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会津への道

2015年10月25日
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カテゴリ:会津への道
久しぶりに、ようやく行かれました。
念願の、会津。

今回はまず、土津神社にお礼を。

久しぶりだよ、新幹線。
実は前日ぜんぜん眠れなくてオメメギラギラでした。
磐越西線でまずは猪苗代へ。

なんか、ドキドキするよぅ。
駅前は結構賑わっていてはてはて?と思ったら
なんでも猪苗代ハーフマラソンがあるとのこと。
なるほろ。

紅葉が、始まっていました。

rblog-20151025222440-05.jpg

鎮石のまわりはぐるりと回れるようになっていて、ゆっくりゆっくり
巡ってきたよ。

拝殿まで降りてきて、そこそこに染まり始めた山を見上げる。
まだまだ見頃には早いんだろうけど、私の目には本当にキレイに見えた。
山も。神社も。
で、泣けてくる。
まだ会津にも到着してないのに、泣けて泣けて仕方なかった。

出来るだけ丁寧にお礼を申し上げ、新しいお守りを頂きました。
御朱印も。
そして願いを叶えていただいたお守りはお返ししました。

同じお守り、売ってたんだけど同じものとは思えないほど色が違ってた。
え。こんな色だっったっけ?ってほど…笑

握り締め縋り付いたからなぁ。てへへ。

新しいお守りはふたつ買いました。
共に戦う仲間にも。

今回の挑戦は本当にいろんな事に気づかされましたな。
ひとりで頑張ってると思ってたら、いつの間にか周りにたくさんの人がいて、
共に同じ方向を向いて、共に背を押してくれた。
自分もそんな風に、誰かを応援したいと、誰かのチカラになりたいと思いました。
応援がチカラになるってこと、実感したし、涙が出るほど嬉しかった。

そんなこと思ってたらもう…笑えるほど泣けてきた。

ま、そんな気持ちも空腹を満たしたらがっつり元気を取り戻しましたけどね。
なんとなく食べた普通のラーメンだったけど、やたらと美味しかったよぅ。

そして、そしていよいよ会津へ。

宿に荷物を預けると、チャリを借りて一目散にまずは「阿弥陀寺」
一応、ご先祖様へお参りせねばね。

でも行ったら驚いた。
先月のお祭りの名残なのか、常設なのか、境内に屋台が…\(◎o◎)/!
は?
な、な、なんですか?!コレは?

気を取り直してご先祖様へ報告とずっと来なかったお詫びをして、フト見たら。
御三階が開いてる!
なんかいろいろ変わってるぅ!

おそるおそる近づいたら人が寄ってきていろいろ解説してくれるの。
マサカと思って聞いたら御朱印も頂けるとのこと。
以前はなんだかんんだと頂けなかったのだが…。
う~ん、フクザツな気持ちです。

藤田さんにもちゃんとお参りをしてから「長命寺」へ。

ここ、いっつも迷う。
小学校の方から来ると入れないのわかってるのに、なんか近道に思えて
いつもまっすぐ行っちゃうんだよね。
で、結局戻って入りなおすという…。学習しないなぁ。
そして相変わらず、道が悪いなぁ。
自転車コワイよ。


rblog-20151025222440-04.jpg

会津の街をふらふらしながら、城へ。
なんか武者姿の方がいて、なんとなく眺めてたけど切なくなってきたので
急いで城へ登った。

歴史を辿りながら、観光客の会話もちらちら聞こえてくる。
やっぱり幕末あたり、白虎隊のあたりは人も多く熱心にみてるけど
明治になるとガラガラ。
いやいや。
あの幕末を経験した会津藩士たちがどんな明治を生きたのか見てよぅ。


