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創作小説 よしぞー堂

創作小説 よしぞー堂

ドブネズミと捨て猫とノラ犬 7



 奈呼の葬式には行けなかった。
 死んだなど認められなかった。
 空子は葬式に行った。
 線香一つ、立たせてもらえなかったらしい。
 受付で、ご遠慮願いますと言われたそうだ。納得出来ないので制止を振り解いて向かおうとした時、三人の女が現れ言ったそうだ。
「あなたみたいな人間と関わりがあったなど、他の皆様に知られたくないのです」
 女の一人は、他の者から奥様と呼ばれていた。下品で作った汚い玉のような女の横には、お嬢様と呼ばれる二人の女が居て、そいつらも言い放った。
「あの子は一族に相応しくなかった。死んで当然。淘汰されたのだわ。死に際までオチコボレ」
三人共、晴れやかな目をしていたそうだ。奈呼の父親は、来ているかどうかも分からなかったと空子は言った。
「ちくしょう!  食えもしねぇ紙切れを人よりちょっと持ってるだけじゃねぇか! そんなに偉いのかよ! 悔しいよ霧矢! 奈呼が可愛そうだよ!」
 空子は畳を殴って怒鳴り散らし、一番中泣き続けた。
 俺は心の底から、クソな日々に戻ったんだという事を知った。
 そうして一年が過ぎた。俺は未だ、悪夢から覚めないでいる。
「きりや……霧矢」
 遠くから声が聞こえる。
「しっかりしろ、バカ」
 俺はこの声を知っている。ガキの頃からそばにあった。たけのこ園で会った親友の声。
 屋根を叩く雨音が聞こえ始めた。頭のねじが一本取れているのか、視界がぼやける。
「まじ、いいかげんにしろよ」
 目を開けると、空子が俺の顔を覗き込んでいた。
「酒と薬、一緒に飲むな。堕ちるだけだ。分かってんだろうが」
「あぁ分かっている。分かっているから酒くれよ」
 空子に愛想笑いをしながら、酒が無いか周囲を手で探る。
 空子はクソでも見るように目を細め、溜息を吐いた。その時、俺は空子が抗鬱剤の入っている袋と、ウイスキーの瓶を持っている事に気づいた。俺のだ。何、取ってやがる。
「奈呼の一回忌だぞ。墓参りはどうする?」
 奈呼の名前を聞いた瞬間、ママを思い出した。そのママの顔が、波にさらわれる砂の城のように崩れ落ちた。次に、奈呼の笑顔が浮かんだ。困ったように見える笑顔。
 息苦しくなった。紛らわせたくて、俺は空子の持つ薬と酒に手を伸ばした。
「ふざけんな!」
 空子は薬と酒を背中に隠して怒鳴った。
 俺の手は空しく宙を泳ぐ。自分でも分かるくらい、動きが鈍い。酒と薬の所為だろう。ジグソーパズルのように、自分がばらばらになりそうだ。
 助けて。
 俺は空子の足元に額を擦りつけた。
「頼むよ。返してくれよ」
 そう言って顔を上げた。空子は軽蔑した目を向け、唇を震わせている。
「なぁ、頼むよ。頼むからさ」
 関係無い。俺は空子の足にすがりついた。同情されるよう、弱々しく訴える。プライドも、薬と酒への欲求に磨り潰される。もう、なんでも良い。苦しいんだ、苦しい。苦しいんだよ!
「しっかりしろよ!」
 容赦無く、爪先で顎を蹴り上げられた。
 頭の天辺まで、衝撃が貫いた。その痛みも、酒と薬が作り出した真っ黒な海の中に沈んでいく。俺は仰向けに転がり、天井を見つめた。
「奈呼の墓には行くのか?」
 喧しい。
「おせっかいばかり焼きやがって。うざってぇんだよ。さっさと俺の酒と薬返せよビッチ」
 天井が空子の顔に隠れた。左の耳たぶに光るエメラルドのピアスを撫でながら舌打ちした。ピアスを撫でているのは、本気で怒っている証拠。
「かっこわりーぜ」
 空子は俺の体の上にしゃがみ込むと、一年切っていない俺の髪を右手で掴み、顔を近づけて来て言った。
「思い通りにならないからって泣き喚く、わがままなガキか?」
 空子が俺の目を覗き込む。何も見えなくなった、俺の灰色の目を。
「ここまで言われて情けなくないのかよ」
 空子の顔が、目の前から遠ざかった。弓の弦が引かれているみたいだ。次の瞬間、空子の顔が一気に迫って来た。額から後頭部にかけ衝撃が貫いた。俺は再び畳の上に仰向けで寝転ぶ事になった。
 本当に女か? そこらへんのチンピラなら泣き出しそうな頭突きだ。お陰で少し目が覚めた。
「行かないなら、それはそれで良い。そこまで干渉しない」
 視界の中に、赤と緑の点が浮遊している。
 俺は頭を振って、天井から釣り下がる電灯の紐の先を見つめ、空子の質問に答えようとした。でも、いざとなると言葉が出ない。
 奈呼。
 声を出さず呼んでみる。
 返事は無い。
 生暖かな熱が、喉を昇って来ただけ。俺は立ち上がり、転びそうになりながらトイレに駆け込んだ。便器の蓋を開け、ゲロを吐く。自分でも分かっている。空子に言われなくても分かっている。今、俺は最低だ。奈呼が死んでからずっと。
「奈呼が死んだのは、あんたの所為じゃない。あの時、あたしがあんなこと……」
「うるせぇ。それ以上しゃべんな!」
俺は空子に顔を向けて怒鳴った。空子が真っ直ぐ見つめ返して来る。
「墓参りは、考えとく」
 俺は口を手の甲で拭い、再び便器に顔を向けた。便器の水に、俺のゲロが浮かんでいる。酸っぱい臭いで、胸がむかついた。
「そう」
 空子の声を聞き、再び振り返った。
 空子は目の端を下げ、唇を緩ませている。奈呼に負けないくらい、俺の心を真っ白にしてくれる優しい微笑み。でも、短い金髪の間から見え隠れする目は全然笑っていない。
「奈呼は死んだんだ」
 空子は酒と、薬の入った袋を見て忌々しそうに言った。
「今のおまえ見たら、奈呼なら正座させて、三日くらい説教するぜ?」 
 空子がポケットから何か取り出し、紙切れを俺の前に放り投げた。
「奈呼の墓。そこにあるから」
 そして薬と酒を持ったまま、薄暗いドブの底にある部屋から出て行った。
 どうしてこうなった。
 奈呼の所為? 空子の所為? 奈呼の家族の所為? 
 俺の所為だ。出会ったあの日、奈呼に話しかけなければ。この部屋に連れて帰らなければ、きっと奈呼は死なずに済んだ。
 頭の中に、奈呼の笑顔が浮かぶ。最近、困っているように見える笑顔ばかりだ。
「もう、いいや……」
 終わりにしたくなった。
 俺の人生に、価値はあるのか。奈呼を殺した俺に、価値は無い。 このまま落ちるだけなら、いっそのこと全部終わりにした方が良い。空子にも、これ以上迷惑をかけられない。
 ガキっぽい考えかもしれない。それでも、どうしても、その考えを消せなかった。

