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中島三郎助

2007年01月27日
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カテゴリ:中島三郎助
はっぴぃば~すでぃつーみー音符

ってな訳で今年も行ってきました。
中島三郎助まつり
夕べの雨雨が嘘のように晴れあたたかく、穏やかな一日で史跡めぐりにはもってこいだねちょき
が、しかーし!!
デジに大失敗号泣
せっかくの名作が迷作に…。
悔しいので使ってやるぅどくろ

失敗1:梅がきれいに咲いていたのにぼけぼけ。

失敗2:ポスター
肝心のタイトルが入ってないじゃん!びっくり
ポスター

催しは去年と変わらず。
ペリーから貰った鍋で作ったシチューとか、地元の学生のブラスバンドとか歌とか踊りとか。
今回の私の目的は、三郎助展示と史跡めぐり。

中島三郎助展示は特に新発見もなく、箱館の中島町の紹介とかいろいろ。
箱館の中島町は考えたら凄いよね。
榎本町もあるけどさ、一介の箱館奉行並の名前が町名になっちゃうんだよ?
本当にみんなに好かれてたんだよね。

その由来に言う。

“中島町(字千代ヶ岱、字陣屋通、字五稜郭通ノ各一部)新設ノ松川町、堀川町、梁川町ノ中間ニ当リ且ツ箱館奉行中島三郎助ノ陣歿地ナルカ故ニ採ル三郎助ハ千代ヶ岱ノ主将ニシテ武人ノ典型タリ俳号木鶏ソノ辞世ニ「ほととぎすわれも血を吐く思い哉」明治天皇九年行幸ノ時木戸孝允ヲシテ特ニ戦況ヲ御下問アラセラレタリト”

…木戸孝允と三郎助さんは師弟の関係。僅かな時間ではあったけど木戸は尊敬していたらしい。
最後は敵味方になってしまったけれど、個人的感情は別だったらしく、三郎助さんの家族に随分よくしていたらしい。
だれにでも好かれて尊敬されている三郎助さん。本当にスゴイヒトぐーです。

今回ドックの見学も出来ました。
あのドックの底へ行きましたよ~。
ドック底

浦賀ドックは
明治24年(1891)中島三郎助23回忌にあたり、旧船番所裏手の愛宕山に招魂碑が建てられ、その除幕式の席で、かつて箱館戦争のときの同志であった荒井郁之助(函館での海軍奉行)が、「中島三郎助のために浦賀に造船所を造ったらどうか」と提唱し、榎本武揚は即座に賛成、地元の有力者に働きかけ鳳凰丸建造から約40年後の明治29年(1896)に浦賀船渠株式会社が創設された。
これは、招魂碑の碑文にあるとおり、中島の業績を考える時、造船所を造ることが中島の菩提を弔う 一番の供養になると考えたからに他ならない。
このようにして創設された浦賀ドックは、在郷資本家や技術者が大きく関わり昭和44年(1969)6月に合併して現在の社名「住友重機械工業株式会社」となる。
しかし平成15年(2003)3月閉鎖
現在跡地利用を思案中である。

ここのドックは日本では珍しいレンガ造り。しかもイギリス式が普通だった時代にフランス式といわれるレンガの積み方で造られている。
時代と共に船が大きくなり、改築を繰り返しながらココまで頑張ってきたドック。
何とか上手い具合に残してくれないかしら?
船の知識も海の常識もましてや造船なんて全然分からない。
ドックと言われて思い浮かぶのは「宇宙戦艦ヤマト~愛の戦士達」で旅立つヤマトの出航風景。バイバイ
でも説明を聞いてると同様なことがここでされていたんだよなぁ。
結構色々面白い仕掛けになっていて、俄然興味がわき、気づいたらデジ小僧と化す私。
イカン。当初の目的を見失っているぅ。お化け
でも閉鎖された工場秘密のトビラの奥とか、普段じゃ絶対入れない場所。と言うのはそれだけでワクワクするものだ。

見学が済むと我に返り史跡めぐりへ。
観光ボランティアガイドさんがいて、史跡めぐりをしてくれるのだ。
どんなコースかしら~と眺めていると会津藩士の墓所が何箇所かあるではないか。
早速申し込みに行くが、ワタシ一人だったのでワガママ言えそうあっかんべー←言うな。
で、言っちゃった~。ちょきちょき
そしたら今回は「浦賀」という事なので会津藩関係でまわりたいなら日を改めてにして欲しい。詳しい資料やガイドがいるから。と言われ、じゃぁ地図だけ買って勝手に回るか。と思っていたら「墓所の場所なら少しわかるから」と案内してくれることに!!
いやぁ、言ってみるもんだなぁ。←だんだんずうずしくなってないか、自分びっくり

つづく






最終更新日  2007年01月27日 23時55分01秒
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2006年08月05日
カテゴリ:中島三郎助
見てくれる人がいると張り切りますなぁ。
ちょっとだれ気味だったのでカツを入れてもらった気分です。
ありがとう。