しばらく城でうろうろしたあと、一休みしに「麟閣」へ。
抹茶を頂きしばしぼんやり。
そのぼんやりしたまま暮れていく夕日を眺めてた。

思いついて城の弓道場へ行ってみた。
ちょうど練習が終わったようで中学生?高校生?の方々が弓矢を持って外にいました。
もっと早く来たらお稽古、見れたかも。
残念な気持ちで未練がましく眺めてたけど、指導者はいないようで、
みんな弓に寄りかかってケータイみたり、弓で遊ぶような素振りも見えてちょっと、いや、かなりがっかり。
学生さんたちのマナーの悪さは東京もがっかりかりかりだけど、
マサカ会津もそうだとは。

会津の方々にはただならぬアコガレがあるので
清く正しく美しいヒトばかりと勝手に信じてる(笑)
現実を見せつけられたキブンでした。
少しオトナにならないとね、ワタシ。

それにしても
街のアチコチに「八重」のポスターがたくさんある。
思いついてスーパーにも寄ってみた。
「身不知柿」はまだ早いのね。
そう言えば「菊」って会津の名産だよね。
昔よく母が菊の酢の物を作ってくれたのをふと思い出した。

そうそう。会津行ったら欲しかったものがある。
「豆麸」
東京には売ってないもの。
こづゆには欠かせない豆麸。
ちゃんと買いました~。

最近あまり体調が良くなく(年のせいで)熟睡できない。
夜中に何度も目が覚めて眠れなくなる。
でも会津は。
やっぱり会津はぐっすり眠れたわ。


宿は定宿(笑)いや、いつも止まる宿。
朝食が付いてるのだ。
会津コシヒカリ
おいしかったけど口内炎3つにはツライ。
半分くらいしか食べられなかった(泣)


ひとつお寺によってから
院内に行きました


紅葉!
rblog-20151025222440-01.jpg

そして容保公の墓所の脇、松平家の墓所に看板が。
照姫さんがここにいるよっていう、看板。
大正6年、容保公がここに改葬された時、一緒に改葬されたのだけど
なぜか墓誌から削られてしまっていたのだ。
良かった。
本当に、良かった。

院内からひと仕事してから天寧寺へ。
近藤さんの墓所と、土方さんの墓碑へもお参りを。

そう言えば早乙女貢さんもこちらに。

そして古川家へもお参りしました。

時間に余裕があったので融通寺にも寄りつつ、そろそろ帰路へ。

昨日は割と穏やかなお天気だったのに、今日は風が強くて、寒い。
電車もどうやら遅れがちのようで、ちょっとした嵐のようになってきた。

こんなふうにのんびりを時間を過ごしたのは久しぶり。
ずっとずっと追われるように暮らしてきた。
漸く一息ついたけど、まだまだ道は長い。
でも
あせることはないさ。

残された時間は短いかもしれないけど、大丈夫。
もう、大丈夫。
ちゃんと自分のペースでやれるから。

いま、この時期。
会津に来られて良かった。
本当に良かった。
森羅万象、すべてにどれだけ感謝したら気持ちが伝わるのかしら。








最終更新日  2015年11月03日 01時02分42秒
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2014年09月29日
カテゴリ:会津への道
「高須四兄弟」新宿・荒木町に生まれた幕末維新 

高須家の有名な四兄弟は新宿で生まれたのだ。
幼少の時を新宿で過ごし、それぞれ他家に養子に行き養家に尽くすのだ。

それぞれに有名なこの方々、だけど四人兄弟から見た幕末というのはちょっと興味がある。

内容自体はそんなに目新しいものはなかったけれど、視点が違うと違うものも見えてくる。

この方々に限らず、大名と呼ばれる方々はみな教養が深い。
書でも画でもとても素敵。
嗜みだからと言ってしまえばそれまでだけど。

なんというか。
こういう人たちがニホンを動かしていたのだ。

この四兄弟、それぞれに思い入れもあり、いろいろ思うことも多いのだ。
でも基本は「大名」だという事だよ。
慶喜もそうだけど、殿様なんだよ。
いい意味でも悪い意味でもね。

そんな中でやっぱり目を引くのは明治十一年に撮られた四兄弟の写真。
今とは写真事情が全く違うとはいえ、四人ともそれぞれ全く違うものを見ているこの写真。
皆、洋装で幕末を思わせるものは何もない。
それでも。
四人がそれぞれ過ぎ去った時代を自分の眼で見ていると思うのは
考え過ぎなのかしらね。
決して安くはなかった(だろう)写真代はは四人できっちり折半だったとか。

