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創作小説 よしぞー堂

創作小説 よしぞー堂

現代『カンゼオンキリス狂徒』32枚



カンゼオンキリス狂徒


 教祖様がおっしゃいました。
「今日のうちに、地球は未曾有の天変地異に襲われるでしょう。だからわたしたちは地球を救わなければなりません」
 わたくしは上の階の部屋から聞こえてくるうざったい子供の走りまわる音に耐えつつ、世界に起こるであろう絶望的な滅びを回避するために瞑想し、祈り続けておりました。
 それなのに、どたどたどたどたがたんという音が止む気配が無いのです。
「誰の為にやってると思ってるんだよくそぼけがっ」
 数ヶ月前までのわたくしは下品で野卑だったので、ついその頃の言い方で呟いてしまいます。自分はまだまだ修行が足りないのだなと反省させられます。世界で唯一本物の悟りを開いた教祖様の世界にはまだまだ遠いと。それに、上の階の危機感の無い馬鹿家族へたとえ文句を言ったとしても、何をぐちゃぐちゃ言いに来ているんだよこのアホウがと、クソ生意気なツラして「すいません」と明らかに逆切れしているのが良く解る口調でそんな一言を吐き出すのがオチだとわたくしとしても解っておりますので、我慢するしかないのでしょう。
「あほんだらが」
 それでもわたくしは祈りの最中に呟いてしまい、そのたびに何度も自分はまだまだだと涙をこらえ、怒りが爆発しないよう溢れてくる激しい感情をぐっと抑えて祈り続けるのです。
 激しい水流の川のど真ん中で、負けてたまるかと流されてしまわないよう踏ん張っている、そんな感じです。
「自分をまた上の次元へと引っ張り上げる修行なのだ」
 思い込みさえすればなんとかなる……どたんどたんがたんばたばたばた……うるせぇ。
「誰の為にわたくしが祈っているか分かっていないんだろうが。分かった、もう良いよ。おまえらの好きにすれば良いんじゃねぇの? 勝手に死ね。死ね滅べ。死ねば良いんだ。大災厄で何が起こるか、俺も良く知らねぇよ? 知らねぇけどさ、俺が祈らなきゃてめぇらは死ぬんだよ。邪魔ばかりしやがって。死ねよ。勝手に死ねよ、くそぼけがぁ、ごらぁ」
 一瞬だけそう想ってしまったのですが、わたくしの真摯で誠実な想いが届いたのでしょうか、ようやく祈りを妨げる悪意の塊、もしかしたらもう悪魔と言ってしまっても良いかもしれないお子様の足音が、ぴたりと止まってくれたのです。わたくしの勝ちです。
「よし。おまえたち一家が大災厄から逃れられるように祈ってあげよう」
 少しすっきりして思い直しましたのでありますが、すぐにまた、どたばたどたんばたんどたどたたたたたたとクソ喧しいクソガキの足音が大雨の如く無節操に降ってきたのです。
 やっぱりおまえらは大災厄で一番最初に死ね。
 そう想いつつ「ウンバリヤーラーハンニャーハーラー」と一生懸命祈りながら窓の外に顔を向けました。
 夏らしい金色の光が入ってきております。祈りに夢中ではあるのですが、それは確かな事なのですが、やはりそういう部分にも修行不足と未熟が現れているのでありましょう、アパートの自室が湿った布団で作られたように蒸して蒸してクソ暑くて仕方が無いのです。
 ダンプが通り過ぎると、その騒音で、窓や畳や生ぬるい空気も小刻みに震えました。

