|
カテゴリ:会津への道
いやぁ、すごいすごいと思っていたけど凄いね。会津若松図書館。
先日から捜し求めている「小沼良介直忠」 会津図書館で調べてみました すると… 小沼富蔵 21歳 六石二人扶持 進撃隊:小室隊入江組 八月二十四日天 良介弟 と発見 (「戊辰殉難追悼録」by会津弔霊義会) おおっ弟がいたのか 8月24日って篭城の時の戦いで戦死したってことね。 「天」というのは天寧寺あたりの戦いのことらしい…。 他にも一族らしい人たちを何人か発見。 さらに戊辰年代の「若松城下概要図」、安政五年調・会津藩士人名辞典に家を発見。 郭内ではないけれど御薬園のすぐ近く。←なんだか嬉しい さらに鶴ヶ城開城のち猪苗代に謹慎。東京に送られ次いで斗南へは夏ごろ海から渡った。 その後、大正まで陸奥国東津軽郡奥内村住。 戦闘要員は米沢藩士護衛の下猪苗代へ。信州松代藩真田家へお預けとなる(「会津斗南藩史」葛西富夫) というのも見つけたので戊辰戦争を闘った人なのだろうか? 明治2年(1869)1月7日東京へ送られた。とあるけれどこの中に入っていたのかしら さらに戊辰戦争の前は何をしていたかがよくわからないが、どうやら芝新銭座中屋敷に御茶屋番として赴任していたらしい。(慶應年間会津藩士人名録) 京都じゃなかったのか。残念だ いやいやここまでわかったのって凄くない? で、これからどうすりゃいいの? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
明治2年函館で降伏した新選組隊士:佐々木一を調査していたら、小沼直忠に出会いました。
佐々木は明治3年赦免後、旧幕臣:並河省三の養子となり並河一と称し、明治政府に出仕します。 明治10年4月改の『青森県職員録』に、 「第三課 地租改正掛 十等属 小沼直忠 福島県 第四課 内部科・撿務科・主計科 八等警部 並河一 静岡県」 とあり、課は違いますけど面識があったかも知れませんねぇ。 並河は明治15年5月以降に、新潟県へ転任しています。 同12年5月31日改の『青森県職員録』には、 「北津軽郡 郡書記 十三等相当 小沼直忠 福島県士族」 同19年の『職員録』には、 「東津軽郡役所 戸長 准判任官八等 小沼直忠」 同28年1月1日改の『青森県職員録』には、 「内務部第四課 属 月十一円 県費掛 小沼直忠 青森県士族」 とあり、「毛内嘉胤 青森県士族」の記載もありますが、この毛内嘉胤は、御陵衛士:毛内監物良胤の兄:毛内有人茂胤の長男なんですよ。良胤の甥っ子になりますね。 というわけで、小沼直忠と新選組は関係があったんですよ~ (2006年10月01日 23時18分51秒)
チロ之助さん!!
ななななんですってぇ!! すんごい大発見ですよ! ちょっと頭がついていけません~~。 明治10年4月~12年までは福島県士族なのに19年には東津軽郡ってことは青森県民になったという事なのでしょうか いや、28年には青森県士族とあるから士族のままですね。そして毛内監物の甥っ子と職場が一緒ってことですか…! しかも箱館新選組佐々木一とも面識があったのですね。 この方はあまりよく知りませんが、(笑)早速調べてみますぅ~ なんだか話が凄すぎて頭がぐるぐるしてます むむむ。すごい! 凄い情報をありがとうございました~~!! (2006年10月03日 00時20分57秒)
>チロ之助さん!!
