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見たい!行きたい!跡地めぐり

2017年10月08日
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新選組史跡散策

いやぁ、こういうちゃんとした(ちゃんとしなくても)史跡巡りは久しぶりだぁ!
好天にも恵まれ、朝もはよから出かけました。

集合は新宿駅。

今回の散策は結構生活圏内なので、なんとなく親しみを感じちゃう。

大江戸線、牛込柳町

まずは近藤さんの試衛館界隈から。
文久三年一月、仲間と共に浪士隊に参加した近藤さんの身上書によると

「四代浪人 当時市谷加賀屋敷 山川礒太郎地借り仕り候」

とあるとのこと。
この「山川礒太郎」邸、1851年版の切絵図で探すと
「山川清左衛門」という名前がある。

ここは試衛館も近いんだよね。

ここには永倉さん、総司、平助も一緒にいたらしい。
左之助は不明(笑)

山南さんはもう少し離れた場所に住んでたようですな。

試衛館は本当は現在試衛館跡地の碑が立っている場所を正面に見ると右斜め後ろ。
現在マンションが建っているあたりのようですな。
その碑が立っている場所のすぐ隣は稲荷社があり、ここは祭礼が行われていたという、
まさに地元密着の神社。

その祭礼の日が11月18日だと言う。

11月18日!

平助が殺されたその日もここでは賑やかにいつもの様に祭礼が行われていたんだろうか。
平助も行ったであろう、その祭礼を思い浮かべただろうか。

近藤さん、「甲良町屋敷」から「試衛館」に通っていたのね。
なんとなく試衛館に住んでいたイメージだったよ。

牛込柳町から飯田橋へ。

ここは永倉さんがいた坪内主馬の道場があった。
坪内主馬は「心形刀流」。
「心形刀流」と言えば伊庭八郎。
永倉さんは伊庭くんとも知り合いだったよねぇ。

近藤さんの本妻、ツネさん。
この方は松井八十五郎さんの娘。
その松井さんン家が早稲田通りを一本入った現在は床屋さんのあたり。

ところがこの二軒お隣には鈴木さんちがある。

この「鈴木さん」家は斎藤一の生まれたお家。
お友達…とまではいかなくてもお知り合いだったよねえ。
縁とは、誠に意なもの不思議なものですなぁ。

さらに飯田橋。

新徴組の広大な屯所があったのだ。

なんと山田弓具店の並び。
うわぁ。
都内は史跡の宝庫とは知っていたけど、こんなに身近だとびっくりするなぁ。

さらに山南さんの大久保弥九郎道場、講武所跡を通って伝通院へ。

文久三年二月四日。

近藤さん、土方さん以下「将軍警護」を目的とする「浪士組」に参加するべく訪れた面々は
伝通院で会合を持ちました。
と、あるその「伝通院」

実際に会合があったのはその伝通院の子院、「処静院」だそうです。
その「処静院」は現存していませんが、その山門に建っていた石柱が現在伝通院の門前にある、あれ、
だそうです。

「不許葷酒入門内」とあるあの石碑です。

これ、その眼に写ったよなぁ。

ところでこの「不許葷酒入門内」

禅寺では、匂いの強い野菜は心を乱し精が付くため、酒は頭の働きが鈍り集中力が弱るため
修行の妨げになるとのことで持ち込みが禁止されていたようです。

神社は「お神酒」とあるように
神様にお供えをすることで霊力を宿った神聖なお酒を頂くことで、
その神様の霊力を体内に取り込む。
と言う意味があるらしいのに。

「神社」ではOK。
「禅寺」ではNG。
興味深いですな。

永倉新八。
のちの名を杉村義衛。

この方、長く生きました。

そしてハジメさんと交流がありました。
住まいをところどころ変えました。
最初ははじめさん家の近く。
だんだんと遠くになったようです(笑)

その、何度か変えた住まいのひとつには食事処となっている所もあり、
今回はそこで昼食となりました。
だから何?って、感じですが(笑)ま。そゆことです。

さて。

その、さいとうはじめさん。

新選組隊士ながら、会津で戦い、そのまま会津藩士として捕らえられ
会津藩士として生涯を終えたフシギなお方。
会津藩士の娘、時尾を嫁とし会津藩士と生涯親交を持った人物。
この方は本当に不思議でならない。

その方の住居が特定されたのだ。

今まで斎藤一いや、藤田五郎邸とされていた春日通りの左側ではなく、右側だ、と。

残された資料に

「春日町のところに錦秋女学校っていう学校がありました。
そのそばに石の段々がありまして、それを下りると少し窪い感じの所に藤田五郎様と時尾様のお住まいがありました。」と
土田敬子さんが言ったとある。