「肩にタトゥーを入れたいんだけどさ。漢字にしようか絵にしようかしようかしようか? それともタトゥー止めて、スプリットタンにでもしようか、タトゥーの方が良いか、でもさでもさでもさ、温泉に行けなくなるから嫌なんだけどな、まぁ、でもさでもさでもさ、しぶくね? しぶくね? しぶくね? そうそうクール、クールよね、クールよ」
 わたくしはほんの半月前までは、道端に座り込んでだべっている犬のうんこみたいでした。そこらへんに転がっている愚か者の小僧に過ぎなかったので、世界を救う偉大な救世戦士の一員になれるとは考えてもおりませんでした。それどころか神様ってなに? 食えちゃうの? 食えちゃうの? 食えなきゃ意味ないじゃんなんて、罰当たりな事を平気で言ってしまえる輩なのでありました。
 もちろんそんな奴ですから家に帰ればお父様に「百万やるから親子の縁を切ってくれ」とか、お母様に「あんたの頭の中には脳みそではなくてカニ味噌でもなくてカニかまぼこが入っているのよ」なんて事を言われ続けました。それでむかついて、わざと家の中で唾を吐いたり金属バットで窓を割ったり盗んだバイクで走り出すような不良だったのです。
 今ではわたくしを生んだお父様とお母様は、偉大な救世戦士の両親として世界に褒め称えられるのはもう決定したようなものであります。
 わたくしの両親であることを誇りに思ってくれと、滅びを回避するための祈りの前にその旨を伝えに行ってやったのですが、両親は、あまりに一般的で平凡な庶民ですから、どれだけ大事な事を今からするのか解らなかったようなのでありました。
「おまえ、もう頼むから家に近づいてくれるな」
 お父様には、車に貼りついた真っ白い鳥の糞を見るよりも面倒そうな視線を向けられました。
「どうしてこんなになってしまったのよ。あぁ、もうどうしてあなたみたいな子がわたしの子なの。うわわわーん」
 お母様はテーブルに突っ伏して本気で泣きました。
 わたくしはどうして泣くのかさっぱりわかりませんでした。
 わたくしは子供の頃から褒められたという経験がありませんでした。むしろ裏切った方が多かったかもしれません。だからこそ今度は泣くよりも笑って褒めてくれると信じていたのですが。
 そのときの事を思い出すと涙が出てくるほど愉快な気持ちになって笑えてきます。
 偉大な息子の両親として、歴史に名を残す事ができるというのに訳がわかりません。 
「いかんいかん」
 無駄な事をだらだら考え過ぎてしまいました。
 わたくしが祈りを一秒止めるたびに、大災厄で死んでしまう人が一人増えるのです。
 教祖様から耳が餃子耳になるほど教えていただきました。バカ家族の事はともかく、祈り続けなければなりません。
「オンバババウンダラハンダラカンダラバララ」
 ただ本当に祈るだけというのも退屈で仕様がありません。
 だいたい訳も分からずウンダラバララと経典を広げて、朝から祈り続けているのです。どういう意味なのか先輩にあとで聞いてみよう。いや、でも、修行を続けて行けば分かるのですと言われるだけなのは、コーラを一気飲みしたらゲップが出てくるほどに当たり前の事ですから、聞いてもしようがないのかもしれません。
 やはり今のわたくしに大事なことは、やれることをやるしかないのであります。
「ウンダラカンダラ……あれ、ガンダルバンダラか……今、何行目だ」
 わたくしはカンゼオンキリス聖典を見直しました。
 ですが勢いが無くなってしまった為に、少し面倒になりました。
 人間と言う者はつい楽な方に行ってしまうのですと、教祖様もおっしゃってました。
 そのためにどうすれば良いのですかと問うと、それは個人個人が自分と向き合ってどうすれば良いか真剣に誠実に考えるのです。出てきた物が答えなのですとおっしゃっておりました。
 わたくしは五秒ほど考えたあと、祈りを一旦止めて休憩することにしました。
 祈りを止めた事により、もしかしたら何人か大災厄で酷い目に合うかもしれませんが、それはそれで運命だったのでしょう。
 教祖様も、運命という存在には誰も抗えることができないとおっしゃっておりましたし。
 わたくしは三度ほど聖典に向かって御辞儀をしました。
 やくざと喧嘩になったときでも土下座をしなかったわたくしがです。
 とてもとても人間として成長したということなのでありましょう。
 そういう部分から考えてみても、わたくしはカンゼオンキリス教に入った甲斐がとてもとてもとてもあったと断言しても構わない気がします。
 わたくしは立ち上がって、扇風機が作り出す生温い風の効果範囲から外れました。ゲロみたいに暑苦しい空気の中を掻き分けて冷蔵庫に行くと麦茶を取り出し、炊事場でコップの中にこぷこぷと麦茶を入れて一気に飲み干しました。
 麦茶の冷たく香ばしい流れが喉の中を洗ってくれました。
 胃の中に落ちますと、臍の下辺りから体が涼やかになってきました。それは良いのですが、世界の仕組みと言いましょうか、夏と言うのはものすごく恐ろしいものですね。
 それぐらいではまったく夏の暑苦しさに勝てないのであります。
 祈りの為に窓を閉め切っておくのも限界があるのかもしれません。
 わたくしは机に置いたラッキーストライクを取って窓際に歩み寄りました。窓を開けてラッキーストライクを一本口に咥え、その先にライターで火をつけました。肺の中に心地良いケムリを取り入れながら、夏の太陽に照らされた町並みを眺めました。
 ちょうど良いことに、家を追い出されて住み始めたアパートは丘の上にあるので、救うはずの町が良く見る事ができました。
 坂の下の公園からでしょうか。蝉の鳴き声が遠慮無く響いてきます。
 死にたくないと泣いているように感じられました。より一層、わたくしは大災厄を回避しなければならないと、使命感が湧き上がってくるのでありました。そのためにわたくしは聖典に書かれている事を完全に理解しなければならないのです。
 タバコを吸いつつ畳の上に広げた聖典を取り上げると、ぜってー理解してやるぞーと言う気持ちで、気合を入れて読み始めました。