 駅前の全てが歪んで見える。バスステーションに止まっているバスも、ショーウインドウの前に立っている女も、横断歩道を駆けて行く男も、全て輪郭があやふやで揺らいでいる。セミの声の所為でも、太陽の暑さの所為でも無い。銀色のスキットルから、口の中にウイスキーを流し込む。前から歩いて来るサラリーマンだろう男が、ハエの群がる犬のクソを見つけたような表情で、俺を避けていった。
 駅に沿って西に向かう。自転車に乗った女子高生が、俺の横をはしゃぎながら通り過ぎる。続いて、ホスト予備軍みたいな高校生だろうガキ共が、二人、歩いて来る。
 俺はウイスキーを飲みながら、ガキに真っ直ぐ向かった。避ける気になれない。ガキ共はにやけながら近づいて来る。肩でも当れば、因縁ふっかけ金でも取れたら儲けものと考えているかもしれない。ガキの予定通りだろう、俺の肩が、背の高い方の男の肩とぶつかった。
「いたー。肩の骨が外れちゃった。慰謝料慰謝料」
 案の定、楽しそうに言って来る。俺は無視して歩き続けた。
「おい、ちょ、待てよ」
 背の低い、強者に甘えるのが得意そうなぼっちゃんが、俺の肩を掴んで凄んで来たので笑いそうになった。
「おまえ何シカトしてん……」
 俺はそいつの髪を掴み、横にあったガードレールに顔を叩きつけてやった。白いガードレールに、赤い華が咲いた。なかなか綺麗だ。
「こいつ俺の肩掴んだよな。外れちゃった。暴力だよな」
 俺は背の高い方を、下から舐めるように見た。背の高い方は、口を開けたまま何度も頷いた。
「慰謝料」
 手を差し出して言った。
「あっ、はい」
 背の高い方が慌ててポケットから財布を出した。
 俺は財布を奪い取り開いた。生意気にも、五万は入っている。
 俺は五万を抜き取った後、小銭入れから五円取り、倒れた奴に投げてやった。
「慰謝料、ほら」
 俺はポケットからジッポを出し、火を灯した。俺は札に火を点け、背の高い方に放り投げてやった後、再び歩き始めた。