なるほど、その言葉通りに坂があり、そうなのかな。と思う。
ま、どっちでも良いね。

最近思うのは史跡はざっくりで良いとの思い。

ここ!と特定するよりもこのあたり。と、ざっくりした方が大きく見える。と言う事。
当時の住まいの感覚は今とは違う。
道路も、街も、感覚も変わっている。
「ここだ!」と、思うとその場所しか想えない。
「このあたり」と思った方が、当時に想いを飛ばせる。
そんな気がするのデス。

だから、写真も撮りませんでした。

ここ。と、思ってしまうより、このあたりと想った方が、今はリアリティを感じられる気がして。

次ははじめさん、いや、五郎さんの勤務地。

御茶ノ水。湯島聖堂。
へ?
ここ?
湯島聖堂?
はじめさんの勤務地「高等師範学校」と言うのは、湯島聖堂でした。

迂闊にも全然気付かなかった。

大好きな湯島聖堂にはじめさんが20年も勤務していたなんて。
しかも、大成殿に向かう石畳は当時と全く変わっていないなんて。
今回、一番感動した場所でしたな。

だって、大好きな湯島聖堂、はじめさんが20年も通った場所だったなんてねぇ。

庶務掛兼会計掛 勲七等 藤田五郎 福島士


さらに赤坂へ移動し、勝海舟邸、篤姫が明治になって暮らした場所を確認したあと、千駄ヶ谷へ。

大江戸線、国立競技場駅。

総司の終焉の地。と、言われるところには碑が建っている。

が。

ここではないという。

古地図を調べた方が、正しい場所を特定した。と、言う。

道路を渡った、ビルとビルの間。
ここが、こここそが植木屋平五郎の家、総司がその生涯を終えた場所だと。
以前流れていた河の名残がある。
架かっていた橋の名残がある。
これで特定できたのだと。

史跡巡りは楽しい。

そして日々、いろんな資料が発見され検証される。
どれが真実なのか。を、求めて。
だけど。

たくさんの資料を検証し、想いを馳せ当時を偲ぶことが大切なんじゃないか。
たくさんの人とと想いを共有し「忘れない」ことが大事なんじゃないか。

このあたりにこういうヒトがいた。
こういう建物があった。
こんな時代だった。
それをつないでいくのが良いんだ。
きっと。
それが楽しい。
それでも良いのではないかな。
ひとりひとりのキモチの中に、何かが残るということ。
それで良いのではないかな。

幕末。

混乱と動乱の中。
日本を作り変えようをしたヒトがいた。
守ろうとしたヒトがいた。
壊そうとしたヒトがいた。
どれが正しくてどれが間違っているのか。

それは。

判断なんてつかないよねぇ。
みんな真剣なんだもの。
その上に作られた「歴史」の中に我は生きているんだもん。






最終更新日  2017年10月08日 20時32分55秒
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2015年09月13日
ここ2年ほどなんだかんだで参加できなかった「彦五郎忌」
ようやく参加。

毎年恒例のお坊さんのお説教を聞き、丁寧に手を合わせて法要は終了。

午後は講演会です。

今回の講師は清水隆先生。

信用できます。

2時間があっという間です。
しばらく幕末から離れていたせいか、聞くこと聞くことが新選。
え。いつの間にそういう話に?状態で少々焦ります。
そんなにブランクあったっけ。

ひとつひとつ、確認していると幕末のあの時代がよみがえります。
やっぱり歴史はすごいです。
ロマンです。
それが連綿を続き、今を作っているのです。
やっぱり好きだなぁ。

懐かしいお顔にもお会いでき、忘れていたモノが胸に蘇る。

斎藤一さんの諱が「広誠」だということ。
山南さんの名前が「さんなん」で、「小野派一刀流」だということ。

まだまだ発見は続く。
まだまだ歴史は見つけられる。






最終更新日  2015年09月13日 19時58分24秒
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2015年05月04日
日野
相変わらずの混みようです。

なんでも昨今ゲームの影響らしく兼定人気がものすごいらしい。
ま、なんで興味を持っていただけるのは良い事だ。という事で。

和泉守兼定。

二尺三寸一分
刀の味方なんてわからないし、説明を受けても「美しい」としか思えません。
この刀を作った兼定さんは当時会津藩のお抱え刀工。
その縁で土方さんにも刀を作ってくれたって訳。
その割には新選組の隊士で兼定を使っている人はいなかったよねぇ?

