儀。組葬とも言えるような立派なもので光縁寺に埋葬。
近藤、親藩会議に出席、四藩の建白書を批判
|
6.15 | 7.16 | 晴 | 不動堂村屯所へ移転。
堀川通の東、木津屋橋通の南の一角で安寧尋常小学校があった場所。
「表門、高塀、玄関、長屋、使者の間及び長廊下、諸士の部屋、近藤、土方の居間、客舎、厩、物見、中間、小者の部屋に至るまで勝ってよく美麗を尽くし落成す。」風呂は一度に30人も入れるほどだったという。
現在姫路の本徳寺に移築され現在の大広間と表書院がその遺構と伝えられる。
|
6.22 | 7.23 | 晴 | 武田観柳斉、竹田街道銭取橋で、斎藤一、篠原泰之進に斬られる(?)
こちらが本当なら命令したのは土方ではなく伊東ということに…。
この日、近藤、親藩会議に出席、四藩の建白書(5.26に薩摩、土佐、越前、宇和島の四候によって出された、慶喜政策を批判したもの)を批判する。
薩土盟約成る。後藤象二郎の大政奉還論を薩摩、宇和島藩同意するが薩摩藩の同意を得るため大政奉還を建白しても採用されないだろうからそれを理由に討幕を起こすきっかけにしたらどうかと持ちかけたといわれる。
|
6.23 | 7.24 | | 新選組隊士総員、正式に幕臣取立てとなる
近藤勇:見廻組支配頭格
土方歳三:見廻組肝煎格(七十俵五人扶持)
副長助勤:見廻組格(沖田、永倉、井上、原田、山崎、尾形)
監察:見廻組並
平隊士:見廻組御雇 105名
|
6.24 | 7.25 | | 土方歳三、山崎烝、尾形俊太郎、吉村貫一郎ら柳原前光、正親町三条実愛の両人を再び訪れ、近藤勇の四藩批判の建白書の支持を願うと共に公武合体の陳請をする |
6.27 | 7.28 | | 武田観柳斉と同調の僧善応、醒ケ井松原下ルで殺害される |
6月 | | | 御陵衛士、屯所を月真院に移す |
7.2 | 8.1 | | 島原で東寺駐屯の幕府歩兵組と二条城駐屯の歩兵が諍い |
7.3 | 8.2 | | 大手組400人、東寺の歩兵隊に押し寄せて発砲。新選組が仲裁に入る |
7.18 | 8.17 | | 対州人多田荘蔵を捕縛し、奉行所へ引き渡す |
7.27 | 8.26 | | 伊東、柳馬場の中岡慎太郎を訪ねる。この日土佐陸援隊誕生 |
8.8 | 9.5 | | 伊東甲子太郎、新井忠雄の両人再度九州遊説に出かける
伊東、斉藤、藤堂、三木連名で老中板倉勝静へ建白書を提出
|
9.13 | 10.10 | | 中川宮、会津藩士秋月悌次郎を招き目付けの原市之進の後跡に近藤の起用を提案する |
9.14 | 10.11 | | 山崎、隊士を率いて本田勘解由、山岡将曹の捕縛に向かうが既に逃走後 |
9.15 | 10.12 | | 伊東、新井の両人、尾張へ出張 |
9.20 | 10.17 | | 近藤勇、永井尚志の紹介にて土佐の後藤象次郎と会見。その後、後藤再会の約を果たせないこと2~3度。この日、尾方長栄、藤井少進らを捕縛し、山崎と共に調べる |
9.24 | 10.21 | | 土方、井上源三郎と大石鍬次郎と共に江戸に到着。彦五郎を呼び出す |
9.28 | 10.25 | | 彦五郎、松五郎、谷定次郎を同道し市ヶ谷柳町の近藤方へ行き土方、源三郎を面会し泊る |
10.1 | 10.27 | | 後藤、近藤との再会を果たせず。大政奉還の建白で多忙との詫び状届く |
10.2 | 10.28 | | 彦五郎、柳町近藤方へ行き土方と面会。泊る。 |
10.3 | 10.29 | | 坂本龍馬から船中八策を受けた土佐藩は大政奉還の建白書を幕府へ提出 |
10.4 | 10.30 | | 土佐藩から会津藩へ大政奉還の話がある。土佐の後藤象二郎会津公用人の外嶋機兵衛、手代木直右衛門、上田伝治と会見。 |
10.5 | 10.31 | | 勇、大政奉還建白書の写しを一覧したい旨の書翰を後藤に送る |
