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創作小説 よしぞー堂

創作小説 よしぞー堂

恋愛『チェリー』




 十年前、高校生の頃、一つ上の先輩に幽霊と呼ばれる女子が居た。
 誰とも関わらず席で小説や漫画を読んでいた。ページをめくる指は、枯れ枝に雑巾の切れ端を巻き付けたように細く、荒れていた。
 長い黒髪は肩を越えて脂ぎっており、鈍い輝きを放っていた。背は百八十に届きそうなぐらい高く男子より頭一つ分高かったので目立つ。バレーやバスケットをしていれば活躍出来たかもしれないが、身体が枯れ木みたいなので無理な話だ。
 体育で百メートル走をした時、髪を顔に貼りつかせて走る姿は幽霊を通り越していた。
髪の間からはっきりとした大きな二重の丸い目が見え隠れする。
 出席番号順に二人並んで走る事になっていたが、幽霊の走る速度があまりに遅いので余計異様さが際立った。前を走る女子が化け物に追いかけられているという感じだ。
「こえー」
 男子からも女子からも後輩先輩からも嘲笑された。
 暴力的ないじめは無かったが、半径一メートルに入ると汚れてしまうという風に扱われ貶められる。
 僕は幽霊とは思わなかった。小学生の頃、野良犬に襲われかけた子供の為に安藤さんが身を呈して助けた姿を見た事があったから。
 幽霊は安藤華恵(あんどう はなえ)と言った。

 安藤さんの家は郊外の山の上に建っていた。
 どんな暮らしをしているのか気になった新聞部のクラスメイトが帰りに後をつけたらしい。
 周辺には煙草の葉の乾燥小屋や廃屋、養鶏場ぐらい。そこで父親と二人暮らし。少し蹴っても崩壊しそうなバラック小屋に安藤さんは入った。舗装されていない地面。家の隣には錆びついた屋根のガレージ。動くがどうか分からない錆だらけのトラック。
 安藤さんが再び家の外へ出て来る事は無かった。次の日、学校へ行く為に出るまで。

 そんな安藤さんと僕は、夜の世界で再会した。
 取引先の会社の接待で、高級クラブへ行った時だ。生まれて初めて入った時は店内の白い輝きや、ホステス達の浮世離れした綺麗さに圧倒されたが、何軒か行けばすぐ慣れる。格好や店の雰囲気で綺麗に見えていた女の子達も見慣れればそこらへんを歩く少し垢抜けた娘よりちょっと上なだけだ。明らかにレベルが違うと思える娘は、店に一人居るか居ないかぐらいだ。
 そのレベルの違う女に、僕は目を惹きつけられた。他のホステスと比べて背が高い。元ミス・ユニバース代表と言われても、素直に頷いてしまう見た目だ。
 サテンの赤いドレスから露出した真っ白な腕に体毛は見当たらない。背中もそうだ。
 その子が僕の隣に座った。誰かに似ていると思った。誰だろう。会社に居たか、取引先? 大学時代かもしれないと考えを巡らせている時、すぐ思い出した。
 同級生がホステスになった事は珍しく無い。今まで何人か、夜のお店で再会した経験もある。しかし隣に座る女は、僕にとって特別な女だった。似ているのでは無く本人だ。息が止まり、見つめるしか出来無くなった。
 髪が黒から栗色に変わっていた。化粧に塗り潰されそうな瞳は溝の底に浸かっているようだった。照明に照らされているのに輝きが鈍い。心ここに在らずという感じで、目を向けた物をそのまま見ているように思えなかった。笑っているが、心の底から面白くて笑っているように見えない。
 安藤さんも僕に気づいたのか一瞬だけ目を大きく見開いたけれど、それ以上、動揺の素振りを見せなかった。
「失礼します。アンです」
 安藤さんが僕に名刺を差し出す。男が群がりたくなるメスの臭いが香水の香りに混ざっていた。僕には無理をしているように見えた。助けて欲しいと無言で訴えかけて来ているように感じられた。しかし思い込みだ。昔の安藤さんを知っているからそう思えるだけかもしれない。
「桜木さん。アンちゃんばかり見つめちゃってお気に召しましたか? この店のNO2ですから仕方無いですよね」
 取引先の部長の声が聞こえて我に返った。部長が安藤さんにいやらしい目を向けている。下から上まで舐め回すような見方だ。
 僕は作り笑いを浮かべ、貰った名刺を裏返した。携帯電話の番号が書かれていた。

 何も無かったという方がお互い良い気がし
た。安藤さんも幽霊と呼ばれていた自分を知っている学生時代の人間とは会いたく無いだろう。それに僕と安藤さんとの間には、気不味い思い出がある。
 目を瞑れば校舎裏を思い出す。
 春の風に木の葉と土と草と部活をする生徒の汗の匂いが混ざっていた。夕焼けで赤い世界。僕と安藤さんの影が壁に長く伸びていた。
 一方の影が顔を上げる。
 一方の影が逃げるように壁から消え去る。
 今さら何を話せば良い。頭を振って顔を上げてソファの上に転がるリモコンを取ってテレビの電源を点けた。部屋に笑い声が響く。六十インチの液晶画面に出た芸人が、自分の恋愛体験を語っている。笑い声が鬱陶しくてチャンネルを変えようとした時だ。
「中学の時に好きだった女と、スナックで再会するとは……」
 僕はチャンネルを変えるのを止めた。笑い話のネタになるぐらいの事でしか無いのかもしれない。勝手に難しく考え過ぎている。十年も経った。お互いそこまで子供では無い。安藤さんだって二度と会いたくないなら、携帯の番号が書かれた名刺など渡さないだろう。単純に、二人だけの同窓会を期待しているのかもしれない。安藤さんの変わり具合を落ち着いて確かめたくもなった。
 だから電話をかけた。