鞘は朱塗りと思っていたが朱に近い茶色の※乾漆粉(カツシツフン)を撒いた※石目塗り。
牡丹と鳳凰が黒粉撒と銀蒔絵の二通りで描かれている。
目貫は枝山椒。
鍔のデザインは七夕図。
七夕に梶の葉に降りた玉露で墨をすり五色の短冊に書いた願い事を笹に吊るして祈ると願いが叶うという。

※乾漆粉…漆をガラス板に薄く塗り、乾いたのち、はがして粉末にしたもの。蒔絵(まきえ)・漆塗りなどの材料に用いる。
※石目塗…漆工で,漆の表面に炭粉や乾漆粉などを蒔き,石の肌目のような凸凹をもたせる技法。

誰のアイデアでこういう造りにしたのかは知らないけれど、
ものすごく現実的で冷静な土方さんが、これを愛用して実践でバッサバッサと使っていたと思うとなんとも。

いままで沢山いろんな刀を見たけれど、こんなに美しい鞘に入ってるのは見たことないよ。

もちろん豪華絢爛な鞘もたくさん見たけど、ひとつひとつにいろんな 想いが篭ってるような
そんな刀はないよねぇ。

そしてここに来るとやっぱり泣きそうになる「安富才助さんのお手紙」
隊長の死を「誠に持って残念至極に存じ奉り候」と嘆き、自分は無事で申し訳ないと言う、あの手紙。
大混乱の中で急いで書いたであろう乱筆乱文のあの文字が切ないのよ。
数々の想いのこもった品々を本当はゆっくり眺めたいが、この混雑ではね。

いつもシーズン外して訪れようと思うのだが、今年こそ少しゆっくり幕末に戻りたい。

あまり知られてないけれど加藤福太郎さんの手紙。
土方さんの幼馴染だった平忠次郎さんが当時室蘭警察に勤めていた加藤さんに土方さんの埋葬地を探してくれとお願いしたのだ。

詳しい年はわからないけど多分明 治15年以降。
手紙の日付は5月15日。
調査したのは5月13日。
桜が咲き始めたよって言う出だしに北海道の寒さを思い出す。
当時存命だった柳川熊吉さんにもお話を聞いているから信憑性は高いと思うのよ。
戦死者名簿の「第一の初筆に顕し居り」と言う記述に土方さんは大切に思われてたんだなぁと感動。

それによると土方さんのご遺体をなんとか探し出して火葬にして碧血碑に納めたって書いてある。

他にも見てると涙が出そうになって漸く引き上げました。

墓所にお参りしたけど、ここでも結構な人がお参りしていて相変わらずのモテぶりですな。
まぁ、マヨネーズを供えるようなヤカラはいなかったので安心しましたが。

思いついて高幡不動にも行きました。
先日日光で鳴き龍を聞いたせいか、お不動様の龍の声が聞きたくなりました。
こちらはいつも人が少なく、心ゆくまで龍を愛でました。
その足でいつものように奥のお位牌にお参りに行く途中。
「楊州周延」の浮世絵の展示が。
なにげなく立ち寄って驚いた。
この「周延」さん、元高田藩士で神木隊として戊辰戦争を戦ったヒト。
しかも歌川国芳に師事した事もあると言う。
知らなかった。
仰天してじっくり眺めてきましたよ。
ふぅ。やっぱりこのあたりはタカラモノがゴロゴロしてるぅ!

水琴窟の水音にココロ癒され帰宅。
いや、暑かった。
なんだかばててしまいました。


★楊洲 周延(ようしゅう ちかのぶ、天保9年8月8日(1838年9月26日)-大正元年(1912年9月29日)
江戸時代末期から明治時代にかけての浮世絵師。

歌川国芳、三代歌川豊国及び豊原国周の門人。
橋本作太郎、諱は直義。楊洲、楊洲斎、一鶴斎と号す。

越後国高田藩(現新潟県上越市)江戸詰の下級藩士橋本弥八郎直恕(なおひろ、家禄5石6斗2人扶持)の長男。
嘉永5年(1852年)15歳で国芳に絵を学んで、一丹斎芳鶴を名乗る(有署名作品は未確認)。
安政2年(1855年)頃から三代目豊国につき、二代目歌川芳鶴、一鶴斎芳鶴と称して浮世絵師となった。
その後、豊原国周門下に転じて周延と号した。
周延の作画期は文久頃から明治40年(1907年)頃までの約45年に及んだ。周延は3枚続の風俗画を得意とし、美人画 に優れていた。

慶応元年(1865年)、幕府の第二次長州征討に従軍。
慶応3年(1867年)橋本家の家督を相続した。
幕末の動乱期には高田藩江戸詰藩士が結成した神木隊に属し、慶応4年(1868年)5月上野彰義隊に加わる。
8月朝日丸で品川沖を脱走、すぐに長鯨丸に乗り換え、11月北海道の福島に上陸。
陸路で箱館を目指し、翌1月5日亀田村に到着。
榎本武揚麾下の滝川具綏指揮第一大隊四番小隊のもとで官軍と戦ったが、3月の宮古湾海戦において回天丸に乗り込み重傷を負う。
戊辰戦争終結後に降服、未だ傷が癒えていなかったので鳳凰丸で明治2年(1869年)8月に東京へ送られ、高田藩預かりとなった。
故郷の高田で兵部省よりの禁錮50日、高田藩から家禄半知または降格、あるいは隠 居廃人の処分を受けた。
大正元年(1912年)9月29日、胃がんにより死去。
享年75。
墓所は台東区無縁坂の浄土宗講安寺であったが、豊島区雑司が谷の雑司が谷霊園に移された。
法名は覚了院直誉義誓居士。

