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創作小説 よしぞー堂

創作小説 よしぞー堂

現代+ファンタジー『涙湖にて。』 43枚



涙湖にて。


 私は新鮮な蜜柑のようにも見える太陽へ向かい、手を広げた。
 温かい光が、曇っていた心を照らしてくれる。
 目の前に広がる湖に視線を移し、一歩、二歩波打ち際に近づく。水面は囁くように揺らぎながら、金色に煌めいていた。
 湖の中央で、白鳥たちが優雅に波紋を生んでいる。
 私は油断すれば引き込まれそうになる心を押しとどめ、そっと息を吐いた。
 湖の向こうに山が並んでいる。麓の森は、赤く染まっている。揺れる木の葉の音が、十月の風に乗って湖上を渡り、湿り気を含んで耳に届いた。 
 良いところだ本当に。
 作り笑いで無い笑顔が出るのは、久しぶりだった。湖を脳裏に焼きつけようと目を瞑る。
 一年前、三十年勤めた会社を自主退社した。
 旅に出たのはそれからちょうど半年後だ。気ままに車を走らせ、日本中を転々とし、最後に此処へ辿り着いた。
 もしかしたら呼ばれたのかも知れない。山道で迷った結果なのだ。
 ガイドブックに載る著名な場所へ行っても、しっくりこなかった。今回は違う。ここだ。ただ思った。
 私は目を開けて息を吸った。呼ばれて無くても、それはそれで良い。
 私を知る者は、此処には居ないのだ。農家が数件在るだけで、人も少ない。煩わしくない。なにより私は気に入っている。それで良いではないか。
「ゆっくり休もう」
 
 職業訓練校を卒業して、働きづめだった。
 休日は、太った猫のように寝るだけの生活。自分でも呆れたが、私は夢の中でも仕事をしていた。
 改めて振り返ると、私は会社の為のロボットだったような気がする。
 後輩を教育し、愚痴を聞き、大学出の若い上司から命令され怒鳴られる。自分の意見を押しつぶし、ミスしないことだけ気をつけ、同じ行為を繰り返す。
 毎日、毎週、毎年。
 疑問は生活という現実によって封殺された。働かなければ、喰えない。
 大人にとってじつにあたりまえのこと。
「あんたは居ても居なくても良い存在だ。代わりは何人も居る。クビになりたくないだろ。俺の奴隷になれ」
 酒の席とはいえ。
 私は大人から青臭い青年に変わった。上司を殴り、眼鏡を割った。
 入社してきた当初から、割りたくてしようがなかったのだ。
 あんたのようになりたくないと、眼鏡の奥の、いやらしい眼が語っていたから。
 私にも技術屋としての誇りがある。おまえ如き小僧に負けぬと。
 甘かった。
 再就職先は、簡単に見つからなかった。職業安定所には、表情に影を貼り付けた者が何人もいて、私もその中の一人にすぎなかった。面接にもこぎつけず、年齢オーバーで門前払いされる毎日。
 いつの日からか、頭の中に暗い未来ばかり浮かぶようになった。
 生活はどうすれば良いと、頭を掻きむしる。
 もしかしたら今回の旅は、気分転換の旅ではないのかもしれない。
 私は心の奥底で、死に場所を探しているのかもしれない。
 両親はとうの昔に死んだ。愛というのも解らない。世間体も気にならないから、結婚もしなかった。友人と呼べる者もいない。
 私は一人だ。死んで泣いてくれる者も居ない。気楽と言えば気楽だが、複雑だ。もう少し若ければ、弱気の虫に食われることもなかったかもしれない。
 ふと憎たらしい若造の顔が浮かんだ。
「あんたは居ても居なくても良い存在だ」
 間違っていないかも知れない。無価値なのかも。
 水辺にしゃがみ、自分の顔を水面に映す。肌は艶も張りも無く、皺が刻まれている。髪にも灰色が目立つ。時間に若さを吸い取られた男が映っている。
 私は水面に映る自分の頬の傷に触れた。
 冷気だけが、指先から伝わる。若いころ機械操作を誤り、できた傷だ。その傷が一番の思い出とは寂しかったが、しようがない。
 青く晴れていた心に、濁った雨雲が、邪魔をするように満ち始めた。
「老いてしまった」
 指先を抜いた。波紋が広がる。
 白鳥が作り出す波紋と、私が作り出す波紋は同じ波紋なのは確かだが、どこか、決定的に違う気がした。
  