せっかく書き込んでくださったのに一部文字化けしてしまったのかヘンな表記になってしまってますぅ 出来たらそこのところ教えてもらえますか~? 並河一 第四課 内部科の次です(T_T) (2006年10月03日 00時33分07秒)
>せっかく書き込んでくださったのに一部文字化けしてしまったのかヘンな表記になってしまってますぅ 失礼しました。旧漢字なんですよ。「手偏」に「瞼」という字の右側の字です。「ケン務科」だと思います。 このとき並河一は「内部科」所属なのですが、「ケン務科」と「主計科」を兼務しているのです。 明治19年の『職員録』に、 「第二部 属 判任官八等 毛内嘉胤」 とあり、青森県庁勤務のようですが、このとき小沼直忠は東津軽郡役所勤務なので、職場は別ですねぇ。 明治10年5月~11年7月の『官員録』に、 「十等属 フクシマ 小沼直忠」 明治12年1月・3月~4月(2月分は欠本)の『改正官員録』に、 「青森県 十等属 福島 小沼直忠」 とありましたよ。 ----- (2006年10月03日 02時29分22秒)
チロ之助さん
またまたステキな情報をありがとうございました 小沼直忠は西南戦争もスルーしてコツコツ仕事してたんですね~。 やっぱり武人ではなかったのでしょうかね。 本当にありがとうございました。 またどこかで見つけたら教えてくださいね。 (2006年10月03日 22時44分46秒)
たぶん、「ケン務課」は「検務科」だと思います。
明治27年の『職員録』に、 「青森県 内務部 属 六 小学校教員検定委員 毛内嘉胤 (月一○) 小沼直忠」 同28年の『職員録』に、 「青森県 内務部 属 六 小学校教員検定委員 毛内嘉胤 (月十一) 小沼直忠」 同年1月1日改・同年6月15日改の『青森県職員録』に、 「内務部 第三課 属 六級俸 学務掛 小学校教員検定委員 毛内嘉胤 青森県士族 内務部 第四課 属 月十一円 県費掛 小沼直忠 青森県士族」 とあり、課は違いますけど面識があったかも知れませんねぇ。 小沼直忠は明治28年以降に、退官したようです。 毛内嘉胤は同31年以降に、退官したようです。同37年没。 そして、明治2年5月11日土方歳三の最後の出陣に同行した大野右中とも、面識があったかも知れませんよぉ。 明治26年の『職員録』に、 「青森県 警部長(六) 警察部長 文官普通試験委員 従六、□□ 大野右中 警察部 部長 警部長 従六、□□ 大野右中 内務部 属 六 毛内嘉胤」 とあり(□は文字不明)、小沼直忠の記載はありませんが、「内務部」に勤務していた可能性はあるので、大野と面識があったかも。 大野右中は明治23年~25年に、秋田県の警察部長を勤務後、同26年の一年間だけ青森県の警察部長を勤務後、退官して東京へ。 以上が、私の小沼直忠に関する知識のすべてです。 ちにた♪さんのお役に立てましたでしょうか? (2006年10月03日 23時05分09秒)
チロ之助さん!!!
またまたすごいじゃないですかぁ! そうなんだ、大野さんとも面識があったかもしれないんですね そうだったらいいなぁ。 ついでに新選組話とかしてたらいいなぁ 一応味方同士だし共通の知り合いもいたはずなんですよね 唐津藩士も会津で亡くなった方がいたはずだし…。 意外なところで意外なつながりがあるものですね! アレ?大野さんって会津に行ったのかな? (2006年10月05日 01時11分45秒)
ちにた♪さん、おはようございます。
