Heartful Rainbow 14「Dear Mr. Senichi Hoshino」 2003年9月15日、甲子園球場で、星野監督が胴上げされていました。 阪神タイガースが、18年ぶりの優勝を決めた瞬間でもありました。 結局、その日はデーゲームで広島にサヨナラ勝ち、そのあと、19時33分に、横浜スタジアムでヤクルト敗戦。 結局、19時33分に、甲子園球場は歓喜に包まれました。 星野仙一監督。「1947年1月22日生まれ。血液型はB型」。 よしきが、タイガースファンからドラゴンズファンに鞍替えした理由は、実はここにありました。 1987年、星野監督の中日第1期政権誕生の時。 たまたま選手名鑑を見てて、「同じ誕生日の人でもいないかな?」と探していたとき。 たまたま、よしきの目に留まったのが、ドラゴンズの新監督として迎えられた、星野監督でした。 (ちなみに、よしきは1976年1月22日生まれのB型です。笑) 結局、そこからよしきのドラゴンズファンの歴史は始まりました。 喜怒哀楽の激しい性格、色んなところに気配りをするところ。 ま、1月22日生まれの性格って、こんな感じなんですよ。笑 星野監督2年目の1988年に、ドラゴンズの優勝。 ファンとしては、初めてドラゴンズの優勝を目の当たりにしました。 日本シリーズは勝てなかったんですけどね。 それと対照的に、タイガースは低迷の一途。 正直言って、甲子園球場では、よくドラゴンズの勝ち試合、見せていただきましたね。笑 唯一、タイガースが意地を見せたのが、1992年の話。 ま、有名ですよね。亀山・新庄が大活躍した年でした。 星野監督は、1991年に監督を辞任。 星野監督は、よくこういうことを言ってました。 「長期政権になってはいけない。血は、入れ替えなければいけない時期がある。」 星野さんは、NHKのサンデースポーツ・サタデースポーツのメインとして活躍。 このころは、やはりこういうことを言ってましたね。 「タイガースが強くないと。 やはり、ジャイアンツとタイガースが切磋琢磨することが、日本のプロ野球を盛り上げるんだ!」と。 昔から、ずっとタイガースファンだった星野さんなら、納得の一言でしたけどね。 そして、1995年のオフ。 ドラゴンズに、あの男が帰ってきました。 男 星野仙一、2度目の監督就任。 ドラゴンズは、星野さんがいない時は大変でしたね。 運命の「10・8」を迎えたり。優勝も出来ないままでいました。 やはり、星野監督になると、ドラゴンズの観客動員は全然違います。 星野監督じゃないときは、ナゴヤ球場では入るんですが、ビジターに行くと客足はさっぱり。 でも、星野監督になると、ビジターでもドラゴンズファンはたくさんいるんですよね。 そして、監督就任4年目。1999年。 開幕11連勝というロケットスタートに乗って、ドラゴンズは優勝しました。 でも、日本シリーズではまたも勝てませんでした。 それから2年後。2001年のオフ。 またも「長期政権は良くない。」ってことで、星野監督は、ドラゴンズを退団することになりました。 後任の、山田久志ヘッドコーチに譲る形として。 そこからでした。タイガースに、よしきが予想通りの展開を感じたのは。 「阪神、後任に星野監督最有力。」 ちょうど、2000年のオフ。 タイガースがどん底に落ち込んでいた時期、たまたまタイガースの後任監督の話になったんです。 タイガースファンのまわりでは、「掛布さんがいい。」とか、「バースを監督に」とか。 やはり、1985年のV戦士の監督待望論を聞いていました。 その時、よしきはこうじゃないのかな?と思って、言ってた言葉がありました。 「次のタイガースの監督、ひょっとして星野さんじゃないの?」 最初は、ビックリされました。ドラゴンズの現監督が、タイガースの監督をやるわけがないと。 でも、その話は、1年後に現実になりました。 「星野監督、阪神の監督就任へ。」 この頃、実はよしきは悩みに悩んでいた時期でもありました。 「星野さんについていくべきか?14年間愛着のあるドラゴンズに残るべきか?」 そう、心の中では星野さんが好きでも、ドラゴンズにも愛着がある。 