 湖の脇に、旅館が一軒あった。民宿と言ったほうが良いかもしれない。
 六室しかなく、古くさく、老舗の味といえば聞こえは良いが、いつ倒壊してもおかしくないように思える。屋根の看板も歪んでいる。
 泊まることに決めたのは、そこしか宿が無かったからだ。
 飛び込みだったが快く了解してくれた。
 外装はともかく内装は不満でも無かった。掃除はまめにされている。あちこち埃が溜まってもいない。玄関正面には、大人でも隠れられそうな、大きな花瓶が飾られている。壁には絵が並んでいた。
 とくべつ芸術に興味はない。ただそれらの作品からは、情熱と、力と、気品が滲み出ている気がした。良い品だろう。良い品には、良い雰囲気が漂っているものだ。それらの品が並んでいるのを見ると、幾分、高級旅館に泊まっていると思えてくるから不思議だ。
 私は置かれた作品を眺めながらロビーに行き、椅子へ座った。
 煙草を吸いながら周りを見る。
 客は居ない。私だけだ。
 駐車場にも私の車以外「涙湖館」とペイントされたワゴン車が二台と、スクーターが置かれているだけだった。社用車と従業員の足なのだろう。
 客が自分以外居ないのは嬉しい。貸しきりな気がする。
「どうですかここは?」
 声をかけられて我に返った。左に顔を向けると、受付の男が立っていた。スーツを着こなした上品な紳士、そんな感じだ。柔らかな微笑みと泣きボクロが印象的だ。歳の頃は、私と変わらないだろう。五十歳過ぎといったところか。男は私の隣にゆっくり座った。革張りの椅子が、きゅっ、きゅる、ばはっと鳴った。
『涙湖館支配人 神谷』
 胸には名札が付けられていた。チェックインした時には気付かなかった。
「驚いていますよ」
 努めて笑顔を作りながら言った。
「こんなところが日本にあったんですね」
「そうですかそうですか」
 支配人は頷いて続けた。
「今はちょうど観光シーズンとずれております。お客様はあなた一人です。ゆっくりしてください」
「そうさせていただいております」
 煙を吐くと、白い煙は空中で広がり、やがて溶けた。
「一人旅ですか? ご家族は?」
 支配人が訊いてきた。不躾な質問と思ったが気楽だった。静かに過ごしたいとはいえ、誰とも話さず呆けているのも退屈だった。
「嫁をめとるのを忘れておりました」
 笑いながら言うと、支配人は椅子の背もたれに深くもたれ直し、天井を見た。
「そうですか。わたしは去年、女房に先立たれました。一緒に此処を経営していたのですが。急に体調を崩しましてそのまま」
 微笑みは崩していないけれど、悲しみの色が浮かんでいた。
「そうですか」
 それだけ答えた。
「湖に長居されていたようですが。お気に召されましたか?」
 支配人が話を変えた。依存は無かった。私は湖の感想を述べた。文句は無い。ただ一つ気になる事があった。
「悲しい気持ちになりますけどね」
「涙湖(るいこ)と言います。立て札は倒れていませんでしたか? ふたつあるのですけれども。風が強くなってくると良く倒れるのですよ」
 そういえば、湖の前に立て札があった。確かに倒れていたのを見た気がする。気にはしなかったが。
「みなさま美しいとおっしゃりますが、同時に悲しいと言う方が大変多い。泣き出す方もいる。涙湖には昔話がありましてね。この話もなかなか悲しい」
 支配人の口調は柔らかいままだ。
「ぜひ訊きたい」
 私が即座に返すと支配人は目を瞑り、息を吐いた。
「お客様は妖精の存在を信じますか?」
「妖精? 絵空事の存在です」
 戸惑う私の意見に賛成も反対もせず、支配人は微笑みを絶やさず、話を続けた。
「妖精というのは悪戯をする。機嫌が良いときには家事を手伝ってくれるものもいる。勿論それだけでは無い。いろいろな妖精が、物語の中に登場します」
 湖の話を聞きたいのだが。私は支配人を見つめた。
「どうしてそんな話をするのか? そんなお顔をしてらっしゃいます」
 支配人は楽しそうに言った。
 私は息が詰まったような苦笑。
 妖精とは、また夢がある。幼いが。
 支配人が椅子に座り直した。両手を握り合わせ、目を瞑る。
「涙湖は妖精が作ったのです」