で、浦賀の続きです。

ペリー公園
ペリー公園

二度目にペリーが来航した時に臨時に応接所を設け、物々しい警備の中で日本とアメリカが歴史的瞬間お化けをここで迎えたのですな。

ここは当時少年兵だった乗組員ベアズリーが数十年後日本に来日した時に、当時の久里浜を見たいと再度訪れたとき何も無いのに驚いてそのことを告げた為に日本側があわてて造ったという話も聞きました。
そして、明治34年7月14日ペリー上陸記念碑が完成除幕されました。
この記念碑には伊藤博文の筆で「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」と刻まれているらしいのですが、でかすぎて良く見えなかった雫
しかも第二次世界大戦中は「鬼畜米英」精神でこの碑を引き倒してしまった!?が、のちにアメリカ兵が上陸した時碑が倒されていたら何をされるかわからない!!!?と、あわててまた元通りに建てたいなずまと、何とも当時の大混乱振りどくろがよくわかる逸話も残っているそうだ。

またここにはペリー記念館もあり、ペリーと戸田伊豆守(当時の浦賀奉行)の銅像もありますが、戸田伊豆守の肖像は残ってないのでこの銅像は何を元にして造られたのかは不明らしい…guruguru
ともあれ、ここには当時の海防警備の様子や瓦版、ペリーが家族にあてた手紙などが展示されていて一見の価値はありますな。
ペリーが来航した時はアメリカ軍の船の周りは日本側の警備船がびっしり取り囲んでいたため後に警備に当たった同心達から聞いた話を瓦版や日記に残していたものが今日伝わっている当時の様子だという事で、情報がお金になった最初の出来事とも言えるそうだ。

~燈明堂~
前からここへは来たかった、漸く念願がかないましたよ。
燈明堂

江戸時代に浦賀港の入り口、燈明崎に建っていた燈明堂の跡地である。

燈明堂は今で言う灯台のような役割をする航路標識の施設だった。
慶安元年(1648)幕府の命によって幕吏市川六左エ門重勝や能瀬小十郎頼隆らが築造したと伝わる。
石垣を土台として、上に二階建ての建物があった。
階下は番人小屋で、階上は四方を紙張障子とその上に金網をめぐらしてあった。
その中には直径36.4cm、深さ12.2cmの銅製の大きな灯明皿が置かれ、一晩に灯心百筋と菜種油一升(1.8リットル)が灯され、その光は四海里(7.2キロメートル)に達したという。
当初は勘定奉行の所管となっていたがのちに浦賀奉行に所管替えとなり明治になり神奈川府の所管となった。
経費は元禄3年(1690)までは徳川幕府が賄っていたが、同4年からは東浦賀の干鰯問屋が一切を負担するようになった。
明治5年(1872)4月に廃止になるまでの約220年間に渡り一日も休まず夜間の海上安全の守り役として活躍し、我が国の灯台史上極めて貴重なものである。
建物は明治20年代まで残っていたというが風雨で崩壊し一抱えもある大きな石で高さ約1.8メートル、幅3.6メートル四方に組み合わされた「切り込みハギ石垣」だけが残された。
燈明堂跡は大正13年3月、国の史跡に仮指定されたが、太平洋戦争後解除され、昭和43年2月に市の史跡に指定された。
この石垣を利用して、平成3年、浦賀燈明堂が近代建築の技術の粋を結集して当時の姿そのままに復元された。
(案内板より)

当時のまま残っているのは石垣だけなんだけど、この石垣にも負担がかからないように現代建築の粋を結集して復元なったそうだ。
光源は電気に変わったものの当時と同じくらいの明るさになっていて当時を偲べる。というが、当時と今とじゃ夜の暗さが全然違うからなぁ。
石垣

ここからは直ぐ海に降りられて、磯遊びをする人たちが沢山いました。
燈明堂下

またここはあまり知られていないらしいが、首切り場のあったところお化けでその供養塔も建っている。
供養塔

台座には天宝十一年十月東福寺と刻まれている。
ここで首切りとなるのは海での犯罪に限られ、陸の犯罪はすべて江戸へ連れて行ったそうだ。

~中島三郎助招魂碑~
今回の浦賀巡りも終わりに近づいてきました。
最後はやっぱりココでしょう。
招魂碑
愛宕山にひっそり建つ中島三郎助の招魂碑
訪れる人も少ないのか、うっそうとしています。
函館の「碧血碑」を思い起こさせますなぁ…。

ついうっかり踏み込んでしまったのでまたまた蚊の熱烈大歓迎を受けあっという間に大変なことに…。
うう。虫除けいなずま持ってたのに使う暇もなかった…。
招魂碑2
戊辰戦争終了後の明治24年、彼を追慕する浦賀の有志達によって建てられたもので、篆額は当時外務大臣になっていた榎本武揚
ここ愛宕山公園はこの碑を建立する為に整備された。
篆額は榎本さん、除幕の日にここ浦賀に造船所を開業しようと提案したのはその時初代中央気象台長だった元蝦夷共和国の海軍奉行、荒井郁之助
この人は本当にみんなから慕われ、惜しまれた人だったのだ。
愛宕山

お天気には恵まれなかったけれど、行きたいのに行けないと諦めていたところを回って貰えたので大満足でした。
巡った台場があった山の写真がどれもイマイチだったのが残念gokyu
浦賀には満足したけどこうなると千葉とか品川の台場めぐりとか行きたくなっちゃうなぁ…。
おぉ。あぶないあぶない。

おまけ。
お昼はやっぱり海のものがいいですね。ってことで連れて行ってもらったのが「生簀屋 海
いやぁ。うんまい。夢中
興味深い沢山の話とうんまい鮮魚。あぁこれで地酒の一杯でもあれば…。
いやいや、ゼイタクは申すまい。
なんだか夢心地になっちまいましたよぅ。
センセイ本当にありがとうございましたぁ!!