 年季の入った焦げ茶色の寺の門を潜り、墓の方に行くと、若い坊さんが竹箒で庭を掃除しているのを見つけた。
「すいません。宝来家のお墓は何処でしょうか?」
 俺が聞くと、坊さんは掃除を止めて顔を上げ言った。
「宝来さん? 亡くなったお嬢さんのご友人? 家族の方もあんまりお墓参りに来ないのですよ。お父様は来られたみたいですが。一度だけですけどね。えーっと」
 案内してくれた坊さんが、視線の先を指さし言った。
「あちらですよ。あのご立派なやつ。ただ、お嬢様のお墓はあの大きなお墓の横にありますけどね」
 すぐ分かった。墓石群の向こうに、一段大きく偉そうな墓が見える。まるで独裁者の銅像だ。
「ありがとうございます」
 俺は宝来家の墓に近づいた。囲いまで、御影石で作られている。一番大きな墓の両脇に並ぶ墓も、俺の背を遥かに越えている。その囲いの隅に、小さな墓が建っていた。肩身が狭そうに、三、四つ寄り添っている。そしてその墓には先客が居た。男が両手を合わせている。俺に気づいたのか、男は手を解くと、ゆっくり振り返った。息が止まった。岩木だった。
「これが、お嬢様の墓だ。一族の墓とは離されている」
 岩木は墓を見て言った。静かな声だ。線香の匂いが、鼻先をくすぐった。
「お嬢様が家出をした時、捕まえようと思えば捕まえられた。おまえの家に居る事も、早い段階で分かっていた。だが、見て見ぬふりをしてしまった。あの家に居ても、お嬢様が幸せになれるとは思えなかった」
 岩木は顔を上げ大きく息を吐いた。砕けた大切な何かを、丁寧に寄り集めているみたいな口調だった。
「お嬢様は、旦那様と前の奥様との間に出来た子供だ。前の奥様がご病気で亡くなり、今の奥様が連れ子と来てから、旦那様は変わってしまった。お嬢様は異物として、排除されようとしていた」
 岩木は俺に顔を向けたまま話を続けた。
「おまえと一緒になった方が幸せかもしれないと思った。おまえがお嬢様に会いに来た時も、簡単に防ぐ事は出来た。でも、出来なかった。おまえと逃げて欲しいという気持ちが何処かにあったから」
 奈呼と逃げた時の事を思い出す。岩木はプロだ。チンピラに出し抜かれる程、バカでは無いだろう。確かに奇妙なくらい、簡単にすり抜けられた。
「同時に、おまえと一緒になれば絶対幸せになれるという確信も持てなかった。結果、最悪な結末を迎えた。運命とは、そんなものかもしれないが」
 岩木の目が濡れて輝いた。
「知っているか? お嬢様は私以外、岡山弁で喋る事は無かった。お嬢様の前のお母上は、岡山の生まれだった。お嬢様が方言を喋るのは、自分本来の姿を見せていると言う証拠だった。今の奥様には、しつこくたしなめられていたが」
 岩木は線香の束にジッポで火をつけ、しゃがみ、奈呼の横にある墓の前に置いて両手を合わせた。
「奥様。お嬢様をお守りする約束は果たせませんでした。申し訳ございません」
 岩木の声は震えている。線香の煙が昇っていく。岩木は立ち上がると、俺の前に来て言った。
「一発殴らせろ」
 俺は黙って頷き、歯を食いしばった。 
 頬に石で殴られたような、重く鈍い衝撃が広がり頭が揺れた。  覚悟をしていたのに、目の前が真っ黒になり、意識が遠ざかりそうになった。気づくと、仰向けに倒れていた。口の中に血の味が広がった。岩木は俺の手を取ると、無理矢理立ち上がらせた。
「俺を殴れ。殺すつもりで本気で」
「俺は奈呼を幸せに出来なかった。あんたに殴られる理由はある。でも、俺にはあんたを殴る理由は無い。資格も無い」
「殴られる理由はある。資格があるとか関係無い。殴られなければならないから、殴れ。俺は奥様との約束を守れなかった」
「あんた、くせぇよ」
 殺すつもりで、岩木の顔面を殴った。
 拳の中央から脳天にかけ、一本の線が貫いた気がした。岩木の唇の端から血が垂れたが、流石に倒れはしない。
「じゃぁな。もう会うことは無いと思うが」