 
 かつて。
 ヨーロッパの商人は海を渡り、日本に文化を持ち込みました。
 武器、技術、芸術、医術、衣、食。天ぷらは、ポルトガル人が持ち込んだものでしたね。
 中には妖精を持ちこんだ商人もいたのです。数は限られていました。そして取り引きする客も限られた。妖精など扱っていると知られれば、教会に何を言われるか解ったものではない。商売どころではなくなるでしょう。だから客も、秘密を守る事ができる者に限られました。
 そしてこの地には、信頼され数少ない取引先に選ばれた大名が居たのです。正式な文献には残ってはいません。もちろん教科書にも載っていない。普通に考えれば馬鹿馬鹿しい事です。
 でもね、わたしは信じています。
 先祖が伝えてきた話ですから。嘘かも知れませんが切り捨てるのも面白くない。
 話がそれましたね。信じる方が少ないので、つい興奮してしまう。申し訳ない。少なくとも話し終わるまでは、信じていただきたい。そちらのほうが、楽しめますから。
 その妖精ですが。
 髪はいつも濡れているようで、背中には真珠色の薄い羽が生えていました。汚れない目で見つめられ、頬を桃色に染めぬ者は居なかった。声は、名人が奏でる笛の音色のようで、肌は触れれば溶けてしまいそうな程に白く、きめ細やかだった。夜になれば薄い光の布を纏ったようにぼんやりと輝く。妖精の周囲だけ、炎の熱の向こうに見える風景のように揺らいでいたそうです。
 わたしも見てみたいものです。
 ただそれは、人間の勝手な言い分に過ぎなかった。妖精は望んで商品になった訳では無いのです。捕まえられたのです。どうやって捕まえたかは謎ですが。はっきり言える事は、妖精にとっては、いい迷惑だったのは確かです。
 自由が無い生活は窮屈です。
 逃げれば良いと考えられるでしょう?
 妖精は魔術に呪縛されていた。正確には妖術と伝えられておりますが、まぁ、似たようなものです。ともかく魔術的な束縛をしかれて逃げられなかった。犬を散歩するとき、紐を付けるでしょう。同じ物がつけられていたと考えて下さい。
 そしてある日ですね。本当にある日なのですよ。文章での記録が残っていないから、ある日としか言えないのですが。
 ある日、日本人の若者が妖精に恋をした。若者は商人を殺し、妖精をさらった。最初は怯えていた妖精も、追っ手から守ってくれる若者に心を許した。
 結局ふたりは逃げ切った。人里離れた土地で、二人仲むつまじく暮らしましたとさ。
 そこまでは幸せな物語です。
 しかし妖精は、人間より遥かに長い寿命だった。
 若者は老いて死に、妖精だけが残された。妖精はなんど朝が来ても、なんど夜が来ても泣き続けた。
 涙が一粒落ちると水たまりができた。やがて涙によって湖が出来た。
 月が綺麗な夜。妖精は自分の涙で出来た湖に飛び込みました。
 みんな言いました。
 住むべき国に帰っていったのだ。
 後を追って死んでしまったと言うには、あまりに哀れだったからでしょう。
 

 支配人は一気に喋った。口から唾が飛び散った。お気に入りの話をする少年のように夢中だった。
 私は話の荒唐無稽さより、支配人に呆れた。分別はついている歳だというのに。
 反面飲まれていた。滑稽だと思いながら、気圧されていた。
「んっ、んんっ、ん、んん。この土地にはこんな童歌が残っております」
 支配人が歌い始めた。
 