最終更新日  2006年08月05日 15時01分06秒
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2006年07月24日
カテゴリ:中島三郎助
三浦半島で海防警備に当たっていたその場所を見てみたい!!

しかし、前回ちょっと書いたように大砲の飛距離を考えたら台場を増やすより、軍艦作ったほうが全然安心
そんなわけで台場の重要性が揺らぎ今ではもう跡形もありませぬ
それでも地元郷土歴史家の某大先生に無理をお願いし、三浦半島を案内してもらえることに…!!←まったく無謀だ雫我ながら良くやった…グッド

生憎時々泣き出す空模様傘から写真が上手く撮れず、今は跡もないとなれば何度眺めてもただの山でしかない写真の数々。
あ~あ。涙ぽろり
今までの龍神しょってたおでかけに比べたら全然ラッキーさあっかんべーと自分を慰めつつ、こんな天気でも家族連れに賑わう海辺を巡ったのでした。

~観音崎~
ここは台場がなくなった後、直ぐに灯台として生まれ変わったところ。
初点灯年月日は明治2年(1869)1月1日。ヴェルニーによって起工されました。
箱館戦争の頃ですよ。もちろん中島さんたちはそんなことも知らずに遠い蝦夷地でつかの間の休息を取っていたことでしょう。
現在は山全体が公園となり保護されているのでこれ以上荒れたりしないでしょう。
灯台の立っているまさにこの場所に台場があり、大砲を備えていたのだ。
う~ん。
お天気がよければ房総半島がはっきり見えるそうです雫
観音崎より

当時の面影は全然ないのね~と思っていたら、ありましたようっしっしちょき

観音崎

コレは当時の見張り場へ続く階段だそうですよ。
コレを登って物見をしたらしい。
異国船がやってくるのはいつもこの時期。そう雨の日も多かったんじゃないかな。
足場も視界も悪いそんな時は、さぞや緊張したことでしょう。
ペリー艦隊が来た時、海防警備に携わった人たちは身分の上下に関わらず遺書を書き水杯を交わして警備に当たったといいます。
なんと大げさな!うっしっしと笑いますか?

此処まで来る間にはいかめしい洞窟もありますよ。

洞窟

洞窟は
聖武天皇の御代天平13年(741)春、行基善薩は諸国修行の途中ここに来られ、この洞窟にすんでいる大蛇が、漁民や人々を苦しめているのを聞かれ、大蛇を退治してその霊を鵜羽山権現として祀りました。
この近くの走水神社に日本武尊とその后弟橘媛命がお祀りしてありますが、この洞窟の沖で入水して海を鎮められた弟橘媛命を十一面観音として刻まれ、側に安置されまして以来海上安全人命守護の霊地として信仰されてまいりました。

                                  (案内板より)
む?弟橘媛命
前に見たよなぁ。右近クン段チャンで交代でヤマトタケルタケヒコをやったのを。
あの時自らを海に沈めて「命様を助ける!」とけなげに沈んでいった姫を演ったのは、アレは春猿丈じゃなかったっけ?雫
波に飲まれていく弟橘媛命に必死に手を伸ばし悲しみに絶叫する段チャンタケル壮絶だったなぁ。
そういえばその走水か。ここは。

旗山崎~十石崎を眺めつつ右に走水神社をちらみして海岸線を走ります。

~会津藩墓所~腰越
腰越

文化7年(1810)、藩主松平容衆(かたひろ)候は江戸湾(現在の東京湾)警備と台場構築を命じられ、房総半島には白河藩、三浦半島には会津藩が侍や足軽、その家族を含めて千数百人が移り住み10年間過ごしました。
三浦半島の防備についた会津藩は、三崎の城山と鴨居の腰越に陣屋を、観音崎など3ヶ所に台場を置き、守りを固めました。
そして、鴨居に養生館、三崎に集義館という子弟の教育の場である学問所を開きました。

学問所まで作ったというところに会津藩のカクゴが見えますね。
三浦半島には、当時の会津関係者の墓(鴨居西徳寺・能満寺・走水円照寺など)が多く残っています。
ただ、名前まではあまり伝わっていないそうでわずかに墓誌に残る名が手がかりのようです。
墓も神式でした。←亀はいないけど…。

えっ…?当時藩主の容衆候は7歳!?

