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創作小説 よしぞー堂

創作小説 よしぞー堂

シカエシ 四




 朝から雨音が響いていた。住宅街は薄い布でもかぶったように薄暗い。
 ケイタはこんな日が嫌いだった。何かろくでも無いことが起きる気がするからだ。過去に嫌なことが起きた訳では無いが、何か予感がするのだ。
「おはよう。ピクニック日和とはほど遠い天気になっちゃったわね」
 背後から声をかけられて、ケイタは振り返った。
 隣人であるアソウと、女性がゴミ袋を持って立っていた。
「あっ、おはようございます」
 挨拶を返すと、アソウが気だるそうに顔を上げた。
「一雨来ちゃいそうね」
「そうですねぇ」
 アソウの隣に居る女性がのんびりした声で言った。色白で髪の長い女性だ。一時間でも相手の話をちゃんと聞いてくれそうな優しく柔らかな気配を漂わせていた。
「コグレさん、あなたたちの熱々新婚オーラで晴れにしちゃってよ」
 アソウがからかうように笑って言った。
 ケイタはコグレという名前を聞いて思い出した。新婚夫婦がこの住宅街に来たと、スミエから聞いた覚えがあった。
「ケイタちゃん。コグレ家に負けちゃ駄目よー。早くおばさんにユサちゃんとの熱々ぶりを見せてよ」
 アソウが目を細め、いやらしい笑みを浮かべて言った。ケイタは唇を引きつらせながら返した。
「あっ、えぇ……えーっと、いっ、行って来ます」
 学校の校門の前に行くと、一匹、犬がうろついていた。
 茶と白黒と斑色の毛並の雑種だ。肋骨が浮かぶほどに痩せこけている。
 最近出没しはじめた野良犬だった。唸って威嚇してくることは無い。
 ケイタも本当は構ってやりたい。餌もやりたいが、変になつかれても困るという気持ちがあった。母親が犬アレルギーなので、飼う訳にはいかない。可愛そうだが、放っておくしかないと考えていた。気持ちに流され優しくし、後は都合が悪いので知らんぷりというのも無責任だと思っている。それに、他の生徒が時たま餌をやっているので、大丈夫という安心感もあった。そうは言っても情に負け、下校時、ユサと一緒にお菓子をやったことはあるが。
 犬も人間が餌をくれることを知っているので、校門の前をうろついているのだろう。ただケイタからは餌を貰えないことを悟ったのか、足を引きずり、雨の中を重苦しく歩き去った。
「わりぃな」
 ケイタは雨靄の中へ消える犬に謝りながら校門を潜った。
 駐車場には、二、三台の自動車しかなかった。教師もまだあまり来ていないようだ。
 生徒達の姿も無かった。部活の朝練に来ている者も居なかった。
 無人のグラウンドは、雨に濡れ続けているだけだ。
 ケイタは学校に早く行く趣味を持っていた。一番というのが気持ち良いからだ。
 自宅から学校は近い。のんびり歩いても十分ほどで着く。あと一時間くらい寝ていても大丈夫な時間だった。
 小学校と中学の頃、学校が遠く、人より通学時間がかかった。そのため早目に家を出るのが習慣として染みついていた。癖みたいなものだろうか。
 ユサは高校になってから、ひとりで登校していた。中学の頃は、ケイタと一緒に通っていた。
 ケイタと一緒の時間に行けないのは理由があった。母親が居ないので、朝の家事をしなければならないのだ。母親のミサエは、ユサが五歳の時に亡くなっている。
「一日おきでもいいから一緒に行きたいな」
 ユサとしては不満なのだろう。ケイタはいつも文句を言われていた。少し時間を遅くするだけで、一緒に登校できるのだ。同じ住宅街に家はある。無理なことはない。
 提案を受け入れようかどうか。ケイタは考えながら傘を振り、表面についた雨粒を飛ばしたあと、閉じ、教室へ向かった。
 廊下には誰も居なかった。
 ケイタの足音だけが、カツゥーン、カツゥーンと響く。
 教室に向かう途中、他のクラスも覗いてみた。たまに他の生徒が一人二人来ていることもあった。それで顔見知りになったこともあるが、今日は誰も居ないようだ。
 無人の教室を通り過ぎ、自分のクラスのドアを開ける。
 滞っていた空気がぶわりと覆い被さってきた。雨のせいで湿ってはいるが、一番乗りの空気は十分に爽やかだった。
 ケイタは誰に遠慮することもなく、おもいっきり欠伸をし、手を広げた。窓際の自分の席にスポーツバッグを置くと窓に行き、カーテンを勢い良く開いた。
 太陽が雲に隠れているとはいえ、教室が少し明るくなった。
「さて」
 自分の席へ戻ろうとした時だ。
「なんだ?」
 ケイタは誰かに見つめられている気がして、教室を見回した。
 誰も居ない。しかし視線を感じる。誰か隠れているのかと、気持ち悪さを感じながら黒板を見た時だ。