 聖典は教祖様が偉大なる神様の声を聞いて間違いが無いよう一字一句丁寧に書き写したものです。
 やはり人類にとってどんな大切な事が書かれているのかを知るためには、教祖様がどんな存在なのかまず理解するのが一番の近道だと先輩方もおっしゃっておりました。
 わたくしは中学生のヤンキーなら小便をちびって逃げだしそうな鋭い目つきの教祖様の顔が映った写真と、その下に書かれたプロフィールを見つめました。
 
 カンゼオンキリス教の教祖様 光院寺・カンゼオンキリス・信長義経秀吉王。
 
 聖霊名カンゼオンキリス・バラモンシヴァアレクサンダー元就。
 
 教祖様は十八歳までは兵庫県尼崎にある工業高校の、なんでもない生徒というわたくしたちと同じ普通の人間であられました。
(異教の教祖とは違い、そういう事も正直に公開されるのが教祖様の偉大な所でもありましょう)
 ある日、不良達に囲まれて金をせびり取られたとき、悔しさと同時に、自分の無力さに打ちのめされたそうなのであります。
 泣きながら家に帰ると、嘆き苦しみ力が欲しいと涙も拭かず言い続けていたのですが、教祖様も疲れたのでありましょう眠ってしまいました。
 そして生涯忘れられない神秘体験をしたのです。
 目を開けた瞬間、教祖様は自分が強烈な光に照らされているのに気づきました。
 手で光を遮りながら原因を探して窓に顔を向けると、明るさが徐々に小さくなっていったのです。
 ようやく光が消え去ると、教祖様は窓の外にあるベランダに銀色の物体が浮かんでいるのに気づきました。
 円錐形をしており、お茶ッ葉を入れる銀色の缶のようだったと教祖様は回想しております。
 教祖様は恐怖に支配されたのですが好奇心もあったので、ゆっくりと近づいてベランダに続くガラス戸を開けました。
 そうすると銀色の物体の真中に線が入り、それから左右に分かれていったのです。
 教祖様は銀色の物体から輝く人間が現れたのを見ました。
 ですが教祖様はそのときに正確には普通の人間とはまた違っているように感じたそうなのです。
 ウエットスーツのようにぴったりと貼りついた銀色の服を着ていました。顔はスタートレックというSFの外国名作ドラマに出て来たデータ少佐に似ていたと思ったそうです。
 謎の物体から現れた人間に似た存在は、自らの事をこうおっしゃいました。
「わたしは神様の命令であなたを人類を導く聖者と認定するためにやってきました」 
 もちろん教祖様もすぐに信じる事ができないのは仕様がありません。
 教祖様は恐れながらも強靭なる精神力によって、本当に神様の使者かどうかを確かめる為に試す事にしました。
「あなたが神様の使いである証拠をわたしに見せてくれたのならば信じましょう」
 神様の使いは微笑みました。それから右腕を横に上げて人差し指だけ伸ばして静かにおっしゃいました。
「あなたはわたしを試してはなりません。疑えばそれだけあなたは聖者から遠ざかるのです。それでも確かめたいのならばあした何かが起きるでしょう。わたしが神様にお願いしておきました」
「それはどんなことでしょうか。教えてください」
 教祖様は聞きましたが神様の使いは「あしたになればわかります」と言って幻のように消えてしまいました。
 次の日の朝になると、教祖様はきっと夢だったのだろうと昨晩の事を理解しようとしたのですが、学校に行って知るのです。
 自分からお金をせびり取った不良のひとりが、バイク事故によって死んだ事を。
 普通は不運だったと終わるのですが、教祖様はこれこそが試した結果だと確信しました。
 他人はただの偶然と笑うかもしれません。そんなささいな事は別にして、教祖様は神様からのメッセージを確かに受け取ったのであります。
 頭の中に直接、神様の声が聞こえてきたのです。
「疑う事だけではなく信じることが大事なのです。みなが他人を信じられなくなった今日こそ、まず人間を代表してあなたがまず信じなければならない」
 学校から帰り夜となると、昨日と同じようにベランダに神様の使いが現れました。
「あなたはどうしますか。信じますか」
 神様の使いは教祖様に訊きました。
 教祖様はもう覚悟を決めていました。
「はい」
 教祖様は神様の使いから銀色の光を頭の中に埋め込まれました。
 そうして教祖様は、普通の人間がけして持ちうる事が出来ない様々な超能力を得たのであります。
 特にすごいのは予知能力です。
 たとえば近所の方が何時に布団を干し始めるというささやかで微笑ましい事象から、選挙でどの党が勝つかまでを正確に予言してしまうのです。
 今日ではその偉大な予知能力を頼って、与党の幹部から、外国の王様までが教祖様を頼って来るのであります。
 わたくしたちはそのことを誇りに思わなければなりません。
 