腰越

ここは急坂になっていて坂の上に墓所があります。
この辺り一帯会津藩の陣屋があったところといわれ、その規模はかなりなものだったようです。

慣れない土地での慣れない仕事、さぞや大変だったろうけれど台場構築などは地元の人々も借り出されて供に苦労をしたのでしょう。
そんなわけもあり近年横須賀と会津若松は友好都市提携を結んだそうです。
ここの墓所はちゃんと手入れがされていてお花も供えられています。
時の流れに呑み込まれ、消えていく墓石も多い中コレは凄いことですよ

会津藩陣屋

この辺一帯全部会津ですよびっくり

古いトンネルをいくつも潜り(方向音痴・地図音痴のため上手く説明できません~)鳶の巣、亀ヶ崎、鳥ヶ島、明神崎と場所を教えてもらいます

あ~ぁ、また長くなっちゃったので続く~☆






最終更新日  2006年07月24日 23時33分15秒
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2006年07月23日
カテゴリ:中島三郎助
~三浦半島の海防警備について~

三浦半島

打払線というのはいわゆる最終防衛ライン。ア・バオア・クーですよ←知ってる?guruguru
ココを抜かれたらもうヤバイ雫ところです

乗止線というのは出来ればココから入って欲しくない爆弾というところ。
もちろんペリーさんたちにとっては「知ったこっちゃ無い」ライン。
現在ではこのラインから東京湾海上交通センターの管轄になり、船舶はその指示で通行します。

~三浦半島の台場について~
台場

旗山崎十石崎川越藩、(松平家・直克17万石)平根山は会津藩警備です。
それ以外は浦賀奉行です
これらの台場は全部一般に稼動していたわけではなく、徐々に出来たり廃止になったりしたわけですがペリー来航の嘉永6年(1853)くらいはほぼ稼動してたみたいです。
もっとも新しい台場は鶴崎でこれが弘化2年(1845)建造です。

ペリー来航時日本側の大砲は射程距離が約2キロodoroki
最終防衛ライン観音崎~富津間約7キロ
ぜんぜん防衛ラインになってません…。雫
それを知っている人たち(中島さんたち)は恐かっただろうねぇ。どくろ








最終更新日  2006年07月23日 22時20分19秒
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2006年07月19日
カテゴリ:中島三郎助
開国基礎講座」~浦賀に来航した異国船

全部で4回もあるのに一回しか参加できなかった。
でもさ~。
面白かったんだけどまず自分が「基礎」を勉強してから、来い。って感じっすよ

事柄はね~。みんな知ってることだったし、それを史料を見ながら確認していくお化け感じでわかりやすく講師の先生の話もよくわかるんだけど…爆弾
肝心の史料が読みこなせないんだなぁ。
日頃のオベンキョのおかげちょきで「読む」ことは出来るし、大体の意味もわかるけどそれはいわゆる「現代語での読み下し文」であって、旧かな雫とか旧漢字下向き矢印が混ざるともうお手上げ失敗

オマケに時代背景が全然入ってなかったりするんだなぁ、これが涙ぽろり
京都・江戸・浦賀・西国の時代の感覚というのかなぁ、そういうのはどの程度違うのかしら?
そんなことは一人ひとり違うし、もうわからないことなのかなぁどくろそれに引っかかってるから進めないのか…orz

結局謎が謎を呼んだだけで終わっちまいましたどくろ
あぁ不完全燃焼。

こんどは海防警備についた忍藩、川越藩、彦根藩そして会津藩のコト調べなくっちゃだわマル

すんごい期待して行ったわりに軽いいぢわる言われて気分は下向き矢印
いかん、いかん。お化け
大好きな中島さんが背を向けて去っていくようなそんな気分ですだguruguru






最終更新日  2006年07月19日 21時54分56秒
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2006年06月04日
カテゴリ:中島三郎助
うらがぁ~うらが~♪うらうらがぁ~~♪♪☆ミ

ってな訳で、浦賀です。
今回のテーマは「浦賀奉行所と三郎助宅あ~んど勤務先

~浦賀奉行所跡~
まずはこれを。

位置関係
当時の奉行所と役宅の地図です。
勤務先である浦賀奉行所自宅こんなに近くodoroki
実際歩いても徒歩5分って所。
上の丸が三郎助と長男恒太郎の自宅、下の丸が次男英次郎(ふさじろう)の自宅。

浦賀奉行所は現在某会社の団地で土地はほぼそのまま残っている模様。
周りを通るが残っています。よろこび

奉行所の堀跡

そしてもう一つ。当時から残っているもの。
石橋

この石橋は奉行所の正面玄関に当たる部分で当時からの面影を伝えるもの。
「奉行所と役宅」の地図を見ると解かるように道の突き当りからずれたところに正面玄関があり、コレはやっぱり敵に攻め込まれた時にまっすぐ襲撃を受けないように配慮されたものだそうだ。
奉行所をぐるりと囲む掘割をわざわざ作ったことといい太平の世というけれど、どうしてどうして今で言う「太平」とはやっぱり意味が違うんだと思うのは考えすぎかな?    (060805追記) 

