2006/03/26(日)15:41
リベンジ1@松戸編
さてさて土方さんが(たぶん)通った道をバスで通りながら松戸へ向かいます。
松戸宿
江戸時代後期に幕府によってまとめられた「水戸佐倉街道宿村大概帳」によると、松戸宿の「傍示杭(境杭)は宿の前後境にあり、立替は支配代官が取り扱う」とあります。
「宿の前後境」とは北側が根本村境、南側が江戸川を隔てて対岸金町松戸関所に相対する下横町渡船場のことで、水戸街道中松戸宿の出入り口をさしています。
これを同じ頃幕府が作った「分間延絵図」(重文)にみると、確かに宿の出入り口に高札と並んで「御料(領)傍示杭」の文字と絵が描かれています。
この「御料傍示杭」にどのような文字が書かれていたのかはわかりませんが、街道の通行人に土地の支配関係を知らせる必要から、僅かに口承にも残っていたように「是より御料松戸宿」などど書かれていたものと推定されます。
特に、ここ下横町渡船場は、江戸川を船で渡って水戸道中松戸宿に入ってくる宿の玄関口でもあったのです。
(案内板より)
本来は木製で道を挟んだ反対側(南側)で、現在堤防から河川敷になっている付近に建てられていたらしいが、側面に「左 江戸道」とか「右 水戸道」とか書いてあります。
川の景色はつまらないな。何処も同じみたいで(爆)
向こう側は葛飾区金町方面。
少し行くと問屋場・脇本陣跡。直ぐ近くに本陣。
本陣・脇本陣跡
本陣とは、江戸時代の宿場に設置された宿泊・休憩施設で街道を通行する幕府役人、大名、公家、旗本などが利用した。
門、玄関、書院を設けることが本陣の特権で、一般の旅籠には許されていない。
水戸道中松戸宿の本陣は江戸前期は吉岡隼人家、江戸中期以降は伊藤惣蔵家が代々勤め、水戸徳川家をはじめ、水戸道中を参勤交代で往来した常陸相馬藩など、十数家の大名が宿泊や休憩で利用した。明治維新後に宿駅制度が廃止され、本陣も廃止となった。平成16年(2004)に解体された旧本陣の建物は、慶応3年(1867)2月7日、本陣の出火で焼失、その直後に再建された建物と推定される。
(松戸市教育委員会案内板)
う~む。案内板はあるものの全然実感がわかりません。
ここには慶応4年4月12日大鳥さんが泊まったはず。その前日の11日には慶喜が泊まったらしいです。
右の茶色の建物が本陣跡に建つ建物。車の奥の建物が現在郵便局の脇本陣があったところ。
もっと左に行くと水戸街道になります。
土方さんたちが通った頃はどうだったんだろう?
立て直しされてたのかしら?
昔は本陣くらいなら立て直すといってもかなり時間がかかったんじゃないのかな?
泊まりはしなかったけど休憩とか…。しないか…
でも必ず通ったということで。
あれ?じゃあ慶喜とニアミス?でも誰もそんなこと書いてないなぁ。
松戸神社
ここは当時御嶽社と言ってました。ここもちゃんと絵図に載ってる。
街道沿いには古い建物もちらほら残ってます
千葉周作の父の墓もありました
ここからさらに北上。小金を目指します~。