なんだかじっと見ていると泣けてくるのデス。


そしてもう一つ。

三の丸尚蔵館所蔵という、明治天皇の発案で収集されたという、写真帖。
なるべく洋装で。との思し召しだったらしいのだが、容保公は風折烏帽子、大紋の武家の礼服姿なのだ。
この時、容保公四十五歳。戊申から十年。
どんな思いでこの衣装、この写真に納まったのか。

そんなところにもいろいろ感じてしまう訳ですヨ。

会場となった新宿歴史博物館は津の守坂のすぐ隣。
そんなわけでもなかろうが、四谷のご生家も結構詳しく展示されていた。

今はもう面影もないけれど、七万ヘクタールという広大な敷地に風光明媚な佇まいだったという、上屋敷。
ずっとずっと以前に行ったね。
また行きたいね。

図録がまたなんだか立派なのよ。
ちょっともったいないくらい。
論考とかも載っていて結構興味深く読みました。




この新宿歴史博物館。
ちいさいけれどお庭にはコヒガンサクラがあるのだよ。
春にね。また来たいよね。


新宿歴史博物館にて。11/24まで。






最終更新日  2014年10月01日 00時40分31秒
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2011年05月04日
カテゴリ:会津への道
今年のGWはとびとび。
いろいろ行事はあるものの、やっぱり行きたい会津若松。

会津若松へ行ってきました。
今回はお花まつりとダイスキな神社仏閣の様子見です。
お土産もいろいろ誂えたかったのだけれど…。
会津の観光は大丈夫なのかなぁ。






最終更新日  2011年05月08日 16時53分40秒
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2010年05月04日
カテゴリ:会津への道
今年は桜さくらが遅かった。
ならば会津の桜さくらに間に合うんじゃね?
…ってことで、行ってきましたちょき

すごかった目がハートよぅ。

石部桜

今回の会津はお花祭りに参加させて頂き、感無量の思いをしたり、土津神社の祭礼を見させて頂いたり、またまた大龍寺さんへお伺いしてお話を伺いました。
最近、あんまり予定を立てずにのんびり。と言うのがお気に入りなのでめずらしく会津でもやってみました。
のんびり会津。

すんごいチカラぐーもらって帰ってきたよ

出来るだけ急いでUPします~ダブルハート

UPしました~。
サクラサクラ、本当にキレイだったよぅ






最終更新日  2010年05月05日 22時09分30秒
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2010年01月24日
カテゴリ:会津への道
~廣徳寺~
圓満山広徳寺 練馬区桜台6-20-19

びっくり下谷の広徳寺 おそれ入谷の鬼子母神

と言われたあの広徳寺ですよ。
関東大震災で被災し、大正14年にここ練馬に移された。

会津松平家のみならず大名家の墓所が並び、隣には竹林と荘厳な雰囲気です。

会津松平家1

・玉峰宗雪大童子
三代正容公の長男・久千代丸。母側室智現院名もん
宝永3年12月26日に芝の藩邸で没。行年13。
 
・円通善覚大居士
四代容貞公の弟容章公(分家)の子容詮公、五代容頌公の養子。
安永9年(1780)30才で養子となるが天明5年(1786)6月17日に急逝。行年36。
側室にされたお久米の方の恨みによって呪い殺されたとの噂もある。

