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桑名藩

2006年02月16日
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カテゴリ:桑名藩
桑名藩戊辰戦記

その名の通り桑名藩士たちの辿った戊辰戦争の顛末
慶喜が逃げ帰った後から奥州での戦い、降伏と蝦夷へ渡ったところまで。

桑名藩士は全員が一緒に行動したわけじゃなくて、色々複雑
江戸→彰義隊→福島→仙台→蝦夷(森常吉)
鴻之台→宇都宮→今市→柏崎→鯨波→朝日山→加茂→会津→庄内(立見鑑三郎)
とかいろいろ。その行動を追うだけで途中からしんどくなるほど。

でもこの藩主松平定敬候と藩士は仲が良いのよ
みんなアツイしね
すごく強いしねvv
そして土方さんともビミョーにシンクロしながら転戦していく

桑名隊が強かったのは鳥羽伏見の後、軍政を改正して若手をどんどん起用したからだって
ナルホドと思う反面、やっぱり京都で所司代をしていたことも大きく影響してるだろうと思う。
会津藩と共に京都を帝を守ったのは自分たち、それが賊軍なんて冗談じゃない!!っていう気持ちが強かったと思うのよ。

著者は後に箱館新選組になった関川代次郎さんの係累だそうで、そのせいかすごく熱心だしあちこち行ってるし複雑で難しい東北の戦を知るには絶対良い本です。

ついでにもう一つ。
定敬候が箱館に渡るとき変名した名前がちゃんと載ってる!

一色三千太郎

「いっしきみちたろう」と読むのか?
なんで何の意味でこんな名前にしたんだろう?

残念ながら蝦夷へ渡るところで本が終わっているのでその後の彼らはどうなったのかこの本ではわからないが、いつか続きを書いてくれないかな

郡義武 ¥2900 新人物往来社

ついでにここここここも。






最終更新日  2006年02月17日 00時07分26秒
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2006年02月02日
カテゴリ:桑名藩
そんなわけで今日もすっかり桑名です

大鳥さんの「南柯紀行」とかぶってる場面がそれぞれの立場から見てて笑え…いや、興味深い
確か大鳥さん、自分の日記「南柯紀行」では、4月11日江戸城開城の日に脱走してきた旧幕府軍が市川大林寺で総督を決める場面で。

自分は未熟だからそんな大任は引き受けられないと固辞したが、出発できずに困り果て日光までならと引き受ける」とある。

こちら「桑名戊辰戦記」に出てくる藩士、町田老之丞(天保9年生まれ←土方さんより3つ年下。桑名藩主戦派頭目)の手記によると、

「吾れ、徳川家の禄を受ける事未だ三年なるとも、君臣の大義もとより死をもって報せんと思う。然るに数百年の恩受けたる麾下の士中には一向に報する事知らぬが如き者あり、長大息するのみである」

って、堂々と引き受けてるじゃん。固辞してないじゃん!!

でもこの桑名藩の町田老之丞さんは共に闘った大鳥さんのことをすごく買っているようで

味方が崩れかかった時も最後まで踏み止まり、負け戦で兵士が落ち込んでいる時も、大鳥のみは陽気で部下を激励していた

と褒めている。

余談だが…。
この本を書いた郡義武氏は大鳥さんのことを
「ただの学者ならとても箱館まで戦い続けることはできなかった」と言っている。
確かにこの先、戦いをやめる機会はいくらでもあったのに最後まで行ったもんねぇ。諸作家氏が書くほどヘタレではなかったような気がしてくる。
ただし、この男は名前が良くない。どうしても上方漫才を連想する。これは明らかにマイナスイメージである
とも書いている_(__)ノ彡☆
そういえば知り合いに大鳥さんの話をするとそういう反応だ!!(爆笑)

土方さんの話も出てくる♪
例の宇都宮城攻略のとき怖気づいて逃げようとした伝習隊の一兵士を
「退却するものは誰でもこうである」と一刀の元に斬り捨てたヤツ。
歩兵はこれに励まされ(←「脅され」じゃないのか?)ふたたび進撃する。
歳三は血刀を下げて悠々と歩を運ぶ
―と、桑名藩士中村瑛次の「桑名戦記」にある