10.7 | 11.2 | | 土佐陸援隊に潜入した村山謙吉から、10.15二条城へ薩兵、所司代邸へは陸援隊と十津川郷士、新選組屯所には他の浪士たちが襲撃するとの諜報をもたらす
土方、井上、日野へ馬で行く
|
10.8 | 11.3 | 晴 | 近藤勇、村山諜報を松平容保へ報告。
容保候、二条城において板倉勝静、永井尚志らの登城往復に新選組の警護を提案する。
薩摩の大久保「討幕の密勅」の降下を討幕派の公卿に願い出る。
歳三、日野の佐藤家を訪問し彦五郎の息子源之助を連れて日野宿通りを西に向かい日野大坂上から新田まで日野っ原街道を二往復した。源之助はその速さに付いて行くのがやっとで「顔面蒼白、土方これを顧みてニコニコ笑っていた」という
|
10.9 | 11.4 | | 松平容保、近藤に対し、板倉勝静と永井尚志の身辺警護を厳命し、あわせて薩摩、土佐両藩の探索を支持する。 |
10.10 | 11.5 | | 土佐の浮浪者の中に潜入させていた村山鎌吉より報告。「長州に軍装で大阪に登るように薩摩が厳命した。その節長州兵は嘆願と称して京都に登りその隙に薩摩の人数が二条城に押しかけ会津藩屋敷には土佐、十津川の浪士、新選組には浮浪の輩が取り掛かり一時に暴発する。」 |
10.12 | 11.7 | | 土方、井上江戸へ出府
慶喜、二条城に容保や定敬ら在京の諸侯を集め「政権返上」を伝える
|
10.13 | 11.8 | | 小島鹿之助、土方より沖田の発病を知り近藤に見舞い状を記す。
慶喜、大政奉還を決意
討幕派公卿中山忠能(ただやす)長州藩主父子の簡易を復旧する内容の宣旨を与える。これによって長州藩は名誉回復され賊軍ではなくなる。
|
10.14 | 11.9 | 晴 | 武家伝奏を通じて将軍慶喜大政奉還の上表を差し出すが政権は幕府が担当すると演説。容保候倒れる。 討幕派公卿三条実愛、薩長に倒幕の密勅を下賜する。これには会津、桑名をも討てと言う密勅が添えられていた。
彦五郎、土方から手紙を受け取る
|
10.15 | 11.10 | | 朝廷大政奉還を許可される |
10.17 | 11.12 | | 慶喜、上洛を命じた諸大名によって国家の根本方針を確立すべきだが対外関係など急ぐものもあるので在京の大名で衆議を尽くすべき戸の建白を行う。これに対して朝廷は統制が取れていず主導権を取れないことを露呈させてしまう |
10.18 | 11.13 | | 土方・井上、夕方、牛込二十騎町の近藤宅で彦五郎と会う |
10.20 | 11.15 | | 江戸の歳三、大政奉還の報を受ける |
10.21 | 11.16 | 晴 | 歳三、二十騎町の近藤家に集合し、池田七三郎(稗田利八)ら新入隊士31名を引率の上江戸出立。品川の釜屋で昼食をとり、上洛の途に就く。神奈川宿本陣大米屋佐吉宿泊
今回の東帰で姪のぬいにお土産を渡し江戸へ向かう途中於琴と婚約解消する。
|
10.22 | 11.17 | | 土方一行大磯泊まり |
10.23 | 11.18 | | 土方一行、小田原の久保田清右衛門方で中食し箱根山の油屋三四郎方泊まり |
10.24 | 11.19 | | 慶喜、征夷大将軍の辞表を提出
土方一行三島着
|
10.25 | 11.20 | | 彦根他8藩の藩士は諸侯が上洛し決議がなされるまで政務を幕府に委任するのがよいとする意見書を提出 |
10.26 | 11.21 | | 幕府に対し有志諸侯が上洛するまで政務委任がなされる |
10.28 | 11.23 | | 近藤勇養父周斎、四谷舟板横町の隠居所において死去 |
10.30 | 11.25 | | 土方一行、四日市到着 |
11.1 | 11.26 | | 上洛途上、鈴鹿峠前後の坂の下宿か土山宿で彦五郎宛に手紙を記す。大政奉還の事を知らせた?もうすぐ京都に着くよって手紙
