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創作小説 よしぞー堂

創作小説 よしぞー堂

ホラー+恋愛 『森林浴』26枚




 森林浴

 梢の間から伸びた光が、薄暗い空気を突き抜けていた。
 僕の目には、光がレモン色に見えた。きっと姫湖と一緒に居るからなんだろう。姫湖が居るから、ただの光がレモンという爽快なイメージを頭の中に生み出したのだ。
 鼻先には緑色の匂いが漂っていた。風がその匂いをさらい逃げて行く。葉と葉が擦れ合う軽い音が、耳をマッサージしてくれた。
 学校は排気ガスで汚れた街にあるから、こういう森に入ると、空気の爽快さに対しよけい敏感に反応してしまう。
「達美、もうちょっと早く歩かない? 日が暮れちゃうよ?」
 僕の前を歩く姫子の不満そうな声が聞こえた。
「まぁ、がんばってみる」
 そうは言っても、僕はそろそろ疲れ始めていた。
 僕と姫子は住宅街の奥に広がる森に居た。僕と姫湖の家の窓からも見える。半分森の中に入っているようなものだ。
 森がどれくらい深いかは知らない。今、僕は姫湖に連れられ未知の領域に足を踏み出している。学校をさぼって。学生服姿で。
 こんなに奥まで入った事は無かった。両親や先生から危険だときつく言われていたから入れば面倒くさいと分かっていたし、僕としても得体の知れない存在に対する畏怖や畏敬があった。とっておきの場所があるんだと、今朝、学校に行く途中、強引に連れてこられたのだから仕方ない。
 実際に入ってみて、大人達が心配するのが良く分かる。
 見まわす限り、緑と木と岩と土と影と光ばかりだ。何処から来たのかも分からない。何処へいけばいいのか、住宅街の位置さえ見失っていた。姫湖と一緒でなければ、遭難しているといっても過言ではない。
 クラスメイトも、森に対していいイメージは持っていないようだ。
「やばいよね」
 クラスメイトは口をそろえて言う。
 森の入り口には、虫の巣みたいなぼろつく神社があった。建立年不肖っていうくらい古くて、森に対するイメージを作り出していた。
 僕と姫湖は森のそばで赤ん坊の頃から住んでいて、今よりもっと子供の頃から見慣れている筈なのに、噂の神社を前にすると引き返したくなる。皮膚の表面がざわついてしまうような威圧感に飲まれてしまうのだ。姫湖はともかく、少なくとも僕は。
 そんな森だ。変な噂も流れるのは仕方ないかもしれない。
「助けて助けてと泣き叫ぶ声が聞こえた」
「全身ずぶ濡れの女が恨みの篭った目を向けてきた」
「UFOが迷い込んだ人間をさらう」
「不老不死の仙人が住んでいる」
「ジョンとマイケルが十年以上殴りあっている」
 ふざけた話が詰まる、宝箱みたいなデンジャーゾーン。
「でも自殺はあったらしいわよ? 明治時代なんだけど。お金持ちの女と貧乏な男がつきあいを親に反対されて心中したらしいわ。だから祟られちゃうかもよー」
 母からそんな話を聞いたことはあるが、考えてみると、それ以外に自殺の話なんて無いのだ。
「だれも入らないから発見されないだけなんだよ。言ったろ? 見つからない死体の宝庫らしいぜ?」
 したり顔で言う奴もいるが、嘘だと思う。
 バードウオッチングの名所でもあるのだ。住宅街に住んでいる老人、佐々木さんなど数十年、森の中を伸びる遊歩道を散歩している。噂など、随分いい加減なもんだと思う。森のそばに住んでいるのでは無いから仕方ないかもしれないけれど。
 ともかく噂が噂を呼び、妄想が妄想を呼び、最終的にあそこは怖い場所という意識だけになる。
 それだけならいいが、近隣住民にとってはたまったものではない。夜中の肝試しなんか、わーわーうるさい。
「幽霊見た」
「包丁持ったおっさんに追いかけられた」
「あそこのそばに住んでいる奴の気が知れない」
 僕もなんとか森に対するイメージを変えようと、怖いのは怖いけれどそれはもっと現実的な、たとえば、野犬が居るとか遭難が怖いとかで、けしてオカルトじみたことはないと反論したこともあった。
「森に入ったって言っても入口だけだろ? 奥まで行ったことあるのかよ」