以上wikiより。

いろいろツッコミどころ満載。
私のツボ刺激しまくりな、お方。


今更ながらだけど。
土方さん家とお不動様は近いよね。
でも日野とは遠いのよ。
当時とは道も違うから余計そう思うんだろうけど、本当は日野に行きたかったの。
いや、行かれないことはないんだけどさ
石田寺~お不動様まで20分くらい。
石田寺~日野まで35分くらい。
…あまり変わらないんだけどなぜか遠くに感じるのよね。
日野はそのうち。
お祭りが終わって から。






最終更新日  2015年05月04日 12時17分13秒
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2014年12月05日
特別公開って事で、休みだったので父を誘って行ってみました。

昨日の雨で綺麗に洗われ、澄んだ空気が気持ち良い。

かなりの混雑は予想通り。
でもここまでとは。正直びっくり。
みなさん、余裕だなあ

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そんなに多くはない紅葉🍁
でも雰囲気がね。
やっぱり非日常なのよ

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青空。
東京のど真ん中とは思えない広々とした敷地に広がる紅葉🍁。
なかなかの経験です。

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今でこそ「皇居」だけど「江戸城」なのだ。
ワクワクしちゃうよね!

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到着から坂下門を潜るまで1時間。
二重橋駅から行ったけど、桜田門のほうが良かったみたい。

坂下門から乾門を出るまでが1時間半くらいかな。
ちょっと目を離したら迷子になりそうな人混みですよ。

でも。
行って良かったな。
お天気にも恵まれたけど、何やら父はたのしそうだった。
うっかり自分のペースで歩き回ってしまったので乾門を出てからは休憩しつつランチ。

そう言えば最近は父と出掛けることもなかったよな、と、反省。
以前は割と一緒にあちこち行ったのだ。

年取ったなぁ、と思う。
以前は驚く程元気で、いくら歩いても平気だったのに。
階段を上がった所で休憩するのを見てちょっとさみしくなった。
自分が年を感じて切なくなってる分、親も確実に年齢を重ねているんだよな。

いつまでも、とは言えないのかも知れないけどせめてあと数年は元気で居てね。

またね、と別れた後ろ姿に祈るように思いましたよ。






最終更新日  2014年12月05日 23時30分49秒
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2014年05月17日
いつの間にか改修が終わってる!
…いや、終わってないけど。

以前から比べると
夢のように綺麗になりましたな。
まだ中には入れないし、奥の拝殿(?)は改修中のようなのですが、こんなに綺麗になってるぅ。

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唐門の内側。
閑古鳥。
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ぴかぴか。
ぼろぼろだった透塀も唐門も日光の様。
漆の手すりは自分が映るほどピッカピッカです。
す、すごい。

一日、上野で遊びました音符
自分が自分に戻ってきたような、そんないちにち。






最終更新日  2014年05月17日 18時46分05秒
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2011年12月04日
「坂の上の雲」がグッドお気に入り。
横須賀の「三笠」船もよかったね。

だからと言うわけでもないんだけど、青山霊園へ久しぶりに行きました。

~廣瀬武雄~
海軍中佐従四位
廣瀬武夫

念願きらきらの廣瀬少佐(当時)ですよ。

福井丸を指揮して第一次、第二次閉塞作戦に参加。
第二次閉塞作戦の3月27日、脱出したものの砲撃を受けて吹っ飛び、戦死。
閉塞作戦のシッパイを国民の目からそらす為、軍神に祀り上げられたとも言われています。
軍神ではないだろうと正直思いますが、戦争ってのはそういうことも平然とやるんですな。
私としては「坂の上の雲」がベースなので(笑)アリアズナとの恋とか、露軍人との交流だとか、そっちの方に胸を打たれます。

お兄さんの海軍少将勝比古さんと並んでいます。

~湯浅竹次郎~

湯浅竹次郎

この方は小説には出てきませんが、廣瀬中佐と同じく閉塞作戦船でその命を落とした方です。
会津藩士湯浅牧五郎次男。明治四年十月芝赤羽生まれ。
13歳の時、柔道家嘉納治五郎の知遇を得て明治二十一年兵学校入学。二十四年卒。
明治37年5月3日、旅順口第三回閉塞作戦に相模丸指揮官として参加。