近藤周助仮葬式
|
11.2 | 11.27 | | 石部宿泊 |
11.3 | 11.28 | 雪 | 歳三一行、初雪の京都に帰る。隊士20人が大津まで出迎え |
11.10 | 12.5 | 晴 | 月真院の斎藤一、近藤の殺害計画を報じ、新選組に復帰。山口次郎となる。 伊東は長州藩に間者を送り込む名目で近藤に資金調達を願い出る。
土方は会津藩に御陵衛士の行動を報告、「月真院に大砲を撃ち小銃を備え夜襲をかける」事を提案するが近藤が止める。
|
11.12 | 12.7 | | 総司、宮川家へ手紙を書く。大先生が病気だから行きたかったけど自分も病気で行けません。でももう大丈夫だよ。味噌漬けありがとうって書いている。切ない手紙。 |
11.15 | 12.10 | | 土佐海援隊隊長才谷梅太郎こと坂本龍馬並びに土佐陸援隊隊長横山勘蔵こと中岡慎太郎(当時、石川清之助)、河原町蛸薬師の近江屋遭難。坂本討死 |
11.16 | 12.11 | | 9月頃、土佐陸援隊に潜入させた、村山捕縛。土佐河原町藩邸に留置される |
11.17 | 12.12 | | 村山謙吉詰問される。中岡慎太郎没す |
11.18 | 12.13 | 晴 | 伊東甲子太郎油小路木津屋橋で襲撃に遭い討死。 遺体を引き取りにきた七人のうち、藤堂、服部、毛内の三人を待ち受けていた新選組で斬り、他の四人は逃走。沖田も参加? 平助、最初に斬られる。ほぼ即死か。乱戦中死亡説もあり。原田、島田も負傷。 斎藤一、山口二郎として新選組に複隊。
|
11.19 | 12.14 | | 会津藩より伊東ら四人の葬料として20両下る。この頃、龍馬殺しは新選組と唱えられる |
11.22 | 12.17 | | 勇、永井に呼び出されて龍馬殺しの件で糾問される |
11末 | | | 荒木新太郎、薩摩藩邸に間者として入る |
12月 | | | 兵庫開港
下旬ごろ隊士157名を網羅した名簿が作成される
|
12.2 | 12.27 | | 歳三、剣術の篭手を購入 |
12.7 | 1.1 | 薄曇 | 土佐海援隊の陸奥陽之助(宗光。後の外務大臣)、十津川の郷士中井庄五郎、岩村誠一郎ら16人、油小路花屋町の天満屋に投宿する紀州藩三浦休太郎を襲撃、三浦を警護する新選組と乱闘。 新選組は斉藤以下大石鍬次郎、宮川信吉、中村小二郎、中条常八郎、梅戸勝之進、舟津釜太郎。急を聞いて原田隊、永倉隊が駆けつけるも途中で駆けつけた紀州藩士と衝突してしまう。
紀州藩家老水野忠幹の護衛。土方、斉藤、原田、吉村、岸島芳太郎、相馬主計。
|
12.8 | 1.2 | | 新選組、鴻池善右衛門・加嶋屋作兵衛ら十軒より4000両を借用し、証文に署名捺印する。土方さんの判子付。3日後に3,000両返済 |
12.9 | 1.3 | | 王政復古の大号令煥発「小御所会議」
その結果、摂政、関白、征夷大将軍、京都守護職、所司代まで従来の官職はことごとくこれを廃し、天皇の下に新たに総裁、議定(ぎじょう)、参与の三職が置かれて事実上の新政府が発足。総裁は有栖川師宮熾仁親王(ありすがわそちのみやたるひと)。議定は仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあき)、山階宮晃親王(やましなのみやあきら)、中山忠能(ただやす)、正親町三条実愛、中御門経之(なかみかどつねゆき)、島津茂久、浅野茂勲、徳川慶勝(尾張名古屋藩前藩主)、松平春獄(越前福井藩前藩主)、山内容堂(土佐藩前藩主)。 この席で土佐藩主山内は徳川家の出席を提案するも、休憩中西郷の「唯短刀一本あれば足る」発言に恐れをなして黙る。
参与は大原重徳(しげとみ)、長谷信篤(ながたにのぶあつ)、岩倉具視、橋本実梁(さねやな)ほか
これにより会津藩らは一夜にして宮門を追われた。これにより対立がいっそう先鋭化したのは対幕強硬派と会桑両藩。