 普通は入らないだろうに。
 僕も命が惜しい。森に馴れている人が迷うぐらいだ。捜索隊が入るのを何度も見た。定期的に野犬狩りだって行われる森。話にもならない。
 そんな森の中を、僕と姫湖は歩いている。落ち葉を踏む、ふわりとした感触が心地いい。一歩進む度、高く高く浮遊するような気がする。普段はアスファルトばかり踏み締めているから、珍しい感覚だ。
 最初はぎゃーぎゃー姫子と騒いでいたが、一時間も経てば慣れた。 慣れたといっても、油断すれば木に絡み付く黄緑のツタや、地面に出た木の根が大蛇に見えていちいち体が強張った。木々の暗がりから鳥の羽ばたきが聞こえて来る。獣の鳴き声にいちいち強張る。そんな怪しい音にいちいち反応してしまう。そのうち頭の中にろくでもない妄想が浮かんで来た。牙剥きだしの野犬の群れが襲いかかってくるとどうしようとか。疲労も影響しているのかもしれない。足の裏が熱くてたまらない。体力にも限界がある。
 僕は静かに小説を読んでいる方が好きだ。けして行動的では無い。本当は今すぐにでも寝転んでしまいたい。
 僕の気持ちをよそに、姫湖は奥へ奥へ進んで行く。背中を豪快に揺らしながら。
 姫湖のお父さんは姫湖のことをこう評する。
曰く、「女にしておくのはもったいない」
 お父さんの言う通りだと思う。
「一応男なんだよ? 僕」
 姫湖を引っ張りたくて、つい呟いてしまう。僕はやっぱり男なのだ。プライドだってある。だからひ弱な奴と思われたくなかった。しかしこの森の奥に居る状況で実行すれば、僕だってどうなるか分かっている。迷うだけでは済まないだろう。下手をすれば、ふたり並んで髑髏って事にもなりかねない。
 姫湖は違う。姫湖は冒険者だった。噂や注意など、どこ吹く風。昼夜かまわず森を散歩しているらしかった。
 九歳の頃のことだけど、四年経った今でも覚えている。
 姫湖は夜になっても帰らなかった。そりゃぁ住宅街中大騒ぎになる。おばさんやおじさんが抱き合って泣き喚くというえらいことになっていた。そんな阿鼻叫喚の中、姫湖は涼しい顔してひょっこり帰って来たのだ。
「探検していただけなんだけどな。リスさんが居たよ」
 もちろん姫湖の非常識さに、みんな口が開きっぱなしになってしまった。
 そんなことがあってこっぴどく怒られたのに、姫湖は未だに森に入っていく。  
「でもまぁ、気持ち良いのは確かだよな」
 そうは言っても、流石に歩き疲れて僕は立ち止まった。緑色の中で背伸びし、空気を吸い込んだ。肺の中から綺麗になれる気がした。授業のストレスや疲労が気持ちいいくらい霧散するのが実感できた。森の中にはうざったい街の喧騒などない。クラスメイトの、自分より劣った仲間外れを見つけたいと神経を尖らせ監視する視線も無い。ノートの上を神経質に滑る、シャーペンの音もない。ルールを守れ、勉強しろとプログラムされたように言う、教師の声もない。がなって自分の価値観をおしつける両親の声も無い。
 そういう意味で、確実に森の中は非日常だった。
「あー。良きかな良きかな」
 すぅっとした爽やかな空気の中、姫湖はおもいっきり手を広げて言うと僕を振り返った。ふわりという表現が相応しい柔らかな身のこなしだ。細く小さな体から、きらきらした金色の粉が飛び散ったように見えさえした。
 中学に入ったばかりの頃は、そんな事は感じ無かった。友達のひとりで、それ以上でも以下でも無かった。
 今、僕は感じている。姫湖に感じている。きっとそれは、女、を。
「おそいよ達美くん。運動不足だねぇ男のくせに」
 ひーこらひーこら。
 僕は弱々しい息を吐きながら、姫湖に近寄った。あんたにはかないません。これ以上速く歩けませんと、前屈みになりながら手の平を姫湖に向けた。
 もうちょっと休憩しようよと言いたいのに、口が動きやしない。足の裏はじんじんと焼けているみたいだ。膝も重い。積み重なった疲労が、急に休んだ反動で一気にやって来た。