当時、この「退却するものは斬る」と言うのはどこでも当然だったようで、桑名隊も江戸脱走のとき申し合わせている
「万一命令に叛き戦場にて退く者あらば、君の御名を汚す故にこの者は速やかに斬。我等に於いても退者あらば諸子速やかに斬るべし」(石井勇次郎「見聞略記」)

なにも旧幕府軍だけじゃない

因州(鳥取)藩の隊長河田佐久馬もこの後の宇都宮城奪還戦で同じ言葉を吐いているし、山形狂介(有朋)も7月25日の長岡再落城の時に、このセリフを言っている。
ただし山形の場合、そのセリフを言ったとき寝巻きのままであることに気付いてそのまま逃げた(!)。というオチつきだったトカ…。

とにかく、当時の考え方として極あたりまえのことだったらしい。
ただし斬る斬ると言っても実際に斬ったのは土方さんだけかも…
やっぱり土方さんはスゴイ!←そこかよっ!

(「桑名藩戊辰戦記」参照)

大鳥圭介「南柯紀行






最終更新日  2006年02月02日 23時48分50秒
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2006年02月01日
カテゴリ:桑名藩
桑名藩戊辰戦記」という本を借りた。
土方さん容保候にばっかり目が行ってて
そういえば桑名藩のことあんまり知らないよなぁ
思ったのがきっかけなんだけど
当然、桑名藩は土方さんとの接点はたっぷりある。

まだ読み始めで慶応4年4月なんだけど
すごぉーく面白い予感

3月に甲陽鎮撫隊で敗れて五平新田に駐屯した頃、近藤さん入隊を勧誘しに来たとか、近藤さんが投降したことを聞いて腰砕けになっちゃった大久保主膳とかいままで知らなかったけど

あぁそういうことだったのか!

と納得することが沢山

戊辰戦争見聞略記」を書いた石井勇次郎がいるので興味も倍増。
このヒト、当時24歳。すぐ「流涕」(はげしく泣くこと)しちゃう感激屋さん。以前「箱館戦争史料集」に載ってたのを読んだことあるんだけど、確かそのときは江戸~仙台はなかったんだよね。(←紙面の都合で(T_T))

それから森常吉さんも…。
このヒトは箱館新撰組の隊長森弥一左衛門陳明(もりやいちざえもんつらゆき)が本名。
この頃の桑名藩主戦派はみんな藩に迷惑がかかるからと言う理由で脱藩、名前を変えている。
…。律儀と言うかなんというか。
そうまでして守りたかった藩はもうすぐなくなっちゃうのにね。

そういえば鴻之台に集まった江戸脱走チームも土方さんを初め変名のヒトが多かった。それで軍議も混乱したとか。
変名してないのは大鳥サンくらいなものかも…(←やっぱり大鳥サンてなんかおかしい(^0^*)

今回はその辺もたっぷり出てくるし、いろんなヒトの残した記録を元にしてるので安心して読める!!
小説なんかだとどれが史実でどれが創作でどれが風聞かわからないしね(x_x)

そんなわけでしばらくは頭が桑名。(爆)
そのうち桑名ページが出来てるかもね♪






最終更新日  2006年06月25日 17時10分09秒
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2006年01月30日
カテゴリ:桑名藩
中島三郎助まつり」に触発されてこんな発見を!

服部半蔵正成(まさなり)~超有名な家康の部下というか忍者集団のおかしら
その子孫にあたる12代目の服部半蔵正義(まさよし)は弘化2年(1845)9月うまれ。
慶応元年(1865)21歳のとき家督を継ぎ、桑名藩家老となりました。

えっ!定敬さんの家来!?