この浦賀奉行所は

享保5年(1720)伊豆下田から浦賀へ移されたもので、業務は「船改め」をはじめ、地方役所、警察、裁判所、海難救助など広範囲にわたった。
文化・文政(1804~1830)のころから異国船が姿を見せるようになると、江戸を防備する為海防の最前線としてさらに重要な役割を果たすようになり、その格は長崎奉行所に次ぐものとなった。
敷地は東西86m、南北75mの広さ。
享保5年から慶応4年までの約150年間に奉行は初代の堀隠岐守から最後の土方出雲守まで53人が勤めた(2人制の時期も含む)
また奉行所には、与力10騎同心50人の役人も勤めていた。
          (案内板より)
堀

実際ぐるっと歩いてみたけど、当時の面影はないものの地形的にはあまり変わっていないらしく、堀と思しき小川が団地の周辺をぐるりと囲んでいて裏はすぐ山。

裏山

そして神社。

~大六天榊神社~
大六天榊神社
当時はもう少し上にあったらしいが、この地区の鎮守様

主祭神は面足彦命(おもたるひこのみこと)猿田彦神のこと。
大禄天は第六天(多化自在天たげじざいてん)に語呂が通じ、修験者の信奉した仏神といわれている。
道の分かれるところを守り邪霊の侵入を阻止する神として、御祭りしている。
お社の漆喰彫刻は浦賀の神社仏閣に見られる特徴。 (案内板より)

三郎助さんたちの奉行所をずっと見守っていてくれた神様ですね。
ここはちっさい山の上
モチロン人気もなく、聞こえるのは鳥の声ばかりの静かな場所。
見上げる空は晴天dehe

~中島三郎助邸跡~
山を降りて奉行所に沿うように行くと、昔の地図とほぼ変わらぬ地形のまま戸建てが立ち並びます。
三郎助さんの家は役宅だったので跡形も残ってなく、現在たっている家もまるで関係ないヒトが住んでいるんでしょう。

中島宅跡

回りもみんな役宅跡だったはずなので、同僚や部下が直ぐ近くに住んでたんですな。
次男英次郎さんは三郎助さんの父・清司さんの跡を継いだ形なので別に清司さんと一緒に住んでいたんだろうか?hate

~おまけ~
なんじゃもんじゃ
なんじゃもんじゃの木

長島家裏手の自然林にあるモガシの大木
残念ながら昨年から枯れ始め今年の春に枝を落としてしまったguruguruとのことで、いまは幹だけが残る。
偶然、御当主と思われる方にいろいろをお話しを伺えたのだが、枯れる前に沢山胞子を飛ばしたらしく大木は枯れてしまったが若木があちらこちらに芽吹いたとのこと。よろこび
う~む。
自然のチカラって素晴らしい夢中
枯れてしまってもつないでいくイノチ
冬の間は山へ入れるらしく、木の根元に祠があるそうだがもうこの季節になると蛇が出たりして危険なので山へは入らないとのこと。
実際裏庭のなんじゃもんじゃの木を案内していただいたが木の棒で払いながらだったので、実は内心冷や汗たらたら、どきどき。
出てきたら泣いてたねえっへんにょろ!!ぎやぉ~~!

なんじゃもんじゃ若木
これが若木ですがなんじゃもんじゃの木です。

ところどころ赤い葉で遠くから見ると紅葉してるみたいにきれいなんだって。
これが大木だったらさぞ迫力があったんだろう。
ちょっと残念。gokyu

~船番所跡~
船番所跡
浦賀奉行所の出先機関で、享保6年(1721)~明治5年(1872)まで、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と積荷の検査をする「船改め」を行い、江戸の経済を動かすほどと言われた。
与力、同心の監督の下「三方問屋」と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋百軒余が昼夜を通して実務を担当
「入り鉄砲出女」を取り締まる海の関所としても重要だった。
(案内板より)

後ろに見える建物は現浦賀病院。ここに番所の建物があったのだ。
実務は現場の人だけどその監督をしていたんだね。三郎助さんも。
そして手前の海には船がずらっと並び、さぞ活気あふれる場所だったに違いない。

浦賀文化センターで時間を使いすぎ、もっともっといろいろ行きたかったのだが、時間切れ
迷ってさまよった時間が恨まれる←方向音痴が恨めしい…。
遠いぞ!浦賀!!

浦賀は中島さんのほかにも会津藩が海防警備について領地を貰ったり、流人がここから船に乗ったりとまだまだ知りたいことが沢山。けけけっ

舗道






最終更新日  2006年06月04日 23時44分12秒
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2006年05月31日
カテゴリ:中島三郎助
龍神さまが付いていたので出かけるたんびにいなずま雨だったけど、どうやら龍神さまはお休みらしい。
この隙に!!

中島三郎助、第6回。←まだ続いていたのよん。ふふふ
さて。今日を一言でまとめると…。

浦賀文化センター内の展示室はスゴイ!