昨日から今朝方まで風雨が激しかったけど、いかがお過ごしでしょうか? 前回のコメントの訂正を。 毛内嘉胤は明治34、35年の在職を確認しましたので、退官は35年以降となります。 嘉永5年生まれの明治37年没なので、享年52歳。 因みに、嘉胤の父:毛内有人は明治21年5月17日没、享年65歳。 大野右中は「右仲」でしたね(汗) 大野は慶応4年4月7日、会津若松城下へ入り、同29日、清水屋へ土方歳三に会いに行き、閏4月26日、越後長岡へ河井継之助に会いに行く。 その後は、会津・越後・白石・仙台・福島を行ったり来りしていて、会津戦争には参戦していません。 9月中旬、仙台にて新選組に加入。 会津入りをしていたとはいえ、この時期に大野と小沼直忠が出会った可能性はゼロでしょうね。 ところで、朱雀寄合隊:小沼市太郎という人が『高田謹慎中雑記』によると、総念寺にて謹慎しています。 小沼雄三郎という人が、明治8年5月、琴似兵村入植者208名の中にいます。(宮城郡?) 小沼平十郎という人が、日露戦争で戦死しています。 小沼直忠と血縁関係があるのかは分かりませんが、会津出身者なので、一応ご報告を。 (2006年10月07日 10時40分49秒)
チロ之助さん
>昨日から今朝方まで風雨が激しかったけど、いかがお過ごしでしょうか? いや、凄かったみたいですね。 幸い酷い時期は屋内にいたのでほとんど被害はないです。 チロ之助さんは大丈夫でしょうか? 大野さんは降伏後、相馬さんと仕事をしてごたごたの末相馬さんが切腹してしまったあとあちこち転々とした挙句の青森入りだったんですね。 簡単に味方だから当時の話をしたかしら? なんて思ってしまったけれど、当人達にとってはまだまだ生々しすぎることだから知っていて敢えて触れなかったんじゃないかしらと思い直しました``r(^^;) それにしても小沼一族。 なまえはあちこち見えてきたけど年齢や家系が全く分かりません。 慶應年間の「会津藩士人名録」にも小沼勝太・久兵衛・鉄弥・多十郎・源八郎・宗安・喜久馬・銀次郎など出てくるのにその後まで出てくる人がいないんですよ。 肝心の良介・富蔵兄弟もでてこないしね。 もうどういうことなのかサッパリですよ。 朱雀寄合隊にまでいたんですね…。 この方は確かに武人っぽいですね。どういうつながりがあるのかなぁ。 キニナル! (2006年10月07日 23時07分24秒)
お久しぶりです。
以前(10月7日)書きましたコメントの訂正をさせて下さい。 >小沼雄三郎という人が、明治8年5月、琴似兵村入植者208名の中にいます。(宮城郡?) この人は、宮城県宮城郡十文字村の出身者ですので、直忠さんとは関係無さそうです。 ちなみに、この時の札幌琴似兵村への入植者(屯田兵)208名の中に、冨蔵さんと同じ「進撃隊」に所属していた三澤毅がいます。 (2006年12月06日 20時48分02秒)
チロ之助さん
おおっ!なんと言う偶然! 琴似屯田兵の小沼雄三郎を知っていると言う人と知り合いになり、人名表を頂いたのですよ。 で、やはり宮城県宮城郡十文字村と言うのを見て違うんじゃないかな~と思っていたところです。 やはり関係はないのですね。 ありがとうございました。確認できただけでも大きな進歩です! (2006年12月07日 00時03分13秒)
はじめまして。
古い記事への問い合わせになり、申し訳ありません。 たまたまGoogle検索をしていて、この記事を発見した次第です。 >琴似屯田兵の小沼雄三郎を知っていると言う人と知り合いになり、人名表を頂いたのですよ。 >で、やはり宮城県宮城郡十文字村と言うのを見て違うんじゃないかな~と思っていたところです。 >やはり関係はないのですね。 >ありがとうございました。確認できただけでも大きな進歩です! ----- ところで、「小沼雄三郎を知っていると言う人」(名前だけ知っているというレベルなのかもしれませんが…)というのは、どのような方なのでしょうか。 もし情報提供が可能でしたら、よろしくお願いいたします。 この「小沼雄三郎」は、私の高祖父(ひいひいおじいちゃん)に当たり、現在情報収集しているところでした。 (2016年01月24日 17時26分30秒)
たんごさん
ものすごく遅いレスでごめんなさい。 「小沼雄三郎」さんをお調べとの事、その後進展はありましたでしょうか。 何分にもずいぶん前の事なのであまり記憶が…(^_^;) 上記の記事を書いたのは会津へ行った後なので会津図書館で調べた関係かな~と思うのですが …覚えてないんです。 お役に立てず申し訳ありません(;´д`) (2016年12月31日 23時16分00秒) |
|