「桜木君、外見とか雰囲気、凄く立派になったね」
 安藤さんが笑いながら白いテーラードジャケットを脱ぎ、ピンクのシャツとスキニーのデニムパンツだけになって、チェリー味のチューハイを唇に付けた。
「シャイなのは変わってないね。廊下で先生に呼び止められた時も良くきょどっていたの見たし」
 ホテルのスイートはエアコンが効いて温かい。安藤さんが飲むチェリー味のチューハイの甘酸っぱい香りも漂っている。
「安藤さんは変わり過ぎだ」
 なんとか言葉が出たけれど心の中は薄暗い。バーで少し飲んで昔話をしたらお開きの筈だった。今は安藤さんに誘われるままホテルに居る。
 安藤さんは何も答えず微笑むだけ。僕も釣られて微笑む。笑える気分では無いが、笑わないと余裕が消えて逃げたくなる。
 安藤さんがソファに置いたバーキンに手を入れタバコを取った。蓋を開けて細長いタバコを口に咥える。
「吸うんだ」
 バーに居た時は吸わなかった。安藤さんがタバコを吸う姿に違和感を覚える。学生時代の安藤さんと今、僕の目の前でタバコを吸う安藤さんが重ならない。
「ん」
 安藤さんが煙を吐いて言った。
「小学生の頃から吸ってた。煙草吸う女、嫌い?」
 タバコの煙がゆったりと空気中へ溶ける。
 安藤さんが再びタバコを咥えた。先が赤く輝く。
「驚いたでしょ? 幽霊が弾けちゃってて。十八歳デビューなんてダサイよね。私も色々あったんだ。本当に色々と。詮索はしないで。嫌な事ばかりだから」
 安藤さんはテーブルの灰皿へタバコを押しつけた。
「シャワー浴びて来る」
 早足で風呂へ向かおうとした安藤さんが振り返り僕を見た。
「一緒に入る?」
「とっ、とんでも、なっ、ない」
 慌てて首を振った。

 童貞と処女みたいにぎこちなかった。
 掛布団を胸までかけて寝転びその下で汗まみれの手を握り合って僕達は天井を見上げた。
「私、小学生の時にはもう処女じゃ無かったのよ? 凄いでしょ?」
 安藤さんが遠い外国の事を話すような調子で口を開いた。無造作に白い手の平を天井へ掲げて笑った。しかしすぐに海へ沈んでいくような表情で溜息を吐く。
「昔話してあげる」
「えっ? 昔話?」
「昔々、子供の頃からクソみたいな所で生きていた娘が、王子様に言われました。私と恋人同士にならないかと。娘は自分みたいな人間を好きになる奴は居ない、からかうな、自分に良い事なんて無いと決め付け逃げ出しました」
「それって……」
「娘は高校を卒業して仕事を始めましたが、暗い性格と風貌でそれまで通り何もかも上手く行きません。一番長く続いた清掃のお仕事も、同僚からいじめられて首になり、どうしようかと思った時、かつて告白してくれた王子様を街で見かけたんです」
「安藤さん……」
「娘はショーウインドウに映る自分を見て恥ずかしくなりました。王子様に変わった姿を見せたくなったんです。父親から逃げ、ファッション雑誌に目を通し、男の子が好きになりそうな仕草や口調も研究して頑張りました。努力が実って多くの男の子が集まって来ましたが、思い描いた世界と違っていたのです。騙された事もあります。騙した事もあります。陥れた事もあります。陥れられた事もあります。嫉妬でいじめられたりもしました。いじめ返した事もあります。表面は宝石がちりばめられているけれど、中身はぼろぼろの箱みたいになりました。そんな時、また王子様と再会したのです。だから勇気を出しました」
 安藤さんが腕にしがみついて来た。
「ごめんなさい、ごめんなさい。あの時、逃げてしまって、本当にごめんなさい。とってもとっても嬉しかったのに」
 安藤さんの涙や鼻水で僕の腕が濡れていく。
「こんな事言う女、キモいよね。でも今だけは泣かせて……お願いします」
 僕が生まれて初めて告白をした相手。
 校舎裏で逃げていく安藤さんの後ろ姿。僕の心に棘となり刺さっていたがようやく抜けた。 
 僕は安藤さんの髪を優しく撫でて頬を両手で挟みキスをして抱き締めた。
 昔、安藤さんが野良犬から助けた子供は僕だ。僕にとって安藤さんはずっと憧れの女性だった。
 安藤さんの唇と吐息はチェリーの味がした。











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