しかも、星野さんはタイガーズの監督。 関西出身のよしきにとっては、どっちに取るのか、悩みに悩みましたね。笑 結局、ドラゴンズに残るということで決めたんですけどね。 さて、就任会見のとき、こんなことを話されていました。 「阪神ファンは全国にいる。選手は幸せだ。 そのファンに1年目からあきらめる気にさせないようなシーズンにしたい。 ファンが“なんやAクラスか、なんで優勝争いしないんや”と言えるようなレベルへもっていきたい」 この言葉は、1年目からその片鱗を見せることになりました。 2002年は、故障者続出ということで、6月に失速。結局4位でした。 でも、星野イズムは、着実とタイガースに浸透していくんです。 FAで、片岡・金本の獲得、メジャーリーガー伊良部の獲得。 適材適所のトレードでの新加入。ドラフト。 ドラゴンズ時代では見慣れていた、星野監督主導のオフシーズン。 金本獲得の瞬間、何かを感じました。 「87年、トレードで落合を獲得した時。あの時とそっくりだ。」と。 星野監督が徹底してやること、それは「核」を作ること。 今のドラゴンズにも、昔のタイガースにも共通して言えることです。 「あいつが試合に出ていれば、何かをやってくれる。」 そういう選手が、不足していてたんです。 88年優勝のときは落合、99年優勝のときは山崎。 たとえ9回裏でも、何かをやってくれる選手がいました。 今のドラゴンズには、そういう選手はいません。厳しい話ですけどね。 そして、タイガースは2003年の7月にマジック点灯。 運命の9月を迎えることになります。 優勝マジックが「2」となって名古屋に乗り込んできたタイガース。 とりあえず、ドラゴンズファンのよしきは、タイガースファンにこう言うしかありませんでした。 「ナゴヤでは、絶対に胴上げ阻止したる!」 でも、どう見ても状況は厳しいものでした。 しかし、よしきのゲキに応えてか、ドラゴンズは、胴上げ阻止の3連勝を飾ることになります。 このとき、ドラゴンズはガタガタでした。 チームを襲った、突然の報告。 シーズン途中での山田監督の休養。残り試合は佐々木ヘッドコーチが就任。 しかし、ドラゴンズにも意地がありました。 「残りのタイガーズ戦、全勝すれば勝ち越せる!」 そうです。8勝13敗から、の奇跡のタイガース戦6連勝。 ドラゴンズファンにとっては、「意地の6連勝」と言われるのかもしれない。。。 実は、タイガースはナゴヤではゲンが悪い。 ジャイアンツV9がかかっていた1973年。 ナゴヤ球場でタイガースが、優勝にあと一歩というところまで来ていた。 そう、ナゴヤ球場で、負けさえしなければタイガースの優勝。 その時、ドラゴンズのエースとしてマウンドに上がったのが、今のタイガースの監督、星野仙一さんだった。 「ドラゴンズ本社の本音はジャイアンツに勝たせるなや。 緩いタマほったのに田淵なんかさっぱり。 池田のホームラン性の大飛球をウチの外野(井上)が捕りよってな。 マウンドで思わずグラブを地面に叩きつけたわ。 けど、あの試合は江夏でも上田でも、タイガースは勝ってないとおかしいわな。」 結局、タイガースはドラゴンズに負け、そして、最終戦でジャイアンツに敗れ、優勝できず。。。 あれから30年。やはりナゴヤには、タイガースが胴上げできない何かがあるのだろうと。。。 ま、何はともあれ、タイガースは2003年の覇者となった。 その裏で、ドラゴンズは2004年の監督人事にアタフタしている。 何故かはわからないけど、大阪から、星野監督のゲキが飛んできそうな気がした。 「ドラゴンズも強くなきゃ、プロ野球は面白ないやろうが!」 今のドラゴンズナインに必要なもの、それは、ひょっとして「大幅な血の入れ替え」なのかもしれない。。。 今、はっきりといえること。今年のタイガースは、ホントに強い。 でも、来年は、ドラゴンズがペナントレースを頂きます。 さて、1つお知らせを。 9月15日 デイリースポーツの号外を、デイリースポーツさんのご好意によりたくさん頂いております。 もらえなかったので、是非欲しい!って方がいらっしゃいましたら、 こちらを見てくださいね。 |