2回の失敗を受けての3回目だったが、天候不順荒波のため中止となるはずだった。
連絡の不手際により見切り発進のようなカタチで出動。
案の定、作戦は失敗し竹次郎も生死不明となっていたが、旅順開城のあとの翌38年11月旅順口白玉山山麓の旧露国墓地に埋葬されているのを発見された。

当時の隊員の扮装は湯浅少佐ほか23名、銘々に日本刀を背負い、白布に辞世を認めて鉢巻とし、上に海軍帽をかぶって乗船したと言う。

廣瀬中佐も確か柔道家だったので面識はあったんだろうな。

墓所は訪れるヒトも手入れするヒトもいないのか、色づいた落ち葉葉に埋もれるように静かにありました。

~佐川直諒~
佐川官兵衛息子

佐川家

全然知らなかったショックんだけど、この方も日露戦争で戦死。
藤田五郎こと斎藤一の嫁、高木時尾の甥にあたる。
直諒の妻が時尾の弟、高木盛之輔の二女の泰子。

うわぁびっくり
時尾サンは直諒戦死に追悼の句を読んでいるそうだ。

嘆きても嘆きはてなき嘆きかな 御国にかへしいのちなれとも

明治38年8月遼陽の会戦にて盂家房で戦死したらしい。
この会戦には秋山好古も参加している。

今回は他に
会津藩士大竹多氣
  〃 楡井次郎
赤い靴の佐野きみ

など、廻りました。
ただお天気がイマイチで雨雨が酷かったのでデジがイマイチ。

雨でも負けずに谷中へ移動。

ここにはふりかえる亀音符がいるという。

~亀趺~
亀趺1

おぉ!?本当に振り向いているぅびっくり
亀趺2

なんで振り向いたんだろうねぇ。
この亀趺の持ち主は「埼玉県令白根多助」さん。
明治15年3月15日没。

萩藩士。
文久3年3月中山忠光の京都脱出を援助し、また勤王の志士達が活躍するための資金調達に努力した人物。

へぇぇ~。
勤皇志士ってヤツ?
萩藩士ってコトはそのつながりで亀趺なんだろうか?
そしてなんで振り向いてるンだろう???

さらに
大雄寺

~高橋泥舟~

高橋泥舟

~小杉雅之進~

寿嶺院殿量遠日議居士

維新後雅三と改名。
天保14年10月1日(1843)-明治42年(1909)8月21日。
幕臣・逓信官僚。正六位勲六等。諱は直道。号は竹?。

小杉家

「小杉雅之進が書いた箱館戦争」は有名よね。

安政4年(1857)、長崎海軍伝習所三期生に選ばれ、機関学を学ぶ。
その後、軍艦操練所教授方手伝となり、万延元年(1860)咸臨丸の太平洋横断時には蒸気方の見習士官を務めた。
慶応3年(1867)軍艦蒸気役一等となり、開陽丸機関長を務めた。
戊辰戦争では榎本武揚に従い、箱館政権では江差奉行並となった。

この方は初代となって小杉家が代々続いているのですなぁ。
そして姉が松平家に嫁いでいるらしいです。

ブレイクタイムは「愛玉子」で

愛玉子

「オーギョーチー」と読みます。
寒天のような食感で、砂糖水のような甘いレモンシロップで食べます。
台湾のデザートのようですが、現地では主食として供されているとか。
むむ。フシギな食べ物でした。

一乗寺で
~海老名季達~
会津藩士
海老名家

仏心寺で
~林惟純(三郎)~
会津藩士
林唯純

午前中はすごい雨雨で寒かったけど、午後には雨もやみ青空晴れが出てました。

上野でご飯ビールを食べアメ横をひやかしました。
ゆっくりアメ横を歩いたのは何年ぶりだろう?
天気のせいかそんなに混んでなかったのでゆっくり冷やかせました。
こういうお店を覗いて歩くのはなんて楽しいんだろう!
見てるだけで楽しくウィンクなりますな。

その後、餃子を食べビール、お茶を飲み面白マスターの居るお店ワイングラスでシメ。
一日中いろんな楽しみ方をさせていただいたイチニチでした。

あっちもこっちもしんどいけれど、こういう日がぽつんとあると癒されるわぁ。
それにしてもこの勉強不足下向き矢印はどうだろう?
そろそろ亀趺ぐらいまじめに取り組まねばねぇ…。






最終更新日  2011年12月04日 21時44分12秒
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2011年10月16日
三解脱門 戦後初の一般公開!!
三門