 はーねとーぶ きーんかみ いーじーんのーひーめさーま
 いーついーつ なーきーやーむ どーぶらーこー どーぶらーこー
 

 はーねとーぶ きーんかみ いーじーんのーひーめさーま
 しーげきーち しんだと さわいどるー どーぶらこー どーぶらこー
 

 はーねとーぶ きーんかみ いーじーんのーひーめさーま
 なーみだー  ひーとつーぶ たーれるとー せーんつーぶ 
 

 はーねとーぶ きーんかみ いーじーんのーひーめさーま
 そーろそーろ かーえらにゃ どーぶらーこー どーぶらこー


 ゆったりした童歌だった。
 大したことはない。どこにでもある童歌だ。
 しかし。
 心に涙雨が降りはじめた。
 しげきちという名前を訊いた時、頬の傷が痛んだ。胸のざわめき。
 しげきちに嫉妬している? 私が? どうして?
 妖精に好意を覚え、二人に憧れている? 
 心臓の鼓動が痛いほどに速くなる。
 今までにないことだ。
 若いころも、そのような感情を覚える事はなかった。
 なぜいまさら。なぜ今だ。
 分からない感情と諦めた筈だ。
 異性に肉欲を感じる事はあっても、人が奏でる愛などに嘘臭さを感じていたではないか。
 今はどうした。妖精など子供だましだと考えていながら。
 支配人は眼を赤く潤ませて言った。背広のポケットから、ハンカチを取り出し、眼を抑える。
「若者と妖精とのことを歌っております。申し訳ない。つい」
 言って時計を見る。
「そろそろお食事の時間ですね。その前にお風呂などどうですか? ごゆっくり満喫して下さい」
 窓の外を見た。夜が降りはじめていた。

 
 温泉では無いが、疲れを取るには充分だった。
 大浴場は二階にあり、四方ガラス張りで、風呂に入りながら月と星が落ちている湖を見る事ができた。
 お湯の中に溶けたい。全身の力が抜ける。
 浴衣を着て部屋に帰ると、食事が用意されていた。
 舟盛りだ。鯛の口がぱくぱくと動いている。なかなかのものだ。
 透明な刺身を見ると、口の中に涎がたまって我慢できなくなった。
 不作法ながら一切れ指で摘み、口の中へ入れる。ぷりりとした歯ごたえ。とっくりを掴み、お猪口に酒をつぎ、ちょびちょび飲みながら窓から湖を見た。輝きを見つめていると、昔話が現実にあったことと思えてくる。
 私はとっくりに口をつけ、そのまま酒を舐めながらベランダへ出た。
 火照った体を、風が優しく撫でた。私は欄干に体を委ねた。
 ふと声が聞こえた。
 内容は解らない。
 だが聞こえた。
 私は耳を澄ませ、風の中に声を探した。風音が飛び込んでくるだけで、声など聞こえない。
 酔っている所為かもしれない。
 気味が悪くなり、部屋に戻り、障子を閉めた。


 森の中を走っていた。
 草鞋から伝わる地面の踏み心地は、非常に悪い。湿った落ち葉が、踏みしめる力を吸い取って行く。
 捕まれば殺される。歯を食いしばる。銃声が鳴った。
 頬を刃が走った気がした。まともに当たりはしなかったが、掠った。撫でると生暖かい血が手に着いた。殺される覚悟はできていたが、女は心配だ。ティアだけでも助けなければ。おんな? ティア? 
 そうか、私は女と逃げているのか。
 ティアという名前か。
 実におかしい。誰と一緒に逃げているのか知らず、誰かと逃げていたのだ。しかも女はどこにいる。疑問は胸元のくすぐったさに隠れた。子リスが暴れているような気がして、胸元を覗いた。襟から小さな顔が覗いている。女だ。小さな、とても小さな。ぷわりとした、丸く柔らかな気持ちが膨らむ。
 そうか。こいつがティアか。
 私は走る。額に滲む汗が垂れ、目の中に入る。しみる痛みで涙が出た。
 手で拭いながら、走る。止まれない。必ず助ける。逃げ切る。
 森を抜け、開けた空間に飛び出た。
 草原だけがざわめいていた。夜風に溶ける草の匂いが、鼻に飛び込む。
 草原とはいえ、草の背は小さい。隠れる事もできない。逃げ場は無い。
 森の中に戻るにしても、背後から殺気だった声が近づいて来る。
 振りかえると、揺らめく松明の炎が横一直線に並んでいた。
 柑子色の網に見えた。
 どうすればいい。途方に暮れた時、ティアが胸元から外に飛び出た。
 蝶のような羽をはばたかせ、宙に静止する。
「逃げろ」
 私は怒鳴った。ティアは顔を横に振った。口を一文字にし、眉間に皺を寄せ、怒ったように私を見つめる。
「ではどうすればいい!」
 頭を抱えて怒鳴ると、ティアは両手を空に向かって広げた。
 つられて空を見ると、満月が見えた。ぼんやりとした黄銅色の光を見ていると、月が恐ろしくなり、私はティアに視線を戻した。
 とたん尻餅をついた。腰が抜ける。その言葉を実感した。
 一条の光が、ティアの体に伸びていた。月色を纏ったティアは、やがて明滅をはじめ、光の塊に変わった。
 夜の闇が切り開かれる。周囲が昼間のように明るくなる。
 私は手で光を遮りながら、輝きを増すティアを見つめた。
 ティアは自分を抱くように、胸元で手を交差させた。
 なにをするのか? 
 思った瞬間、ティアは手を広げた。
 光が、闇の中に広がる。闇を喰っていくように。
 そして、私は、光に飲まれた。
 

