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ホタテバーガー☆ミ

兄弟

名前続柄生没 身分
慶勝次男正室・規1824~1883 60尾張藩主
嘉永2年(1849)尾張藩主になる
水戸よりだったため井伊直弼と対立、安政の大獄(安政5年1858)で隠居
弟の義比(改名して茂徳(もちなが))が藩主となる
文久3年(1863)致仕し慶勝の子義宜(よしのり)が藩主となる。このとき5歳
慶勝は後見となり実権を握る
慶応4年正月尊皇の旗幟を鮮明にした←つまり新政府軍側
御三家筆頭の尾張藩が態度を明らかにしたことにより東海道筋、美濃、伊勢、甲斐、信濃の諸藩は殆どが尊皇方につく
戊辰の役後明治政府の議定職につくが明治3年(1870)名古屋藩知事
明治8年(1875)再相続

*あまり目立たないがあの時代最も上手に立ち回った人だと思う。
この人に救われた藩もたくさんあるけどその手腕をナゼ容保・定敬兄弟に使ってくれなかったの?

武成 (たけしげ)三男正室・規1825~1847 22浜田松平家
天保13年(1842)石州(島根県)浜田藩主松平右近将監の養子

*この方は早くに亡くなってしまったが、あとを継いだ武聰(たけあきら)はこれまた水戸藩主徳川斉昭で慶喜の弟。
1866年の長州討伐で長州大村益次郎に破れ浜田軍は壊滅。
逆に侵攻されると浜田城に火を放って逃亡。…兄弟だねぇ。

義比 (よしちか)五男山福久兵衛娘糸1831~1884 54高須藩主 尾張藩主
安政5年(1858)兄の尾張藩主慶勝が安政の大獄で隠居したため後をついで15代尾張藩主となり茂徳(もちなが)
親幕派であり一橋慶喜のよき相談相手だったが尊皇派が勢力を持ち尊皇派の慶勝の隠居が許されるとその復帰を望む声が大きくなる
文久3年(1863)慶勝の子義宜(よしのり)に家督を譲る
その後茂栄(もちはる)と改める
慶応2年12月一橋家を相続

*慶勝兄ちゃんに上手く使われちゃった感じの方。

容保七男古森義孝娘 千代1835~1893 59会津藩主

*いわずと知れたここの影の主役
定敬八男今西久太夫娘 亀1846~1908 63桑名藩主
嘉永4年(1851)正室の規のもとで養育される
安政6年(1859)10月1日桑名藩主松平越中守が大病だったため、婿養子の内約が調い10月3日に桑名藩邸に移る
11月16日家督相続

*容保候とは母が違う兄弟。でもとても仲がよかったらしい
しかも正室に育てられた割に佐幕。
この方に関しては興味津々なのでいずれくわしく…

義勇 (よしたけ)十男古森義孝娘 千代1859~1891 32高須藩主
高須12代藩主松平義端が5歳で病没したため、万延元年(1860)13代藩主となる
尾張藩と行をともにした高須藩は慶応4年(1868)東山道軍に加わり、会津戦争では甲信越方面へ出兵

*病弱だったため自ら出陣はしなかったものの兄弟と戦ったのだ
明治になってからも容保候や定敬は実家である高須家と付き合いがあったらしい。高須14代藩主義生の日記に二人の名前が結構出てくるという。
ともにあの時代をすごした慶勝とはどうだったのかな?

幸姫    1859~1891 32米沢藩主室
米沢藩主・上杉茂憲(もちのり)の室

*会津が篭城を決めた時、定敬は米沢へ援軍を求めに走った。
ようやくたどりついた米沢で義弟の茂慶は面会を拒む。このとき既に恭順を決めていたからだ。
ここでも兄妹で敵味方になってしまった



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