 わたくしはプロフィールの下にある写真を見ました。
 サウジアラビアの王子様や、この前スキャンダルで捕まってしまった与党の大物政治家と握手をしている写真が載せられております。他人は合成だ金を払ったのだと面倒な事をおっしゃるかもしれません。他人を見たら盗人と思えと昔の人がおっしゃっておりますが、確かに人は疑ってしまう生き物なのです。まず疑うことを捨てなければならないのです。
「それこそ真理から遠ざかる一番の問題なのです」
 教祖様もおっしゃっておりました。
 そのとき、ドアを叩く音が響きました。
 誰だろうと立ちあがって玄関に行きドアを開きますと、モトカノのミコが、上目遣いで立っておりました。
「なんでうち知ってるの?」
「おじさんに聞いたんだよ。お金のこと言ったらすぐ教えてくれたよ。うちはもう関係無いから、あのバカに言ってくれって」

「あんたなにしてるの」
 わたくしが聖典を広げて教祖様の諸々の深くありがたいお言葉の真意について考えを巡らせておりますと、ミコが呆れたような、マヌケで甲高い声で尋ねてきました。
 わたくしは説明してもわからないだろうなと思って無視し、ただ一心に聖典に書かれた文字を追っていきました。
 ミコはわたくしの十八歳の誕生日に道端に座っておりました、わたくしと同じ十八歳の、高校を中退して家事手伝いをしている女であります。
 現在の日本の総理大臣は誰だと聞いたら、コロンブスと答える女です。現在の総理大臣は石原良純に決まっているというのに。息子は石原慎太郎なんだと言いますと、すごいよく知っているよねと褒めてくれるところは確かに可愛いのですが。
 最初はノライヌにでも声を掛ける軽い気持ちで笑いつつ「なにしてんの」と聞いたのですが「イケメンに連れ去れるのを待っているの」と笑い返してきたのでつい欲情してしまい、そのままホテルに連れ込んで一発やっちゃいましてノリで付き合うようになりました。
 なかなか目鼻立ちがはっきりして、すっぴんも可愛らしいのですが、濃い化粧のお陰でぜんぶ台無しにしている愚か者です。
 わたくしたちは一年ほど付き合ったのですが、女にうつつを抜かすよりも大事なカンゼオンキリス教と出会うことができましたので、家を追い出されたのを期に、俗世から自分を遠ざけるためにも別れたばかりでした。
 でも大して懐かしいとか女を感じることがありません。
 これこそ修行の成果でしょう。
 ミコはわたくしに無視されたのが気に食わなかったのか、部屋の隅に置いてあった、わたくしが中学生の頃から護身用に肌身離さず持っております鉄パイプを手に取ると、軽く投げてきました。
 わたくしの肩に鉄パイプが当たったのですが、流石にミコも常識があるのでしょうその勢いは大した事は無かったのでわたくしは気にもせずに聖典を読み続けておりました。
 ミコから溜息が聞こえてきました。
 このまま黙って帰ってくれればそれで良いと本気で思っておりましたが、世の中なかなか自分の思い通りにならないことは、わたくしも若輩ながら良く心得ております。
「ねぇ、そろそろお金返して欲しいんだけどさ」
 わたくしは一瞬、聖典から目を離してしまいそうになりましたが、耐えて無視を続けました。
「あのとき、ショップの人の前でも言ったよね。ぜったいあとで返すからって。そのときだけじゃないのよ? もう十万以上あんたに貸してるんだから。別れるのは良いけどさ、金返して別れなよ。そこらへんはちゃんとしてよ」
 それでも無視していましたら、ミコも苛ついて来たのでしょう。ミコは手を伸ばすと、わたくしが広げている聖典を奪い取って放り投げました。
「こんな訳のわからないもの読んでる場合じゃないでしょ。ちゃんとあたしの話聞きなよ。あんたがどうして変なもんにはまったのかは知らないし、あんたが死んでもぜんぜんかまわないんだけどね、あたしとしては、あんたに貸した金が返って来ないのは困るわけなの」