 目を開けると天井が見えた。
 柔らかな温もりが、体の上に乗っている。
 私は布団の中に居た。
 障子の隙間から入る光が、顔を刺して眩しい。
 汗ばんでいた。
 たまる唾液を飲んで、上半身を起こした。胸の表面を、汗が伝う。気持ち悪い。
「ゆめ、か?」
 

 ロビーへ行くと支配人が居た。テレビの前に座り、新聞を広げている。
 私の気配に気付いたのか、振り返ると頭を垂れた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
 私は頭を掻きながら、夢の話をした。奇妙な夢の話を他人にするのは恥ずかしいが、この支配人なら解ってくれるような気がした。どんな話でも、つまらないと一笑に伏す事は無いに違いない。支配人は商人としての微笑みではなく、人としての微笑みができる人物だと思う。そのような気持ちを他人に抱いたのは、生まれて初めてだった。 
「羨ましい。ときおりいらっしゃるのです。この宿に泊まると不思議な夢を見られる方が。わたしは一度も見たことがないのに。本当に羨ましい。死ぬ前に一度ぐらいは見てみたい」
 支配人はそう言って笑った。
 だが支配人の、その目が気になった。
 私の様子を注意深く探っているように見えたからだ。
 頬の傷が鈍く痛んだ。


 夢の事を考えながら、湖の周りを散策した。
 脳裏には妖精の姿が焼き付いている。
 私は恋に落ちた青年だった。いい年をして、こそばゆい。
 自分自身を馬鹿な奴だと、遠ざけようとした。
 夢を見たのは昔話を聞いたからだ。昔話は昔話だ。恋こがれるなど、まったく。
「馬鹿げている」
 私自身をあざけ笑った。同時に疑問が浮かんだ。
 なぜ私は、今まで結婚をしなかったのだろう。
 自然と足が止まった。機会が無かった訳では無い。見合いもあった。魅力的な女性ばかりだ。働き者だったり気立てが良かったり、美人だったり。
 私はしなかった。結婚する気が無かった。愛というものが解らなかった。嘘臭いとも思っていた。
 確かにそうだが、本当は違う理由が横たわっている気がしていたから。
 幾ら考えても、横たわっているものがなんなのか解らず、歳を取るに連れ、私は考えるのを止めた。
 頬の傷がじくりじくり痛んだ。頬をさすりながら顔を上げ、再び歩き出した時、波打ち際で、小船が揺れているのを見つけた。
 薄土色で木製の小船だ。
 少し落ち葉が溜まっていた。縄は杭に結びつけられている。
 私は誘われるように船へ乗り込むと、縄をほどいた。
 小舟はゆるりと進んだ。
 お伽の国に向けて、船出するような気分だった。
 オールを漕ぎ、湖の真ん中で小舟を止めた。
 水の匂いが満ちている。冷たく湿った空気が肺へ送られる。濡れた空気が、体に満ちる。それが解る。
 私は木の葉のベッドの上へ寝転んだ。少し、頭を冷やそう。
 湖の空気が心の中に刺さる、ガラスの棘めいた悩みを取り払ってくれるよう、祈った。


