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カテゴリ:土方歳三
引き続き横田淳氏の講演会から
明治2年5.11に起きたことをまとめてみました(←もちろん土方さんの状況中心) この日、新政府軍による箱館総攻撃があることは事前にわかっていたが大野・有川方面から攻めてくると思い、そちらの備えを固めていた。 それは箱館市内に宿泊していた土方さんが5/4に五稜郭へ戻っていることからもわかる。 弁天台場に詰めていた新選組は相馬主計以下約20名。(函館山警備) 市内は滝川充太郎率いる伝習士官隊。 回天艦は機関故障で動けず弁天台場から海の方へ砲を向けて迎撃体制。 箱館市内は警備が手薄状態 AM3:00 新政府軍砲撃開始 大川口・七重浜口と海軍が行動開始 AM3:30 箱館山奇襲上陸部隊行動開始。 この30分の差は、砲撃により蝦夷政府軍の目を内陸地にむけるため。 AM4:15 豊安乗船部隊寒川へ上陸 AM4:30 夜明け AM4:40 飛龍乗船部隊山背泊へ上陸 AM5:00 箱館山開戦 上陸兵士は約700~1000名 とても防ぎきれないと相馬が命じて大野右仲と伝習士官隊が五稜郭へ援軍を求めに行く 箱館奉行所(現・元町公園)には箱館奉行永井玄蕃が詰めていた 回天乗組員、一本木へ脱出 AM7:35 朝陽撃沈。蟠龍艦砲手永倉伊佐吉が放った大砲が朝陽火薬庫へ命中。大爆発。 普通、大砲は穴を開けるのみで機関を壊したりするもののこんな大爆発はほとんどない。 蝦夷チームがいかに浮かれて士気が上ったかわかるというもの(祝杯をあげたらしい(-_-;)) この朝陽が五稜郭へ最も接近して大砲を撃ちかけていた この大爆発を土方さんが見て大野に命令をだす 「この機失くすべからず。士官隊に令して速進せん。然れども、敗兵は卒かには用ひ難し。吾れこの柵に在りて、退く者は斬らん。子は率いて戦え」と。 大野は 伝習士官隊を海辺と市外へ進ませる。官軍は少し退いたが士官隊が銃戦巧みだが、刀闘になれないのを知って白刃を抜いて進軍してくる。 士官隊はこれを恐れ隊伍乱れる。 額兵隊は市外のほうへ向かわせるが、尻沢部から進軍してきた薩軍をみて後路を絶たれるのを恐れ敗走する。 これをとめられなかった。 一方、一本木の官兵は苦戦していたので薩摩の一小隊を分け半分は弁天台場へ、半分は一本木へ向かわせ尻沢部から回り込む。←地図で見るとわかるけど挟み撃ちにしようって事ね 土方さんは一本木から額兵隊を率いて進撃。 敵を異国橋まで押し戻す 七重浜へ敵が進軍する。これを指図して押し戻す。 で、 AM9:00 一本木に向かったとき撃たれて戦死。 一本木関門陥落。 つまり大激戦の中被弾したのではなく、比較的周りがみんな味方状態のとき 戦死したので「首だけは渡すな」的な状況ではなかったのだ! だからちゃんと遺体は五稜郭へ帰ったと思われる AM11:00 脱走軍の反撃 弁天台場籠城の脱走軍、戦略上周辺を焼き払う←こういう戦略は使うのよそうって決めてたのに、追い詰められて焼いちゃったのね 高龍寺もこのときの火事で焼かれてしまった。←じゃあ新政府軍が乱入して焼き払ったんじゃなかったのね~! PM15:00 脱走軍の反撃 …ということらしい。 もうひとつ 官軍が土方さんの遺体を捜した。という話も、会津ならまだしも ここ箱館は外国人の目が沢山ある。 ここでそんな野蛮なことはできないだろう。 現に後の世に五稜郭から遺体が出たとき、遺体はブランケットに包まれ ちゃんと埋葬されていたのだ さてその「一本木関門」 これはどこにあったのか。 横田氏はこの場所も特定していた 函館に現在ある最後之地碑からもう少し海岸に近い場所。 このガソリンスタンドは丁度Y字路にあり、向こう側が国道5号線。 手前の道が五稜郭道(土方さんが出撃して来た道) この五稜郭道に沿って亀田川支流が流れていたことが明治9年の地図によって確認されている。 そして横田氏が資料として出してくださった「箱館戦争図」には、一本木関門に沿って流れるカメタ川ノ支流がしっかり書かれているのだ。 函館はその地形上、火事になると大火事になりやすい。 そのため戊辰戦争当時の町並みはずいぶん変わってしまったそうだ。 だからなかなか一本木関門の場所も特定できなかったらしいのだが、これで安心して「ここに一本木関門があったんだ!」と言えるのはスゴイことですな。 本当にねぇ。 楽しい講演会でしたな。 横田淳氏、もっと話を聞きたかったですぅ。 サインもらって浮かれてる場合じゃないよね。 またこういう機会があると良いなぁ 参考: 大野右仲(函館戦記) 立川主税(立川主税戦争日記) 中牟田倉之助(中牟田倉之助伝) 薩摩藩 (慶応出軍戦状) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年12月10日 23時54分39秒
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