以前TVでタモリさんが登ってた。
登ってみたいよね。一般人だってさぁ。

もともとの階段の上にハシゴを掛けたようなアブナイダッシュ足元でしたが、わくわく登り、お釈迦様が真ん中に鎮座まします楼上へ。

真ん中の釈迦三尊像(普賢菩薩、文殊菩薩)と十六羅漢像。それに増上寺歴代上人の像が32体。
色が大分あせちゃってるけど、当時の華やかなお姿が偲ばれます。

当時はここから海が見えた目というのもなんとなくうなづけちゃうような雰囲気充分でした。
撮影禁止バツってのがサミシイですな

あわせてまたまた御霊廟へ。
戦災にあってメチャクチャになってしまったこちらの御霊廟。
寛永寺やガイドさんの話を聞いてると痛ましい。
残された人々が亡くなった人のことを想って造ったモノが無残に壊され、残されたものをかき集めて並べ直したからもともとの意味が全然違っちゃってる。
当時のヒトの想いが…涙ぽろり

Dさんに教えてもらった「遺徳之碑」やっと見つけましたよぅうっしっし
こんなところにあったんですね。

遺徳の碑
こっちの方はほとんど来た事がなかった。

前回来た時には売り切れてなかった当時の増上寺の風呂敷がありました!
やったぁグッドちょうど風呂敷が欲しかったんだよね音符
京都まで買いに行こうかと思ってたところだったからうれしかったぁ。
足の向くまま、気の向くまま広い境内をふらふらし、疲れたら休憩し、空を見上げ、東京タワーを見上げ、しばらくのんびり時が移るのを眺めてました。

増上寺

最近、忙しかったし緊張することも多かったから久しぶりにリラックスした良い休日になりました。

11月30日(水)マデ

鳳凰
こんなところで見つけた「鳳凰」と「牡丹」
牡丹

もしや、彼のヒトは当時コレを見たのダブルハートかしら…(マサカネあっかんべー

帰りの電車電車、リラックスしすぎて寝コケ、うっかり乗り過ごし。
しかもあわてて降りようとした目の前で扉が閉まるというハズカシさ。
あうぅ。
寝過ごし注意ムカッ






最終更新日  2011年10月23日 20時40分37秒
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2011年10月08日
横須賀

~信誠寺~
・川越藩士の墓
幕末。幕府は江戸湾沿岸の警備を大名守備で固め、川越藩主・松平大和守に観音崎・走水・大津地域の海防を命じ、天保十四年(1843)大和守は大津に陣屋を造営しました。
川越藩の任期は十年間で、藩士の赴任に家族の同行を許し、陣屋内に同居させました。
赴任中に亡くなった藩士六名と家族は計、二十八名。

1

門前の坂に並んでいました。

今日のお目当てはここに眠る小川一族。
この小川茂周の妻が会津藩士小櫃氏のむすめ志満子サンだそうです。

そしてこの茂周さんの弟が鴨居の高橋家に養子に行った善七サン。
高橋家と言えばあの赤い墓石の高橋家。

墓所の一角にこんな墓石が。

2

通称小泉屋弥兵エ養子也

なんとこの方があの小泉純一郎元首相の祖父に当たる方だとか。
うむむ。人の世のつながりって本当にフシギよね。

~赤門~長屋門
この日はお天気ばりばりで、本当に暑かった。真夏のように暑かった。
そのメチャメチャ暑い晴天の下、わざわざ回り道して見せてくださったのがこちら。

3

いったいなんのかというと、「夜明け前」の青山半蔵(藤村の父)の先祖、永嶋家だったそうで。
藤村の父は分家だったようですが、そうか、あの「半蔵さんにゆかりのあるお家(というか門?)なのね」
見たときはあまりの暑さでイマイチ感動も薄かった(スミマセンッ)けど、こうして落ち着いて眺めると
ナルホド凄いフシギな縁ですなぁ。

4

~聖徳寺~
浅羽家墓所

会津藩家老田中土佐の娘コノの嫁ぎ先、浅羽家の墓所。
コノさんは先の小川茂周の紹介(?)で浅羽家に嫁いだようです。
さらにその娘ゆきの墓所でもあります。
この「ゆき」さん、藤田家に嫁いだと言うのです。
「藤田」と言うのはモチロン斎藤一サンのコト。
ゆきが嫁いだ「藤田氏」はハジメサンの次男剛(強とも)だと言うのです。
さらにゆきと剛の次男統衛は浅羽家に養子へ行ったらしい。

墓碑には
明治三十四年三月二十八日 俗名此子(行年四十一才 コノ)
昭和四十八年三月二十日  俗名ゆき 行年七十九才
平成七年四月二十六日   俗名統衛 行年七十七才

とあります。
…アレ?剛は?

それにしてもゆきサンが亡くなったのが昭和。
統衛サンが亡くなったのが平成。
最近だよねぇ。

そしてハジメサンは本当にナゾの人物です。
ご本人の身元はモチロン、次男の墓所までも不明です。
長男は会津の墓所にご一緒に居られますが、次男剛はどこに眠っているのでしょう。
ゆきサンとの結婚が破談になったと言う話は聞きませんよねェ。

ナゾは尽きないけれど、この寺もスゴイ。
坂の上の階段の上。ふぅ。
何度も言うけど本当にアツイ日だったのです。

5

ここは永嶋家の菩提寺でもある。

6

なんというか。つくづくエンってフシギね。

~勧行寺~
入ってすぐ誠の旗が。
な、何故~~ッ?