 わたくしはミコに顔を向けずにぞんざいに扱われた聖典を見つめました。
 わたくしとしてもミコがどうなろうと知った事ではありませんが、聖典がひどい扱いをされたのは許せませんでした。
「拾ってください」
 わたくしはミコを真正面から見つめて言いました。
 ミコは眉間に皺を寄せて、アホでも見るような感じで顔を歪ませてから言いました。
「拾ってくださいって何。なんかあんたのすべてがむかついてしようがないんだけど」
「むかついて仕様が無いのはわたくしの不徳の成すところです。ですがその聖典はわたくしにとって大切なものなのです。あなたはその大切な聖典を投げたのです。自分がなにをしたのか……」
 ミコは鉄パイプを持って立ち上がりました。
「なに、わたくしって。カナリキモイんだけど。やばい。あたしこんなやつとやっちゃった訳? 時間、チョーもどしてぇ」
 わたくしはミコが持った鉄パイプを見つめました。
 昔のわたくしならば黙ってドロップキックのひとつでもかましている所なのでしょうが、生まれ変わったのです。そしてこれは試練なのかもしれません。
 わたくしはミコを飲むところからはじめようと思い強気に出る事にしました。
「金ならないですよ。それでその鉄パイプ離した方が良いですよ。それでどうするつもりなんですか? もしかしてわたくしを殴るつもりなんですか? やれるもんならやってみなよ。おら、やってみろよこら。てめぇ、顔変わるぐらい覚悟しとけよこら……」
 わたくしは巻き舌でミコに言いました。
 ミコが一歩だけ後ろに下がったので、安心して聖典を取ろうと顔を向けました。
 そのとき後頭部に硬いものがぶつかる衝撃があって、鼻血がでそうになりました。
 わたくしは即座に後頭部に手をやりました。その手を自分の目の前に持ってきました。手の平が血によって赤く染まっています。
 わたくしは顔をあげてミコを見つめました。
 ミコは仁王立ちでわたくしを見下ろしていました。 
 このクソ女、マジで殴りやがった。
「あんたがそんな訳のわからないものに嵌ったのってさ、人生の失敗を自分の所為にしたくないからだけじゃない。簡単にダマされてほんと、情けなくてしようがない。まぁそんなのどーでもいーか。貸した金さっさと返せよ」
 ミコの目は据わっていました。
 やばい。
 わたくしは今のミコが向けている目と、同じ目をした男を過去に見たことがありました。
 そいつも後はどうなろうが知った事じゃないという、覚悟を決めた目つきをしていて、消火器でちんぴらを延々と殴り続けて殺してしまったのです。
 ミコが右手に持つ鉄パイプが、非常に歪んで見えました。鉄パイプを持ち上げる姿が、非常にゆっくりに見えました。水中にいるように感じらる程です。頭の中がぐわんぐわんして気持ち悪くてしようがありません。なんとか自分を守ろうとしたのですが、体が動きません。わたくしはミコの攻撃を防ぐことができませんでした。
 鼻の奥で火薬の臭いがして息を吐くと、畳の上に真っ赤なわたくしの血が落ちました。
 わたくしは仰向けになって天井を見つめました。
 ミコがわたくしを見下ろしています。
 それから何の躊躇も無く、鉄パイプを振り下ろしてきます。
 わたくしはわたくしの命が鉄パイプによって消されて行くのを、まるで他人事のように感じていました。
 わたくしはこのくそせまい部屋でモトカノに殺されてしまうのだと思うと、情けなくて涙が出そうになりました。
 鉄パイプがわたくしの顔や首の下や胴体を容赦無く壊して行くのですが、痛みなどまったく感じられませんし、不思議なことに、恐怖もまったく溢れて来ません。
 わたくしはもしかしたら最初から殺されるために生きてきたのかもしれないと思ったほどです。
 しかし本当にそれで良いのかとも自分に問い掛けました。
 本当にいま殺されても良いのか、本当に死んでも良いのか、もっと生きたくないのか。