これでしょう。

さすがお膝元。資料がごろごろ。

~鳳凰丸復元模型~
鳳凰丸

嘉永7年(1854)ペリー来航の翌年、三郎助建造主任となって完成させた、日本初の大型洋式軍艦船
外国からの技術指導もなく造船書だけを頼りに作られたというのだから、スゴイodoroki
ペリー来航のときサスケハナ号に乗り込んだ三郎助がいくら熱心に見て回ったからって、それだけでこんなの作っちゃうんだから、やはり才能ある技術者だったんだろう

それまでの国内船とは桁違いの大きさで、砲10門を備えていたという。
既に世界では蒸気船が主流となっていたとは言え、何もないところから造る。というところがねぇ。

船体には朱塗りに黒のストライプ、帆は幕府所属を表す黒の横一文字日章旗
そして舳には「鳳凰

鳳凰

本当にこんな色だったかどうかは謎だと思うあっかんべーんだけど、たいしたもんです。

5月には浦賀奉行戸田伊豆守をはじめとする奉行所の役人を乗せて、房総半島の沖合いまで試乗し、好評を博した。このとき三郎助は褒美を貰っている。

翌、安政2年(1855)には幕府の要人をたちに披露する為、仮の艦長を三郎助と与力・佐々倉が務めて江戸、品川沖へと回航。途中艦砲射撃の演習までしている。
品川沖へと現れた鳳凰丸を見た江戸湾警備のものの中には異国船来航と勘違いして幕府に注進したものもいたとか…。
そのくらい良く出来ていたのだ。

品川沖では老中阿部正弘を始め、若年寄・大目付・目付・御側衆など幕府の主要閣僚が連日見分に訪れ、見分は大成功三郎助をはじめ、乗組員に褒美が与えられた

こうして鳳凰丸建造を通して軍艦の必要性を感じた幕府は長崎に海軍伝習所を開設する事になるのだ。

しかし時代は蒸気船に移り変わっており時代遅れとの感も免れず、おまけに勝海舟が鳳凰丸のことを「やっかい丸」と称したので鳳凰丸に対する評価はますます低いものとなってしまった。

なんて余計なことを言うんだ、コイツは。
やっかみか?
もしや、それで仲悪くなったのか?hiyaase

その後、仙台藩へ貸し出された鳳凰丸慶応4年戊辰戦争の折、榎本艦隊に接収され蝦夷地へ渡ったらしいのだが、その後は良く分からない。

浦賀文化センターの学芸員さん(?)はとても親切。
怪訝な顔をしながらも的外れな私の質問にも丁寧に答えてくださった。
おかげで謎が増えたんだけど爆弾おいおい探していきましょ。

とまぁ、こんな調子でまだまだ続く。






最終更新日  2006年06月08日 09時24分32秒
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2006年04月29日
カテゴリ:中島三郎助
咸臨丸フェスティバル」で浦賀へ。
お天気はなんとか持ちそう…。

本日のラインナップ ぱんぱかぱ~んスピーカ
*浦賀港一周歴史スタンプラリー

近隣7箇所に設置されたスタンプを4箇所以上押していくとわかめプレゼント

決してわかめが目当てじゃなくて、たまたま行ってみたかったところに設置していたのでちょっと楽しみだった

なんたって「中島三郎助スタンプ」があったのだ!
これは行くしかないでしょ~!よろこび

ところで中島三郎助さんを紹介する冊子「中島三郎助と浦賀」(横須賀開国史研究会)には面白いエピソードが紹介されている

嘉永6年(1853)6月9日、ペリーが来航して偽奉行の浦賀与力香山栄左衛門が大統領の親書受け取りを交渉、そのお迎えに三郎助さんが黒船に乗り込んだときのこと。
三郎助さんの様子を「錦糸や、光る絹や、華やかな色で飾り立て、念入りに身じまいをしていて立派であったが、大して荘重な姿ではなかった」と評しさらに「異様に飾り立てたトランプのジャックの様子と良く似ている」と評しました。(ペリー提督日本遠征記)

!!トランプのジャック
なんだか「言いえて妙。」でしょ~けけけっ
ということできらきらジャック三郎助」(←ちょっと語呂が悪いかな)

そんな評価をされた三郎助さんだけれどもペリーが二度目の来航をしたときになると「彼の頭の働きはたいしたもので、しきりに知識を深めている」と変化。
また翌日もペリー艦隊を訪れた際に腹痛を訴えた者がいて、三郎助さんが印篭を取り出し丸薬を与えているのを見て「このてきぱきした処置の取り方は、彼がずぶの素人でないことを示すものであった」と大いに見直す記述が見られる。

ふふふ。イイぞ!ジャック三郎助!!
こんなにすごいお人なのに知名度がいまいちなのはナゼ?
guruguruもったいないよぅ
というわけで中島三郎助さんを広める為にもゼヒ!このスタンプはゲットしたかった!

他には
*水恋乞い(水運び)レース
*パレード=ブラスバンド・咸臨丸乗組員・甲冑隊・民謡流し踊り甲冑隊!ですよ。見たいよぅ~
*模擬店・フリマ
*ステージアトラクション
*「やまゆり」乗船体験航海(事前申込)
*「すがなみ」乗船体験航海(事前申込)
*「たかとり」一般公開(巡視船)
*浦賀○×クイズ
*浦賀の史跡案内

これはね~是非「ジャック三郎助史跡めぐり」をして欲しいッ!