 胸の中に、深く黒い靄が溜まるのだ。
 光に飲まれた後、私たちは知らぬ村の前にいた。
 村と言っても、藁葺きの家が三軒あるだけ。
 私は胸の中にティアを隠し、一軒の家の扉を叩いた。
 中から腰を曲げた老婆が一人出てきた。
「なずした? 見ねぇかおだけど。すっぱねだらけだわや」
 老婆の口から出たのは、聞き慣れない言葉だった。
 

 人里離れた、その村に住み着いた。
 腰まで伸びる雑草と戦い、畑を耕し、種を蒔いた。
 ティアも良く尽くしてくれた。
 小さかったティアは人と同じ大きさになった。
 しかし。
 光にしろ大きくなれるにしろ、そのような力が在れば、容易に逃げ出せただろうに。
 ティアの話によれば、力を封じられていたらしい。
 魔術と言われても良く理解できなかった。
 ただそれがなんだという。逃げ切れた。それでいい。
 

 ティアと共に五十年が流れた。
 そして。
 ティアが枕元に座って、私の顔を覗き込んでくる。
 私はもう、ティアを抱きしめられない。髪を撫でる。そんな簡単な行為が精一杯だ。心の中に黒い靄が漂った。
 
 
 ティアは老いない。
 一年経っても十年たっても、五十年が経っても老いない。
 私だけの顔に、皺が刻まれ、髪に灰色が混じる。腕も足も細くなる。立ち上がるのも億劫だ。肋骨が浮かび、喉が痒く、苦しい。濁った臭いが、自分の体臭と気づいた時、私は粥しか食えない体になってしまったのを自覚した。
 ティアを見るのが辛いのだ。それでも人と違うと自分に言い聞かせる。
 痰に血が混じるようになった。布団の中で過ごす事が多くなった。
 私はティアの若さに、嫉妬するようになった。
 考えてはいけない。
 わかっているが、ティアに当たってしまう。
「おまえはなぜ歳を取らない。どうしておまえだけがどうして」
 ティアが両手で顔を押さえて泣くのを見ると、いっそう腹が立ち、力の入らない手でティアをぶった。
 ティアは抵抗せず、目を瞑ったままぶたれる。
 ティアにぶつけても、黒い靄は消え無い。
 黒い靄は、目から鼻から次から次へ流れるが、枯れはしない。
 ぶつのを止めると、ティアは溶けゆく雪のような悲しみを表情に浮かべて言うのだ。
「わたしは人ではありませんが、人であるあなたの気持ちは、わかりたいと思うのです」


 目を開けても自分が何処にいるか、すぐには解らなかった。
 見ているのが、鈍黄色の月と星だと解ると、上半身を上げて周りを見た。湖は深く黒い色で無表情だ。
 揺れる船上で私は一人だった。
 顔を手で拭い、自分の気持ちを落ち着かせようとするが、風に邪魔をされた。汗で濡れた体が冷やされ震えた。
「また、夢か」
 私は星を眺めた後、息を吐いた。
 得体の知れない感情が、溜息と一緒に吐き出されるのを期待した。
 なんだというのだ。
 頭を掻きむしりながら考える。昔話を聞いた時、正直年甲斐もなく憧れた。
 それは確かだ。だが一瞬の事だ。
 馬鹿馬鹿しいと考えていたではないか。
 私は子供では無い。なぜこんな夢を見る。本当に、妖精に恋こがれているというのか。
「信じない」
 存在しないのだ。胸くそが悪くなる。
 頬の傷が焼けるように痛んだ。
「宿に戻ろう」
 オールを手に取った時、声が聞こえた。
 闇の中に伸びる光のような。
 声。
 私は動きを止め、耳を澄ませた。
 森がざわめく。
 水の流れる音。
 吐き出す息の音が、白く溶ける。
 私は息を止め、目を瞑り、聞き取ろうと神経を集中する。
 心臓の音が邪魔をしたが、すぐに気にならなくなった。
 すべての神経が風の中に向かった時、はっきりと聞いた。
 頬の傷が、いつもより激しく痛む。
「しーげきーちーさまー。しーげーきーちさまー」
 

 頭の中で爆竹が弾けたような衝撃が広がった。
 鼻の奥がきな臭い。ふくらはぎや二の腕の筋肉が痙攣する。
「しげきち?」
 名前。
 名前は。
 私。
 私? 
 私はしげきち。
 私は、えっ? しげきち。
「えっ、えっ、えぇぇ?」
 遠い昔の記憶が、洪水のように押し寄せる。
 思いだした。
 私は。
 しげきち。
 