・近藤内蔵助長裕

7

智正院顕隆日理居士
文化四年十月十六日 卒

天然理心流始祖近藤内蔵助の墓所でした。

お参り来たのは実は違う人だったのですが、まぁ、良いか。

とにかく、本当に暑くていつにも増してのだめっぷり。
連れて行ってくださったDさん、いつも本当にありがとう。理解が遅くて本当にスミマセン。

この横須賀行きがあったので、フクザツな藤田家の事情が漸く飲み込めるようになりました。
しかし、本当にハジメサンは不可解。

ここ横須賀へ行ったのは実は9月10日。
その後23日に会津へ行った時、藤田家関連の写真にこの「ゆき」さんが写っていることを発見。
いやぁ。驚きだ。エンって本当にフシギね。






最終更新日  2011年10月23日 21時48分25秒
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2011年08月20日
ご縁があって岩手観光。

~厳美峡~
厳美峡

なんだか木曽の寝覚ノ床を思わせるような風景ですねぇ。

~平泉~
世界遺産。

中尊寺

時間があまり無かったのでさらり~っとしか見られなかったのが残念。
ここはもっとじっくり、ゆっくり見なくちゃダメね。

参道から上がっていく道も、日光っぽいようなやっぱり全然違うような。
それでも漂う空気は同じかも。

いやいや。
日光よりも全然古いからやっぱり全然違うかな。

沢山デジったのだけど、どうにもUPしたいようなものが撮れなかった。

金色堂

こちらも中は撮影禁止とのことで、デジは×。

藤原氏が長い年月を掛けて平和を望み、建てられた。と言われるとちゃらり~んとデジったり、簡単に感想述べたりしちゃダメだろって気になる
今回、行くのはわかっていたのだけど、色々有って全然ノーマークで行ってしまったので、キモチがついていけない。
デジってもデジっても気に入らない…。

平泉

ただ。やっぱりこの歴史の重さと言うか、やっぱりヒトの想いのツヨサ。と言うものをひしひしと感じたり。

ここは出来ればもう一度、きちんと訪れたいッ!

明治天皇が能舞を見たと言う能舞台もありました。
そのとき天覧したのは「竹生島」だそうで。

いろいろと小さなツボを刺激されつつ、早足で駆け抜けた世界遺産でした。
…モッタイナイ。






最終更新日  2011年08月20日 21時35分25秒
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2011年04月18日
高遠の桜さくらが見ごろですさくら
と聞くとどうしても落ち着かないダブルハート
桜に浮かぶダブルハート高遠。
2年前のワクワクした気持ちとともに思い浮かぶ高遠。

1
ソメイヨシノとはまたちがった風情の、コヒガン桜。

高遠城大手門

1365

明治5年(1872)城郭の取り壊し令により、城の建造物や樹木も競売にかけられすべて取り払われた。
当時場内には大手、二ノ丸、本丸、搦手門の四つのやぐら門があったが、いずれも競売にかけられて民家や寺院の門として払い下げられてた。
これは明治29年(1954)に高遠城の正門として寄贈されたものだそうです。

1366

城の下のほうからてくてくと上りました。
普段は車でずっと上のほう上向き矢印まで行かれます。
観光バス地下鉄が狭い道をどんどん登るのを沢山見送りましたよ。
その途中の道で。

CIMG1370.JPG
!!高遠スモーク

山桜でスモークしました
お花見セットTAKE OUT OK

なんでしょう。
このおいしそうなお店は!!
ソーセージ、ベーコン、骨付きチキン
「限定200食 残り僅か!!

の文字とい~いニオイに釣られてGETちょき

暖炉レストランターシャの出店らしいです。

これが本ッ当に美味しかったのよぅ!!
ソーセージは垂れるほどジューシーグッドだったし、ベーコンは肉の味がナントモ美味目
骨付きチキンのこげ具合とスモークされた燻され具合。
いやいや、満足満足ダブルハート

1386

1388

1391

新城神社
1395

新城(盛信)神社・藤原神社
天保2年(1831)七代藩主内藤頼寧は家臣中村元恒の建議により、天正10年(1582)ここで壮烈な最期を遂げた仁科五郎盛信の霊を五郎山より城内に迎え「新城神」と称して祀り崇拝した。
以前より城内には、先代内藤頼以が内藤家の祖神である藤原鎌足公を勧請した「藤原社」があったためこの神社を「新城神」と合祀して今日に至っている。
なお、宝物として内藤家寄進の甲冑、その他の文化財があったがそれらは現在、高遠町の歴史博物館に保管されている。
                    ~案内板より~