 岩木は俺の肩を軽く叩くと、静かに去っていった。
 俺は唾液を吐き出した。奥歯が地面に転がった。
 顔を上げると、もう岩木の姿は無かった。
 誰も居なくなった。
 俺は奈呼の墓の前に座り、ウイスキーを飲んだ。
 空子か岩木が持って来たのか、ポッチーが置いてある。花挿しには、菊と百合で満杯だ。
 俺は墓石を見た。宝来那湖という文字が刻まれている。
 俺はゆっくり奈呼の名前を撫でた。奈呼の頬を触った時の感触が指先に蘇った。
「ごめんな」
 俺はジーパンの尻ポケットからお守りのナイフを出して見つめた。刃に俺の間抜け面が映っている。
 ふと、目の前を小さく白い物が落ちた。顔を上げると、白い粉が無数に降って来る。俺の鼻の上に粉が落ちた。冷やっこい感触がした。
「つめた……」
 夏なのに。
 幻だろうか。良い感じに、脳みそが溶けているらしい。俺は視線を落とすと、改めて奈呼の墓石を見つめた。
 奈呼が眠っているのだ。信じられないけれど、眠っているのだ。
 俺も一緒に眠りたかった。誰にも邪魔されず、ずっと。
「おまえのそばに行きたいんだ」
 俺は手首にナイフの刃先を押し当てた。簡単な事。力を込め、滑らせれば良いだけだ。
 刃先を滑らせたが、上手くいかない。表面しか切れていない。血は滲んで広がったが少量だ。流れ出る程では無い。
 俺は再びウイスキーを口に流し込んで力を抜いた。再び手首に刃を押し当て、もう一度強く滑らせた。やった。今度は上手く滑った。手首から血が溢れた。薬と酔いの所為か、痛みは無い。でも、これだけで死ねるとは思わない。首に刃を当てた。息を止め、目を瞑り、刃を強く滑らせた。
「んっ」
 首の側面に、熱が広がった。
「あの世で会えたら、笑って迎えてくれな」
 俺は墓石を抱き締めた。墓石の冷たさの中に、体が沈んでいく。
 心地良かった。
 生まれた時からクソな人生が始まった。
 たけのこ園で、空子や園長やみんなの優しさに触れ、少しだけクソでは無くなった。
 そして奈呼と出会った。最高の日々が、永遠に続くと思っていた矢先に壊れてしまった。そしてクソな人生に戻った。
「……」
 ふと、声が聞こえた。世界の果てから流れて来たような声だ。
 でも何を言っているのか、声が小さ過ぎて聞き取れない。
「……ほ」
 少しだけ聞き取れた。誰の声か、すぐ分かった。
「奈呼……?」
 俺は顔を上げた。目の前に、奈呼の顔があった。いつのまにか、俺は奈呼を抱き締めていた。
 奈呼は出会った時と同じ、眉間にシワを寄せ、困っているように見える笑顔を浮かべていた。
「………」
 奈呼の唇が、小さく動いた。
 聞こえないよ。
「…………じゃおえん」
 耳を澄ませた。何を言っている?
「アホ、死んじゃ駄目」
 奈呼は真っ白な服を着て、金色に輝いている。いかにもな姿過ぎて冗談みたいだった。でも何処からどう見ても奈呼なのは間違い無い。でもどうして駄目なのだ。
「おまえのそばに行きたい」
 俺が言うと、奈呼は首を左右に振った。
「そんなん嫌い。霧矢は生きて幸せになって。あんたを必要としている人がいるんじゃから」
「いねぇよ。どうして止めるんだよ。ふざけんなよ」
「あんたが大切な人だからに決まってるからじゃ、アホ」
 奈呼が霞んでいく。俺の懐で。
 待てよ。おまえが居ない人生で幸福になれるなんて思えない。おまえの居ないこの世界で、俺はただ生きて死ぬだけなんて嫌だ。どうせ死ぬなら、おまえが居る世界に早く行きたいんだ」
「空子なら許しちゃるけん」
 奈呼は笑って言い、消えた。
「なにしてんだバカヤロウ!」
 耳元で、泣き声混じりの叫び声が聞こえた。
「あたしを放って死ぬなんて、あんまりじゃないか! 死ぬなんて絶対許さない。あたしには、あんたが必要なんだ!」
「……空子?」
  


最終話


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