龍馬殺害の件以来、油小路のこともあり、新選組廃止の声多く、新選組は新遊撃隊となる。
|
12.11 | 1.5 | | 佐之助、分配された軍用金200両を持って家に戻る。翌日まさと永訣。 |
12.12 | 1.6 | | 慶喜、薩長軍と旧幕府軍と之衝突を恐れ大阪城へ移城を決める。新選組は空城になる二条城に詰めるも水戸藩本国寺組と争いを起こして伏見奉行所へ移る。 この夜、新遊撃隊の名を返上して旧名通リ新選組を通す。
土佐山内豊信は幕会桑の動向のみ注視する在京薩藩指導者を痛烈に批判。薩摩強硬路線を放棄
|
12.13 | 1.7 | 曇雨 | 天満屋騒動で討死した勇の従弟宮川信吉に対し、紀州藩より弔慰金42両賜る。
慶喜、大阪城に入る
|
12.14 | 1.8 | 大風雨 | 永井尚志に従って下坂、橋本から船で北野天満宮に宿陣 |
12.15 | 1.9 | | 山崎、吉村、伏見偵察に出立 |
12.16 | 1.10 | 雨 | 伏見鎮撫を命ぜられ、伏見奉行所に移る。小林啓之助薩摩の間者として絞殺する。 |
| | | 隊士編成
局長:近藤勇―局長附人数(仮隊士)52名
副長:土方歳三―両長召抱人(新入隊士の年少者)12名
副長助勤:沖田、永倉、井上、山口、原田、山崎―伍長―平隊士
諸士調役兼監察:大石、吉村、安藤勇次郎、尾形俊太郎、村上清
勘定方:岸島、大谷勇雄、安富、中村玄道
この頃伏見でも市中巡邏を行う。合言葉は「月」と「星☆」
|
12.17 | 1.11 | | 慶喜の上洛を促す岩倉の懇請により松平慶永、徳川慶勝、後藤象二郎と永井尚志らの間で慶喜の上洛参内の手順が決まる。 |
12.18 | 1.12 | 晴 | 朝、阿部十郎、佐原太郎、内海次郎の三人、近藤の妾宅に沖田総司を襲撃するも、伏見に移った後で目的達せず。 夕刻、二条城へ軍議に出掛けての帰途、伏見街道墨染辺で阿部、篠原らに、近藤勇要撃される。近藤は馬上右肩に銃弾を受けて逃走、同行の井上新左衛門、芳助両人討死する。他に島田、横倉、石井清之進、久吉。石井、久吉死亡説も。
会津・桑名両藩兵の藩主共々の帰国を求める朝命を尾越両藩へ下す
|
12.20 | 1.14 | 薄曇 | 近藤勇並びに沖田総司両人、大坂奉行屋敷にて療養のために下坂。会津藩より、近藤見舞金として20両受ける。歳三局長代理 |
12.21 | 1.15 | | 夜、薩摩支藩の都城藩兵6人と井上隊衝突。土方功労金を与える
薩長芸土4藩へ伏見表の巡邏を命じる朝命を下す
|
12.22 | 1.16 | | 京都で永井、土佐、越前藩関係者間で大阪では越前藩中根雪江・尾張藩田中邦之輔、板倉勝静ら旧幕老中との間で今後の対策が話し合われる。これで幕府だけが犠牲を払うことなく慶喜の辞官などが決まる |
12.23 | 1.17 | | 大阪からの「御内答書」が小御所での三職会議に提出された。この会議では山内豊信と松平慶永の建議により薩摩藩は列席できず。翌日の会議でも慶喜側に有利に話しは展開し薩反対幕強論派に不利になる。
土佐・芸州両藩は伏見表の巡邏を辞退する。
江戸城二の丸、薩摩藩浪人により放火、全焼する
|
12.24 | 1.18 | | 夜、江戸にて薩摩藩の挑発に乗り市中警備の庄内藩が三田の薩摩藩邸焼き討ち |
12.27 | 1.21 | | 尾張藩士荒川甚作、中村修、伏見奉行所を訪れ、歳三に退去を求めるが拒絶 |
12.28 | 1.22 | | 慶喜が入洛ご参内し議定職に就任する事がほぼ確定する。対幕強論路線に批判的なグループに完全に追い詰められ孤立した薩摩藩はここではじめて徳川家本体の打倒を想定する。 24日の焼き討ち事件が大阪にもたらされ旧幕軍、会桑両藩兵激昂する。
|
12.29 | 1.23 | | 小幡三郎、薩摩藩邸に潜入 |