「なんだこれ」
 ケイタは息を止めた。
 黒板に顔が描かれていた。
 目はへの字に緩んでいやらしい。鼻は左に曲がっている。開いた口に、四角い歯がびっしり描かれている。顔の輪郭や目の部分には、白いチョークが使われていた。舌だけがちゃんと赤い。
 何を思って書いたのか、ケイタには作者の意図がわからなかった。
「誰が悪戯したんだよ。きもちわりぃ」
 ケイタは絵を消そうと立ちあがった。同時に、教室のドアが開いた。
「ういーっす。いつもながら早いなー」
 夏の太陽を思わせるような、健康的で明るい声が響いた。
 アサカワのいつもの挨拶だ。
「おはようさん」
 ケイタは黒板を消しながら挨拶を返し、教室に入ってきたアサカワに顔を向けた。
 高校からの付き合いだが、妙に馬が合う親友だった。
 アサカワはまだ眠いのか、気だるそうに小麦色の手を伸ばすと机の上にスポーツバッグを放ってうなった。
「あー、ねみぃ」
 ぼさついたウルフカットの髪を掻いて大きな欠伸をしたが、途中で止め、重大な発見でもしたように早口で言った。
「なんだこれ」
「なんだよ」
 ケイタは絵を消すのを止め、再びアサカワに顔を向けた。
 アサカワは後方を見つめていた。
 ケイタはアサカワの視線を追ったが、理由はすぐに分かった。
「ほんと、なんなんだよ」
 後方の黒板にもケイタが消しているものと同じ、顔の絵が描かれていた。
 絵に過ぎないと分かってはいるが、顔に見つめられている気がして落ちつかなくなり溜息を吐いた。
「誰の悪戯だよ」
 面倒そうに頭を掻いたアサカワが、後方の黒板に向かった。
 ケイタと同じく気持ち悪さを感じているのか、声には不快な気配が漂っている。
「そうだろ。同じ絵が前の黒板にも描かれていたんだ。なんか気持ち悪いよな」
 ケイタは再び黒板消しを動かしながら答えた。
 チョークの白い粉が舞った。鼻先がくすぐったくなり、ケイタはくしゃみをした。むずがゆい鼻を手で擦りながら、本当に誰がしたのだろうと考えてみた。
 驚かせようとするなら、楽しさとか悪戯っぽい絵になるだろう。消している絵には、邪悪といってもいいような黒い気配しか無い。クラスメイトにこんな絵を描く人間など思い当たらなかった。
「そういえばカワカミとはどうなんだよ?」
 くしゃみの余韻が消えようとした時、アサカワが言った。
「二週間前に初デートしたよ」
 ケイタは黒板消しを動かし、素直に答えた。隠すことも無い。
「キスぐらいしたんだろ?」
 アサカワが笑いながら言った。いやらしい妄想をしているような笑い方だった。
「プッ、プラトニックなんだよ」
 なっ、なに聞いて来る。
 ケイタは顔が徐々に熱くなるのを感じて反論した。
「何がプラトニックだよ。流行らねぇぞ、そんなの」
 ケイタの頭の中に、ユサとキスする光景が浮かんだ。顔が益々熱くなった。そんなこと考えるなんて不潔……という訳でも無いが。
 ともかく朝っぱらから変な妄想なんてしている場合ではない。
 ケイタは目を瞑って頭を振ると、妄想を掻き消した。
「おまえはどうなんだよ」
 話を逸らそうと、逆に質問してみた。
 アサカワは黒板消しを置くと、気だるそうに欠伸して答えた。
「オレも早く彼女できねぇかなぁ。中学の時、一回こっきりやっただけなんだよな」
「一回やったって何、キス?」
 ケイタは黒板消しを置くと席に戻り、首を傾げた。
 なんだろう。本当に分からなかった。
 信じられないと言いた気にアサカワは肩を竦め、出来の悪い生徒に勉強でも教えるようなゆっくりとした口調で言った。
「決まってるだろうが。セックス」
 セックスの部分だけ、発音が妙に綺麗な英語だった。
「バッ、バカッ」
 ケイタは慌ててうつむいた。
「本当に可愛いなぁ。今時おまえみたいなウブな奴いねぇぞ」
 アサカワの指摘が痛い。
 ケイタはマンガ雑誌を無造作に開いた。それ以上気持ちを知られたくなかった。マンガ雑誌の内容など頭に入らない。頭の中には、無数の裸のユサが浮遊していた。
「奥手はもてねぇぞ。おまえらつきあい長いんだから、そんなことあってもおかしくねぇだろうが」
「大切にしてんだよ」
 ケイタは悔しくなり、漫画を見つめたまま早口で反論した。
「マンガ、上下逆になってんぞ」
 アサカワがからかうように笑って言った。
 ケイタは何も言えなくなった。何か言っても、アサカワの手の平で転がるだけな気がした。
 本当にまいってしまう。
 ケイタは頭の中に浮かんでいる裸のユサを消そうと、必死に頭を振った。






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