 姫湖はそんな俺を見て腕組みすると、まったくもーと呆れたように口をへの字にする。バスケ部で鍛えられた腕が眩しかった。帰宅部な僕と偉い違いだ。バスケ部のエースと運痴な僕。そこらへんをもっと考慮して欲しいもんだ。実に、実に考慮して欲しい。
「もっ、もうちょっと、すっ、素晴らしい森を楽しもうじゃない。せっ、せっかく学校行ってたのに、おまえの思いつきにつき合って、生まれてはじめて学校をさぼってまで来ているんだから」
 僕は余裕ぶった振りをしたが、無理やり声を出したのでどもってしまった。自分でも分かるくらい説得力なんて無い。
 姫湖は首を横に少し曲げ、唇の端を斜めに上げ、いやらしい笑みを浮かべた。
 あっ、やばい。
 僕は知っている。姫湖がそんな風に笑った時は、いつもろくでもない結果になるということを。
 幼稚園の頃だったか。嫌だって言っているのにゴムボートで沖まで行き、遭難しかけた事もある。鉄塔の天辺に登って、下りられなくなった事もある。いつも、姫湖がいやらしい笑みを浮かべた時には必ずそうなった。
 姫湖が僕の手首を掴んだ。
 なにすんじゃと僕は思った。
  僕はティーシャツから伸びた小麦色の腕から、姫湖の顔にゆっくり視線を移動させた。
 姫湖は高くて真っ直ぐの鼻筋をしている。頬はほんのり赤かった。丸くて大きな目には、意思の強さを示しているような強い光が灯っている。口元のえくぼが可愛い。
 姫湖の吐息が僕の顔にかかった。
 汗の香がした。姫湖の匂いだ。日向に干した布団の匂いだ。香水の匂いとは違う。幼稚園の頃からずっと変わっていない匂い。
「だーめ。日が暮れるから走りましょうか?」
「ヴェ?」
 間抜けな声を上げた刹那、姫湖に手を引っ張られた。
 姫湖が走り出した。そうなれば、なんびとたりとも姫湖の走りを妨げられる者は居なくなる。
 僕としては足が追いつかない。自分の足が古い漫画に載っているような、ぐるぐるうずまきになっている気がした。せめて、せめて覚悟を決める余裕が欲しかった。そんな想いも、僕が力を入れて立ち止まると、姫湖が転けてしまうかもしれないのでそういう訳にもいかない。
 木と木の間を、肩がぶつかりそうなほどすれすれで抜ける。小さな穴ボコをふたりしてジャンプ! 
 大きな石の上に足をかけ、またジャンプ!
 姫湖は僕のペースなど考えてはいない。もしかしたら僕の存在なんて忘れているかもしれない。
「楽しいなーアハハー」
 楽しくねぇよー!
 姫湖は僕の手を引っ張り続ける。スカートから伸びる引き締まった足で、地面を蹴る。
 僕はクラスで三番目に走るのが遅い。女子の中とは言え、一番走るのが速い姫湖のペースに合わせるのは地獄だ。
 それでも手を離すわけにはいかない。
 僕は馬だ。馬なんだ。
 馬だと思い込んで、とにかく前へ、前へ走る。
 少し体が軽くなった気がしたとたん、転がりそうになり、慌てて態勢を整える。がむしゃらに。
 しっ、しかし姫湖のペースはやはり、きつい。 
 心臓の音が頭に響く。指先まで脈動を感じる。
 僕の指は、姫湖の指と絡んでいる。体がばらばらになりそうなほど苦しい。けれど、どこか幸福だった。
 僕の手を引っ張っているのは、他の誰でもない、姫湖だから。


 その部屋は白い壁に囲まれていた。閉じ込められた空気が停滞している。
 部屋の中央には、世界から忘れられたようにテレビがぽつんと一台だけあった。
 そのテレビのブランウン管に、ノイズが走った。
 電源はついていない。しかし、ついた。
 ブラウン管に男が映った。
 細面で理知的な目をしているが、何処か魂が抜けているような危うさがあった。
 男は向けられたマイクを鬱陶しがることもない。記者たちに囲まれ質問に答えている。返答機械のようだ。
「……つまり自分にはなんの疑わしい点は無いと。ですが、もうすでに秘書も逮捕されております。それについては」
「わたしは知らなかったのです。あくまで秘書が勝手にやったことですから」
「ですがある情報筋によると、議員も知っていたという証言も出ている。警察にも何か動きがあった様子ですが」
「それはわたしには分かりかねます」
 男は子供の頃から、スポーツでも勉強でも一番だった。