 ティアの顔は、流す涙と鼻水でずぶ濡れだった。
 私はティアの水晶細工のような手に触れた。
 少し力を入れれば折れてしまいそうな程に弱々しい細い指が、もっと弱々しい私の指に絡む。
 死にたくない。ティアを一人にできない。
「ティア、ティア、ティア」
 声を出せているのか、もう解らない。しかし叫んだ。
「しげきち、しげきちさま」
 ティアが髪を振り乱し呼びかけてくるが、私の意識は容赦なく薄れる。住み慣れた筈の家が、他人の家のように感じる。
 死にかけている私を、家が冷たく見つめているからだろうか。
 ティアだけが味方だった。
 私はティアの頬を撫でた。
 ティアが私の手に頬ずりする。
 温かい生命の温度。
 それでも、私の命は私を裏切ろうとする。
 私は冷たくなる。
 ティアの愛おしい顔が歪む。
 ねむい、ねむいのだ。
 しかし、まだ眠るわけにはいかない。
「すまぬ。おまえをぶってしまった。許してくれ。許してくれ。わしはおまえを忘れん。忘れぬぞ。わしは生まれ変わってもお前に出会う。忘れぬぞ。許してくれ」
「死んでは駄目だ。死んでは駄目です。しげきちさま、死んでは駄目」


「うわぁ、うおぉ、あがぁ! あぁ!」
 船を殴る。激しく揺れる。それがどうした。
 忘れていた。
 どうして忘れていた。
 忘れてはいけなかった。
 誰も愛そうとしなかったのは、ティアがいたからだ。
 私がしげきちだったから。そのことを忘れて。
 なんという、なんという。
「あぁぁ、ティアー、ティアー、ティアー」
 ティアを捜す。頭を掻きむしり、顔を手で拭い、首を横に振る。
「どこだ、どこにいるんだ!」
 船のへりから顔を突き出し水中を覗き込む。深く、暗く、何も見えない。
 顔を上げて尻餅をつき、声へ耳を傾ける。
 どこからやってくる声だと耳を澄ます。声が遠ざかる気がした。
 私は焦り、へりを掴み、小舟を揺らした。その時ふと、視線の先に光が見えた。
 水面で燃える炎のようだった。
 我に返った瞬間、オールをがむしゃらに動かした。筋肉がきしみ、汗が吹き出る。ただ光を目指した。近づくと、水面に映る月からその光が放出されているのが解った。
 私は小舟を止め、水面に映る月を覗いた。全身の力が抜けた。
「見つけたぞ」
 手の平程の大きさの女が、羽をはばたかせていた。
「ティア」
 ティアがにっこりと微笑み、私へ腕を伸ばしてくる。
「しげきちさま。ずっと願っておった。再び会えることを」
 ティアの声は、昔と変わらず澄んでいた。
 私はティアへ手を伸ばした。
 そのとき背後から声が聞こえた。
 振り返ると、ライトの明かりがこちらに向かってくるのを見つけた。
「なんだあの光は! だいじょうぶですかぁ? いたぞー。おーい」
 支配人だった。
「そこで待っていて下さい! いまからすぐ助けます」
 私はティアへ顔を向けると笑った。
「どうするか?」
「わたしはあなたとおりたいのです」
「許してくれるのかの? 忘れていたことを」
 私がそう言うと、ティアは微笑んだ。
「しげきちさま。わたしたちの世界へ参りましょう。許しが出たのです。長い長い、月日でした。あなたをわたしたちの国の住人として迎えること。許しが出たのです。許しが」
 へりに足をかけた。
 ライトの光が私に当たる。
「なにやってるんですか! 危ない。光から離れなさい。やめろ。おーい」
 怒鳴り声が聞こえた。
 自分を押しとどめる気持ちは皆無だ。
 私は支配人に向かって叫んだ。
「この世界から解放される!」
 支配人は一瞬黙ったあと、叫んだ。
「なにを言っているのですか! わかりませんよ!」
 私は支配人に頭を下げた。きっと支配人は、私が死ぬと考えている。
 違うのだ。ティアの国へ行くのだ。
 ティアに人差し指の先を掴まれた。
 懐かしい温もりが伝わる。
 頬の痛みが消え去る。
 撫でると、傷の感触が消えていた。
「さぁ、まいりましょう」
 ティアが言った。
 私はゆっくりと光の中へ入る。
 光は、温かく、柔らかく、優しく、私を許してくれた。 