*ONE DAYミュージアム「咸臨丸関連資料」「産業遺産紹介ツアー」(ドック内見学)

咸臨丸関連資料というので行ってみたが「ジャック三郎助」はほとんどなくて残念。
やっぱり咸臨丸=勝海舟だよね~
これは御子孫のかたがやっておられてその活動なんかも紹介。
結構面白かったんだけど「ジャック」がねぇ…←どうしても気になるの。urukira

*JAZZコンサート
*咸臨丸フェスティバル式典など…。

えっちらおっちら時間をかけてたどり着いたのは良いけれど
「咸臨丸関連史料」を見たところで雨。

うわぁ~どんどん降ってくるぅどくろ
雨宿りにお蕎麦屋さんでランチをしていたが止む気配なく…。どくろ

結局そのままフェスティバルは中止。お化け
パレードとスタンプラリーは中止になりました…。
甲冑隊…。

え~っ!!私の「ジャック」のスタンプぅ
フェスティバル会場へもどり役員の方に聞くが雨で撤収した為何処にあるか分からないとのコト。
が~っかりするわたしを見かねたのか、役員の方が「これでよければ…」
と、役員用サンプルを下さった!

中島三郎助

ひゃっほぅ~♪
強奪のように貰ってしまいましたが、怒られてないでしょうか?
ちょっと心配です。でもありがとう~赤ハート

あ、ちゃんと史跡も見てきましたよ~

*大衆帰本塚*大衆帰本塚

幕末にこの周辺が宅地や米蔵などに開発されるとき、傍らに眠っていた無縁仏をひとまとめにして供養しようと、時の浦賀奉行(本物(笑))大久保土佐守が決めて奉行所付大工の棟梁川島平吉が建てた。その碑文の筆を執ったのが三郎助さんです。

でも写真で見るとおりボー○スカウトの植樹によってお地蔵さんが埋まってます…。hiyaase

*水のトンネル*

水のトンネル

明治33年(1900)操業を開始した浦賀ドックは工業用水を確保する為に、現在の二葉二丁目にあった溜池から掘った全長約千メートルの導水坑の出口。
この導水坑は、浦賀ドックが独自のタービンを開発するため、冷却用の水を大量に必要とし、そのために造られたもの。

だそうです(案内板より)

水のトンネル内部

トンネル内部。
ココを辿っていくとその溜池に出るわけだね♪

ところで肝心の「浦賀ドック」というのはこれ

ドック1

奥に見える水門を開くと水がどば~っと入ってくる。
手前はへさき側。
側面にはレンガの階段。
このあたりは地盤がしっかりしているので石で補強しなくても大丈夫だったんだって。
だからキレイにレンガで造られてるんだって。
う~ん、雨さえ降らなきゃ降りられたのにィ。

まさかと思うけど、私って雨女
千葉からこっちいつも降られているような…
まさか。まさか…ね…
来週も降ったら…あ~ごめんなさ~い!
どっかで竜神拾ったかしら?
背中に憑いてたらどうしよう!?


今回もお土産を。
おいしかった黒船まんじゅう
おみやげ

ジャックスタンプがあるんだから、ジャックまんじゅうがあってもいいよね?urukira
焼印押してある奴。
せっかくだから是非作って欲しいなぁ
だめですか?
いつも親切な観光協会様

最後に、仕事で疲れてるのに、天気悪いのに付き合ってくれたSりん。
いつもいつもありがとう。わがままにつき合わせて散々歩かせてゴメンね。お化け








最終更新日  2006年04月30日 13時24分41秒
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2006年03月13日
カテゴリ:中島三郎助
安政2年(1855)長崎海軍伝習所港中島さん榎本さんは出会いました。晴れ勝海舟も。

勉強熱心な二人はそれなりに仲が良かったものと思われ、伝習所港から戻っても何気にお付き合いは続いていたらしい。
ちなみに中島さんと勝海舟とは仲が悪かったらしい。どくろ
吉田松陰が二人の仲を最大限に憂いた手紙を桂小五郎に送るほどで、どちらも鼻っ柱が強くて自分を曲げないからまともにぶつかったんじゃないのかな。
勝海舟と中島さん
徳川家に対する忠誠の最後の様においてまで相反して貫通したのだ。
そこへ行くとどちらとも上手に付き合ってた榎本さんてやっぱすごい。
星さすが外交上手きらきら


文久2年(1862)9月11日に榎本さんはオランダ派遣留学生としてバタビア行きのオランダ商船港に搭乗して長崎を出航したが、途中暴風雨荒波のため難破、困苦の末の文久3年(1863)4月18日、ようやくロッテルダムに入港しセントヘレナ島荒波に到着しました。
ここから中島さんへ書簡を送ってます
旅中のこの大変な時期に長崎からの経路や、詩を書いたから笑ってみてくださいとか書いてます。