 今、その輝きは全く無い。顔は汗に塗れ、酷く輝いてはいるが。テレビの討論番組で見せていた力強さは無かった。
 男の本音としては、すべて正直に話したかった。
 しかし話すとなるとどうだという気持ちが湧いてくる。組織全体が揺らぐかもしれない。恩を仇で返すということになる。
 同時にここで全て告白した方がいいのでは無いのか、自分を犠牲にした方が誠実では無いのか、次の選挙のマイナスにならないためにもという計算も働いていた。
 男はそのどちらに行くべきか決断ができないでいた。
「やはりここは国民に向かって」
「国民は怒りを感じています」
「内部からも、説明責任を果たした方が良いという声」
「説明が不充分だという声があがっていますが」
 自分を責める声を聞くたび、男は自分の心が死んで行くのが分かった。何もかもから解放されたかった。
 そうすると、不思議なことが起きた。
 男は群がっているマスコミの姿が霞んでいくのを見つめた。
 マスコミ連の姿が完全に消えた後、そこから湖が奇跡のように浮かび上がって来た。
 ヨーロッパ旅行に行ったおり、自分の妻と見た湖と似ている気がした。湖面の輝きを眺めていると、頭の中にある嫌な事が消えていった。
 もうどうでも良くなってきた。
 このままずっと、この湖を眺めていれば、どんなに幸せだろうと思った。
 それは単純な現実逃避であったが、精神が壊れてしまわないための自己防衛でもあった。
 男は湖に近づいた。そっと湖面を覗く。
 老いた顔が映っていた。
 皺も深い。鼻の両端に刻まれた皺は特に濃い。
 男は水をすくい、口に入れた。
 心臓の鼓動が大きく、どくんと鳴った。
 男は呼吸が上手くできなくなってきたのを感じた。
 でもそのままでいいと思った。この状況から逃れられるなら。
 男はマイクを前にし、そのまま前のめりに倒れ込んだ。
 男の耳に届いた言葉は、記者たちのこんな声だった。
「――いま、大臣が倒れました。カメラ撮れてる? 危ないから押すな押すな! 救急車。はやく」
 
 
 姫湖はとつぜん立ち止まった。
「とーちゃーく」
 僕は体のコントロールを失った。
 落ち葉が近づいて来るのが見える。頭から突っ込んでしまった。体中に鈍い痛みが広がった。息をしようにも、上手く出来ない。何度も咳が出る。僕は土の味を唾液で絡み取りながら、顔を上げた。姫湖は僕に背中を向け、腕と背筋を伸ばし、爽快そうに何度も深呼吸をしている。
 ふっ、ふざけるなよ。
 文句の一つでも言ってやる!
 僕は勢い良く立とうとした。でもふくらはぎにちぎれそうな痛みが走り、足が吊ってしまった。僕は足を掴んで落ち葉の上でのたうちまわる羽目になってしまった。なんて格好悪いんだろう。
「大丈夫? あっちゃぁ……ちょっと調子に乗っちゃったかな?」
 姫湖は苦笑しながら僕の足を持ちあげ、爪先を押してくれた。
 波が引くように痛みが去っていく。助かった。
「あぁ、もう大丈夫だよ」
 僕が感謝の言葉を言うと、姫湖はけらけら笑って足を放り投げやがった。なんてがさつさなんだろう。
 そう思ったが、目の前に広がる光景を見て息を呑んだ。夢から覚めたばかりのようにぼんやりとなって、ふーっと自然と溜息が出た。
 ずいぶん奥まで来たもんだ。少しは森を知っているつもりだったんだが、一体、なんだろうここはと思ってしまった。
「とっておきの場所って、ここのこと?」
 湖は良く磨いたアクアマリンのように煌いていた。体育館ぐらいはあるかもしれない。汗の匂いが消え、代わりに透明な水の匂いが強くなった。魚が飛び跳ねたのか、透き通った音が響いた。それもすぐ湿った空気中へ霞んだ。あとは優しい歌のようなせせらぎが聞こえて来る。濡れた風が顔に当たり、それは涼やかで心地良かった。
 僕は自然と笑い声を漏らしながら湖に近づいた。
 ふと湖に沿って小さな純白の花が並んでいるのに気づいた。
 生まれてはじめて見る花だ。図鑑でも見たことがないかもしれない。花が咲いている地面は、波うち際なのでずいぶんぬかるんでいる。その柔らかい地面から、黄緑色の茎が伸びていた。強い風が少々吹いても折れそうにない、確かな逞しさがある。もちろん茎の先にある花びらも散らないだろう。