・温嶽宗恭大居士
容詮公の三男・六代容住の弟容序(かたつぐ)幼名為之助。
寛政12年6月7日に18歳の若さで逝去。

会津松平家2

・松寿院殿(貞操妙幹大禅定尼)
六代容詮公正室。松平加賀守治修の養女、実父は前田重教の女「頴姫(ほいでひめ)」
享和3年閏1月10日没。行年36。

・本光院殿(瑞岩妙祥大姉)
八代容敬公の正室。佐竹右京大夫義和の女「せつ」
文政8年12月10日没。行年16。

・寿鳳院殿(栄室宗繁大姉)
六代容住公の正室「謙姫」。井伊掃部頭直幸の娘。

・清仙院殿(齢保妙寿壽大禅定尼)
八代松平容敬公の後室。「せつ」の後室として迎えられた松平加賀守斉広の娘「あつ」。
嘉永5年8月12日、和田倉の藩邸で没。

・宝鏡院殿(鑑室智明大姉)
八代容敬公の五女で、九代容保公の正室敏姫。
文久元年10月逝去。行年19。

全く当時の大名家というものは、非道なことをいろいろしている。
「お家のため」「体裁のため」家臣たちは必死なのだろうが、当事者はたまらない。
会津松平家にもそんな例がある。

円通義覚大居士、容詮(かたさだ)公。
この方は側室のお久米に呪われたとささやかれている。

この方、容頌(かたのぶ)公の養子となった安永9年(1780)ときすでに妻子がいた。
しかし藩主となれば身分に会った正室を迎えねばならない。と言うことで、天明3年(1783)加賀前田家より頴姫(ほいでひめ)が正室として迎えられることになった。

たまらないのは「妻」の「お久米の方」である。
すでに照姫・富五郎・金之助と3人の子をなし、4人目を懐妊していたという。
お久米の方は容詮公や子どもたちから引き離され、生家に戻された。
さらにお久米を美濃部八郎右衛門という幕臣の嫡男に嫁がせようとしていたとか。

平穏でシアワセな暮らしから一気に不幸のどん底ですよどくろ
ヒドイ雫
その恨みが容詮公に向いたのか、容詮公は天明5年(1785)6月17日、芝の藩邸で急死。
これはお久米の方の恨みお化けとうわさされた。

その後、なんとお久米の生んだ金之助が容頌公の養子に迎えられ、容住(かたおき)公となる。
この方が在位わずか5ヶ月ながら6代藩主となったのだ。
つまりお久米の方は世子の生母ということで再び藩邸に迎え入れられた。
息子が藩主になったとはいえわずか5ヶ月で我が子も亡くなるとはなんとも涙ぽろり

お久米の方。剃髪後の名は心了院。寛政元年没。

当時の女性の扱いを思うとなんともヒドイ涙ぽろりがそれが普通に行われていたことなんだよね。
そう思うと照姫の墓所がはっきりしないのも仕方の無いことなのか泣き笑い

梅






最終更新日  2010年01月26日 00時15分17秒
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2009年09月08日
カテゴリ:会津への道
松平容保候の室といえば「敏姫」
死別してしまったものの8代藩主容敬公の娘ですよねぇ。

ところで「前田家の礼子(みちこ)」サン。安政元年~明治32年没。
この方が容保候の「室」で離縁したって?

榊原政敬(まさたか)の室。と言う話のは離縁した後ってこと?

慶応3年6月礼子と婚約、結納。

え。そうなの目
だって慶応2年の12月には余九麿を養子にしたんだよね。

あれ?婚儀の話がどこにも出てこない?

さて。どこから手をつけようかなぁ。

ところで養子の「喜徳」公。
「のぶのり」なの?「ひさのり」なの?






最終更新日  2009年09月08日 22時12分52秒
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2008年12月03日
カテゴリ:会津への道
キニナルひとを少しづつ。

仁科盛信
武田信玄の五男。

弘治3年(1557)生まれ。→ぜんぜん幕末じゃないジャンびっくり
天正10年3月2日(1582年3月25日) 享年26歳。

母は油川信守の娘で側室の油川夫人。
信濃国安曇郡の国人領主である仁科氏を継承し、武田親族衆に列する。

源平時代、平家方の笠原平吾頼直が源氏方に備えて元暦元年(1184)故郷伊那の月蔵(げつぞう)山の麓を見立てて城を築き高遠城と称した。
この城の南は断崖絶壁で三峰川に面し、西は急坂の下を藤沢川が流れる合流点で、東は月蔵山の下まで平であるが、堀を掘削し木柵を構え、櫓を設けるという堅固な城でその形が兜に似ているので甲山とも呼ばれた。