榎本さんも文化人だし、号を持つだけあってそういうつながりのほうが強かったのか、宛名は「木鶏盟兄」で署名は「梁川」です

もし。
蝦夷国が負けずにいたら月
豊玉兄」宛ての「梁川拝」の手紙とかきらきら
木鶏兄」宛ての「豊玉拝」の句会に連れてってくれるように頼んでる手紙マル秘とか残ってたかもね~♪

コホン。ウィンク話しがずれました
榎本さんからの手紙メールするはもう一通残ってます。
こちらは奥さんのすずさん宛て。

「ご無沙汰してます。
急に蝦夷へ行くことになりました。今年の冬はお便りできず、健康を願ってました。
よそはち君(中島さんの末っ子、慶応4年(1868)2月生)へのおもちゃプレゼントでも買ってください。賞金(ってお金も送った)
よそはち君が成長したら学問などの世話はさせてもらうから必ず心配しないでください。
麻疹がはやってますけど大丈夫ですか。
出立前に急いで書きました。
 6月29日      榎本釜次郎

超意訳ですがこんな感じのお手紙メールする出してます
これ、慶応4年のことだよね
榎本さんがいつ蝦夷行きを決めたのかはですが
この時点ではもう既に蝦夷行き港を決めてるんだよね
まだ会津は篭城してないし、奥羽越列藩同盟もその盟主に輪王寺宮をって言ってた頃じゃん?
第一土方さんも大鳥ひよこさんも合流してない…。

榎本さんはハナっから会津を助ける気はなかったってことかなぁ…?

それはなんとも残念だな涙ぽろり

でもさ、榎本さんて巷で思われてるよりずっと面倒見が良いというか相手のこと良く考えてくれてたと思うのよ。四つ葉
明治の世で薩長側からも旧幕府側からも冷たくされただろうに東軍の慰霊の為にあっちこち行ったり篆額したり、月世話したりと色々やってくれたもんなぁ

京都でも榎本さんの書いた碑、あったもんね
あれは伏見の戦没者だから直接は関係ないのにね。それをヤな顔一つせず引き受けてくれたのはエライ

どっかの誰かさんみたいに、ほとぼり醒めた頃ひょっこり橋の字どくろ書いてるよりずっとずっと偉いと思うぞ爆弾






最終更新日  2006年03月14日 00時08分38秒
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2006年02月20日
カテゴリ:中島三郎助
中島さんと土方さんは親しかったはずだ(←断言!)

まず何処で最初に会ったのか?
これは大阪だと思いたい。
慶応4年1月、鳥羽伏見でまけた幕軍は大阪城に集結。
9日、新選組は「富士山丸」と「順堂丸」に分乗して江戸へ帰るわけだが、
土方さんは「順堂丸」に乗ったといわれている
一方、中島さんはその前年の9月に「開陽丸」で榎本さんたちと大阪へ来ていた。
浦賀でもらった年表には「12月に朝陽丸で帰府」とあるが、この時期そんなに行ったり来たりしてたのか?
いやいやそのまま我が国初の海戦、淡路島沖の春日×開陽丸戦に参加したと思いたいじゃん♪ d(⌒o⌒)b♪
そして、慶喜逃亡の後一緒に江戸へ戻った可能性はないとは言えないよね。urukira

まぁ、親しく話したかはどうかはそこまで都合よくは行かないだろうからひとまず「知り合い」程度だったとしよう。

次にあったのは多分仙台
慶応4年、8月末に榎本艦隊に乗船して仙台松島湾に到着してるから9月には土方さんと合流していたはずだ
その頃土方さんと榎本さんは仙台の説得してたからのんびりする暇はなかっただろうな
すると仙台が降伏して旧幕軍が仙台に集結した辺りから蝦夷へ渡るくらいの間に親しくなったのか…!

なんでそんなに親しかったはずだと断言するかと言うと
この年の暮れ、12月29日に行われた箱館在住の俳人孤山堂無外による句会に中島さんと共に
土方さんが出席して、(大それたことに)句を披露しているのだ

戦ばっかりしていた土方さんが俳人の弧山堂無外と知り合ったとは思えないし、何より無外と三郎助さんは旧知の仲
これは句会に連れて行ってくれるように土方さんが頼んだのに違いない
そんなこと頼めちゃうくらい仲が良かったのさ。

他には川村禄三郎が出席したというこの句会、中島さんの句最高点をとったとか…。
ってことはなに?点をつけたわけだねみんなの句に
土方さんの句は…まぁいいや(笑)

ちなみにそのとき詠んだ土方さんの句は

わが齢 氷る辺土に 年送る

年が明けてからしばらく、土方さんは五稜郭ではなく箱館市内にいたと言う話もあり、そしたらますます三郎助さんの千代ヶ岡とは近かったよね。

ともかくこの弧山堂無外なる方、三郎助戦死の際

武士の魂か 一声ほととぎす

と詠んだ。
これは三郎助の辞世

ほととぎす 我も血を吐く 思ひかな

と並べてみると…。(T_T)

土方さんと三郎助さんは似てるかもね。信念の貫きかたというか、生き方が。








最終更新日  2006年02月20日 22時59分44秒
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