なんと初代服部半蔵の息子、石見守正就(まさなり)の妻は桑名藩主松平定勝の娘で、正就が暇を出されたため妻は3人の息子を連れて実家にもどり息子たちは松平家の家臣に。

その後、松平家は松山、桑名、今治に別れ、息子たちもそれぞれの地に別れましたが次男の石見守正辰(まさとき)は桑名松平家の親族として代々続いたのです。

さて、当時桑名藩主松平定敬は京都所司代として京都で活躍、半蔵も京都に在住して藩主を補佐していました。
翌慶応4年正月の鳥羽伏見の戦いに半蔵も参戦しましたが、周知の通り敗走。
藩主定敬にしたがって大阪から江戸を経て越後柏崎へ転戦、軍制の建て直しの後御軍事惣宰(おんぐんじそうさい)となり桑名軍全軍を指揮した

しかし、東北各地の藩が降伏したため9月26日に庄内(山形県鶴岡市)で降伏。

う~ん、土方さんとは微妙に会わないなぁ
いや、柏崎から会津に来たからそのときに会ったかもね

明治2年11月、戦争責任者として森弥一左衛門陳明(つらあき)が切腹して桑名藩への戦後処理が完了。桑名藩は再興され、半蔵は桑名藩大参事や第三大区長(桑名郡長)などを務めました。
明治19年に桑名で没

ちなみに戦争の責任を一身に背負って切腹した森弥一左衛門陳明は藩主定敬に従って箱館まで渡り、新選組に加入(←藩主についていきたいなら新選組に入れって土方さんが言ったから;)
箱館新選組では隊長格である改役だった、森常吉のことです

森常吉は文政9年(1826)江戸八丁堀の桑名藩邸で生まれ、後森家へ養子に入り万延元年(1860)には藩の大目付となります

え~っ!土方さんより9歳も上じゃん(゚O゚;)

藩主定敬らが柏崎方面で激戦を繰り広げていたころ、江戸で彰義隊に加わり上野戦争に参加、撤退して仙台で定敬と再会したのです。

そして弥一左衛門は森常吉と改名して(藩に迷惑はかけられないと脱藩もしたとか…)新選組に参加、蝦夷へ渡ったのです。
そのとき一緒に蝦夷に渡った仲間に「戊辰戦争見聞略記」を残した石井勇次郎がいます。

戦争責任を取って切腹したことにより森家はこの日断絶
辞世は

なかなかに 惜しき命にありながら
  君のためには なにいとうべき


話がそれましたが
桑名藩の家老としてもう一人ちょっと謎な人物が
酒井孫八郎この方、上記の服部半蔵の弟らしいのですが1845年生まれなんですよ。
服部半蔵は1845年9月生まれ。
孫八郎は11月17日生まれ。
一体これはどういうこと?

とにかく、半蔵とは実の兄弟らしい(←アヤシイ…)
こちらの家老は留守家老として桑名城に居て藩論の統一を図った。
鳥羽伏見の戦いの後藩主定敬が江戸へ脱出、柏崎へ転戦したため、前藩主の子を立て、亀山藩の仲介で朝廷に嘆願書を出し、桑名城を明け渡した

勝手にそんな…。いいの?

その後、箱館に渡った定敬を帰藩させるため箱館に渡り説得し連れ帰る
このとき明治元年12月29日から翌年3月4日までさかんに土方さんと会って相談してる。
そして4月13日定敬は箱館を離脱している
この辺の藩主と新選組に取り残される形になった森常吉や石井勇次郎らとの別れは涙を誘う。(T_T)

何だ、中島三郎助さんとの接点はないじゃんか!とおもうでしょ。
でも服部半蔵さん、浦賀にペリーが来航したときサスケハナ号に乗ったらしいんですよ。
ちらっと耳にしただけなのでなんで?とか本当?とかギモンも沢山あるんだけどちょっと調べてたら土方さんとの意外な接点に驚いてギモンそっちのけで突っ走りました(爆)

なので真相はまたそのうちに…(←本当か?をい;)



「戊辰戦争見聞略記」石井勇次郎
「新選組・彰義隊・白虎隊のすべて」
桑名市HP参考







最終更新日  2006年07月07日 20時14分00秒
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