以来諏訪一族が高遠城主となり高遠氏と称し天文21年(1552)信玄によって頼継が自殺させられ高遠氏が滅亡するまで約、二百年続いた。

高遠氏を滅亡させると重臣秋山信友を城主とし、築城の大家、山本勘助に縄張りをせしめ、徹底的な増改築をし新しく勘助曲輪を儲けた。
その後、秋山信友を飯田城主に移し、その後に信玄の四男四郎勝頼を高遠城主に任じた。
元亀二年(1571)勝頼の子信勝が武田家を継ぐ事になり勝頼は後見人として甲府に戻り信玄の弟信廉(のぶよし)が高遠城主となった。

天正元年(1573)四月十四日、信玄が没すると織田・徳川方が攻勢をかけてくる。
天正三年(1575)長篠の戦で敗戦した武田方は守勢一方となる。
天正九年(1581)武田勝頼は高遠城主であった信廉を下伊那の大島城に移して伊那の総指揮とし、高遠城主には異腹弟の北安曇の森城主、仁科五郎盛信をあてた。

しかし長篠の敗戦以来勝頼に対する人望は日ごとに低下し一門の木曽義政が反旗を翻すと下条信氏、小笠原信嶺、保科正直、武田信廉までが戦わずして逃げ出した。
勝頼までも本陣を自焼して新府の城へ逃走し駿河口の主将で勝頼の姉婿だった穴山梅雪は徳川家康に降参した。

そんな孤立無援、全くの裸城と化した高遠城は微動だにせず城主仁科五郎盛信以下、三千の将兵は高遠城を死守していたのである。

この頃になると伊那・諏訪・松本など南信濃一帯は織田一色となり高遠城めがけて集まり高遠の谷間は織田の軍勢がひしめき合った。その数五万。それに南信方面を制圧していた森長可の一隊もくわわり合わせて六万の大軍が高遠城を包囲した。

六万対三千。
信忠は当然盛信も降伏する者と思い降伏勧告状を一僧に持たせて高遠城に送った。
決戦を覚悟していた盛信はこれを拒否。使者の耳を落として信忠に返事をさせた。

これを聞いた信忠は烈火のごとく怒りついに高遠城総攻撃を決意する。

天正10年(1582)3月2日早朝午前六時。
信忠は全軍に高遠城総攻撃の命令を下した。
高遠城は織田軍の猛攻に晒されたが、全員一丸となって勇敢に数十倍の敵を迎え撃つ。
主将信忠は戦線に参加し陣頭指揮を執る。
午前十時、とうとう城内に突入を許してしまう。

盛信らは奮闘した後、約500名余りの家臣と共に討ち死にして高遠城は陥落した。
このときの盛信は「武田武士の最後を見よ」と叫び、短刀を左の脇腹に突き刺し、きりっと右に廻し右の肋骨を2~3本切り上げ、自ら五臓六腑をわしづかみにして取り出し壁に投げつけたと言う。

盛信の戦いぶりは「比類なき働き、前代未聞の次第なり」と敵方の織田氏の史料である信長公記でも絶賛され、後世に語り継がれた。

切腹後首級は信忠のもとに届けられたが、盛信を敬慕する領民によって胴体は手厚く葬られ高遠城が目の下に見える裏山の頂上に石の祠を建てて祭りその山を五郎山と呼んだ。

またこのとき高遠城に人質として出されていた婦女子は勘助曲輪に避難していたが、落城のとき全員が自害、または介錯によって死亡した。
人質の中には保科正直の奥方(跡部越中守の娘)も難に殉じた。

保科正直公が逃げ、穴山梅雪まで降伏した。というのがツライが、とりあえずそう言う説もある。という認識で。
次回は保科正直公からみたこのあたり。…書けるのか!?