 僕はもっと近くで見たくなってしゃがんだ。五枚の花弁は、紋白蝶を思わせた。肩に温かい感触が触れる。顔を上げると、姫湖は微かに笑って手を上げた。湖に沿って並ぶ花は、ずっと見ていると、紋白蝶が水を飲みに来ているように見えた。
 僕はその湖が別の世界の存在に思えて来た。今はたまたま見えるだけで、時間が経てば消えてしまう気がした。
「バードウオッチングしている佐々木さんでも知らないよ、きっと」
 姫湖は僕の背後で自慢でもしているように言った。
「聖なる場所かもよ」
 僕は指先を水の中に入れた。波紋が生まれて広がった。手の平ですくうと、指の間から水がこぼれた。太陽の光に照らされ、きらきら輝きながら湖の中へ帰る。
 僕は立ち上がって、姫湖を振り返った。
 姫湖の瞳は、濡れているように輝いていた。
「とっておきの場所だよ。達美だから教えてあげるんだからね。光栄に思いなさい」
 姫湖の顔はちょっぴり赤い。風邪でも引いて熱があるからか。いやそれは無いだろう。
 ともかく僕は、こんな時はやっぱり格好つけなければ男がすたると思った。
 僕は震える両手で、姫湖の肩を掴んだ。僕は姫湖の瞳を見つめた。 逃げてはならない。なんとか真正面から見つめた。逸らせない。心臓の鼓動が大きくなった。姫湖は目を大きくして後ずさった。流石の姫湖も俺のマジさを感じたのか、圧倒されているようだった。
「なっ、なになによ? どっ、どうしたの?」
 姫湖は離そうとしたのか、僕の腕を掴んだ。でも徐々に指の力を弱め、そのうちうつむいてしまった。
 僕はその様子を見つめ、しみじみと、自分の気持ちを確かめた。
 姫湖を想う気持ちは誰にも負けない。
 地球絶対破壊ミサイルが飛んできても、姫湖を守るためなら受け止められる気がした。
 好きだ好きだ好きだ好きだ!
「好きだ!」
 僕は目を瞑り、今まで我慢していた想いを叫んだ。
  姫湖は寝ている時にとつぜん水をかけられたような驚き方で顔を上げた。口も目も大きく開かれている。顔は苺みたいに真っ赤だ。姫湖は唇の端を緩ませると、湖に顔を向けた。それから再び僕を見ると、頬を掻き確かめるような口調で呟いた。
「あたし女っぽくない」
「知ってる」
「他の子みたいにかわいくない」
「そんなことない」
「いつもあんたに迷惑かけてる」
「それでも良い」
「何が良いの」
「わからない。でも好きなんだよ」
「あたしってさ。バラの花束とか貰っても喜ぶタイプじゃないと思ってた」
 姫湖は笑って言った。
「キス……しようか」
 姫湖が目と口を閉じた。
 僕は喉の中を唾液が落ちるのを感じた。
 ごくっ。
 頭の中に音が響く。
 僕は目を閉じた。息を止め、顔を寄せた。
 歯と歯が壮絶にぶつかって離れた。
 姫湖は真剣な表情だ。どうしていいか分からない。見つめあっていると、姫湖は表情を緩ませ、口からひとつ大きな息を吐いた。
 おかしくなった。失敗したらいけない所で失敗してしまった。
 失敗した後悔より、おかしくっておかしくって抑えようとして顔に力を入れてもおかしくって、笑ってはいけないと唇を噛んだ。 姫湖の顔も真剣になった。
 タイミングが合った。
 それもおかしくっておかしくってたまらなくおかしくって、腹を抱えた。むずがゆい恥ずかしさが湧き上がり、頭の天辺が震える。 とにかくおかしくておかしくてたまらなかった。
 笑っていたら、今度は姫湖が顔を近づけて来た。
 今度は歯はぶつからないよう気をつけた。
 唇はマシュマロだ。柔らかい。溶ける。姫湖の体温が唇から伝わってくる。
 あぁ、僕は姫湖とキスをしている。
 夢でしか見た事がなかった。今、現実にしている。照れくさい。それ以上に、嬉しさが湧き上がった。嬉しさはきらきらと金色に輝いている。
 姫湖が唇を離した。僕は目を開けた。姫湖は声を出さず、ふわりと微笑んだ。そして振り返り、湖に沿って歩き始めたが、唐突に足を止めた。
「あれ? あそこになにかある……」
 姫湖が指差した方向を、僕も見た。