 胸の奥の方にふわりとした小さな炎が生まれたように感じました。
 やはりこのままではまずいと、わたくしは鉄パイプに殴られながら、うつ伏せになって目の前にあるミコの足首に手を伸ばして砕くぐらいのつもりで握り締めました。
 何か喋るつもりだったのですがうまく言葉が出てくれず、代わりに口から血飛沫が散りました。
 ミコの真っ白の靴下が、わたくしの口から吹き出た血によって赤くなっていきました。
 ふとわたくしに向かって豪雨のように降っていた鉄パイプの攻撃が止みました。
 そしてミコの手から、鉄パイプが畳の上に落ちて転がって静かに止まりました。
 ミコは顔を横に何度も振りながら、後ずさりして、玄関まで行き扉を開いて出て行きました。
 わたくしは脇に転がっていた聖典を手に取りました。
 銀色の表紙が真っ赤に、とても鮮やかに塗り潰されています。ねっとりとした鉄錆の臭いが鼻先に漂いました。
 こんなにひどくやられたのは高校生の頃、暴走族にフクロにされたとき以来です。
 もしかしたら、そのときよりも酷い状況かもしれません。フクロにされたときは、自分の顔がどうなってしまったのか怖くて怖くてしようがなかったのですが、今はまったくそんな感情は湧き上がって来ませんでした。だから逆に怖いので理由を考えました。もしかしたら修行の所為なのだろうかとも思いました。修行の結果が出ているのだと思えたら嬉しくてつい笑ってしまいました。
 息苦しくなって咳をしたら血がたくさん飛び散りました。
 わたくしは鉄臭い息を鼻から口から吐き出しながら机に向かい這って行きました。
 どうしても座りたくてしようがなかったのです。
 わたくしが動くたびに、畳へ真っ赤な手の平のスタンプが生まれました。
 わたくしは力を振り絞りながら机の下まで行き、机の足を握って一生懸命自分の体を持ち上げることに集中しました。
 途中で体の力が抜けてしまい体が崩れ落ちそうになるのをなんとか意識の力で引き止めつつ椅子へと座る事に成功しました。
 机の上に置いた時計を見ると、午前十二時を過ぎているのがわかりました。
 ゆっくりと、本当にゆっくりと窓の外に顔を向けました。
 血の所為でしょうか、並んだ家の屋根が真っ赤に歪んで見えます。
 わたくしはいちど深く息を吐きました。祈りが届いたのでしょうか、大災厄が起きた気配はありません。そのときにミコがわたくしに向かって言った言葉が、頭の中でゾンビのように蘇ってきました。
「簡単にダマされてほんと、情けなくてしようがない」
 祈りが届いて大災厄が回避されたのか、それとも最初から何も無くただ教祖様にダマされただけなのかわたくしには良くわかりませんし、証明するにしてもどうすれば良いのか、やり方がまったくわからないのです。ただそのとき先輩がおっしゃっていた言葉が、頭の中に浮かんできたのです。
「聖典を汚したり破ったりすればそれだけ自分に不幸が起きるので大事にしなさい」
 わたくしは畳の上に転がっている聖典を見ました。
 わたくしの血によって汚れているのですが、わたくしには何も起きていません。
 そもそもミコに滅茶苦茶にされたのは、何が原因なのかと考えてみますと、教団に入った所為なのではないかとも思ってしまいました。
 わたくしはもういちど踏ん張って立ち上がり、揺らめく部屋の光景を眺めながら聖典に向かって歩いて手に取り、そして激しく息を吐きながら机へ戻って椅子に座りました。
 わたくしは試しに聖典を両手で掴んで息を吐き、ゆっくりと真中から破ってみました。
 ですが何秒経っても何も起きないし、もっと苦しくなる事もありません。
 わたしくは机の上に転がっていたタバコから一本取り出して火をつけました。

               
                 








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