最終更新日  2008年12月09日 22時04分50秒
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2008年09月01日
カテゴリ:会津への道
最近の天候はヘン雫

降れば雨土砂降り、雷いなずまはすごいし。
そんな中でも行ってきちゃった、会津若松ダブルハート

今回は只見線に乗るのが目的の一つなのでちょっとフシギな感じでしたな。
何度行ってもどうしてこんなに楽しいんだろうねェ

只見線の旅はコチラ






最終更新日  2008年09月01日 23時53分55秒
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2008年07月07日
カテゴリ:会津への道
常日頃から会津会津と騒いでいたら会社の人が「お日市まっぷ」をくれた。

?おにちまっぷ??
なんですか、ソレハ目

各町内で行われてきた産土神、神社、仏閣の夏祭りのことです。
日限りの市をその祭礼日に開いたことから、祭礼が「お日市」に転じたもので、縁日とも言います。
古いものでは約400年前の蒲生氏郷の時代からあり、地域住民の手によって今日まで守られ、受け継がれてきました…。             「会津若松お日市まっぷ」より

7月1日を皮切りに9月8日まで45箇所の神社仏閣で縁日きらきらをやってるそうな。
ナルホドスケジュールを見るとほぼ毎日…!

馴染み深いあの神社から全然知らなかったこんなお寺までさまざま。
…いいなぁ泣き笑い
人ごみ嫌いの祭り好きあっかんべーにはたまりませんな。
行きたいな~泣き笑い
だってだって今度の週末は「興徳寺」「鶴ヶ城稲荷神社」なんだよ~。
鶴ヶ城の稲荷神社にはビミョウな亀趺きらきらがあるんだよな。

地元の夏祭り
な~んかいいよねうっしっし






最終更新日  2008年07月07日 23時25分47秒
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2008年05月18日
カテゴリ:会津への道
今から139年前の1869年5月18日。

箱館で榎本武揚以下、五稜郭で戦っていた旧幕府軍が降伏。
後に戊辰戦争と呼ばれる戦闘が終了した。

同じ日。
現在の麻布広尾にあった飯野藩保科邸では会津藩の戦争責任を負って家老・萱野権兵衛
切腹して果てた…。

その萱野権兵衛さんの法要へ参列させていただいた。

松平家御当主こそ来られなかったものの次代がいらしていてきらきら、この時点でかなり感激。
いや、何がどうというのではないのだけれど容保候の血を引かれる方のお側にいる自分がスゴイ!!と思ってしまう。

粛々と滞りなくすすんでいく法要の間、萱野ご家老だけでなく戊辰戦で亡くなった方々を想い、我ご先祖様に思いを馳せる。
我ご先祖様の墓は現存していない。
亡くなった日時も場所も当時の菩提寺もわかっているが現存していない。
戊辰戦争で亡くなった御先祖様もタブン阿弥陀寺であろうとはわかったものの、確証はない

その後、みんなで墓所のお参りをし、関係各所へ順次おまいりを済ませる。
ここは会津藩士の墓所が多い。
松平家も知らない墓所もあり、そちらへもおまいりしてくださった。
手を合わせるその姿を見ているとなんだか感極まってきた。
心中で様々な想いが交差し、泣き出しそうになりながら当時の方々を想う。

命を的に戦った兵士とその命を背負い生きていく当主。
自分がどのくらいソレを理解できているのかはわからないけれど、それでもこみ上げてくるものを押さえるのに苦労する。

直会のとき「5月は会津を考える月ですね」とおっしゃった言葉の意味が重い。
毎週のように行われる法要。
あちらこちらで同じようにみんな切なくなるんだな。
こういうとき戊辰はまだまだ遠い過去なんかじゃないと実感してしまう。

そとは天気晴れ
穏やかな日和の中で法要と直会が終了する。

となれば、あとは会津の勉強会。
それはそれは為になる楽しい時間はあっという間に過ぎていくのでした。

本日お集まりの皆様、お疲れ様でした。
う~ん、今日は良かったちょき
なんだかとても良かったきらきら






最終更新日  2008年05月19日 01時02分07秒
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