 確かに湖の端に、鉛筆でぐちゃぐちゃっと塗りつぶしたような黒い塊があるのが見えた。僕たちが今居る位置と、対岸までのちょうど真ん中辺りだった。
「やばい」
 なぜか皮膚の上を、冷たい気配が舐めるように疾走った。
 あれはやばいものだと強く思った。
 何か分からないけれどやばい。
「やばい、やばい、やばい、やばい」
 近づくな。
 頭の中で、何かが教えてくれた。
 姫湖は分かっていないようだ。
 僕は姫湖の腕を掴もうとしたが、一歩遅かった。
 姫湖は走りはじめた。
 キスが恥ずかしいので、ごまかしているのかもしれない。
「行くな!」
 でも駄目だ。近づいては駄目だ。僕は姫湖に向かい怒鳴った。
「なんでー? いいじゃん。面白そうだよ」
 姫湖は僕の忠告を無視して黒い塊に向かい、突っ走っていく。
 僕も走って追いかけた。
 姫湖が遠ざかって行く。
 黒い塊の下から、小さな影が離散するのが見えた。 
「駄目なんだって。行っちゃ駄目なんだって!」 
 間に合わなかった。
 姫湖が立ち止まった。
 近づくに連れ、腐った肉を腐った水でこねくり回したような臭いが鼻先に漂った。腹の奥から、熱い液体が昇る。腐臭の塊の中に、顔を突っ込んだ気がするほどに。なんだこの臭いは。
 息を止め、僕は姫湖の肩に手を伸ばしかけた。
 僕の頬にハエがぶつかってきた。一匹だけではない。何匹も何匹もハエが飛んで来る。
「行くなって言っただろうが。なんだこのハエ。それにこの臭い……」 
 姫湖は僕の声が聞こえていないように地面を見つめている。
「一体なんだっていう……」 
 僕も姫湖が見ているものを見た。
 頭の中に、心の中に飛び込んで来て、思考が停止した。
 青色や紫色や赤色、さまざまな色が混ざり合い毒色になった皮膚がめくれあがっている。捲れた皮膚の向こうに、白い骨が見えた。腕は肘から千切れかかっている。千切れかかった部分は、納豆のように糸を引いている。足はあらぬ方向に向いていた。やはり皮膚がめくれている。腹には白く小さな粒が動いていた。大量の蛆。蠢いている。そこからハエが次から次へ飛び出て来て僕の顔に当たる。ぶつかった箇所が痛くなった。痛みは消えない。死体の鼻はそぎ落ちている。顔は福笑いで作り上げたように滅茶苦茶だ。眼球はすでにない。黒い穴がふたつあるだけだ。頭皮は髪をつけたまま、頭蓋骨から離れていた。性別なんてわかりやしなかった。
 僕は、吐いた。そして姫湖を見た。
 姫湖の顔から表情が消えていた。その股から、黒いものが落ちて地面に広がり染みとなった。失禁しているようだった。
 姫湖の様子を見ていると、自分の股間に熱を感じた。
 触ってみた。
 固くなっていた。
 パンツに当たる。
 痛い。
 あぁぁぁぁぁぁ!
 僕はなんだ。なんで、なんで、なんで、なんで。この状況で。
 姫湖が死体を指差して笑いはじめた。狂った甲高い声だ。
 駄目だ。見せちゃ駄目だ。直せないくらい壊れてしまうかもしれない。
「逃げなきゃ」
 僕は姫湖を強引におぶった。姫湖の笑い声が耳元で響いた。
 僕は走る。逃げろ、逃げろ、逃げろ、できるだけ遠くへ。
「置いて行くなよ。変態。ちびった恋人見てあそこを立たせる変態」
 幻聴だ。幻聴、幻聴だ、幻聴、幻聴だ、幻聴。
「変態、変態、変態、変態、変態、変態、変態、変態」 
 背後から声が追って来た。腹に開いた裂け目から手を突っ込まれ内臓をこねくり回されているような気持ち悪さに支配された。
 僕は涎を垂れしながら走り続けた。捕まっては駄目だ。姫湖を守らないといけない。
「幻だ。ぜんぶ幻だ。なかったことにするんだ!」
 森が涙で滲んだ。鼻の奥で、火薬の臭いがする。鼻水をすする音は塩辛い。
 僕は振り返った。
 大量のハエが追ってくるのが見えた。
 追いつかれると、どうなるか分からなかった。考えたくもなかった。
「助けて」
 僕は姫湖の重みを感じながら走り続けた。どうして姫湖と僕がこんな目にと思いながら。









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