街の桜はどこも満開さくら
城も下のほうはほとんどさくら満開。でも肝心の城の中心は満開とは行かなかった。
それでも桜はキレイきらきらに見ごろを迎えていましたよグッド

1407

南曲輪
本丸の南に位置する曲輪で保科正之公が幼少の頃、母お静の方と居住したところと言われている。
形状は方形をなし、本丸とは堀内道、二ノ丸とは土橋でつながっていた。
          ~案内板より~

ヒトが多すぎで写真カメラとってもわからん。
ひたすら桜さくらの写真になっちゃう。

ここは出店がた~くさんならび、みんな楽しそう上向き矢印
さっそく茣蓙を借り(茣蓙の貸し出しが300円からやってる!)
ジャガバタ、五平餅、たこ焼きなどなど買いこんで腹ごしらえ&のんびりとくつろぎました。

1419

観光協会が作成した「名君 保科正之公ゆかりの地を訪ねて」というパンフも無事GET。
これにはこんな場所が。

高遠城南曲輪…幸松君とお静の屋敷跡
保科家の菩提寺建福寺…正光公と正直公墓所
御堂垣外宿本陣跡…正之公が江戸から始めて来たときに高遠で最初に泊まった場所
藤沢城址…保科氏の拠点となった山城
長遠寺跡…お静の墓所となった城下の寺跡。
保科家の重臣北原采女光次の出生地…会津三名家のひとつ、北原家。
樹林寺と夕顔観音…祈願寺である樹林寺には正之公の頌徳碑とお静の供養塔。
正光の甥左源太の墓…正光公の養子だった左源太の墓所。
保科正之・生母お静像と大願成就地蔵…高遠町歴史博物館庭

うむむ…。行って見たい目なぁ…。

1425

1426

桜ばかりではありません。
可憐に花を咲かせています。

1433

1435

1439

1456

南アルプス。キレイですきらきらナァ。

場所がガラッと変わって、パワー上向き矢印スポット。

1478

デジは地味ですがここはなかなか凄いところらしいデス

まだ雪の残る「分杭峠」
「ゼロ磁場」と呼ばれる伊那市長谷と下伊那郡大鹿村の郡の境だそうです。

ゼロ磁場とは
未知のエネルギーの集積があるといわれています。
東洋医学によると、皮膚にある「ツボ(経穴)」は生命エネルギーの出入り口であると言われています。
地球の断層部分にも地球内部の未知エネルギーの出入り口があり、これを「ゼロ場(相殺磁場)」と呼んでいます。
断層の両側から、(正)方向と(負)方向の力が押し合って、局部的には零になり、零場が形成されてこの周辺に未知エネルギーが集積されやすいことが判っています。
未知エネルギーは力としてのエネルギーやラドン温泉等の低線量放射線エネルギー、原子を構成する素粒子郡等のサイ情報構成要素から構成されており、人々の心身を活性化させ、
力を与え、元気にしてくれると考えられています。

だそうです。
落ち込んだときに行っちゃうと「つかまっちゃう」らしく、テンションをあげて上向き矢印ポジティブな気分のときに行くと良いようです
幸い、この日はメチャポジティブちょき
なんと言っても高遠城ダブルハートへ行けたし、桜さくらメチャクチャキレイだし、あんまり混んでないし、体調も良くて
テンション全開ッスOK
願い事を丁寧に思い浮かべながら「気」(本当は中が米の気)をもらいます。
ふむッぐー

「気」を感じたかどうかわかりませんが、ずいぶんと気持ちのいいうっしっし場所ではありましたよ。
ひんやりしているのに寒くない…ような。
気温は12度。
普通の山なんですが、なんとなく立ち去りがたく…。
ずいぶんボーッ星としてました。

1485

そういえば二股口とか峠下とかそんな場所を思い起こさせるような山でしたな。

下山したらずいぶんと寒く台風なっていました。
今日は真夏日になるくらいアツかったのに。
やっぱり東京とは全然違いますね。
最後はコレ。やっぱりローメン。
ソースをかけて、お酢をかけていただきますちょき

1496
トイレにモジリアーニを飾ってる、ちょっとコジャレたうっしっし「ローメン発症の地」の元祖ローメン。だそうです。
昔は大分違ったようですが…パンチ
カウンターにハブ酒どくろもビックリ!なたくさんの「それ系」なお酒がずらり。
なんともオモシロイお店でした。

帰りの道路バスも空いていて定刻どおりに帰宅家できました。
いやぁ。楽しかった!!うれしかった!!しあわせ目がハートでした。
コヒガンサクラ、堪能させていただきましたダブルハート

次回は…(笑)

1452






最終更新日  2011年04月19日 22時05分11秒
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