 目を開けた途端、視界が眩んだ。
 目を擦り、何度か瞬きをする。ぼやけていた風景が、今度ははっきりと見えた。
 私を誰かが覗き込んでいる。
 誰だろう。再び目を擦り、改めて見た。
 私の頭を、疑問が埋めた。
 なぜにこの人がいるのだ。
 私はティアの国へ行った筈なのに。
 支配人だった。握られた懐中電灯を、私へ向けている。
「風邪をひきますよ」
 支配人は微笑みを浮かべていた。真剣な眼を見て、私を心配しているのが解った。支配人に対し申し訳ないと思ったが、正直それよりも、ティアの事が気がかりだった。
「ティアは」
 私は船のヘリから身を乗り出し、水面に揺らぐ月を見た。ティアの姿は何処にも無い。毛穴が開き、汗が噴き出した。
 私は月の中へ手を入れた。それから水から手を出し、指を開いた。
 水がこぼれる。心に闇が滲み込む。
 夢か。現実か。
 はっきりとさせたくて、また水中に手を突っ込む。
「いまは、夢と、現実、どっちだ?」
 訳も分からず呟いた。
 支配人はくくっと小さく笑い、小舟の脇を見た。
 ゴムボートが浮かんでいた。
「まだ寝ぼけているようですね。さぁ、戻りましょう」
 水の冷たさが、手の先から全身へ広がった。


 昨晩、確かに、私はしげきちだった。
 私は煙草を吸いながら湖の前で佇んでいた。
 水面は太陽の光を浴び、金色に煌めいている。小さな波音は白鳥の鳴き声と、森のざわめきと混ざり合い、優しい音色を奏でていた。
 私は広がる湖を眺めながら、そっと息を吐いた後、妖精を想った。
 なぜあんな夢を見た。
 想像ならなんとでも言える。
 愛を渇望していたから。
 現実逃避。
 何も理由がなく、ただ見た。
 幾らでも言える。
 そしてすべてが違う気がした。
 ただひとつだけ、解った事がある。
 人を愛せなかった理由。
 邪魔をするように、横たわっていたもの。
 もしかしたら、それは、私自身が作り出した幻だったのかも知れない。
 私も誰かを愛せるかもしれない。夢の中のティアを、確かに愛したように。
「もう少し生きてみようか」
 呟いた時、支配人の言葉がよぎった。
「また身投げかと思いました。良くいるのです。心配でしたよ。来た時から、ずっと疲れた顔をしていらっしゃった。事情は解りませんし、わたし如きがおこがましいのですが、頑張って頂きたいのです。チェックインの時に知ったのですが、あなたとわたしは同じ年齢です。まだまだ負けちゃ駄目だ。若いもんに負けてられませんよ。わたしたちの世代は、まだがんばれる」
 私は倒れた立て札を見つけ、立て直した。表面には、支配人に聞いた物語と、同じ説明が書かれている。そばにもう一つ、立て札が倒れていた。俯せになり、地面に埋もれている。持ち上げると、土を払い、一字一句撫でるように、文字を読んだ。
 

 少し待て 親から貰った命を大切に 涙湖にこれ以上涙はいらない


 自然に苦笑が出た。
 徐々に笑いの波が大きくなる。大笑いだ。腹の筋肉がくすぐられているように、酷く震えた。腹の奥から迫り上がる波を抑え込もうとして、腹を押さえる。どうしてこんなにおかしいのか。自分でも分からないが、とにかくおかしい。目から涙が出るが、それはきっとおかしいから出る涙では無いのだろう。
 私は油断すれば溢れそうになる感情の波を、強引に抑え込み、足元の石ころを取って湖へ投げた。
 石ころは水面を跳ね、波紋を生み、消えた。
 涙を含んだような濡れた風が、一陣強く吹いた。風を浴びながら、耳を澄ます。
 妖精の声。風の中に、あの声、ティアの声を見つけようとして――やめた。
 私は耳を塞ぎ、目を瞑り、涙湖に背を向けた。








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