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カテゴリ:幕末・あらかると☆
明治41年(1908)10月26日午後2時半、73歳で薨去した榎本武揚。
その100回忌の法要が行われた。 一般人の参加も申し込みすればということだったので申し込んでみたんだけど。 平服で。って書いてあっても信じちゃいけなかったのね ざっと見ても300人くらいいたのかなぁ。 焼香に呼ばれる人の肩書きを聞きながら改めて榎本さんの広さを実感 そんな中でまぁ、居心地の悪いこと 故人を偲び手を合わせたい だけで行ったので、まぁ気にせずに。 写真は晩年の勲章を付けた写真でしたな 個人的にはモチロン箱館の写真の方がスキです(ドーデモイイダロ) その後、記念講演ということで童門冬二氏の「榎本武揚に学ぶ」というお話を楽しく聞いて来ました。 帰りにお土産まで頂いて帰宅。 以前に行ったときあまりデジれなかったので。 ~吉祥寺~ 本駒込3-19-17 立派なお寺です 広い参道を進むとこれまた立派な本堂が。 そして中も本当に立派 ついでに言うと墓所も立派 さすがに出世頭。墓域も広くて手入れも行き届いています。 向って右側が榎本さん、左側が奥様のたづさん。 墓域のはす向かいにはお姉さんのらくさんの墓所もあります。 曹洞宗諏訪山吉祥寺は第二次大戦で焼失し山門と経堂だけが往時を偲ばせる。 経堂って言うのは図書室みたいなもん。 東京都内に残る江戸時代建造の唯一の経堂だそうだ。 1686年(貞享3)建造、1778年(安永7)焼失したが、1804年(文化元)再建。その後1933年(昭和8)に大修復を行った。 ところでここ吉祥寺には他にもいろんな方が眠ってます。 松前家墓所 う~ん、墓石の字がぜんぜんわかりませんね。 左から四代松前氏広、九代道広、十一代良広の墓です。 その手前、両側には側妾子女合わせて15基。 なんともそっけない感じですが、藩主も女子供もおんなじ形態の墓石って言うのは珍しいそうだ。 松前でもみんな一緒に仲良く一箇所だったもんね。 二宮尊徳 小学校の校庭にいる二宮さん。 ここにも像がありましたよ。 そういえば二宮尊徳って何したヒト え。幕末の農政家。 幕末のヒトだったのほぇ~。 1787年(天明7)~1856年(安政3)相模のヒト。通称金次郎。 人物を認められて小田原藩領下野国桜町の荒廃を復興したことで知られる。 その後、常陸その他の諸藩の復興に農政家として、また政治力によって寄与するも、日光神領に従事中病死。 彼の思想・行動は後に「報徳社運動」として展開するようになった。 ~案内板より~ 鳥居耀蔵 1796年(寛政8)11月24日~1873年(明治6)10月3日 幕臣。後に忠耀(ただてる)。従五位下。甲斐守。 「耀蔵」は甲斐守任官前の通称。胖庵と号する。 こっちはどうやら奥様と一緒 林大学頭次男従五位下平朝臣 明治六年十月三日亡魂 甲斐守鳥居忠耀墓 とある。 この方は洋学が大嫌い。江川太郎左衛門とも対立し、蛮社の獄ではかなり非道い手も使ったと言われている。 その取締りの厳しさから“妖怪(耀-甲斐)”と渾名され嫌われた。 北町奉行だった「遠山の金さん」こと遠山景元(金四郎)を閑職に飛ばした事もあるらしい。 だから時代劇ではいつも悪役なんだよぅ。 その後、老中・水野を裏切って失脚させたが半年ほどして水野が復帰すると逆に失脚。 職務怠慢・不正を理由に解任され、弘化2(1845)年2月22日有罪とされ、10月3日、全財産没収されたのだ。 失脚後は、讃岐国丸亀藩に預けられほとんど軟禁状態だったらしい。 その間、約20年。その間に随分人間がやさしくなり知識を生かして薬草の栽培をし、領民の治療に当たったという。 最後まで開国に反対していたようで、ある意味信念のヒト。かなぁ あとは備中松山藩主で老中の板倉勝静、幕臣・箱館戦争では砲兵隊頭取細谷安太郎がいるはずなのにどうしても見つけられず 誰か教えて~\(゚o゚;)/…Dさん、知らないかなぁ さて、お家に帰って重たかったお土産を開くとなんと「東京農大」が技術開発した「カムカムドリンク」 う~ん、さすがだ… お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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